〜 リュウイン篇 〜

 

【八 赤いベストの伊達男(二)】

 

 

 夜のとばりが落ちると、ようやく次兄グルースの棟の人通りも絶えた。しかし、衛兵がふたり、離れの入口をかためている。もうふたりが建物のぐるりを見回っている。

 アプスはこっそり灌木の間を縫って中庭に入りこんだ。パーヴの王宮に比べれば衛兵の数は問題ではなかった。

 この棟でいちばんいい部屋は、と。

 南側に回り、庭の具合を品定めする。密集する灌木は、パーヴの王宮と同じものだった。

 ヒースとか言ったかな?

 細い枝がすきまなく茂るので、手には次々とすりキズができた。延々と苦労してかきわけていくと、急に開けて、池が現れた。巨石が池を囲むように置かれ、女神の石像が池のほとりにひとつ、巨石の間にひとつ、名も知らぬ細い木下にひとつ。季節の花のしぼんだつぼみが、緑のじゅうたんを赤や黄色で彩っている。

 ここだ。

 外壁はタイルで七色の衣をまとった女を、剣を佩いた男が追っているさまを描いていた。

 廊下をふたりの歩哨がかためていたが、真剣に睨んでいたのは庭でも廊下でもなかった。

 床である。

 正しくいえば、石畳に敷かれた布と駒である。

「待った! 」

「待ったなし! おまえ、さっきからそればっかりじゃないか」

「待て待て! 王が右に出れば騎士にやられる。左に出れば将軍がいる。後ろは歩兵……。歩兵相手なら勝てるか。よし! これでどうだ!」

「かかったな。補給物資はいただくぞ」

「しまった! そうきたか!」

「どっちにしろ、おまえの負けだ。おりるか?」

「待った待った!」

 声の感じでは、ふたりとも二十代前半といったところか。勝負の行方はともかく、言葉は歯切れがいい。

 床にすわりこんだ歩哨たちは、腰にさげられていたであろう棍棒を、左手のそばに置いていた。

 殴られたら痛いだろうな、打ちどころが悪ければ死んでしまうかも。

 手に汗がにじみ、腕が震えた。

 来た方向をふり返る。

 今ならまだ……。どうせ帰らねばならない道なら、今すぐ……。

 胸をおさえる。ロケットに手が触れた。

「姫」

 つぶやくと、早足で窓に走りよった。よろい戸に手をかけると、かんたんに開いた。頭をつっこんで、一気に滑りこむ。

 勢いあまって転がり落ち、床にキスをする。

 よろい戸が音を立てて閉まる。

 アプスは緊張して耳をそばだてる。

 歩哨は騒がない。

 安堵して、室内に目をこらす。灯のない部屋は、星明かりに照らされた庭よりも暗い。

 床を這い、手さぐりで家具を知る。

 散らかってるな、とアプスは思った。

 床中に衣類や置物とおぼしきものが転がっていた。引き出しという引き出しも開いている。

 整理整頓ぐらい、ちゃんとしろよ。なんて質の悪い侍女なんだ!

 小瓶ひとつを探しだすのは至難のわざに思えた。手のひらにすっぽり包みこめるほどの大きさである。衣類にまぎれようものなら気づかない。ひとつひとつていねいに触って確かめていく。

 灯りが欲しいなあ! 部屋じゅうを見渡せるヤツ!

 ムダだと知りつつも目をこらしていると、不意に手元が明瞭になった。

 ほら、みろ。あきらめないことが肝心……。

 瓶を探して辺りを見渡す。

 顔をあげると、まぶしさに目がくらんだ。

 ランプを掲げた男が立っていた。

「ひっ」

 小さく悲鳴をあげ、腰をぬかした。

「出っ、出たっ! あ、兄上、どうかお許しを! わ、私は瓶を探していただけで……」

「瓶?」

 男が訊き返す。

「わっ、私からとりあげたじゃないですか。裸の女の形をした、媚薬の瓶ですよ。私はただ、あれを返してもらおうと……。大事なものなんですよぉ。パーヴの王太后さまから直々にいただいたもので。もう、兄上には用のないものでしょう? 返してくださいよぅ」

 とまどったような声が返ってきた。

「もしや、グルース殿下の弟君、アプス殿下でいらっしゃいますか?」

 アプスはまじまじと相手を見つめた。落ち着きが戻ってくる。

「おまえは兄上ではないのか?」

 男は片膝をついた。涼やかな音が鳴り響いた。腰につけた銀の飾りが揺れたのだ。

 つばの広い帽子をとる。羽やリボンのついた赤い帽子だ。シャツはたっぷりした袖をリボンで二カ所しぼっている。たっぷりしたズボンは途中から長い編みあげブーツに隠され、ブーツのくるぶしには革とリボンの飾りがついていた。

 おしゃれな男だな、とアプスは思った。グルースは高価なものは着ても、こんなに手のかかる服装はしなかった。

「お初にお目にかかります、アプス殿下」

 ひざまずいた男の目が光る。大きな褐色の目。やや丸顔であるものの、太くくっきりした眉、高いしし鼻は男性的で、大きな口は艶めかしくもあった。

「私はランベルともうします。まだ爵位もなく、お目通りできる身分ではありませんが、こうして御前にはべる機会に恵まれたこと、光栄でございます」

「どうした? 悲鳴が聞こえたぞ」

 戸外から、歩哨が呼びかけてきた。

「何でもない。助手がつまずいただけだ」

 ランベルは冷静に応じる。

「助手なんかいないぞ」

 アプスは首をめぐらせた。

「連中にはわかりゃしません。私が入ってくるところすら、ろくに見やしなかったのですから。見たくもないでしょう。不吉なものには背を向けるに限ります。私は、殿下、兄君を連れだしにまいったのですよ」

「兄上を?」

 アプスは首をかしげた。

「でも、グルース兄上は死んだのではないか?」

「ここにいらっしゃいますよ。そら」

 部屋の片隅に幅広のベッドがあった。毛布をめくると、男の頭があらわになった。

 褐色の髪、ひげで毛むくじゃらの長い面。見覚えがある。

 頬には親指の爪ほどのどす黒い斑点がいくつも浮かんでいた。鼻にも、まぶたにも、額にも。

 さらに毛布をめくると、その両わきに女が現れた。同じように斑点におおわれた顔。

 もう充分だった。しかし、目は釘づけだった。

 毛布はしまいまでめくられ、あらわな肢体が斑点に埋め尽くされているのを見た。

 胃から熱いものがこみあげてきた。一気に逆流した。

 ランベルはアプスを一瞥すると、動じるふうもなく、毛布でグルース王子の体をくるみ始めた。

「アプス殿下、落ちつかれましたか?」

 胃液すら打ち止めになった王子を見て、ランベルは言った。

「兄君を外の車にお連れします。足のほうをお持ちください」

 アプスは仰天して両手を振った。

「毛布越しです。動きはしません。勇気を持って、どうかお持ちください。殿下は今、私の助手ということにおなりです。怪しまれぬよう、安全にここから出るには、この方法しかありません」

「出るわけにはいかん!」

 アプスは首を縦に振らなかった。

「まだ探しものが終わっとらん!」

「先ほどおっしゃられていた瓶でございますね。後で私がお探しします。見つかれば、必ずや殿下にお届けいたします」

 アプスは迷った。

 ランベルと名乗る男を信じるか否かは問題ではなかった。

 恐ろしい仕事の片棒をかつがずにすむ方法、死体の足を持つなどというおぞましい行為から免れる方法を、必死に考えていたのだ。

 ランベルは小さくため息をついた。

「私はひとりでも、グルース王子殿下のご遺体をお連れします。残りふたりの女たちと、ひとりきりでここに留まりあそばしますか? 殿下」

 背筋が凍る心地がした。

「いや、それは……」

「では、殿下、足のほうへ」

 毛布ごしに硬い棍棒をつかんでいるようだった。

「これは棍棒だ、棍棒だ、棍棒だ」

 小声で唱え続けた。

 表に出ると、碁に興じる歩哨たちは奇妙にも並んで背を向けていた。

 その後ろを通り、遺体を荷車にのせる。薄い板で囲われた粗末な荷車である。まさかとためらったが、ランベルはそこに遺体をおろした。

「車の後におつきください」

 ランベルは前に立ち、荷車を引いた。アプスは震えを押し殺しながら歩いた。荷車に手をふれる気にはならなかった。

「なんとひどい」

 ひとけがなくなった辺りでアプスはつぶやいた。

「私の大伯父たちでさえ、身分は低いながら、もっとマシな扱いを受けたぞ。これではクズと同じではないか」

「この死に様のせいです」

 ランベルは言った。

「呪いを受けたともっぱらの噂。触れればたちまち伝染するとか」

「なんだって!」

 アプスは両手を見た。

「それをなぜ早く言わん! 毛布ごしとはいえ、触ってしまったではないか! ああ、私は呪われてしまった! もうおしまいだ!」

「落ち着きなさい! 静かに!」

 ランベルが制した。

「ただの噂です。バカバカしい。呪いなんかで人が死ぬなら苦労はない」

「おまえは怖くないのか?」

 アプスは上目づかいに訊ねた。

「私が恐れるのは生者です」

 ランベルは憮然として答えた。

「殿下、今のうちにそっとお帰りください」

「いや、しかし……」

 アプスはうつむいた。手が震える。

「まだ瓶を……」

「私はこれから墓所へおもむき、グルース王子殿下を埋葬いたします。その後二度往復しますから、その時に部屋をあらためてみましょう」

「往復! あの忌まわしい場所に戻るのか?」

 声まで震えた。

「さよう」

 ランベルの声音は強く、落ちついていた。

「あのかわいそうな女たちは、あれでも貴族の姫君ですぞ。王子殿下に愛され、束の間の栄華をつかんだのです。まことに束の間でしたがな。彼女たちもまた、家に見放され、葬る者がないのです。私の他には」

「おそろしい」

 アプスはわななく声でつぶやいた。

「おそろしいヤツだ。あんなところに三度も足を運び、呪われた死者を三体も運ぶのか」

「命じられましたからな。死者には私を害す力はありませんが、生者には可能です。一言命じればいい。それで私も私の家も、すべて終わりです」

「それは非難しておるのか? グルース兄上の処置を決めたのは、父上かループス兄上にちがいない。国王と王太子を批判するのか? 不敬罪だぞ」

「おや。殿下も私と気持ちは同じとお見受けしましたが」

 ランベルの声が笑いをふくむ。

「お行きなさい。人目に触れる前に。ここにいらしたことを知られてはならない。そうでしょう? 殿下」

 その通りだ。

 アプスは場を離れた。

 

 

   

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