〜 リュウイン篇 〜

 

【六 隣国の王子(二)】

 

 

 目が醒めると、やわらかなベッドに横たわっていた。部屋の中は見慣れない豪華な家具ばかりで、室内は明るく穏やかな萌黄色で満たされていた。

 頭の後ろが痛い。

 アプスはおそるおそる痛む箇所に触れた。大きなコブができている。

 腹がすいた。

 ベッドから下りて、ドアを開ける。

「もう起きたのか、王子殿下」

 従者がテーブルいっぱいに置かれたご馳走を口いっぱいにほおばりながら言った。

「まったく、あんなところで卒倒するとは、我がリュウインの恥さらしだ」

「卒倒? 私は失神したのか……」

 アプスは思いだそうとしたが、浮かんでくるのは、あの美しい姫の姿ばかりだった。

「失神どころか、死んじまったのよ」

「えっ! 死んだ?」

「ぶっ倒れて、頭を打った勢いで息が止まったんだな。あのお美しい蛮族の姫とやらが、すぐに人工呼吸をしてくれなかったら、王子殿下は今ごろこの世にいなかったろうよ」

「姫は、私を助けてくださったのか」

 ため息をついた。背中が痛むような気がしたが、これは死にかけた後遺症だろうか。

「殿下、人工呼吸って、どうやるか、知ってるよな?」

「いや」

「患者の口を吸うんだよ。こうやってな」

 従者はリンゴに威勢よく唇を押しあてた。

 若き王子は真っ赤になった。従者は笑った。

「せいぜい礼を言っときな、あの蛮族の姫とやらにな!」

 アプスは部屋を飛びだした。

 姫は私を憎からず思ってらっしゃる!

 胸が躍るような心地だった。

 そうでなくて、どうしてご自分のうるわしい唇をくださるだろう? 一刻も早く、思いにお応えしなくては!

 城の廊下のそこかしこには衛兵が立っており、他の区画への立ち入りを禁じた。アプスは中庭に忍びこんだ。右も左もわからなかったが、巡回する衛兵を植え込みでやりすごし、ひとつひとつ窓の下で耳をそばだてた。植え込みの木は枝葉が密でよく身を隠したが、背が低く、しばしば地面に這いつくばらなければならなかった。泥が服一面にこびりつき、たっぷりと気持ち悪い思いをした。

 窓から窓へと渡り歩き、空がうっすらと白み始めたころ、地道な努力がようやく実を結んだ。ひとつの窓にたどりついたのである。

「お姫《ひい》さま、湯冷めなさいますよ。早くお寝みください」

「せかすな。マム、咽が乾いた。水を」

 あの方の声だ!

 アプスは中をうかがおうと窓に手をかけた。何かが手にあたった。つかんで星明かりにすかしてみると、小さな笛のようだった。

 あの方は笛もたしなむのか!

 緑の草原で風に吹かれ、馬上で笛を鳴らす。なんと美しい光景ではないか!

 震える手で笛を口元に当てた。

 恋の唄を奏でるのだ!

 田舎にいたころ、村娘や幼い婚約者によく笛を吹いて聴かせたものだ。女たちはみなうっとりと聞き惚れ、最後には拍手の嵐とキスの雨が待ちかまえていたものだ。

 私だって、なかなかの腕だというところを見せてやろう!

 窓辺の下に背をもたせて座りこみ、セレナーデを奏で始めた。

 が、長くは続かなかった。

 まだ本調子も出ないうちに、大きな水音にかき消されたのである。

「どこの無礼者です! うちのお姫さまに、そんなヘタクソな笛を聴かせるなんて!」

 ずぶぬれになったアプスが見上げると、窓から三〇代半ばの恰幅のいい女が、水差しをひっくり返していた。

「ヘタクソだと! 名手に向かって!」

 アプスは立ち上がって怒鳴り返したが、女に水差しで頭を殴られた。

「怪しいヤツ! 引っ捕らえてくれる! サミー、リリー、曲者が出たよ!」

 窓から布が降ってきた。

「痛い! 痛い!」

 布をかぶせられたまま、頭といわず、肩といわず、固い物で殴られる。

「た、助けてくれっ!」

「その辺でやめておけ」

 笑い声が聞こえた。

「でも、お姫さま!」

「また死なれては困る」

 攻撃がやんだのを幸いと、アプスは布を払い、窓辺に顔を出した。部屋の奥に、濃緑の薄いローブをまとった佳人が見えた。しどけない寝間着姿に目が眩み、動悸が早まる。

「姫! 姫! 私はお礼に参ったのです。姫は命の恩人です。私はなんと申しあげてよいのやら!」

「礼だと?」

 姫は鼻先で笑った。

「このような時刻に、このような場所へ来てか? よほどの礼儀知らずと思うが」

 アプスは返答に詰まった。

「その笛には見覚えがあるな。そなたのものか?」

 アプスは赤くなった。

「いえ、ほんの出来心で……。窓辺にあったもので、その……姫のぬくもりを……」

 姫の唇のぬくもりを……。

 姫は笛をじっと睨んだ。

「やはり。先ほど、兄上が忘れていらっしゃったのだ。返してもらおう。他人が口にした笛を、二度とお使いになるかどうかは知らぬが」

 兄上! パーヴ国王の笛! げっ!

 吐き気がした。水! 浄めの水! うう、なんで男なんかと間接キスを……。

 キス!

 そうだ、私は姫君と直接キスをしたのだ。何を恐れることがあろうか!

「先ほどは醜態をお見せしました」

「ああ、そなたの笛はまことにヘタだな」

「そちらではありません! 広間で、一度死にかけた時のこと。私を救ってくださったとか」

「ああ、それで文句を言いに来たのか。背中にアザでもできたか?」

「は? アザ? 蘇生の話をしているのですぞ。姫は私に尊い犠牲を払ってくださったではありませんか」

 姫は眉をひそめた。

「犠牲? 背中を踏んだだけだが?」

「いや、ですから、その、呼吸を……」

「兄上の側近たちに、呼吸に合わせて足を持ちあげるよう指示はしたが。あれは傑作だったな。みな、慌てふためいておったぞ」

「お戯れを! 私はマジメなのですぞ!」

 扉が大きく鳴った。

「開けよ! 早く、ここを開けよ!」

 偉そうな男の声が聞こえた。

 アプスの顔から血の気が失せる。

「誰です、あの男は」

「関係なかろう。帰れ」

 姫は冷たく言い捨てると、扉に向かった。

 許さん!

 頭の中が真っ白になり、アプスは窓に手をかけて、優雅に室内に乱入した……つもりだった。しかし、気がつくと、床に不格好に四つん這いになり、上から女たちに取り押さえられていたのだった。

「何ヤツ! この無礼者はなんだ!」

 扉から入ってきた男は、室内をひとめ見るなり、アプスに詰め寄った。

「王女の居室に入りこみ、命あって出られると思うな!」

 アプスも四つん這いのまま怒鳴り返した。

「おっ、おまえこそ! 姫のなんだか知らないが、指一本触れてみろ! 生かして返さないぞ!」

 姫は苦笑した。

「兄上。一度蘇生させたものを二度殺すこともありますまい。落ちつかれよ」

「これが落ちついていられるか! 誰だ、この男は! そなたから納得のある説明がなければ、今この場で八つ裂きにしてくれる!」

「兄上。こちらは国賓ですぞ。隣国の王子を八つ裂きにしては、また争いになりましょうや」

「なにっ!」

 男はアプスを眺めまわした。

「あの生意気な小僧か。あのまま息絶えておればよかったものを!」

 相手の男がパーヴ国王だということに、アプスもようやく気づいた。姫の兄となれば、話は別である。

「お、お待ちください! 私は命を救っていただいた礼を申しあげに参っただけで……」

「このような時刻にこのような場所へか! 申し開きが立つとでも思っておるのか!」

 なぜ、これほど怒るのだろう?

 アプスには理解できなかった。

 どこの女だって、年頃になれば男のひとりやふたり、部屋にこっそり手引きするものではないか? 現に、自分が情けをかけてやった女たちの父や夫たちは、見て見ぬふりをしながら、忍びこみやすいよう取りはからってさえくれたではないか。

 姫はため息をつくと、アプスに近づき、いきなり踏みつけた。足と床に腹がはさまれ、肺から空気が絞りだされる。抵抗する間もなく、姫のつま先がアプスの顎を蹴りあげた。

「これで、気道を確保。サミー、リリー、足を持ちあげておやり」

 ふたりの女が駆けつけ、アプスの足を持ち上げ、尻につけた。動きに合わせて、姫が背を強く踏みつける。否が応でも、肺は呼吸を強いられる。

「私はこのようにしたのだがな。鈍い頭でも、ようやくおわかりいただけたか?」

「こ、これが人工……」

「さよう。口づけを与えたのでなく、残念だったな」

 姫はローブの裾を翻し、奥の椅子に戻った。

「無礼は問わぬから、自室へ戻れ」

「いや、ならぬ!」

 怒りの収まらぬ国王を、姫は押しとどめた。

「客間へ戻れ。さあ、早く」

 アプスはがっくりと肩を落とした。姫は私に唇を許したのではなかったのだ。あの従者め! からかったな。戻ったらきっと……。

 戻ったら?

 背すじが凍った。

「帰り道がわかりません」

「来た道ではないか」

「姫を探すのに夢中で……。その……。教えていただけないでしょうか」

「バカにするにもほどがある!」

 パーヴ国王が怒鳴った。顔は真っ赤に上気し、目は大きく剥いていた。

「表から、のこのこ帰れると思うか! 姫にどんな噂が立てられると思っておる! ましてや、そなたは臣下どもの前で姫に恥をかかせたのだぞ!」

「恥ですと?」

「とぼけるつもりか! 慕っているなどと申したではないか! この年になっても独り身でいることが、それほどおかしいか!」

「本気です! 私は本気で姫君をお慕い……」

 姫は不興げに眉をひそめた。

「マム、サミー、このうつけ者を黙らせろ」

「はい、お姫さま」

 ふたりの女がアプスに飛びかかってきた。驚くほどの腕力で、あっという間に後ろ手に縛られ、さるぐつわをはめられる。

「サミー、荷をワゴンに載せて、客室まで運ぶように」

「なるほど。荷を装って外に出そうというのか。そなたは相変わらず知恵が回る」

「なんの、浅知恵です。その後は煮て食おうと焼いて食おうと、ご随意に」

「そうだな、身のほどを知らせてやろう。名ばかりの王子に」

 パーヴ国王が指の関節を鳴らすのを聞き、アプスは震えあがった。

 姫が皮肉な笑みを浮かべた。

「名ばかりの身分という点では私も同じ。母は賤しい身分の女ですからな」

「そなたは違う!」

 パーヴ国王は声を荒あげた。

「萌黄どのも、決して賤しい方などではない。おかわいそうな方なのだ」

「そうお思いなら、王太后さまにはっきりおっしゃったらいかがです? 陰でつぶやくだけなら、なんとでも」

 サミーと呼ばれる背の高い女がワゴンを運んできた。アプスはそこへ移され、上から布をかぶせられた。

「命が惜しくば、身動きするな」

 パーヴ国王に脅され、アプスは震えあがった。

 ワゴンが動きだし、客室までは長い道のりだった。何度か衛兵に呼び止められたが、サミーは国王陛下の使いとか何やら理由をつけて難なく通りすぎた。

「以後、お気をつけあそばせ」

 ようやく長い旅路に終わりを告げ、アプスは客室の床に置き去りにされた。春の間に従者の姿はなく、長い間、後ろ手にさるぐつわで転がることになった。陽が高く昇り、従者がどこかの女とともに起き出したころ、ようやく戒めを解かれた。

「強盗にでも会ったか?」

 従者の嘲笑を浴びたが、体中が痛み、それどころではなかった。

 

 

   

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