〜 リュウイン篇 〜

 

【第100回】

2007.07.08

 

 パーヴでは教師に褒めそやされ、自信を持っていた。しかし、今の歌はまるでわからなかった。教えられるはずがない。

「お姉さまに教えていただくわ!」

「では、明日からキットヒルの館に来なさい」

 リュウカが静かな声で言った。

「お茶の時間に見てあげよう」

「ホント? お姉さま!」

 リズは飛びあがった。

「お姉さま、大好き!」

 駆け寄り、リュウカに抱きついた。

「その代わり、エドアルと一緒に来なさい」

 リズは飛び退いた。

「イヤ!」

 絶叫に近かった。

 そこまで自分は嫌われているのかと、エドアルはショックを受けた。

「お姉さまの意地悪! どうしてそんなこと言うの!」

「エドアルにはこの国最高の護衛がついている。だから、エドアルと一緒に動くのが、いちばん安全なのだよ」

「じゃあ、朝、お姉さまと一緒に出かけるわ! お姉さまとデュールと一緒なら安全でしょ!」

「城でそのほかの勉強があるだろう。おろそかにしてはいけないよ」

「お姉さままでそんなこと言うの!」

 リュウカは紙の束を両手で持ちあげ、机の上でトントンとそろえた。

「人にはそれぞれ為すべきことがある。そなたも来年には領地をさずかるのだろう? よく考えなさい」

 リズはため息をついた。

「いいわ。言う通りにします。イヤになっちゃうわ。お姉さまときたら、何でもできるし、あたしと大違いなんだもん。あたしの人生と替わって欲しいわ」

 リュウカは苦笑した。

「では、もう休みなさい。私も湯浴みを済ませて寝るから」

 

 夜明けごろ、エドアルは目を醒ました。

 寝直そう。

 しかし、こめかみの脈動が頭に響き、息は乱れ、眠れなかった。

 悪い夢を見たわけでもないのに。

 仕方なく起きだして着替えた。

 悪いのは夢ではなく、現実だった。

 廊下はまだ暗く、補足灯りが残っていた。

 朝の空気は冷たい。

 エドアルは襟の前を合わせた。

 中庭に出る。低木の針のような葉が、朝露をふくんでいた。

 空は明るい。太陽はまだ見えない。薄いねずみ色の空がひとひら、青みの強い空に浮かんでいた。

 ひとけのない城内は気持ちがよかった。

 すべて、私のものだ。

 このひととき、そう思ってみても、悪くはあるまい。

 城も空も空気さえも、独り占めの気分だった。

 しばらく歩いた。

 固い敷石は冷たく響いた。歩けば歩いただけ、広さを感じた。懐かしさとは縁遠く、異質さばかりが大きくなった。

 自分はなぜここにいるのだろうと思った。

 誰も自分を必要としていないのに。

 兄には追われ、リズには嫌われ、ヴァンストンには逃げられ、リュウカにさえ必要とされていない。

 この国を正しく導くために、自分は来たのではなかったか?

 しかし、誰もそれを望んでいないし、助けてもくれない。

 独りだ、と思った。

 野の石の用に、誰の気にも留めてもらえないのだ。

 ただ歩いた。

 ひたすら歩いた。

 金属の鳴る音が聞こえた。朝の空気に澄んで響いた。

 耳をそばだてると、音は大小織りまぜながら、幾度も鳴っていた。

 誰かいるのか?

 足が向いた。背筋がのびた。重心が踵からつま先に移った。足が速まった。小走りになった。

 何度か迷いながら、音の源をたどった。

 音がやむことを恐れたが、鳴り続いていた。

 剣を合わせる音だった。

 エドアルが習っている細剣ではない。斬るほうの太い剣である。

 モーヴ叔父が興じていたのを覚えている。

 その刃はギラついていて重く、怖くて仕方がなかった。

 パーヴから連れてきた護衛たちだろうか?

 現れた棟は扉が大きく開いていた。中をのぞくと、中は広くがらんどうだった。そこに男が数人。

 剣技場だ。

 護衛の兵たちだろうか? わからない。顔などイチイチ覚えてなどいなかった。

 しかし、見知った顔を見つけて、ホッとした。中に足を踏み入れる。

 黒と金。

 金のほうは防戦一方で、黒がくり出す刃を必死に受け流していた。

 いい気味だ、とエドアルは思った。

 偉そうにしているが、女相手にぜんぜん歯が立たないじゃないか。思い知れ。

 一方的な攻防は長く続いた。

 変則的な動きだったが、舞いのようだった。不規則な音色が音楽のようだった。

 じきに、エドアルは焦れた。

「姉上! そんなヤツ、放っておけばよいのです!」

 黒髪の手が止まった。

「静かにしていなさい。集中が乱れる」

 剣を下げた。

 刃先が丸い。練習用の剣だろう。

「お見事ですな」

 周囲で剣技に励んでいた男たちが注目した。

「休憩になさいますか?」

 リュウカは小さくうなずいて、たった今までの相手に目をやった。

 ヒースは床にすわりこみ、腕を組んでいた。

 だらしない、とエドアルは思った。

 紳士たるもの汗を拭いて、さっそうと休みの座につくものだ。

「痛むか?」

 リュウカが声をかけた。

「痛くない。ぜんぜん。ちっとも」

 ヒースは立ちあがった。首が腫れていた。

「ムリするな」

 リュウカは笑って壁際から鞄を運んできた。軍人が持ち歩くキャンバス地の肩掛け鞄だった。

 中から銀色の缶を出す。浅底円形の膏薬の缶である。

「脱ぎなさい」

「いいよ。自分でやるから」

「手間をとらすな。時間のムダだ。脱ぎなさい」

「だから、自分でやるってば」

「力ずくがよいか?」

 どこから取りだしたのか、リュウカの手には短剣が握られていた。

「うあ、ストップ!」

 ヒースが手を振った。

「また斬られたら、かあちゃんに怒鳴られる!」

 周囲の男たちがどっと笑った。

 ヒースはシャツを脱いだ。

 あちこちが赤くはれていた。とりわけひどいのが、両の二の腕だった。

 さっきまで腕組みしていたのは、実はここを抑えていただけだったのだとエドアルは気がついた。

 意外に細い体だった。腰の辺りなど、とりわけ細い。まるで女のようだ。

 リュウカは手早く膏薬を塗った。

「痛てて……」

 リュウカが触れるたび、ヒースはうめいた。

「もうちょっと、そっとやってくんない?」

 リュウカは容赦しなかった。

 だから、手が触れるたびに、付近の肉がビクビクッと動いた。

 筋肉だった。贅肉ではない。

 エドアルは唇をかんだ。

 ひとつしか違わないのに。痩せっぽちで女みたいなくせに、筋肉がついている。おまけに、背も高い。

 エドアルは早足で歩み寄った。

「不敬罪だ!」

 怒鳴った。

「王女殿下の御前であるぞ! 裸身などさらして卑猥である! 重罰に処す!」

 ヒースが目をあげた。

「そりゃあ大ごとだ」

 のんびりした響きが、エドアルの神経を逆なでした。

「ム、ムチ打ち百回だ! そ、その後、水責めと……磔にしてくれる!」

「だってさ!」

 ヒースが首をめぐらせた。

 辺りはシャツを脱いだ男でいっぱいだった。剣士たちは半裸で汗を拭いているのだった。

 盛りあがった肩、女性の腿ほどもある太い腕、厚い胸板、割れた腹筋。

 それぞれにフォルムの違いはあったが、見る体みな鍛えられていた。

 男臭さに、エドアルは息が詰まった。

 中でも毛深さと体臭には閉口した。シャツや靴を脱いだ後のそれは、半端でなく臭いたった。

 ヒースの体などまだまだ貧弱だった。金色のうぶ毛が陽にきらめき、体全体がつるりとしていた。細く幼いひよっ子だった。

 エドアルは胸ポケットからチーフを引きだした。鼻と口を覆った。

「姉上、ここを出ましょう」

「こんなものかな」

 リュウカは膏薬をひと塗りすると、ヒースの背を軽く叩いた。

 パチーンと、気味がいいほど鋭く大きな音が響いた。

 ヒースが短く悲鳴をあげた。女のような甲高さだった。

「おや? 痛くないのではなかったか?」

 リュウカがチラと笑った。

「シャツを着なさい。続けるぞ」

「容赦ねぇよ。ひっでー女だぜ」

 ヒースはシャツを羽織った。

 エドアルの手が思わず伸びた。襟首をつかむ。

「今、なんと言った! 姉上を町娘と一緒にするな!」

 リュウカの笑み。

 自分以外の相手になら、あんな微笑を向けるのだ。

 ヒースの手が、エドアルの腕をつかみ返した。

 固い手だった。

 びくりとエドアルは震えた。

「ぼ、暴力に訴えるか! けだものめ!」

 怒鳴った。

 弱気を見せればやられる!

 両手を伸ばした。ヒースの首をつかんだ。

 細くて長い首だった。金の髪がやわらかくエドアルの両手にまとわりついた。

 力を入れた。

 固い。

 視界の端に、青いものが入った。

 眼だった。

 ヒースはエドアルをしっかりと見上げていた。強い光。揺るがない。

 エドアルの全身から汗が噴きだした。さらに力を入れた。

 もっと! もっと!

 渾身の力をこめたが、首は固く、指は入らなかった。

 青い眼が、エドアルを見つめていた。

 じっと見つめていた。

 背筋に冷たいものを感じて、エドアルは手を離した。

「バケモノ……」

 つぶやいた。

 ヒースはうなじの辺りをかいた。

「ああ、痛ぇ。毛を引っ張るなよな。抜けちまっただろ」

「おまえなんかに、何がわかる!」

 エドアルは声を荒らあげた。

「おまえなんか、殺しても死なないクセに! 私なんか命を狙われているんだぞ! 狙っているのは、血のつながった兄なんだぞ! こんな田舎に落ちても、まだ命を狙われるんだぞ! 肉親に命を狙われるつらさが、おまえにわかってたまるか!」

「あんた、何がしたいの?」

 青い眼が問いかけている。

 何が、したいの?

 エドアルは言葉に詰まった。

 ヒースはシャツを整えた。

「リュウカ、続きやろう」

「おまえは休んでいなさい。痛みで動きが鈍っている」

 リュウカは剣を構えた。

 ほかの兵たちが前に歩みでる。

「次は私を」

「私を」

「ダメダメ!」

 ヒースがリュウカの前に躍りでた。

「少し感じがわかってきたんだ。つかめるまでつきあってもらうぜ。それに、痛いからって敵さんは手加減してくれないだろ?」

「しつこいな」

 リュウカは剣を振った。

 たちまちヒースは防戦一方となった。

 エドアルは茫然と見ていた。

 私は、この国を正しく導くために来たんだ。

 でも、誰も協力してくれないんだ。

 では、私はどうしたらよいのだ?

 何ができるっていうんだ?

 同じことが、頭の中でぐるぐる回った。結論などなかった。

 だって、兄が殺そうとするから。

 だって、父上が優秀な家来をつけてくれなかったから。

 だって、この国の王が愚鈍だから。

 出口がないまま、思考は回り、何かが雪だるま式に増えていった。身動きがとれない。息が苦しい。

「あがるぞ」

 腕を叩かれて我に返った。

 黒い眼が見下ろしていた。黒髪が頬に張りついていた。汗がこめかみをしっとりと濡らしている。

 すっと腕が伸び、エドアルの首をつかんだ。

 指が首にまとわりつき、ゆっくりと押さえつけた。

 妙な感じがした。

 痛くはない。

 まさにそこ、というポイント。

 一瞬で落ちてしまうような気がした。

 エドアルは動けなかった。

「ここだ」

 リュウカは言った。

「ここを締められれば一瞬だ。だから、少しでも遠ざけるようにしなさい。わずかでも外れれば命拾いすることもある」

「あーあ、教えちゃった」

 濡れたシャツをはだけたまま、ヒースはあきれたように笑った。

「今度は、そいつ、急所を狙ってくるぜ。オレが殺られたら、どうすんの?」

「急所というものは、そう簡単には会得できまいよ。とりわけ他人の急所というものはな」

 リュウカはもう一度指に力を入れた。

「この感じをよく覚えておきなさい」

 指をほどいた。

「そんなんで、ホントに効きめあんのかね? 少しズレたって、苦しいのが長引くだけだろ」

 ヒースが茶々を入れた。

 リュウカはそっと自分自身の首に長い指を当てた。

「その違いが生死を分けたのだ。昔のことだがな」

 目がギラと光ったような気がした。

 エドアルはあわてて見直した。

 普段のように穏やかな目だった。

 ヒースが沈黙をはさんで言った。

「あんたはつけ狙われるプロだったな」

 剣技場から出て歩いた。

 エドアルは問うた。

「命を狙われ、理想も実現できないのなら、私は何のために生きているのでしょう。姉上は何のために生きていらっしゃるのですか?」

 リュウカは苦笑した。ヒースを見る。

「おまえは答えられるのか? 訊ねたのは、そもそもおまえだろう」

「愚問! オレはリュウカを守るために生きてんだよ! じゃ、また後でな」

 ヒースは早々に岐路で別れた。

「いつもなら、しつこくつきまとうのに」

 エドアルは言った。

 ヒースがリュウカを守るために生きると言うのなら、エドアルはリズを守るために生きるのだろうか?

 違う気がした。

 リズは守りたい。

 だが、それだけの人生ではあるまい。

「あの子は今、蝙蝠に夢中なのだ」

「蝙蝠?」

「気はやさしいがプライドが高い馬だからな。馴らせるかどうか」

 あの草原の馬だ!

 ピンときた。

 リュウカが乗っていないほうの馬。兄セージュに献上されたのに、勝手に連れてきてしまった連銭葦毛の馬。

 自分をふり落とした、あの憎らしい馬。

「あの馬は私にくださるとおっしゃったではありませんか!」

「乗りこなせたらな。主は、蝙蝠自身が決めるだろう」

 リュウカの目が緩んだ。

 エドアルは焦れた。

「あいつはなんなんです? 姉上はあいつをどうするつもりなんですか!」

「あの子のことは、あの子が決める。そなたがそなたのことを決めるように。私もまたそうなのだろう」

 リュウカは小さく息を吐いた。

「あの子がときどき羨ましくなる。なぜあのように自分自身でいられるのか」

 エドアルは茫然とリュウカを見つめた。

 比べるのも愚かしい。差は歴然ではないか。

「あいつはウソつきです。姉上にぜんぜん歯が立たないくせに、姉上を守るなんて。わがままで思いあがったバカです!」

 リュウカは少し笑った。

「あの子はなんにでもなれたのだ。薬屋にも歌い手にも役者にも、そのほかのなんにでも。だが、貴族とは。もっとも性分に合わぬだろうに。私はあの子の一生を狂わせているだけのような気がするよ」

「そんなことありません! あいつが勝手にやってるんです! 姉上は賢くあられるから、あんなヤツだろうが、人々がどんどん慕ってくるのです。イチイチ気になさっていてはキリがありません」

 リュウカは力なく笑った。

「私はそんな人間ではないよ」

 

   

 

 

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