〜 リュウイン篇 〜

 

【八 赤いベストの伊達男(三)】

 

 

 空腹のあまり、目がさめた。

 何時だろう?

 朝ではなさそうだった。部屋の片隅にある窓から朝日がさしこむまで、まんじりともしなかったのだから。

 体が痛い。粗末なベッドはこたえる。パーヴで寝起きしたベッドが恋しい。そして、旨い食事と美しい姫。

 ついたての外に出ると、物置番の男はいなかった。薄い毛布が板ベッドの上で乱れているだけだ。

「おーい、誰かいないのか?」

 こわごわ声をかけながら、廊下に出た。

 ひとけはない。

 忙しくて、みな出払っているのだろうか?

 何の用で?

 ふいに、昨夜の光景がよみがえり、背筋が凍りついた。

 みな、逃げだしてしまったのだろうか?

 それとも、呪いの犠牲になり果てたのか?

「おーい、おーい。誰か、誰か」

 ノドがしめつけられ、声が細くなった。

 心なしか、廊下が薄暗く思える。

「誰か、灯を持て。灯を持ってこーい」

 静寂をおそれ、声を出し続けながら、窓の外を仰ぎみる。

 暗雲垂れこめ、嵐の気配がした。

 逃げてしまったんだ!

 ふいに、激しい恐怖にかられて、アプスは駆けだした。

 ここはつぶれてしまうんだ。みんな逃げて、自分だけがとり残されてしまった。いや、死にたくない!

 薄闇の湿った空気で肺は冷え、ノドはあえいだが、走らずにはいられなかった。肉体は早くもへばっていたが、心の悲鳴はとぎれなかった。

「これはこれは。殿下」

 何かにぶつかり、跳ね返ってしりもちをついた。

「あいたた……」

 尻をさすった。鈴の音が、辺り一面に鳴り響いている。

 目の前に手が伸びてきた。

「ひいいいっ」

「殿下、私です。ランベルです」

 おそるおそる見あげると、丸顔に太眉としし鼻、果たして昨夜の小男である。浅黄色の上衣は、袖がたっぷりしており、リボンで結んでふくらみを作っていた。

「殿下、おそれながら、お手を」

「あ、ああ」

 ランベルに引き起こしてもらうと、アプスは腹をつきだした。

「そなた、昨夜はもっと声が低かったと思うが」

 怖がったのを声のせいにする。

「なにぶんにも、あのような場所でありましたので。殿下、失礼ですが……」

 ランベルはアプスの腹と背中の上部と押した。

「ぐわっ。なにをする!」

「殿下、威厳とは胸を出して示すもの。腹ではございませぬ。たかが姿勢ではございますが、万人にもわかるようお示しくださいませ」

「ああ、そうだったな」

 隣国パーヴでも、さんざん姿勢を直されたのだった。

 教育は厳しかったが、あそこには姫がいた。美しくて強くてやさしい姫が。

 胸元のロケットをにぎると、力がわいた。

「うむ。ランベル、出仕ご苦労。ところで、誰の姿も見えないのだが、何かあったのか?」

「今朝方、ループス殿下が亡くなったのです」

「あ、兄上がっ」

「流行病ではないかとの噂がたち、国王陛下をはじめ、貴きご身分の方々は、早々にお発ちになりました」

「はっ、流行病っ」

「例によって私が処理を仰せつかいました。ループス殿下の寝所に立ち入りましたところ、これを発見いたしました」

「は、入ったのか!」

 アプスは後ずさりし、勢いあまって再び尻もちをついた。なおも、見苦しく手足をバタつかせ、退がろうとする。

「殿下、お探しのものではございませんか?」

 ランベルは片膝をつき、アプスの目を見る。

「あっ。それだ! その瓶だ!」

 指さし、アプスはわめいた。たしかに、パーヴの王太后にもらった媚薬の瓶だった。

「それを、どこで?」

「ループス殿下の寝所にて」

「おかしいな。グルース兄上が持っていったのだが……」

 アプスは首をひねる。

「近侍の者から聞き出しましたところ、グルース殿下がお亡くなりになった直後、寝所からお持ちになられたのだとか。宝石やお衣装などとともに」

「なるほど。それで……」

 その時、アプスはおそろしいことに気がついた。

「中身が! 瓶の中身がない!」

「香りがかすかに残っております。これと同じ香りが、ループス殿下、グルース殿下、添い寝の美女たちから立ちのぼっておりました」

「ああ、ぜんぶ使ってしまったんだ……」

 アプスはがっくりと肩を落とした。

 ランベルは、じっとアプスを見つめていた。

「では、兄上たちが使ってしまったのだな。どうして残してくれなかったのだ! 私はなんと王太后陛下に申し開きをすればよいのだ」

 アプスが嘆くさまを、ランベルはなおもじっと見ていた。

「王太后陛下は、実に怖い方なのだ。宮廷で恥をかかせた私を快く許してくださり、表向きは仲の悪いレイカ姫の結婚を、影からこっそりお祝いしてくださったのに。その祝いの品を、このように粗末に扱ったとご存じになれば、ああ! こんどこそ、私をお許しにならない! 破談だ! あの姫をもらい受けられない! もうおしまいだ! 姫もあきれておしまいになるだろう! 嫌われてしまう!」

 ランベルは、ただじっと見ていた。

 アプスは苛立ち、胸のロケットのふたを開けた。

「見るがいい! これがパーヴのレイカ姫だ。この方と破談になった私の苦しみがわかるか?」

「なるほど。気の強そうな……いや、お美しい。実に聡明そうな……」

「聡明そうではない、ほんとうに聡明なのだ。この方は、私が第三王子でも、田舎住まいでも構わぬと言ってくださったのだ」

「では、王太子の元ではいかがでしょうな」

 おもむろに、ランベルは口を開いた。

「王太子? ループス兄上がどうかしたか?」

「おそれながら、アプス殿下。ループス殿下はもはや王太子ではございませぬ。この世のお方ではありませぬゆえ」

 あ。と、アプスは叫んだ。

「しかし、……しかし、グルース兄上が……」

「グルース殿下も、この世のお方では」

 アプスはうろたえた。

「だが、父上には大勢の姫がおる」

「降嫁なさっていらっしゃいます」

「じゃあ、その婿どのが……」

「婿よりも、その息子たちが強敵と存じます。王の血をひいた王孫たち。アプス殿下と、そう年は変わりませぬ」

「うん、うん。だから妾腹の私には関係が……」

「アプス殿下は第三王子であらせられます。国王陛下より正式に認知されていらっしゃいます。ただのご落胤と一緒にされては困りますぞ。アプス殿下には、ご立派に王太子となる資格がございます」

「私が! 私がか!」

 アプスは恐れるように左右を見た。

「ご心配なく。誰もおりませぬ」

 ランベルが低い声でささやく。昨夜と同じく、どこか艶めかしい。

「いや、しかし、私には後見人がない。祖父はただの田舎貴族で、宮廷にコネはないし……」

「後見人でしたら、及ばずながら、私にお任せください。心当たりがないこともございません」

「いや、しかし、祖父にも相談してみないと……」

「アプス殿下のご出世を喜ばないお身内がありましょうか?」

「いや、しかし、レイカ姫にも相談してみないと……。せっかく、田舎暮らしをするつもりでいてくれるのに……。レイカ姫は馬がお好きでな、野駆けをひじょうに楽しみにしてくださっておる」

「王太子になれば、国中が狩り場になりますぞ。第一、王妃になるのを喜ばない女が、どこの世界におりましょうか! 国中の土地という土地、富という富がすべて我がものになるのです。絹も、金銀も、人も、みな手中にできるのです」

「うん……姫は喜んでくださるかな?」

「もちろんですとも!」

「でも……」

「まだ何か?」

「私が王になって、見劣りはしないかな。パーヴのカルヴ陛下は威厳があって、姫はそれを見馴れているから、風采のあがらない私など……」

「そんなこと!」

 ランベルは高らかに笑いとばした。

「威厳は地位に応じて作られるもの。殿下が国王陛下におなりあそばされた暁には、自然に伴っておなりですよ。姫もますます殿下にお惹かれあそばすでしょう」

「そうか?」

 アプスはうれしそうに笑った。

「私はな、旨い菓子と姫の笑顔さえあれば、他にはなんにもいらないのだ」

「なんと無欲な! これほど国王にふさわしい御方がいらっしゃるでしょうか! 権力欲の渦巻く宮廷に吹く涼風でございます。殿下こそ、生まれながらの国王でございます」

「そうか?」

 アプスは得意そうに腹をつきだし、気がついてあわてて胸を張り直した。

「殿下にお仕えしとうございます」

 ランベルは頭も下げずに言った。

「どうか未来の国王陛下にお仕えするのをお許しください」

「よし、許してやるぞ」

 アプスは上機嫌でうなずいた。

 漆黒の棺がふたつ並んでいた。

 その前で、参列者たちは大声をあげて涙を流した。

「おや、王子殿下」

 下座のアプスの前に、喪服の女が現れた。年は五〇前後、鞠のようにふくれているのは、いたるところについた豪奢なレースやフリルのせいばかりではないだろう。

 後ろに人がぞろりと続いている。

「一の宮のイベットさまでいらっしゃいますぞ。現在は降嫁されて、コラル公爵夫人におなりです」

 ロウン公がアプスにささやいた。

「姉上でいらっしゃいますか! お初にお目にかかります」

 アプスは親しげに笑顔を浮かべた。

 コラル公爵夫人は扇子を広げ、口元を覆った。黒いベールの下から、小さな目が光った。

「汚らわしい」

「は?」

「次にあすこへ並ぶのは、きっと殿下でございますわね」

「あすこ?」

「三人も矢継ぎ早に王子を失っては、国王陛下もさぞかしお嘆きあそばされるでしょう」

 アプスは真っ赤になった。

「私が死ぬとでも? 失礼な! 姉上といえど……」

「お黙り。その汚れた口で姉などと。妾《わたし》まで汚れてしまう」

「私のどこが汚れてるって言うんです?」

 アプスが訊ね返すと、コラル公爵夫人はかん高く笑った。

「まあ! これだから田舎者は!」

 両手にはめた黒い手袋をかざす。甲のところに、円にヒースと煙をあしらった紋章が、金で刺繍されている。

「王族の葬儀にはこの手袋をはめるのが習わし。田舎では教わりませんでしたの? 先が思いやられますわね」

 羽根飾りのついた扇子を揺らす。

 アプスは眉根を寄せてロウン公の手を指さした。

「公は手袋をしていないな」

「王族のみの習わしでございますから」

 ロウン公はしわだらけの手をさすった。

「なぜ、教えなかった」

「よもやご存じないとは、想像だにいたしませんでしたので」

「おまえまでバカにする気か!」

 コラル公爵夫人はかん高く笑った。

「汚れは手から入ると申します。せいぜいお気をつけあそばせ」

 ぞろりと供をつれて、コラル公爵夫人は上座にもどった。

 アプスはギリリと奥歯をかんだ。

 葬儀から戻るなり、アプスは怒鳴った。

「あのような場で、辱めを受けたのだぞ!」

 黒い外套をひるがえし、荒々しく馬車を降りる。

 袖に入ったスラッシュを赤いリボンで留めたモスグリーンの上着の男がうやうやしく手をとる。上着には手のこんだ刺繍が一面にほどこされ、ボタンをはずした懐から赤いベストがのぞいていた。

「この役立たずを紹介してきたのは、ランベル、おまえだぞ! どうしてくれる!」

「お声が大きすぎます。じゅうぶん聞こえておりますぞ」

 太い眉がシワを作る。

「国王陛下は姉上夫婦にお声をかけてくださったが、私は下座で捨て置かれた!

 ほんとうに私は王太子になれるのか? どうなんだ! オレをだましてるのか!」

「お黙りなさい!」

 大きくはないが鋭い声が制し、大きな褐色の眼がアプスの顔に突き刺さった。

「これから、殿下にはお郷里《くに》にお戻りいただきます。馬車はあちらにご用意してございます。荷造りは済み、あとは殿下がお乗りになるのを待つばかりでございます」

「か、帰るのか?」

 アプスの顔が泣きそうにゆがんだ。

「王太子殿下ともあろうお方が、情けない! 姉上とはいえ、コラル公爵夫人など降嫁したご身分ではございませんか。そのような下々の者と交わって、よいことがあろうはずはございません。どっしりとお郷里《くに》に構え、国王陛下からのお迎えをお待ちください」

「下々の者……下々の者か! うん、そうだな!」

 アプスの顔が輝いた。

「そうだ。今に見ていろ! 王太子が、たかが公爵夫人風情と一緒くたにされてたまるか!」

「では、あちらの馬車へ」

「よし!」

 アプスは意気揚々と身をそらせて歩きだした。途中で腹を突きだしすぎたことに気づき、引っこめる。

「うまく行くものかな?」

 老いた顔に皺を寄せ、ロウン公はささやいた。

「軍備は万全ですな?」

 アプスを見送りながら、ランベルはささやき返した。

「むろん。国王軍の六割がたは掌握しておる。だが、軍事力だけで王太子の地位が転がり落ちることはあるまいよ。王侯貴族どもをどう納得させるつもりだ?」

「細工は粒々」

 ランベルの口の端が上がった。

「失望させるなよ」

 ロウン公は館へと歩きだす。

「ご心配なく」

 褐色の眼がきらめいた。

「王侯貴族は一掃しますよ。……あんたもね」

 

 

   

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