室内には真新しい敷きわらの匂いが充満していた。垂れ布のついたてが壁代わりに三方を囲み、低い天井と壁とは白く塗られていて、ところどころに茶色いしみのようなものが浮かんでいた。
唯一の壁には、くり抜いたような四角い窓があり、高さといい、大きさといい、人が乗り越えるには申し分がなかった。よろい戸の薄い戸板は長いつっかえ棒で大きく開かれ、西日が床に落ちていた。
日だまりの下、円座の上にあぐらをかいた赤いベストを着た暗褐色の髪の若者が、女の裸体を模した青い小瓶を光に透かしていた。瓶に射しこんだ赤い陽光は、中の黒い液体に吸いこまれたように見える。
『非礼を詫びよう』
パーヴを出立する前夜、ひそかに王太后に呼びだされた。天井からやたらと布が垂れさがった薄暗く狭い部屋だった。ろうそくが三本立てられた燭台を年老いた侍女がささげ持ち、両側をふたりの衛兵が固めていた。
非公式の席だというのに、王太后の装いは目を惹いた。巨大にふくれあがった茶褐色の髪は色とりどりの宝石を散りばめたネットでおおわれ、耳からは大きな金の三連リングが垂れさがっていた。胸元は大きくあき、ダイヤをふんだんに使った扇形のネックレスが肌をおおっていた。ドレスの表面は光沢のあるうすぎぬで、その下から絹地が透けて見えた。暗くてよくわからないが、色は派手なピアニーのように思えた。
対照的にも、顔にだけは、地味な黒いベールがかけられている。
『そなたは大した男よ。わらわを負かした男は三人しかおらぬ。父上と先王とそなただ。心服しておる。これなら、大事な姫を任せられる。実は、姫のことは日ごろから憎からず思っておってな。妾腹とはいえ、幼いころより我が息子の家でよく面倒を見たものよ。わらわにとっては娘も同じ。よい婿に恵まれ、安堵しておる』
アプスがうれしそうに笑うと、侍女が近づいて瓶を手渡した。ろうそくの光で目がくらむ。
『祝いの品だ。床に就く前に体に塗れば、夜の愉しみも増そう』
アプスが礼を言うと、黒いベールの中から目が炎を受けて光ったように見えた。
『ところで、そなたと姫の婚約を喜んだ友も数多くおろうな。親も同然のわらわだからこそ知っておきたい。それは誰ぞ?』
父王や兄王子、郷里の祖父の名を挙げ、リュウインの者たちは喜んでおります、とアプスは答えて退室した。
モーヴのことが頭をよぎったが、黙っていた。ヘタに話せば、手柄をすべて奪われるかも知れない。入れ知恵したのはモーヴだが、実行したのは自分自身なのだ。横取りされてはたまらない。
そうして、王太后からもらった媚薬が、今、ここにある。リュウインの城の片隅、和平をもたらした功労者の手元に。
今宵、使ってみよう。
瓶を振りながらアプスは思った。二夜、いや三夜分はあるだろう。初夜であわてないよう、予め試しておかなくては。
とつぜん、手元から瓶が消えた。
「あっ」
アプスは声をあげて辺りを見回した。
瓶は真上にあった。頭上でひげだらけの馬面が笑っている。
「媚薬か。こりゃいい」
「か、返してください! 大事なものなんです!」
アプスは立ち上がり、背後から忍び寄った盗人に抗議した。
「そ、それがないと……。ええっと、持病の癪が……」
「ウソつけ。ただの薬が、こんな思わせぶりな瓶に入ってるものか」
女の裸体が空中で回った。
「畜生でも発情はするよなあ。こいつで王女をたらしこんだのか?」
相手の暗褐色の眼が細くなり、暗褐色の口ひげとあごひげの間から赤い舌がのぞいた。年のころは三四、五。分別のあるべき年だが、態度は幼かった。瓶を高く掲げ、すがるアプスを押しのけては楽しんでいる。
「獣は獣らしく、尻の臭いでも嗅いでな! これは人間さまの使うもんなんだよ!」
「返してください! お願いですから! それがないと……」
アプスの腹に、相手の足がめりこんだ。うめく間もなく、壁にたたきつけられる。頭がくらくらして、敷きわらの上に這いつくばる。
「安心しな、オレが代わりに使ってやるよ。汚ねぇ隣国のメスブタより、リュウインの美女を愉しませるほうが、薬も本望ってわけさ」
「メスブタだと!」
アプスは怒りに震えて立ちあがった。
「姫は、レイカ姫はメスブタなんかじゃないぞ! 取り消せ!」
暗褐色のひげ面の男は笑った。
「取り消すさ! ブタのほうが食えるだけ上等だ」
「くっそう! 許さん!」
アプスは突進したが、相手は身をかわし、足をひっかけた。
ぶざまにひっくり返っている間に、勝者は高笑いして出ていった。
アプスは涙ながらにつぶやいた。
「返してくださいよう、グルース兄上……」
翌朝、体の痛みで目を醒ました。
角材ふたつに板をのせただけのベッドである。シーツの下にクッションはない。
これじゃ、田舎にいた時よりひどい! アプスは泣きたくなった。
脚の長いベッド、やわらかなクッション、温めてくれる女たち、当たり前のものが何ひとつない!
パーヴでの日々が懐かしく思い出された。
広い室内、美しい調度品、ふかふかの大きなベッド、旨い食事、そして……。
胸元から純金製のロケットを引きだす。ふたには小粒のサファイヤとダイヤが散りばめられ、『クジャク』とかいう鳥の姿を形どっている。開けると、中から長い黒髪の姫が微笑みかけてきた。
肖像画を望むと、姫はわざわざ絵師を呼び、アプスの願いをかなえたのだ。
『一年後には、髪も絵ほどに伸びよう』
再会の日の絵姿である。
『そのロケットに入れてください』
あつかましくも姫の胸元を指すと、姫は笑ってロケットを外し、中身を入れ替えて授けてくれた。
『それは……』
取りだしたものを訊ねると、姫は手のひらを開いてみせた。
『ただの草だ』
色あせ、乾き、何の草かもわからなくなっていた。
『何かの記念の品ですか?』
『母から授けられたのだ。もしもの時は使うようにと』
『もしも?』
『もういらぬ』
手のひらは閉じ、乾いた草を粉々にした。
アプスは叫び声をあげた。
『母君の形見でしょう? そんな……』
姫は笑い声をあげ、手を窓の外に突きだした。夜風が粉をさらっていった。
『大事にしてくれ』
アプスの首にロケットをかけた。
アプスは感激し、直立したまま姫の肩をいつまでも見つめていた。目の前がちょうど肩の高さだったのだ。
そうだ。大事にすると約束したのだ。
アプスは粗末な板ベッドから飛び起きた。
グルース兄上に、瓶を返してもらうのだ。まだ使いきってはいまい。
ついたてをつっきると、敷きわらさえない土の上でやせ細った男がひとり寝転がっていた。毛布がわりに薄いマントをひっかけ、横になれば床にはもうすきまもないというありさまだった。
「起きろ!」
アプスは男は靴の先で蹴った。
「グルース兄上のところに案内しろ!」
反応はなかった。
脳裏に厭なイメージが浮かんだ。
狭い塀の中に累々と並ぶ男たち。それは国境で腐臭とともに味わった光景で……。
足下にいた男がゆっくりと身を起こした。
「ひいぃっ」
アプスは悲鳴をあげた。
「朝っぱらから、なんだ? やろうってのか」
男が睨みつける。
ほっとした。
すごまれたほうが、幽霊に囲まれるよりマシだ。
「オレは第三王子にしてファシネイの次期領主のアプスだ。グルース兄上の部屋に案内しろ」
「知らねえよ、自分で探しな」
男は再び横になった。
「オレはこの国の王子だぞ!」
アプスはあっけにとられた後、脚を踏みならした。
「うるせぇな、黙らねぇとその口を二度と開けねぇようにしてやるぞ」
「無礼な! やれるもんならやってみろ!」
「盗人のクセに」
吐きだすように男は言った。
「オレはな、手クセの悪いあんたが、この物置から何も盗らねぇように見張れと命じられてるんだ。そのためには、骨の一本や二本折ったっていいと言われてる。今ここでそうしたっていいんだぜ」
盗人じゃないぞ! と反論したかったが、痩せた男が薄いマントの下で関節を鳴らすのを聞くと、何も言えなくなった。静かに壁際を通って扉をくぐった。
「物置だって? 盗人だと!」
廊下に出ると、アプスはこぶしでもう片方の手のひらを叩いた。
「これが王の息子にする仕打ちか! オレは和平をもたらしたんだぞ! パーヴのたったひとりの美しい姫をもらったんだぞ」
姫はこんな仕打ちは許さないだろう。姫が黙っていたって、あの侍女たちが許さない。パーヴで何不自由なく育てられてきたのだ。こんなひどい待遇に甘んじてるわけがない。パーヴ国王だって、知ったらタダじゃおかないに決まってる。
いやいや、姫をひとめ見たら、兄上たちは、きっとご機嫌とりに走るだろう。あんなに美しいんだから。でも、姫が愛してるのは、自分だけだ!
そう思うと、急に元気が出た。足を速めて、奥へ奥へと進む。
確か、暗いが上になればなるほど、奥まった心地のいい部屋に住むと、講義で習ったな。
パーヴで過ごした一ルーニーもムダではなかったとみえる。
隣国と違い、途中で衛兵に止められることはなかった。いくつもの渡り廊下を越え、四角い柱が六角になり、土にわらを敷いた床が石だたみになった頃、数人の侍女と行き違い、あるいは先を越された。襟や袖があおられる勢いだったので、アプスはひとりを呼びとめた。
「これから何かあるのか? 忙しそうだな」
「お医者さまがいらっしゃる前に、きれいなお湯を用意しないと……」
「子どもでも生まれるのか?」
侍女は答えず、エプロンドレスの端を少し持ちあげて礼をすると、あわただしく駆けだした。
アプスはさらに先へ進んだが、八角の柱の棟に入ったところで止められた。
「グルース兄上に会いたいのだ」
と、侍女に詰めよったが、
「病に伏せってらっしゃいます」
の一点張りで、しまいには衛兵が出てきて追い返されてしまった。
アプスの横を医者がすり抜け、しばらくすると、首を振りながら戻ってきた。
「グルース兄上の具合はどうだ?」
アプスが勢いこんで訊ねると、
「もはや医者の領分ではありませんな」
謎のような答えが返ってきただけだった。
けっきょく、夕方になってから、兄の訃報がもたらされた。