〜 リュウイン篇 〜

 

【六 隣国の王子(三)】

 

 

 仮眠をとり、着替えを済ませ、顔を洗い、身だしなみを整え、昼が過ぎ、茶の時間が過ぎても、一向に和睦の議に入る気配はなかった。

「何か、和睦のための申し入れは聞かなかったか? ここだけの話というヤツを?」

 従者がソファで女とじゃれ合いながら訊ねた。どこの侍女か淑女か知れないが、従者は部屋を出るたびに新しい女を連れこんでいた。

「何も聞いてない」

「そうか。考えてみれば、おまえごときに交渉するわけがなかったな」

 従者が嘲笑すると、女も合わせてかん高く笑った。

 アプスはムッとして春の間を出た。

 ちょうど通りがかった侍女が本を数冊抱えていた。乱暴に腕を振り、本を突き崩した。

「女のクセに生意気だ」

 散らばった本を蹴飛ばし、アプスは場内を歩きまわった。立ち入れない場所が多く、衛兵に止められるたび、アプスの不機嫌さは増大した。あてどもなく歩いているうちに、いつの間にか馬場に迷いこんでいた。小柄なパロミノや、葦毛の大きな馬がつながれていた。

 馬に乗ろう。とつぜんアプスは思った。この不愉快な城から出れば、少しは気が紛れるかも知れない。かまうもんか、どうせ自分は飾りだ。和議など従者とパーヴでよろしくやってればいいさ。

 その時、葦毛の立派な馬が、背の高い黒髪の女を伴って現れた。

 あの方だ!

 アプスは夢中で駆け出した。

「姫! 姫!」

 萌黄の君の娘は明らかに驚き、馬をなだめた。

「近づくな! この馬は気性が荒い。噛まれるぞ」

 馬は威嚇の唸りをあげていた。アプスは二馬身ほど離れた辺りで立ち止まった。

「噛まれるなんて、ご冗談でしょう?」

「いっぺん噛まれてみるか?」

 馬も睨むことがあるのだ、とアプスは思った。鼻に皺を寄せ、歯を剥きだし、目つきは鋭く、アプスから視線を外さない。

「いや、あの、遠慮しておきます……」

「それは賢明だ」

 国王の妹は、厩の一角に行き、馬にブラシをかけ始めた。

「そんなこと、馬番にやらせればよいではありませんか。服が汚れます」

 だが、王の妹姫が着ていたのは、粗末な町人の服だった。上衣もズボンも丈夫な茶色のキャンバス地で、汚れてどうこう言うような服でもない。

「お手が汚れます。馬番を呼びましょう」

「うるさい男だな。蛮族には蛮族のやりようというものがあるのだ」

「蛮族などと! 姫、そのように卑下してはなりません! たとえ母君が異国のお生まれでも、母君は前の国王陛下に愛されたではありませんか。姫はその愛娘! 前の国王陛下も、姫をいかほどに愛されたでしょう!」

「知ったげなことを」

「私にはわかります! どうして姫を愛さずにいられましょうか! こんなに麗しく聡明でおやさしい姫を! 姫の母君は心底高貴な方だったのです。でなくて、どうして前の国王陛下に愛されましょう! 姫の気高い美しさは、すべて、ひとえに前の国王陛下と高貴な母君さまの深い愛の賜物です。姫を見ればわかります! いいえ、誰にもわからなくとも、私にだけはよくわかります!」

「うつけは好かぬ。失せろ」

 アプスは辺りを見回した。馬の他、何者も見あたらない。聞き間違いだろう。気にも留めず、アプスは続けた。

「姫、これからご一緒に城外へ参りませんか。供の者少々と、軽く馬で一回りいたしましょう。どこか景色の美しい場所へでかければ、姫の美しさもますますひきたちましょう」

「私は帰ってきたところだ。見てわからぬのか」

「え? あ、いや、それでは……」

 アプスは口ごもった。

「隣国の人々は、みなそのようにうつけなのか? 兄上も、和睦など受け入れず、さっさとうつけ者を一掃なさればよいのだ」

「姫! なんてひどいことを! まるで、私には生きてる価値がないみたいではありませんか!」

「価値があるとでも思っておるのか?」

 アプスは言葉を失った。目の前の麗人から、これほど冷たい言葉を浴びせられるとは思ってもみなかったのである。だが、隣国の姫は容赦しなかった。

「そなたの国では、死んでもよいと思うて、そなたを送りこんだのだろう? 体裁のために王子という肩書きをつけ、褒美に目がくらんだ貴族を供につけたのだろう? 我らはみな知っておる。とっとと帰って、そなたらの国王に言うがよい。和平を結びたいなら、王太子を使いによこせとな」

「そうだったのですか?」

 自分の知らないことまで、この姫はよく知っている。アプスは驚嘆した。

「姫はまことに聡明でいらっしゃる。なんでもお見通しなのですな」

「皮肉か? 誰でも知っておるぞ」

「私は何も知りませんでした。しかし、今では、和平を結びたい気持ちは誰よりも強くなりました。姫の国とは戦いたくありません。国王陛下に会わせてください。和睦の議を開きましょう」

「うつけに用はない。とっとと帰れ」

「いいえ、帰りません」

 姫は馬を厩に入れ、水と飼い葉を与えた。

「姫、どうか両国の和平のために国王陛下におとりなしを。もう二度と両国が争ってはいけません」

 姫はアプスに見向きもしなかった。

「姫。私は心から和平を望んでいるのです。どうかお口添えを」

 馬の世話をする間中、アプスは懇願し続けた。厩を出て館に入ってもまだアプスは懇願し続けた。途中で衛兵に止められると、大声で叫んだ。

「両国の和平のために、国王陛下におとりなしください! 姫!」

 衛兵に軽々と取り押さえられるアプスを見て、姫は薄く笑った。

「兄上の寝所にでも忍びこんだらどうだ。お得意の笛でもきかせてさしあげるのだな」

 衛兵に追い立てられ、アプスは力なくその場を退いた。

 春の間に戻ると、従者の姿はなかった。どこかの淑女とお愉しみ中なのだろう、アプスは安堵しながら呼び鈴を鳴らした。誰も現れない。再び、今度は激しく鳴らした。やはり誰も現れない。幾度めかに、ついにアプスは狂ったように鳴らし続け、耳の奥が痺れるほどになってやっと、従者の寝室から乱れた服の少年が出てきた。

「うるさいぞ! 小姓は今、オレさまの用にかかりきりなのだ!」

 リンネルのシャツをはだけたまま、少年の後ろから従者が出てきた。普段は整えられた長い巻き毛が乱れ、何をしていたかは想像に難くない。が、そんなことはどうでもいい。

「今すぐ、礼服を持って来い。国王陛下の御前でも失礼のない、きちんとした礼服だぞ。もし持って来なかったら、その白い背中に鞭を千回くれてやる。さあ、早く持って来い!」

「バカなことを言うな。なんの権限で……」

「黙れ! この使節の代表は誰だ? なんの爵位を持ってるか知らんが、それは王の息子より偉いのか? 文句があるなら、とっととリュウインに帰って父上に言いつけるがいい! だが、ここには父上はいないぞ!」

 ふと、暖炉の上に目をやると、鞭が目に入った。従者の鞭だ。何度か使っているのを目にしたことがある。手に取り、床を打ち鳴らす。

「さあ、行け! さっさと礼服をとってくるんだ!」

 少年は部屋を飛びだした。従者が足音荒くアプスに詰め寄った。

「勝手な真似を! まことの代表は私だぞ!」

 鞭が大きく鳴った。

「パーヴが迎えに来たのは私だ。王の血を継ぐ私だ。リュウインではいざ知らず、ここでは、私の一言でおまえなど追い返すことができるんだぞ」

「何を血迷ったか……」

「もう、おまえなど必要ない!」

 アプスは鞭を振った。従者の悲鳴が飛んだ。

 鞭の扱い方には馴れていた。故郷には大勢の使用人や女子どもがおり、彼らに常に正しい教育を授けていたからだ。

 少年が戻ってくるころには、従者は気を失って床に伏していた。少年は震えあがった。

「あの……もう一度、取りに行ってまいります」

「待て。二度も取りに行くことはないだろう」

 アプスは少年の襟首をつかみ、持ってきた礼服を広げさせた。青を基調とした礼服だった。

「なんだ、これは!」

 この服の何が悪いのかわからなかったが、怒鳴ってみせた。

「こんな物着られるか! 誰の差し金だ!」

「申しわけありません! すぐにリュウイン用のご衣装をご用意いたします!」

「待て。では、これはなんだ?」

「我が国の礼服でございます」

 どこがどう違うのかはわからないが、国によって違いがあるのだろうか?

 もう一度、試しに怒鳴ってみる。

「オレが訊いてるのはそんなことじゃない! とぼけるな!」

「も、申しわけありません! モーヴ殿下のお下がりでございます! お下がりをお召しになれば、リュウインの恥になるだろうと……。いえいえ、私が申したのではございません。モーヴ殿下の侍者たちが申したので……」

 モーヴ殿下? 誰だろう? とりあえず、これも怒ってみよう。

「モーヴ殿下だと! オレは王子だぞ! あの野郎と、どっちが偉いと思ってる!」

「そ、それは、あの、モーヴ殿下も王子殿下であらせられますので……」

「オレは第三王子だぞ! 野郎は第、第……、いくつだったかな」

「第一五王子でございます」

 あいつか! 自分を国境まで迎えに来、昨夜大勢の前で辱めた男だ。

 不意に名案が浮かんだ。

「よし、その計略にのってやろう! オレは器が大きな男だ、小さなことは気にしない! おまえも手伝え!」

 少年に手伝わせて青い礼服を着ると、暗褐色の髪を帽子に押しこんで栗色の巻き毛のつけ毛をつけた。

「国王陛下はどこだ」

「申しわけありません、存じません」

 少年は震えながら応えた。

「シラを切るつもりか?」

「本当に存じないのです」

「役立たずが!」

 アプスの右手が翻った。鞭がうなりをあげた。

「お許しを! お許しを!」

 ほどなく、横たわった少年の上をまたいで、アプスは春の間を後にした。この国の王子の礼服に身を包んで。

 帽子を目深にかぶり、アプスはややつま先立つように歩いた。気取ったように肩を振る。

 衛兵はアプスを見ると、すんなりと道を開けた。おまけに敬礼つきである。

 しめしめ。うまくいっているようだぞ。

 アプスはつけひげの下でほくそ笑みながら、高い声音を作った。

「兄上は、国王陛下はどこにおいでだ?」

 衛兵は首を傾げ、アプスを見つめた。

 怪しまれたか?

 背中を冷たいものが伝う。

 長い凝視の後、衛兵は姿勢を正した。

「ただ今、鏡の間にいらっしゃいます。お供をお連れください。ご用心のために」

 衛兵が呼び鈴を鳴らすと、見るからに屈強な体つきの男が奥からやってきた。

 衛兵は重々しくうなずき、男に鏡の間までの道順を教えた。

「間違えるなよ。今言った通りに行くんだ。最後まで責任持ってお送りするんだぞ」

 男はうなずき、先に立ってアプスを案内した。

 よしよし。みんな、オレが第一五王子モーヴ殿下だと思ってるな。

 計画が順調なことに、アプスは満足した。

 行く先々で、衛兵は道を開けた。かなり歩いたが、気持ちのいい行程だった。

 ようやく、鏡の間にたどり着く。

「お待ちしておりました」

 広間の大扉が開かれると、中は光の洪水だった。奥に長い広間の片側は窓で、もう片側は一面の鏡だった。天井もまた一面の鏡張りで、そこから吊り下がった巨大なシャンデリアの灯を無数に映していた。

 色とりどりの豪華な衣装をまとった人々が、グラスを片手に笑いさざめいている。あまりの騒がしさに、耳をふさぎたくなった。

 アプスは帽子を改めて目深にかぶり直し、念入りに顔を隠した。道案内の屈強な男を廊下に残し、気合いを入れて広間に進み出る。国王は一番奥にいるはずだ。迷わず前へ進めばいい。

 帽子で視界がさえぎられ、ただ足下だけを見て進む。何度もテーブルを迂回したが、人を避ける必要はなかった。さすがに、王子ともなれば、人は道を開けるものなのだ。これこそ、王子に対する扱いだ。心地よくパーヴ国王の前に進み出る。

 白髪混じりの栗色の巻き毛、白と栗色のまだらの口ひげ、八の字に両端の下がった眉に、眠たそうなまぶた、頑固そうな大きいしし鼻。額には深い皺が数多く刻まれ、年の頃は五〇とも六〇とも見てとれた。

 最初の謁見ではよく見なかったが、姫の部屋で見た顔は、たしかにこれだ。

 よし! 奇襲開始!

 アプスは帽子を脱いだ。

「ご機嫌うるわしゅう、国王陛下。この度は和睦の議を……」

 場内に哄笑が起きた。

「和睦の議を……!」

 怒鳴ったが、声はかき消された。

 目の前のパーヴ国王も腹を押さえ、大口を開けて大笑いしている。アプスは顔を上気させ、周囲を盗み見た。着飾った一同は、ある者は扇で口元を隠し、ある者は身をふたつに折って、それぞれに笑い転げていた。

「たいした余興だ。感謝するぞ、国賓どの」

 人々の陰からいまひとりの青衣の王子が現れ出た。本物のモーヴである。

「衛兵が、そなたの稚拙な変装を見抜き、わざわざ回り道させている間に、私の元へ報告したのだ。せっかくの茶番をふいにしては惜しいのでな、こうして皆で迎えてやったというわけだ。どうだ、私の下がりの着心地は」

 おさまりかけていた場内の笑いがぶり返した。

「謀ったな!」

 アプスは怒りに震えた。顔色は赤から青へと変わり、我を忘れてこぶしを振りあげる。

「許さん!」

 繰り出した右手は、しかし、相手の顔面まで届かなかった。

「許さなかったら、どうなのだ?」

 モーヴは嘲笑しながらこぶしを片手で受け止め、逆に腕をひねり返した。

 アプスは悲鳴をあげた。

「リュウイン王家は臆病者よ。誰ひとり戦場に出向かず、和睦の申し入れすら、肩書きだけの青二才を送ってよこすのだからな。そのクセ、要求だけは一人前だ。国境を戦前のままに戻し、復旧のために金を貸せだと? おまけに、東方の国々と交易したいから通行料をなくせ、武力を縮小しろ、和平の印に人質を寄こせと言いたい放題だ」

「わ、私はそんなこと一言も……」

「王子殿下が何ひとつご存じないことも、こちらではすべて承知しておる」

 モーヴに突き飛ばされ、アプスはぶざまに床に転がった。

「道々、王子として敬意を受け、いい気分だったか? 田舎育ちの臆病者よ。おまえは兵役を逃れて喜んだのだろうが、私は違う。進んで兵を率いたのだ。本物の王子とはそういうものよ」

 なぜ、兵役を逃れたことまで! アプスは床に這いつくばったままパーヴの王子を見上げた。まるで伝承に出てくる巨人のように見えた。巨大な槌を持って世界を破壊し尽くすのだ。その一打ちで数多《あまた》の街が滅び、国も誇りも、生きる気力さえもすべて奪い去るのだ。

「おやおや、モーヴ殿下がふたりもおいでか。これはにぎやかで鼓膜が破れそうだ」

 冷やかすような女の声がひときわ広間に通った。

 姫だ!

 アプスは跳ねるように飛び起きた。コマのように目にも止まらぬ素早さで辺りをぐるりと一望する。

 いらした!

 短い黒髪の姫は、鮮やかな緑色のドレスを身につけていた。肩から紗のマントを垂らしている他は飾りもなく、質素で物足りなくもあった。

 考える前に駆け寄り、アプスはひざまずいていた。

「ご機嫌うるわしゅう……」

「これはこれはモーヴ殿下。膝をつくとはお珍しい」

 姫がアプスに皮肉な笑みを投げかけた。

「悪ふざけがすぎるぞ」

 パーヴ国王が困ったように眉根を寄せた。

「姫をください! 私にぜひください!」

 思わずアプスは叫んでいた。

「パーヴ国王陛下! 姫が嫁げば、両国は親戚となり、和平の要となります! 姫のためなら、リュウイン王家を説得いたします、貴国に不利になるような条件は一切申しません。ですから、姫をください。人質になどいたしません。生涯命にかえてお守りします!」

 場は静まり返った。アプスは目を血走らせ、肩で息をした。顔は上気して真っ赤だった。

「姫をください! 諾と一言おっしゃってください! それで和睦はなります。貴国の思うままになります!」

「はて。姫とは、どの姫だ? 姫と一口に申されてもな。名を言ってもらわぬと」

 名! アプスは必死で考えた。姫の名! うるわしくも愛しい女性の名!

 思い出せないのも道理、はなから聞いていないのだ。

「姫! 御名を教えてください!」

 アプスは緑のドレスにすがろうとしたが、身をかわされた。

「それよりモーヴ殿下、何用で呼びつけられた?」

「とぼけるな!」

 モーヴは怒鳴った。

「今朝、マーレーン塔を襲い、囚人をすべて解き放したではないか! 捕獲するのに、われわれがどれだけ奔走したと思う!」

「それはご苦労でしたな。しかし、モーヴ殿下の精鋭をもってすれば、たちまち一網打尽にできましたでしょう。ひとり残らず。違いますかな、モーヴ殿下」

「だっ、黙れ黙れ! 我が兵は戦うのが本分。罪人を捕らえるのが仕事ではないわ!」

「ほう。では、幾人かは取り逃がしたと?」

「黙れ黙れ! そもそもおまえが!」

「やめないか、双方とも」

 パーヴ国王が手を振った。

「兄上! 今日こそは、こやつめを処断してください! おかばいになるにもほどがある!」

「まことに、その通り。別にかばいだてなさる必要などありませぬ。兄上。どうかご処断ください」

 足を踏みならし腕を振り上げる王子とは対照的に、短髪の姫は身じろぎもせず不敵に笑った。

「いい加減にせぬか。双方とも、後で話がある。自室にさがって待つように」

「兄上、後と言わず、今すぐこの場で私の首を斬ったらいかがです?」

「レイカ!」

 その時、アプスの両眼が見開いた。

「レイカ姫とおっしゃるのですね! ようやく御名を知った! 国王陛下! レイカ姫を私にください!」

「名前など言ったところで意味はない」

 萌黄の君の娘が口の端をあげた。

「この国に王女はひとりしかおらぬのだからな」

 えっ。

 アプスは目を丸くしてパーヴ国王を見た。

 しかし、さきほどは確かに『どの姫』と……。

「大事な我が末妹よ。うつけにはやらぬぞ」

 パーヴ国王は冷ややかに言った。

 

 

   

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