鏡の間は一年前のその日を思わせた。燭台は倍に増え、大広間を明るく照らしだした。軽快な舞踏曲が奏でられていたが、その音量は倍、よく見ると楽隊の人数も倍だった。広間の中央では数十組の男女がステップを踏んでおり、袖のふくらみは倍、スカートのフリルも倍だった。そもそも客の人数が倍である。出不精の老人から宮廷行事に疎遠な若者まで、めったに姿を見せない貴族たちも馳せ参じていたからである。
その理由は玉座にあった。鏡の間のもっとも奥には人の腰ほどの高さの壇があった。壇上には数人の従者と青いビロード張りの椅子が中央にひとつ、向かって右にひとつ。中央の椅子は背もたれが大人の背丈ほど高く、上部にはうねるような枝模様が金細工で施してあった。小さな花を模して光るのは小粒のダイヤか。中央には大粒のサファイヤが光り、その下に国花である赤紫のヒースと国鳥孔雀の羽をあしらった紋章が浮き彫りにされている。これが、パーヴ国王の玉座である。
しかし、そこに坐しているのは御年五四の国王カルヴ陛下ではなかった。眉間に深いたてじわが無数に刻まれ、頬の肉の下がった七五歳の老婆であった。落ちくぼんだ目元から目玉が突きだし、陽気な舞踏を見渡している。端の下がった口を大きく開け、歯ぐきをむきだしにしてかん高い声を発している。機嫌よく笑っているのだろうが、まるでそれは言い伝えにあるどくろの化け物のようだった。そのどくろというのは、夜更けに光って虫を集め、食らっては虫の羽を生やし、梢の間を笑いながら飛び回る。その声を聞いた者は三日と生きられないというのである。
伝説によれば、勇者セージュはこの声を耳にし、運命から逃れる方法を求めるのだが。
玉座の向かって右後ろには、小ぶりの椅子が置かれていた。大きさも金銀の装飾もややひかえめにできている、本来は王妃のすわるべき椅子である。
しかし、今、ここに座っているのは玉座にあるべき国王だった。青ざめた顔色は、椅子に張られたビロードの色を映したせいばかりではないだろう。王太后とは対照的に眉を寄せ、物憂げに床に視線を落としている。
左手は肘かけの上で小刻みに震え、右手でしきりに額や頬をなでている。陽気な音楽やにぎやかな笑いさざめきも耳に入らないようだった。
日付の変更を告げる真夜中の鐘が大広間に鳴り響く。玉座の老女は小腹がすいたと、従者に食事を運ばせた。
脂ののった牛肉の香草焼き、フライドチキン、豚の白身のソース煮。牛肉とチーズのカツレツ、バターを溶かしてコクを出したクリームスープ煮、バタークリームのたっぷりのったナッツケーキ……。
老女の食欲は旺盛だった。
「今日は何でも旨く感じるな。息子や、そなたもおあがり」
酒杯を二度、三度と空けながら、ふり返る。
同じ膳を並べられた息子は手もつけられないようすである。うつろな目は皿の間をさまようが、焦点が合っていない。
「栄養をおとり。そなただけの体ではないのだぞ。この国の主なのだからな」
「おやおや。主はあなたかと思っておりましたが」
嘲笑うような声音に、王太后はたちまち目をつりあげて正面に向き直った。
「無礼者! 誰ぞ!」
「幽鬼です。恨めしさのあまり、化けてまいりました」
王太后は悲鳴をあげた。
「もっ、萌黄!」
漆のように黒い髪、闇のように深い眼、鼻筋の通った高い鼻に細面の白い顔。ほっそりとして背が高く、飾りの少ない深緑色のドレスを身につけている。胸元には明るい緑色のひすいのネックレスが燭台の灯を受けてきらめいていた。
「レイカ!」
王太后の後ろで、国王が立ち上がった。
「無事だったか!」
レイカは大声で笑った。白々しく、芝居がかっていた。
「もう長くはないでしょうな。王太后陛下、モーヴ殿下は死にましたぞ」
王太后は冷ややかな表情をとりもどした。笑顔はないが、動じたふうでもない。眉間のたてじわは深くなったが、普段の表情にもどったに過ぎない。
「隣国の王子も死にました。和平はならず、戦端は開かれ、しかし、国庫は空、どこから戦費を捻出なさるおつもりか?」
「息子や」
王太后は後ろをふり返った。
「我が国の将軍と隣国の王子を討った謀反人がおるぞ。ただちにひっとらえ、首を隣国に届けるように」
「は、母上!」
「使者には、コレット公を遣わすがよい。衛兵、何をしておるか。謀反人をとらえよ」
レイカは嘲るように口の端を上げた。
「衛兵ごときにかのような力がないことは先刻ご承知のはず。私を捕らえられるのは、この世で唯一国王陛下のみ。指一本動かされる必要もない。ただ一言、死ねとお命じになってくださればよい」
「息子や、謀反人を処断せよ」
妹と母に詰め寄られ、国王は身動きひとつできなかった。
今や舞踏も楽曲もやみ、一同の視線が国王に注がれていた。
「国王陛下はお困りか。では、憂慮の種を除いてさしあげよう」
ドレスの裾を跳ねあげる。中から長剣が現れた。柄やさやの金細工が灯りにきらめき、さやの中央で大粒のサファイヤが燦然と輝きを放った。
「ご覚悟を」
艶やかなさやが抜き払われ、宙に舞った。アンガジャントの袖が振られると、青黒い刃が王太后を向いた。
「大罪ぞ!」
王太后は勝ち誇ったように叫んだ。
「国王陛下の御前で刀を抜くは死罪である!」
「甘んじてお受けしよう。ただし、奸賊を始末してからな」
レイカは軽やかに壇上に躍りでた。左手にある長剣は、燭台の光を浴びて輝きを増し、導かれるように王太后の喉を目指した。
「やめよ! やめよ! レイカ!」
国王の叫びが響いた。切っ先が、王太后の喉元で止まった。
肉でたるんだ喉はのけぞり、背もたれいっぱいに逃げていた。顎を上げたまま、飛びでた目玉が剣先を見つめている。肘掛けの腕は緊張でこわばり、体は椅子に張りついたように動かなかった。
「兄上」
レイカは憐れむようなまなざしを投げた。
国王は立ちあがり、威嚇するかのように肩をいからせ、唇を震わせていた。
「ともには生きられぬのです。私に死を賜るというなら、剣を引きましょう。でなければ、お止めなさるな」
王太后に向きなおり、肉に埋もれた喉を見すえ、肩に力を入れる。
「やめよ! 母だぞ! 私の母だ!」
国王が従者の手から剣をとり、抜き放ってレイカに斬りつけた。
「何をなさっておいでか」
微動だにせず、レイカは冷笑を浮かべた。袖のフリルがわずかに切れていた。
「母をお選びになるなら、それもけっこう。しかし、斬る場所が違っておりますぞ」
「レイカ! 剣を引け! 命だけは助けてやる!」
「いっそひと思いに斬られよ。さもなくば、このまま喉を刺し貫きましょう」
「レイカ! 剣を引け!」
国王の声は悲痛だった。
業を煮やしたように、王太后は早口に叫んだ。
「何をぐずぐずしておる! 早く斬れ! 動かぬ的など、かかしと同じではないか。早くこやつを斬れ! こやつは、貴き血を幾つも手にかけたのだぞ! 隣国の王子はともかく、そなたの弟や従姉の子まで!」
従姉の子。
王太后は意味ありげに早口で囁く。
「将軍とともにいた金髪の子どもは、先王の弟の孫よ。ウソではない。先王の弟の妃はウルサの姫で、美しい金髪と美声の持ち主だった。琴の名手でもあったな。ひとり娘がいたが、弟夫婦の死後、妃の里からついてきた年若い騎士に連れ去られたのだ」
連れ去られただと? 命の危険にさらされて、子どもだけでも逃がそうとしたのだろう。誰かの毒手にかからぬうちに。
レイカは皮肉な目を話し手に向けた。
王太后は気づかぬふりをしてさらに続ける。
「それきり行方知れずになっていたが、先ごろあの金髪の子どもが訪ねてきて消息が知れたのだ。弟夫婦のひとり娘は南方で育ち、連れ去った若い騎士と一緒になっておったそうだ。男子と女子をひとりずつもうけ、それがあの子どもとその妹よ。騎士はすでに死に、残った母と妹を都に呼び寄せて楽な暮らしをさせてやるのだと申しておったが……。殺されたとはムゴいことだ」
王太后は泣き顔を作った。憐れみはその顔つきにそぐわず、醜くひきつった。
「鬼め」
レイカは眉をひそめてつぶやいた。
「なにを言う。殺したのはそなたではないか」
王太后は心外とばかりに見返した。
「酷な役目を与えたのは御身であろう。償うためにあの世へ行くのだな」
レイカは剣を喉めがけて突いた。
刹那、王太后はおそろしいほどの素早さで首を左にそらした。剣は椅子を突いた。
「往生際が悪い」
レイカは剣を引き抜き、振りかぶった。
「母上!」
国王が空いたすき間に飛びこみ、王太后に覆いかぶさった。振りおろされた剣が、その背の手前で止まった。
「そうか。兄上のお気持ちはよくわかった」
左手が落ち、剣を床に放った。
「衛兵! 今ぞ! 早く謀反人を捕まえいっ!」
国王の体の下から首だけを出し、王太后は勝ち誇ったように叫んだ。
「捕まえずともよい。逃げはせぬ」
おそるおそる近づく衛兵にレイカは言った。まなざしは静かだった。
「案内を頼む。牢獄へでも、刑場へでも」
「刑場へ連れていけ! 即刻凌遅の刑に処せよ。そやつは王弟と隣国の王子を斬殺したのだぞ!」
王太后は用心深く、国王の体にしがみつき、陰から出なかった。
緊迫した空気は一転ざわめきへと化した。
凌遅の刑は、二シクルをかけて体を傷つけ、死に至らしめる残酷な刑罰である。薬を使い、ムリに命を長らえさせる。激痛の中、死ぬこともできず、罪人は地獄の苦しみを味わう。
これは、重罪を犯した身分なき民が処せられるものであり、王侯貴族に下されるものではなかった。
「母上、それはあまりにも……」
国王は抗議を口にしかけたが、至近距離からの老母の目つきに沈黙した。
「どこの馬の骨とも知れぬ蛮族の腹の子よ。父親とて先王とは限らぬわ」
「ひっ、姫は先王陛下の御子です!」
悲鳴のような裏返った声の反論があがった。
レイカが壇の下に目を落とすと、最前列に見覚えのある姿があった。
「気品あふれる麗しいお姿は、どうして賤しい身分のものでありましょうか!」
王太后が睨みつけた。
隣国の王子はおびえるように視線をそらし口をつぐんだが、それは一呼吸の間だけだった。目をつりあげ、必死の形相で、語気を強めて続ける。
「隣国の王子はこうして生きております。王弟殿下も生きていらっしゃいます。それどころか、姫は傷ついた殿下をお救いになられたのです。国母たる王太后陛下、空のように広い御心と森のように深いご自愛をもって、どうかこの茶番をお笑いになり、お忘れください」
王太后は国王の陰から、口を大きく開けて叫んだ。つばが飛び、やせた歯ぐきが剥きだしになった。
「ウソは笑い飛ばせても、その剣は許されぬ。御前での抜刀は死罪ぞ!」
「では、それは剣ではないのです!」
隣国の王子は毅然として言い放った。
王太后の目の奥が光った。意地が悪そうに口の端を上げる。
「ほう。剣ではないなら、なんだというのだ?」
王子は一瞬たりとも迷いなく答える。
「舞いのための小道具、ただの宝飾品です。その証拠に、さやには宝玉が星のように無数にきらめいているではありませんか」
レイカが放ったさやは、王子の足下に、投げた時そのままに転がっていた。
言いよどんだのは王太后のほうだった。
すかさず、王子はたたみかける。
「慈悲深い王太后陛下、懐の深さをどうかお示しください。しかしながら、この冗談は度が過ぎます。この先、レイカ姫のお姿を拝見するたび、人々は良からぬ噂を口にするかもしれません。それなりのご沙汰があるべきでしょう」
王太后はたちまち元気をとり戻し、大きくうなずいた。
「当然だ。処罰は必要である。さしあたって……」
「国外追放はあって然るべきでしょう」
隣国の王子は王太后に話す暇を与えない。
「二度と王太后陛下の御目に触れないよう、貧しい辺境へ追いやるのです」
「辺境か」
王太后は膝を叩いた。
「息子や、それではさっそく北方の……」
「見張りが要ります! 姫が二度と戻らぬように!」
隣国の王子は声をあげてさえぎった。
「普通の衛兵では役に立ちません! しっかりと姫を束縛しなければなりません!」
「もっともな話だ。頑丈な鎖でもつけて、どこぞの塔に幽閉でも……」
レイカは黙って事のなりゆきを見守っていた。
隣国の王子が自分を恨みに思うのもムリはない。文字通り、さんざん足蹴にしたのだから。
王太后に向かって意見する勇気がどこから湧いたのかは驚きだったが。
凌遅の刑だろうと、幽閉だろうと、今さらどちらでも変わりない。
兄は、国や自分よりも、母親を選んだのだ。
しかしながら、これで国はふたつに割れずに済むだろう。反王太后派は求心力を失い、消滅するに違いない。
できることなら、こんな結末は迎えたくなかったのだが……。
レイカが物思いに耽っていると、隣国の王子が強気をいっそう強めた。
「頑丈な鎖! 幸運にも、私はこの世で最も強い鎖を持ちあわせております!」
「この世でもっとも強い鎖だと?」
王太后がうさんくさげに眉をひそめた。
王子はここぞとばかりに胸を張り、こぶしでたたいた。
「婚姻です。私に姫をください。遠き辺境の私の領地に姫をお連れします!」
王太后の形相が変わった。目は大きくつりあがり、口は大きく開いて歯ぐきや舌を丸見えにした。人間を丸飲みにする化け物はかくやという風貌である。
隣国の王子は肩に力をこめ、両足を踏んばり、負けずに睨み返した。
「姫をください! 国王陛下、ならびに王太后陛下、これは悪い話ではありません! 騒動の種を取りのぞき、両国に和平ももたらすのですからな!」
「ならぬ!」
王太后の顔色は赤を通り越して真っ青だった。目は血走り、狂気のような殺気でぎらついた。レイカですら直視できないほどに苛烈だった。
しかし、隣国の王子は両のこぶしを白くなるほど握りしめ、王太后を睨みつけた。
「この国では、国王陛下よりも王太后陛下のほうが偉いのですか? 私は国主たる国王陛下にお返事願いたい。姫をくださるのか、くださらないのか!」
国王は目を伏せた。落ち着きなく、視線は床をさまよう。
「姫の意のままに」
か細い声で、それだけ答えた。
隣国の王子はレイカに向き直った。今までの情けない人柄とは別人のようだった。
「レイカ姫、私と結婚してください。もし承諾してくだされば、私の領地にご案内いたします。貧しい辺境でご不自由おかけしますが、全力を尽くしてあらゆる危難から生涯お守りいたします。お約束いたします」
たいした男だ。
レイカは舌を巻いた。
人はここまで化けられるものか。国王も王太后もモノともしない勇気とたくみな話術。なにより、このひたむきでまっすぐ射抜くような強い眼。
この眼を見返すと、視線が空中で結ばれてしまったような錯覚にとらわれる。
「もし、諾と言わなかったならば?」
レイカは静かに訊ねた。
王子は落ちついて答えた。
「その時はさらっていきます。否が応になるまで、誠心誠意お仕えいたします」
この眼はウソをついていない。
レイカは直感した。
ただの売国奴と軽蔑していた。しかし、この男にとっては、国よりもひとりの女のほうが大事だったのだ。誰もが恐れる王太后を敵に回し、渡りあえるほどに!
レイカは口を開いた。
「諾」
うなずいてみせた。
「諾だ。そなたの領地を流刑地に選ぼう」
隣国の王子の顔がみるみるうちに赤く染まり、目がうるんだ。
「わかっておるのか!」
王太后は玉座から身を乗りだし、叫んだ。
「それは賤しき血の娘ぞ! 和平の要になぞなる資格はない!」
王子はもはや王太后をふり向かなかった。ただ、愛しい姫だけを見つめ、面倒そうに答えた。
「先王陛下の御目が濁っていたとでも? やんごとなき国王ともあろう御方が、まことに賤しい者にお声をおかけなさるでしょうか。この気高さ、この麗しさを疑う者は、国王の尊厳を軽んずる者です」
王太后が声にならない悲鳴をあげた。
レイカが王子の熱い視線から目をそらし、玉座をかえりみると、王太后は玉座の上で正体をなくしていた。
従者があわただしく壇上を駆けずりまわった。
「失神されました」
侍医が告げると、安堵とも失望ともとれるため息が一同から漏れた。
「レ、レ、レ、レイカ、カ、ひ、ひ、姫」
先刻までの凛々しさがウソのように、もとの不安げな態度に戻って、隣国の王子が話しかけた。
「と、と、嫁いいいで、く、くださるとゆーのののは、ゆ、夢でははは……」
頬をつねってみる。
「い、痛くない! ゆ、ゆ、ゆ、夢だだ」
レイカは腕を伸ばし、その頬に触れた。王子はうっとりと目を閉じた。
「いっ、いでででで……!」
頬肉を思いきりひねりあげられて、王子は両目を見開いた。今度は別の意味で目がうるんでいる。
「夢とうつつの区別がついたか」
レイカは手を離した。
「は、はひ……」
頬を激しくさすりながら王子はうなずいた。
レイカは晴れやかに笑い、腰を落として、正式な宮廷風の礼をした。
「では、よろしく、看守どの」