夜のとばりが落ちると、ようやく次兄グルースの棟の人通りも絶えた。しかし、衛兵がふたり、離れの入口をかためている。もうふたりが建物のぐるりを見回っている。
アプスはこっそり灌木の間を縫って中庭に入りこんだ。パーヴの王宮に比べれば衛兵の数は問題ではなかった。
この棟でいちばんいい部屋は、と。
南側に回り、庭の具合を品定めする。密集する灌木は、パーヴの王宮と同じものだった。
ヒースとか言ったかな?
細い枝がすきまなく茂るので、手には次々とすりキズができた。延々と苦労してかきわけていくと、急に開けて、池が現れた。巨石が池を囲むように置かれ、女神の石像が池のほとりにひとつ、巨石の間にひとつ、名も知らぬ細い木下にひとつ。季節の花のしぼんだつぼみが、緑のじゅうたんを赤や黄色で彩っている。
ここだ。
外壁はタイルで七色の衣をまとった女を、剣を佩いた男が追っているさまを描いていた。
廊下をふたりの歩哨がかためていたが、真剣に睨んでいたのは庭でも廊下でもなかった。
床である。
正しくいえば、石畳に敷かれた布と駒である。
「待った! 」
「待ったなし! おまえ、さっきからそればっかりじゃないか」
「待て待て! 王が右に出れば騎士にやられる。左に出れば将軍がいる。後ろは歩兵……。歩兵相手なら勝てるか。よし! これでどうだ!」
「かかったな。補給物資はいただくぞ」
「しまった! そうきたか!」
「どっちにしろ、おまえの負けだ。おりるか?」
「待った待った!」
声の感じでは、ふたりとも二十代前半といったところか。勝負の行方はともかく、言葉は歯切れがいい。
床にすわりこんだ歩哨たちは、腰にさげられていたであろう棍棒を、左手のそばに置いていた。
殴られたら痛いだろうな、打ちどころが悪ければ死んでしまうかも。
手に汗がにじみ、腕が震えた。
来た方向をふり返る。
今ならまだ……。どうせ帰らねばならない道なら、今すぐ……。
胸をおさえる。ロケットに手が触れた。
「姫」
つぶやくと、早足で窓に走りよった。よろい戸に手をかけると、かんたんに開いた。頭をつっこんで、一気に滑りこむ。
勢いあまって転がり落ち、床にキスをする。
よろい戸が音を立てて閉まる。
アプスは緊張して耳をそばだてる。
歩哨は騒がない。
安堵して、室内に目をこらす。灯のない部屋は、星明かりに照らされた庭よりも暗い。
床を這い、手さぐりで家具を知る。
散らかってるな、とアプスは思った。
床中に衣類や置物とおぼしきものが転がっていた。引き出しという引き出しも開いている。
整理整頓ぐらい、ちゃんとしろよ。なんて質の悪い侍女なんだ!
小瓶ひとつを探しだすのは至難のわざに思えた。手のひらにすっぽり包みこめるほどの大きさである。衣類にまぎれようものなら気づかない。ひとつひとつていねいに触って確かめていく。
灯りが欲しいなあ! 部屋じゅうを見渡せるヤツ!
ムダだと知りつつも目をこらしていると、不意に手元が明瞭になった。
ほら、みろ。あきらめないことが肝心……。
瓶を探して辺りを見渡す。
顔をあげると、まぶしさに目がくらんだ。
ランプを掲げた男が立っていた。
「ひっ」
小さく悲鳴をあげ、腰をぬかした。
「出っ、出たっ! あ、兄上、どうかお許しを! わ、私は瓶を探していただけで……」
「瓶?」
男が訊き返す。
「わっ、私からとりあげたじゃないですか。裸の女の形をした、媚薬の瓶ですよ。私はただ、あれを返してもらおうと……。大事なものなんですよぉ。パーヴの王太后さまから直々にいただいたもので。もう、兄上には用のないものでしょう? 返してくださいよぅ」
とまどったような声が返ってきた。
「もしや、グルース殿下の弟君、アプス殿下でいらっしゃいますか?」
アプスはまじまじと相手を見つめた。落ち着きが戻ってくる。
「おまえは兄上ではないのか?」
男は片膝をついた。涼やかな音が鳴り響いた。腰につけた銀の飾りが揺れたのだ。
つばの広い帽子をとる。羽やリボンのついた赤い帽子だ。シャツはたっぷりした袖をリボンで二カ所しぼっている。たっぷりしたズボンは途中から長い編みあげブーツに隠され、ブーツのくるぶしには革とリボンの飾りがついていた。
おしゃれな男だな、とアプスは思った。グルースは高価なものは着ても、こんなに手のかかる服装はしなかった。
「お初にお目にかかります、アプス殿下」
ひざまずいた男の目が光る。大きな褐色の目。やや丸顔であるものの、太くくっきりした眉、高いしし鼻は男性的で、大きな口は艶めかしくもあった。
「私はランベルともうします。まだ爵位もなく、お目通りできる身分ではありませんが、こうして御前にはべる機会に恵まれたこと、光栄でございます」
「どうした? 悲鳴が聞こえたぞ」
戸外から、歩哨が呼びかけてきた。
「何でもない。助手がつまずいただけだ」
ランベルは冷静に応じる。
「助手なんかいないぞ」
アプスは首をめぐらせた。
「連中にはわかりゃしません。私が入ってくるところすら、ろくに見やしなかったのですから。見たくもないでしょう。不吉なものには背を向けるに限ります。私は、殿下、兄君を連れだしにまいったのですよ」
「兄上を?」
アプスは首をかしげた。
「でも、グルース兄上は死んだのではないか?」
「ここにいらっしゃいますよ。そら」
部屋の片隅に幅広のベッドがあった。毛布をめくると、男の頭があらわになった。
褐色の髪、ひげで毛むくじゃらの長い面。見覚えがある。
頬には親指の爪ほどのどす黒い斑点がいくつも浮かんでいた。鼻にも、まぶたにも、額にも。
さらに毛布をめくると、その両わきに女が現れた。同じように斑点におおわれた顔。
もう充分だった。しかし、目は釘づけだった。
毛布はしまいまでめくられ、あらわな肢体が斑点に埋め尽くされているのを見た。
胃から熱いものがこみあげてきた。一気に逆流した。
ランベルはアプスを一瞥すると、動じるふうもなく、毛布でグルース王子の体をくるみ始めた。
「アプス殿下、落ちつかれましたか?」
胃液すら打ち止めになった王子を見て、ランベルは言った。
「兄君を外の車にお連れします。足のほうをお持ちください」
アプスは仰天して両手を振った。
「毛布越しです。動きはしません。勇気を持って、どうかお持ちください。殿下は今、私の助手ということにおなりです。怪しまれぬよう、安全にここから出るには、この方法しかありません」
「出るわけにはいかん!」
アプスは首を縦に振らなかった。
「まだ探しものが終わっとらん!」
「先ほどおっしゃられていた瓶でございますね。後で私がお探しします。見つかれば、必ずや殿下にお届けいたします」
アプスは迷った。
ランベルと名乗る男を信じるか否かは問題ではなかった。
恐ろしい仕事の片棒をかつがずにすむ方法、死体の足を持つなどというおぞましい行為から免れる方法を、必死に考えていたのだ。
ランベルは小さくため息をついた。
「私はひとりでも、グルース王子殿下のご遺体をお連れします。残りふたりの女たちと、ひとりきりでここに留まりあそばしますか? 殿下」
背筋が凍る心地がした。
「いや、それは……」
「では、殿下、足のほうへ」
毛布ごしに硬い棍棒をつかんでいるようだった。
「これは棍棒だ、棍棒だ、棍棒だ」
小声で唱え続けた。
表に出ると、碁に興じる歩哨たちは奇妙にも並んで背を向けていた。
その後ろを通り、遺体を荷車にのせる。薄い板で囲われた粗末な荷車である。まさかとためらったが、ランベルはそこに遺体をおろした。
「車の後におつきください」
ランベルは前に立ち、荷車を引いた。アプスは震えを押し殺しながら歩いた。荷車に手をふれる気にはならなかった。
「なんとひどい」
ひとけがなくなった辺りでアプスはつぶやいた。
「私の大伯父たちでさえ、身分は低いながら、もっとマシな扱いを受けたぞ。これではクズと同じではないか」
「この死に様のせいです」
ランベルは言った。
「呪いを受けたともっぱらの噂。触れればたちまち伝染するとか」
「なんだって!」
アプスは両手を見た。
「それをなぜ早く言わん! 毛布ごしとはいえ、触ってしまったではないか! ああ、私は呪われてしまった! もうおしまいだ!」
「落ち着きなさい! 静かに!」
ランベルが制した。
「ただの噂です。バカバカしい。呪いなんかで人が死ぬなら苦労はない」
「おまえは怖くないのか?」
アプスは上目づかいに訊ねた。
「私が恐れるのは生者です」
ランベルは憮然として答えた。
「殿下、今のうちにそっとお帰りください」
「いや、しかし……」
アプスはうつむいた。手が震える。
「まだ瓶を……」
「私はこれから墓所へおもむき、グルース王子殿下を埋葬いたします。その後二度往復しますから、その時に部屋をあらためてみましょう」
「往復! あの忌まわしい場所に戻るのか?」
声まで震えた。
「さよう」
ランベルの声音は強く、落ちついていた。
「あのかわいそうな女たちは、あれでも貴族の姫君ですぞ。王子殿下に愛され、束の間の栄華をつかんだのです。まことに束の間でしたがな。彼女たちもまた、家に見放され、葬る者がないのです。私の他には」
「おそろしい」
アプスはわななく声でつぶやいた。
「おそろしいヤツだ。あんなところに三度も足を運び、呪われた死者を三体も運ぶのか」
「命じられましたからな。死者には私を害す力はありませんが、生者には可能です。一言命じればいい。それで私も私の家も、すべて終わりです」
「それは非難しておるのか? グルース兄上の処置を決めたのは、父上かループス兄上にちがいない。国王と王太子を批判するのか? 不敬罪だぞ」
「おや。殿下も私と気持ちは同じとお見受けしましたが」
ランベルの声が笑いをふくむ。
「お行きなさい。人目に触れる前に。ここにいらしたことを知られてはならない。そうでしょう? 殿下」
その通りだ。
アプスは場を離れた。