空腹のあまり、目がさめた。
何時だろう?
朝ではなさそうだった。部屋の片隅にある窓から朝日がさしこむまで、まんじりともしなかったのだから。
体が痛い。粗末なベッドはこたえる。パーヴで寝起きしたベッドが恋しい。そして、旨い食事と美しい姫。
ついたての外に出ると、物置番の男はいなかった。薄い毛布が板ベッドの上で乱れているだけだ。
「おーい、誰かいないのか?」
こわごわ声をかけながら、廊下に出た。
ひとけはない。
忙しくて、みな出払っているのだろうか?
何の用で?
ふいに、昨夜の光景がよみがえり、背筋が凍りついた。
みな、逃げだしてしまったのだろうか?
それとも、呪いの犠牲になり果てたのか?
「おーい、おーい。誰か、誰か」
ノドがしめつけられ、声が細くなった。
心なしか、廊下が薄暗く思える。
「誰か、灯を持て。灯を持ってこーい」
静寂をおそれ、声を出し続けながら、窓の外を仰ぎみる。
暗雲垂れこめ、嵐の気配がした。
逃げてしまったんだ!
ふいに、激しい恐怖にかられて、アプスは駆けだした。
ここはつぶれてしまうんだ。みんな逃げて、自分だけがとり残されてしまった。いや、死にたくない!
薄闇の湿った空気で肺は冷え、ノドはあえいだが、走らずにはいられなかった。肉体は早くもへばっていたが、心の悲鳴はとぎれなかった。
「これはこれは。殿下」
何かにぶつかり、跳ね返ってしりもちをついた。
「あいたた……」
尻をさすった。鈴の音が、辺り一面に鳴り響いている。
目の前に手が伸びてきた。
「ひいいいっ」
「殿下、私です。ランベルです」
おそるおそる見あげると、丸顔に太眉としし鼻、果たして昨夜の小男である。浅黄色の上衣は、袖がたっぷりしており、リボンで結んでふくらみを作っていた。
「殿下、おそれながら、お手を」
「あ、ああ」
ランベルに引き起こしてもらうと、アプスは腹をつきだした。
「そなた、昨夜はもっと声が低かったと思うが」
怖がったのを声のせいにする。
「なにぶんにも、あのような場所でありましたので。殿下、失礼ですが……」
ランベルはアプスの腹と背中の上部と押した。
「ぐわっ。なにをする!」
「殿下、威厳とは胸を出して示すもの。腹ではございませぬ。たかが姿勢ではございますが、万人にもわかるようお示しくださいませ」
「ああ、そうだったな」
隣国パーヴでも、さんざん姿勢を直されたのだった。
教育は厳しかったが、あそこには姫がいた。美しくて強くてやさしい姫が。
胸元のロケットをにぎると、力がわいた。
「うむ。ランベル、出仕ご苦労。ところで、誰の姿も見えないのだが、何かあったのか?」
「今朝方、ループス殿下が亡くなったのです」
「あ、兄上がっ」
「流行病ではないかとの噂がたち、国王陛下をはじめ、貴きご身分の方々は、早々にお発ちになりました」
「はっ、流行病っ」
「例によって私が処理を仰せつかいました。ループス殿下の寝所に立ち入りましたところ、これを発見いたしました」
「は、入ったのか!」
アプスは後ずさりし、勢いあまって再び尻もちをついた。なおも、見苦しく手足をバタつかせ、退がろうとする。
「殿下、お探しのものではございませんか?」
ランベルは片膝をつき、アプスの目を見る。
「あっ。それだ! その瓶だ!」
指さし、アプスはわめいた。たしかに、パーヴの王太后にもらった媚薬の瓶だった。
「それを、どこで?」
「ループス殿下の寝所にて」
「おかしいな。グルース兄上が持っていったのだが……」
アプスは首をひねる。
「近侍の者から聞き出しましたところ、グルース殿下がお亡くなりになった直後、寝所からお持ちになられたのだとか。宝石やお衣装などとともに」
「なるほど。それで……」
その時、アプスはおそろしいことに気がついた。
「中身が! 瓶の中身がない!」
「香りがかすかに残っております。これと同じ香りが、ループス殿下、グルース殿下、添い寝の美女たちから立ちのぼっておりました」
「ああ、ぜんぶ使ってしまったんだ……」
アプスはがっくりと肩を落とした。
ランベルは、じっとアプスを見つめていた。
「では、兄上たちが使ってしまったのだな。どうして残してくれなかったのだ! 私はなんと王太后陛下に申し開きをすればよいのだ」
アプスが嘆くさまを、ランベルはなおもじっと見ていた。
「王太后陛下は、実に怖い方なのだ。宮廷で恥をかかせた私を快く許してくださり、表向きは仲の悪いレイカ姫の結婚を、影からこっそりお祝いしてくださったのに。その祝いの品を、このように粗末に扱ったとご存じになれば、ああ! こんどこそ、私をお許しにならない! 破談だ! あの姫をもらい受けられない! もうおしまいだ! 姫もあきれておしまいになるだろう! 嫌われてしまう!」
ランベルは、ただじっと見ていた。
アプスは苛立ち、胸のロケットのふたを開けた。
「見るがいい! これがパーヴのレイカ姫だ。この方と破談になった私の苦しみがわかるか?」
「なるほど。気の強そうな……いや、お美しい。実に聡明そうな……」
「聡明そうではない、ほんとうに聡明なのだ。この方は、私が第三王子でも、田舎住まいでも構わぬと言ってくださったのだ」
「では、王太子の元ではいかがでしょうな」
おもむろに、ランベルは口を開いた。
「王太子? ループス兄上がどうかしたか?」
「おそれながら、アプス殿下。ループス殿下はもはや王太子ではございませぬ。この世のお方ではありませぬゆえ」
あ。と、アプスは叫んだ。
「しかし、……しかし、グルース兄上が……」
「グルース殿下も、この世のお方では」
アプスはうろたえた。
「だが、父上には大勢の姫がおる」
「降嫁なさっていらっしゃいます」
「じゃあ、その婿どのが……」
「婿よりも、その息子たちが強敵と存じます。王の血をひいた王孫たち。アプス殿下と、そう年は変わりませぬ」
「うん、うん。だから妾腹の私には関係が……」
「アプス殿下は第三王子であらせられます。国王陛下より正式に認知されていらっしゃいます。ただのご落胤と一緒にされては困りますぞ。アプス殿下には、ご立派に王太子となる資格がございます」
「私が! 私がか!」
アプスは恐れるように左右を見た。
「ご心配なく。誰もおりませぬ」
ランベルが低い声でささやく。昨夜と同じく、どこか艶めかしい。
「いや、しかし、私には後見人がない。祖父はただの田舎貴族で、宮廷にコネはないし……」
「後見人でしたら、及ばずながら、私にお任せください。心当たりがないこともございません」
「いや、しかし、祖父にも相談してみないと……」
「アプス殿下のご出世を喜ばないお身内がありましょうか?」
「いや、しかし、レイカ姫にも相談してみないと……。せっかく、田舎暮らしをするつもりでいてくれるのに……。レイカ姫は馬がお好きでな、野駆けをひじょうに楽しみにしてくださっておる」
「王太子になれば、国中が狩り場になりますぞ。第一、王妃になるのを喜ばない女が、どこの世界におりましょうか! 国中の土地という土地、富という富がすべて我がものになるのです。絹も、金銀も、人も、みな手中にできるのです」
「うん……姫は喜んでくださるかな?」
「もちろんですとも!」
「でも……」
「まだ何か?」
「私が王になって、見劣りはしないかな。パーヴのカルヴ陛下は威厳があって、姫はそれを見馴れているから、風采のあがらない私など……」
「そんなこと!」
ランベルは高らかに笑いとばした。
「威厳は地位に応じて作られるもの。殿下が国王陛下におなりあそばされた暁には、自然に伴っておなりですよ。姫もますます殿下にお惹かれあそばすでしょう」
「そうか?」
アプスはうれしそうに笑った。
「私はな、旨い菓子と姫の笑顔さえあれば、他にはなんにもいらないのだ」
「なんと無欲な! これほど国王にふさわしい御方がいらっしゃるでしょうか! 権力欲の渦巻く宮廷に吹く涼風でございます。殿下こそ、生まれながらの国王でございます」
「そうか?」
アプスは得意そうに腹をつきだし、気がついてあわてて胸を張り直した。
「殿下にお仕えしとうございます」
ランベルは頭も下げずに言った。
「どうか未来の国王陛下にお仕えするのをお許しください」
「よし、許してやるぞ」
アプスは上機嫌でうなずいた。
漆黒の棺がふたつ並んでいた。
その前で、参列者たちは大声をあげて涙を流した。
「おや、王子殿下」
下座のアプスの前に、喪服の女が現れた。年は五〇前後、鞠のようにふくれているのは、いたるところについた豪奢なレースやフリルのせいばかりではないだろう。
後ろに人がぞろりと続いている。
「一の宮のイベットさまでいらっしゃいますぞ。現在は降嫁されて、コラル公爵夫人におなりです」
ロウン公がアプスにささやいた。
「姉上でいらっしゃいますか! お初にお目にかかります」
アプスは親しげに笑顔を浮かべた。
コラル公爵夫人は扇子を広げ、口元を覆った。黒いベールの下から、小さな目が光った。
「汚らわしい」
「は?」
「次にあすこへ並ぶのは、きっと殿下でございますわね」
「あすこ?」
「三人も矢継ぎ早に王子を失っては、国王陛下もさぞかしお嘆きあそばされるでしょう」
アプスは真っ赤になった。
「私が死ぬとでも? 失礼な! 姉上といえど……」
「お黙り。その汚れた口で姉などと。妾《わたし》まで汚れてしまう」
「私のどこが汚れてるって言うんです?」
アプスが訊ね返すと、コラル公爵夫人はかん高く笑った。
「まあ! これだから田舎者は!」
両手にはめた黒い手袋をかざす。甲のところに、円にヒースと煙をあしらった紋章が、金で刺繍されている。
「王族の葬儀にはこの手袋をはめるのが習わし。田舎では教わりませんでしたの? 先が思いやられますわね」
羽根飾りのついた扇子を揺らす。
アプスは眉根を寄せてロウン公の手を指さした。
「公は手袋をしていないな」
「王族のみの習わしでございますから」
ロウン公はしわだらけの手をさすった。
「なぜ、教えなかった」
「よもやご存じないとは、想像だにいたしませんでしたので」
「おまえまでバカにする気か!」
コラル公爵夫人はかん高く笑った。
「汚れは手から入ると申します。せいぜいお気をつけあそばせ」
ぞろりと供をつれて、コラル公爵夫人は上座にもどった。
アプスはギリリと奥歯をかんだ。
葬儀から戻るなり、アプスは怒鳴った。
「あのような場で、辱めを受けたのだぞ!」
黒い外套をひるがえし、荒々しく馬車を降りる。
袖に入ったスラッシュを赤いリボンで留めたモスグリーンの上着の男がうやうやしく手をとる。上着には手のこんだ刺繍が一面にほどこされ、ボタンをはずした懐から赤いベストがのぞいていた。
「この役立たずを紹介してきたのは、ランベル、おまえだぞ! どうしてくれる!」
「お声が大きすぎます。じゅうぶん聞こえておりますぞ」
太い眉がシワを作る。
「国王陛下は姉上夫婦にお声をかけてくださったが、私は下座で捨て置かれた!
ほんとうに私は王太子になれるのか? どうなんだ! オレをだましてるのか!」
「お黙りなさい!」
大きくはないが鋭い声が制し、大きな褐色の眼がアプスの顔に突き刺さった。
「これから、殿下にはお郷里《くに》にお戻りいただきます。馬車はあちらにご用意してございます。荷造りは済み、あとは殿下がお乗りになるのを待つばかりでございます」
「か、帰るのか?」
アプスの顔が泣きそうにゆがんだ。
「王太子殿下ともあろうお方が、情けない! 姉上とはいえ、コラル公爵夫人など降嫁したご身分ではございませんか。そのような下々の者と交わって、よいことがあろうはずはございません。どっしりとお郷里《くに》に構え、国王陛下からのお迎えをお待ちください」
「下々の者……下々の者か! うん、そうだな!」
アプスの顔が輝いた。
「そうだ。今に見ていろ! 王太子が、たかが公爵夫人風情と一緒くたにされてたまるか!」
「では、あちらの馬車へ」
「よし!」
アプスは意気揚々と身をそらせて歩きだした。途中で腹を突きだしすぎたことに気づき、引っこめる。
「うまく行くものかな?」
老いた顔に皺を寄せ、ロウン公はささやいた。
「軍備は万全ですな?」
アプスを見送りながら、ランベルはささやき返した。
「むろん。国王軍の六割がたは掌握しておる。だが、軍事力だけで王太子の地位が転がり落ちることはあるまいよ。王侯貴族どもをどう納得させるつもりだ?」
「細工は粒々」
ランベルの口の端が上がった。
「失望させるなよ」
ロウン公は館へと歩きだす。
「ご心配なく」
褐色の眼がきらめいた。
「王侯貴族は一掃しますよ。……あんたもね」