見渡す限りの野には、ところどころ黒い土があらわになり、人に踏み荒らされた無惨な名残を留めていた。地形の起伏もまた、人の営みの跡である。幾重にもめぐらされた深い堀は塹壕、数多《あまた》の大きな盛り土は縁もない地で果てた兵たちの冢塋《ちょうえい》だった。
初夏の陽ざしの中、丘は丈の短い草で覆われていた。薄暗い塹壕の陰でさえ、小さな芽が星の数ほど吹きだしていた。
すがすがしい光景とはうらはらに、凄まじい腐臭がたちこめていた。忌まわしい記憶と悪臭のために、この地を好んで訪れる者はないだろう。
だが、この場所にこれほど不似合いはないというきらびやかな馬車の一団が、長く連なり、走っていた。
「じきに、戦争の傷跡も癒えます。来年の今頃には、一面の畑となりましょう」
一段と贅沢な装飾と施した馬車の中で、リンネルのシャツに青い上衣を羽織った三〇歳前後の男が口元に白いレースのハンカチをあてながら言った。栗色の長い巻き毛が、馬車の動きに合わせて揺れている。
暗褐色の髪の若い男のほうは、真っ青な顔色で、必死にぶ厚いタオルを口と鼻とに押しつけていた。今にも白眼をむき出して卒倒せんばかりだった。
どおりで兄たちが来たがらなかったわけだ。
こみあげてくる吐き気と闘いながら、若い男は思った。
この臭いには耐えられない。もし、従軍していたら、この臭いの中で一進一退をくり返していたのだろうか。要領の悪い自分のことだ、腐乱死体のひとつになっていたかも知れない。
身震いした。
父親の血が、自分を救ったのだ。半身に流れる貴き血が。感謝しなければ。国王陛下に。
「アプス殿下、もうじき戦場跡を抜けます。もう少しの辛抱です。それから王都までの三日間は快適な旅をお約束しますよ」
青い上衣の男に力づけられて、若い男は弱々しくうなずいた。体調のせいばかりでなく、御年一九の若いアプス殿下は、何事につけ、このようだった。よく言えば物腰やわらかく、悪く言えば弱気で頼りない、どちらにしろ殿下と呼ばれるには威厳が欠けているのだった。すべてを本人のせいにするのは、少々酷だろう。大仰な名をいただいたのは、ここ数ルーニーのことなのだから。
戦場跡を抜けたのは、半ニクルほど後のことだったが、幾度となく襲ってくるる吐き気に惨敗したアプス殿下は体力も気力も使い果たしていた。
いっそのこと、気を失ってしまえばよかったのに。
極限状態にあっては、体裁などどうでもよかった。
もともと、しがない田舎育ちよ。今さら捨てるプライドなんかあるものか。
馬車が大きく揺れた。精も根も尽き果てていた田舎育ちは座席から床へと転がり落ちた。馬車が急停車する。
青い上衣の男は、年若い客にはかまわず、馬車の窓を開けて身を乗りだした。
「何事か! それでも王室づきの御者たるか!」
窓から臭気を帯びた風が入りこみ、アプスは身もだえした。通りすぎたとはいえ、こちらは風下だったのだ。
「ひ、羊の群が……」
恐縮した声が答える。
「なんてことだ! 追っ払え! 追っ払って、無礼な羊飼いを、さっさとこの場に引きずり出せ!」
青い上衣の男は顔を真っ赤に上気させて怒鳴った。
「しかし……」
床でのたうちまわっていたアプスは、こらえきれずに馬車のドアを開けた。土の上に吐こうとして、凍りつく。
羊だ。辺り一面、羊で覆い尽くされている。押しあいへしあいしている羊の一頭と目が合った。その冷たい眼にひるみ、出かかったものを、若き殿下は飲みこんでしまった。
「ええい! いつまでもこのような醜態をさらすでない! こうやるのだ!」
青い上衣の男は馬車から飛びだした。上衣を脱ぎ、大きく振って羊の背を叩く。
「なにしてる! おまえたちもやれ!」
命じられて、御者や童女の従者たちがしぶしぶ羊を追い始める。
「おのれ、羊飼いめ。見つけたらたっぷり水に浸けて八つ裂きにしてくれる!」
青い上衣を着て……いや、今や振っている男が憎々しげに叫ぶと、高らかな笑い声が響いた。
「それは楽しみだな。さぞかし、よい見ものだろうよ」
青い上衣の男の動きが止まった。すばやく辺りを見回す。
「また、おまえか!」
遠方から、ゆっくりと葦毛の馬が羊の群をかきわけて近づいてくる。その騎手を見て、アプスの吐き気は止まった。
細面の白い顔にアーモンド形のくっきりとした目がふたつ、バランスよく並んでいる。夜の闇にも似た黒い天鵞絨のような眼は、見る者を魅了して放さない。アプスはその両眼にとらえられ、魂が吸いこまれるような心地さえした。
凍りついたようなアプスのそばで、青い上衣の男が怒鳴る。
「国賓に無礼を働いて、タダで済むと思うか! この方は隣国の王子殿下だぞ、今、ここで謝罪しろ!」
「それはすまなかったな、アプスどの」
馬上の女の声が、からかうような響きを帯びて降ってきた。地べたに四つん這いになっていたアプスはあわてて身を起こした。
「おのれ! 名前を知っていたのなら、初めから謀ったのか!」
「賤しい生まれなのでな、蛮人流の歓迎を披露したまでだ。さて、客人、おわびに一頭差しあげよう。どれがよいか?」
「わ、私は……」
立ち上がりかけてよろめき、羊の一頭に触れた。埃にまみれた手が、あたたかい毛の中に埋まった。羊の冷たい眼と目が合い、恐怖に飛び退く。よろめいて、不格好に尻もちをついた。羊が空いたスペースに押しかけ、瞬く間にアプスは羊の海に没した。
こ、こんなところで死ぬのは厭だ!
圧死を予感して、アプスは固く目をつぶった。こんなことなら、王子なんかじゃなきゃよかった! 田舎でのんびり領民たちと田畑でも耕していたほうが……。
やにわに、辺りが明るくなり、そうっと目を開ける。眼前に葦毛の馬が立っていた。
踏みつぶされるっ!
両手で頭を抱えると、女の声が降ってきた。
「リュウインの王子というのは、ずいぶんと度胸に欠けるのだな!」
嘲笑を浴びせて、鞍上の女は馬の向きを変えた。羊の群がその後に続いていく。両わきをすり抜ける羊たちに、アプスはただ震えていた。
「とんだご無礼を」
羊たちが去ると、青い上衣の男が馬車のドアを開けた。アプスは這うように中に入った。
「あの無礼者には、きっちり灸をすえてやります」
灸が何ものかも知らないままに、アプスはうなずいた。
「あの方はどなたです?」
青い上衣の男は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「なに、蛮族の娘ですよ」
三日を経て、無事王都レンフィディックに到着した。
「国王陛下に到着のご報告をして参ります。お待ちを」
青い上衣の男は馬車を降り、アプスは従者ひとりと取り残された。この従者はリュウインの王室が遣わした者で、使節としての実質の権限は彼にあった。表向きはアプスに頭を下げていたが、唇の端はいつも嘲笑するように少し上がっていた。
第一五王子と言ったっけ。青い上衣の男の身分を思い返す。
王妃か寵姫の子以外は王族と認められないと言っていたから、自分のように、たった一夜だけ戯れに情けをかけた女が生んだ子など、パーヴでは王子として認められないのだろう。しかたない。王子ばかりのパーヴと違って、父王オールスには息子が三人しかいなかったのだから。王妃との子レープスとグルース、それから地方貴族の女に生ませた自分だ。長兄のレープスが次期国王だろう。次兄のグルースはその補佐に当たり、重職に就くだろう。しかし、自分は? 兄の嫌がる用事を押しつけられ、何処へ行っても、母の血の賤しさゆえに蔑まれる。
妾腹の第三王子なんて、うんざりだ。しかし、遅いな。
日は山の端にかかっていた。昼前に到着したはずなのに、隣国からの使節を馬車に残したまま、誰も迎えに来なかった。
「侮っているのか!」
従者が苛立って足踏みをした。
「和平交渉をしようと言いだしたのは、そちらではないか!」
そうだったのか、とアプスはのんびり思った。今までたっぷりと、青い上衣の第一五王子にも、リュウインからの従者にも軽視され続けていたため、今さら非礼のひとつやふたつ加わっても、もはやどうでもよいのだった。
だけど、腹が減ったなあ。惨めに餓死するのは厭だなぁ。
ぼんやり馬車の窓から外を眺めていると、還俗したばかりの坊さんのようなみっともない短髪が視界を横切った。
「ああっ!」
考えるより先に、窓から身を乗りだした。黒い短髪が馬を止めてふり返った。
アーモンド型の魔性の目。
「おや、今ごろご到着か? 平和の使者どの」
からかうように女が笑う。
この女は、こんな髪をしてただろうか? こんな粗末な衣服だったっけ? こんなにも立派な馬にまたがっていただろうか?
女の眼以外、何も見ていなかったことに、アプスは愕然とした。同時に、そんなことはどうでもいいように思われた。この生気あふれる美しい眼に見つめられてさえいられれば。
「馬丁! 馬を厩に入れ、水と飼い葉をやらぬか! 車につなぎっ放しでは、今夜にも死んでしまうぞ! そこの侍女! 客人二名を春の間に通せ。飢えて動けぬようになる前にな!」
女は眼についた使用人たちに命じると、馬首をひるがえし、悠然と城の奥に消えた。
アプスは呆けたように眺め続けた。女がもう一度戻ってくるような気がしたのだ。いや、もう一度戻ってきて欲しかった。
従者は不平不満を馬丁や侍女にぶつけながら馬車を降りた。
「まったく、なんであんな女に指図されなきゃならんのだ」
「あの方をご存じなのですか?」
アプスは年上で風格のある従者に訊ねた。確か伯爵だか公爵だかで、豊かさを象徴するような立派な腹を持ち、それがやけに似合っている。名前は出発前に、御膳立てしてくれた世話人から聞いたのだが、忘れてしまった。
「知らんわい」
名も知らぬ従者は横柄に答えた。
「まあ、城の奥に入ったところを見ると、王族の奥方のひとりだろう。もしかすると、あれが例の寵姫かも知れん。前《さき》の国王は晩年、年若い異人の女に夢中だったというからな」
一ルーニー前に亡くなったというパーヴの前王ナージャの寵姫! 寵姫だって! 頭に岩をくらったような心地だった。
「さんざん甘やかされたのだろう、それで好き勝手なことをしているのかも知れないな。蛮族はまこと始末が悪い」
従者はなめるようにアプスを眺め、厭な笑みを浮かべた。
「しかし、もう喪は明けた。その辺の女とは違い、国王の寵姫ともなれば、一生国王の霊を慰めることになるだろう。まあ、おまえにもわかるように言えば、尼になるのだな」
「尼!」
「ふむ、考えてみれば、やはり前国王の妾に違いない。その証拠に剃髪しておった」
「しかし、少し伸びておりました。還俗されたのでは?」
「手入れが杜撰なのだろう。蛮族のやることだからな。しかし、そうか、あんな蛮族が王室になあ。とんだことだ。帰ったら国王陛下にご報告しなくては!」
従者は愉快そうに笑った。
「おや、顔色がすぐれませんな、王子殿下! 蛮族の毒気にあてられましたか!」
アプスは高笑いを背に、客室へと歩きだした。穴があったら入りたい気分だった。
客室は、春の間と呼ばれるリビングルームに、寝室が四室連なっていた。従者と別室で寝られるのが、なによりありがたかった。部屋は春を思わせる萌黄色で統一され、休む者の心をいやしてくれた。
知らぬ間に眠ってしまったらしい。横柄な怒鳴り声で目が醒めた。
やわらかなベッドは心地よく、身を起こす気分にはなれない。
「湯浴みの仕度もできないのか! 幾日もかけてはるばる隣国よりたどり着いた国賓に、この仕打ちか!」
埃にまみれた体だが、今さら一日ぐらい風呂に入らなくたって、死にゃあしない。
アプスは目を閉じた。もう一眠りしよう。できれば夢を見よう。あの異国の美女の。夢の中なら、誰のものでもあるまい。
「食事はどうした! 食事は! 昼から何も食べてないのだぞ! 国賓を飢え死にさせる気か!」
おおげさな。そんなに空腹なら、自分の腹でも食えばいいじゃないか。
「汚い手をお離しください」
毅然とした女の声が響き渡った。あの異人の女性のものではない。年季の入ったたくましい声である。
大きな物音がした。
「女性を突き飛ばすのが、隣国のなさりようですか? 恥を知りなさい」
手のひらが鳴るような音がした。平手打ちでも食らわせたのだろう。
「女のクセに生意気な!」
「やめなさい! 隣国の使節が乱暴を働いたとなれば、国王陛下も黙ってはいらっしゃいませんよ」
「たかが召使いひとりのことで騒ぐ主人が、どこにいる!」
アプスも同感である。召使いは召使いらしく、とっとと謝って服従すればよいのだ。
しかし、この召使いは従順ではなかったらしい。
「性根を叩き直してやる!」
平手打ちが数回続いた後、もっと重い音がしばらく続いた。この音はよく知っている。人を殴り、蹴る物音だ。子どもの頃、飽きるほど聞いた。寝ていると、隣室で祖父が、祖母や母を、あるいは使用人たちを正しく教育していたのだ。
女の悲鳴があがり、やがて泣き声に変わった。
「助けて……やめて……」
「お許しくださいだろ!」
「お許しください! お許しください!」
「よし、許してやろう。これからは生意気な態度をとるんじゃないぞ!」
ようやく静かになり、アプスは再び寝入ったが、長くはもたなかった。
「起きろ! 王子殿下!」
従者にわき腹をしたたかに蹴られて、ベッドから転がり落ちたのである。
「な、な、な……」
「食事だ! 服はこのままで、今すぐ食事に行くんだ!」
「へ……」
「国王が、今すぐ苦労をねぎらいたいんだそうだ。どれだけ苦労したか、その目で見たいから、旅支度のまま来いとさ。晩餐の用意もしてあるそうだ。すぐ行くぞ!」
従者であるはずのナントカ伯だか公だかは、先頭にたって部屋を飛びだしていった。
アプスはのろのろと後に続く。隣室で、すっかり顔が腫れた女に会った。鼻血でも出たのか、服が流血で汚れていた。
立派な服なのにな。もったいない。
品よく落ちついた黄土色のドレスは、年輩の彼女によく似合っていた。
「では、まいりましょうか」
年輩の女が案内してくれるらしい。
従者の待つ廊下へ出る前に、アプスは急いで訊ねた。
「前王の未亡人に、異人の、年若い美人がいたとか」
「はい。その通りでございます」
「名は?」
「萌黄の君ですわ」
萌黄の君か。
春の間を見回した。萌黄色に統一された室内がまぶしい。
あの方にふさわしい、美しく生き生きした名だ。
年輩の女はそそくさと廊下に出た。アプスはあわてて後を追った。
城の造りはよくわからない。数ルーニーほど前、自分が殿下と呼ばれる生まれだと知ったものの、王城に入ったのは一度きり。それも、客間と閲見の間を往復しただけだ。
『休戦協定が結ばれる運びと相成りました。つきましては、殿下には名誉ある平和使節の代表を務めていただきたい』
王族用の赤い天鵞絨張りの椅子に次兄グルースがすわっていた。初めて会った兄は四〇前後の陰気な男で、暗褐色の長い巻き毛が重たげだった。まぶたもまた、たいそう重たげで、話の最中によく下がり、しばしばあくびを連発した。
その御前に、アプスを生まれ育った田舎から呼びだした世話人のナントカ伯だか公だかが立ち、アプスに用件を伝えるのだった。
次兄が発したのは、たった一言だった。
『弟とは便利なものだわい』
面倒事はすべて押しつけられる。本意はそんなところだろう。
前の晩に一泊したと思えば、翌日には命令を受け、そのまま使節一行と出発した。
世話人は『選りすぐりの人々』と紹介したが、アプスには退屈しのぎに来た上級貴族か、さっそく隣国とのコネ作りに躍起になっている悪徳政治家にしか見えなかった。彼らは早馬で二日の距離にたっぷり五日、すなわち一シクルをかけ、茶や狩りを楽しんだ。
国境付近で、パーヴの出迎えが待ち受けていた。アプスたちを城まで連れてきた、あの豪華な一団である。
『ここから先は、代表おひとりで願おう』
青い上衣の第一五王子はきっぱりと言ったものだ。
『我がパーヴ国王陛下は、和睦が迅速に行われることを望んでおられる。残りの方をおもてなしする余裕はない。もし、異論がおありなら、ただちに帰っていただこう』
リュウインの使節たちは抵抗した。意地でも、このままついていくと言い張った。
『よろしい。では、我々も国王陛下に報告いたそう。使節は国の平和よりも、ご自分の体裁や権利がお大事だとな。いや、その前に、みなさまの首を頂戴することにしよう。和平はならなかったのだ。当然、みなさまはただ今この場から敵国人、国王陛下への最初の手土産にしてしんぜよう』
出迎えは一転、虐殺に変わるかと思われた。青い上衣の男がひきつれてきたのはパーヴの優雅な歓迎団などではなく、軍の精鋭たちだったからだ。
使節たちは我先にと逃げまどった。まだ知恵のまわる数人は、アプスを前に押し立てて命乞いをした。
『これが責任者です! この首で! この首でご勘弁を!』
はがい締めにされ、最初こそ抵抗したが、前に突きだされるころには、アプスは恐怖で身動きできなくなっていた。やせっぽちの自分が、恰幅のいい貴族たちにかなうはずはないのだ。敵国の、この大柄な大将には、ましてやかなうはずがない。
青い上衣の男がアプスの前に立った。
『親書を出せ』
親書? アプスは意味がわからないまま、恐怖に震えていた。
『そなたが代表ならば、親書を持っているはずだ。今すぐ差し出せ』
持っていない、と言いたかったが、恐怖で口がきけなかった。青い上衣の男は不機嫌に眉根を寄せ、周囲の人々に向かって呼びかけた。
『親書がないなら、用はない、皆殺しだ。だが、今すぐ親書を差しだすなら、命だけは助けてやろう』
次の瞬間、アプスは貴族たちに身ぐるみ剥がされた。
『こ、これでございます』
瀕死のアプスを横目に、従者が震える手で自分の懐から封書を取りだし、差しだした。
青い上衣の男は封書を開いた。
『そっ、それは直々にパーヴの国王陛下にご覧いただくものですぞ!』
抗議する従者を、青い上衣の男は威圧的に睨み、中を確認した。
『これを国王陛下のお手元に』
部下に封書を渡す。
『では、使節どの、参ろうか。丁重に客人を運べ』
パーヴの軍人たちがアプスの両腕をつかみ、迎えにきた豪華な馬車に向かう。
アプスの下半身はまるで役立たずで、裸足の足は弱々しく宙に浮いていたが、首だけはまだ主人のいうことをきいた。ふり向いて、従者の方向を見続けたのである。
食い入るような視線を感じてか、従者はとっとと人ごみに紛れようとした。
『待て!』
青い上衣の男がふたりをかわるがわる眺めて言った。
『その男もお連れしろ。封書を持っていたのだ、ただ者ではあるまい』
捕虜として連行されるものと覚悟していたにも関わらず、予想に反して、その後の扱いはいかにも国の賓客らしかった。
そして、戦場跡の凄まじい臭気を経て、今にいたる。
隣国の国王に拝謁したら、何と言おう? 自国の国王、自分の父親にも会ったことがないのに? いや、交渉は従者がするからいい。自分はただ王家の代表として、つつがなく挨拶すればいいだけだ。ええと、『ごきげんうるわしゅう……』だったかな?
行きがけに即席で習った王家流の挨拶口上を復習してみる。
うまく言えるかな……。
傍らの埃だらけの従者も緊張しているようだった。しきりに濃茶の口ひげをひねっている。
「こちらでございます」
侍女がひときわ大きな扉の前で立ち止まった。
「大きな部屋だな。我々の使命にふさわしい」
従者が重々しくうなずいた。
扉の両わきを守る召使いが――あるいは近衛兵かも知れない――扉を開けた。
色の洪水。なんと艶やかな。
アプスは彩やかな光景に呆然となった。
中は巨大な広間になっており、美しく着飾った紳士淑女であふれかえっていたのだ。
あらゆる目が、アプスたちを迎える。
「道を開けてさしあげましょう」
扉の近くに、美しい衣装を身にまとった第一五王子が立っていた。
「使節どのは、国王陛下にお目通りする際の作法をご存じないらしい。ムリからぬことだ。ご自身の王、ご自身のご父君にもお会いしたことがないのだから」
アプスは驚愕の目を向けた。
なぜ、それを知っているのだ? 固く口止めされていたのに。
ふと、視線を感じてふり向くと、従者が自分を睨みつけていた。
違う。話したのは自分じゃない! 首を振ったが、ますます従者は睨みつけた。
「どうぞ、前へ。あちらの王が会わなくとも、我が国王陛下はお会いになられます。昨日今日王子になった殿下でも。さあ、どうぞ」
第一五王子がさっそうと歩きだすと、人々は真ん中からふたつに割れた。
豪華な衣装をまとった人々の好奇と軽蔑の視線がつき刺さる。頬はほてって熱を持ち、目を上げられなかった。
やがて、玉座の前に出てひざまづいたものの、床を眺めたまま何も思いだせなかった。礼儀も口上もすべて吹き飛び、ただこの場から逃げ出したい思いでいっぱいだった。
「遠路はるばる苦労であったな」
王から話しかけられたが、アプスには意味すら理解できなくなっていた。
「すぐにでも和睦の議に入りたいだろうが、今宵はゆるりと疲れを癒すがよい。料理も美女も客人を待ちあぐねていたぞ。たっぷりと楽しめ。ところで、リュウインの王子よ、その後ろにいる男は何か?」
混乱している王子に代わり、従者が自ら名乗りをあげようと進みでた。
「控えよ! 無礼者め! 国王陛下は王子にお尋ねあそばされているのだぞ!」
第一五王子が叱りつけた。
いよいよ険悪になる雰囲気に、アプスは目眩がした。
なんでもいいから謝ってしまいたくなった。それで許してもらえるだろうか? この場から退散させてもらえるだろうか?
自分の鼓動が耳鳴りのように響き、息苦しさを感じた。気が遠くなりかけた。
その時、周囲がざわめいた。
「おやおや、道を開けてくださらぬと、美しい衣装が汚れますぞ」
からかうような女の声が響いた。
あの方の声だ!
アプスの体がすばやく翻った。今までの固さがウソのようだった。
真っ黒に汚れた農民の服を着た女が、ふたつに割れた人だかりの間から悠然と現れた。
「これはこれは、隣国の使節どの」
女は国王の御前だというのにひるむようすもなく、気軽に話しかけてきた。
「今宵は無礼講で普段着での参加だということを、私とそなたたちの他はすっかりお忘れらしい」
広間中に響きわたるような大声で陽気に笑う。
アプスは女の前に駆け寄り、ひざまずいた。
「ごきげんうるわしゅう、萌黄の君!」
笑い声が突然やんだ。人々のざわめきも失せる。恐ろしい静けさである。
おそるおそる周囲を盗み見ると、人々の目は見開かれ、息を飲んで事のなりゆきを見守っている。
女は人の悪い笑みを浮かべていた。
アプスのこめかみに一筋の汗が流れた。
「も、萌黄の君?」
「兄上! 今日という今日は、こヤツを許してはおけません!」
第一五王子が声高に叫んだ。
「三日前、戦場跡の辺りで、我々の馬車に羊の群をけしかけたのです。おかげで国賓の前で大恥をかくところでした。今日こそは処断してください、兄上!」
「言葉を慎むように。兄ではなく、国王陛下だ」
国王の側近がたしなめた。第一五王子は顔を赤らめたが、黙らなかった。
「父上が……前の国王陛下がおかくれになって以来、こヤツの狼藉ぶりは目に余ります。どうか、今日こそご処分を!」
「モーヴ殿下は、私を水に浸けて八つ裂きになさるとおっしゃられましたぞ。兄上、その通りになさったらいかがです?」
女は国王に笑ってけしかけた。
アプスは仰天した。女があまりに不敵だったからではない。現国王を兄と呼んだからである。
現国王は、前国王の子である。その姉妹だというなら、目の前の美女は前国王の寵姫ではない。娘である。
喜びに震え、アプスは兄妹の会話に割りこんだ。
「では、あなたは前国王の未亡人などではないのですね! 萌黄の君ではないのですね!」
国王の御前だということも忘れ、立ち上がった。女はアプスより首ひとつ分背が高く、アプスはずいぶん仰向かなければならなかった。
「萌黄は母の呼び名だ」
女は気がないように応え、頭を上げて国王を見る。
「母上は、隣国でも評判らしい。使節どのは母上に会いに参ったのかな。では、ひと思いに母上の元に送りだしてしんぜよう」
女は腰の長剣を引き抜こうとした。
「御前での抜刀は死罪ですぞ!」
「母君はどうでもよいのです!」
国王の側近とアプスの声が重なった。アプスの目には女の顔しか映っていなかった。美しい眼に、ただみつめられたかった。
「姫!」
アプスは懸命に呼びかけた。
「姫のお名前をお教えください。私は誤って母君の御名をうかがってしまったのです。私はただ、ただ、姫を……」
天鵞絨《びろうど》のような黒い眼が、自分を見下ろしていた。全身に戦慄が走った。体の芯まで痺れ、頭の中が熱くなった。
「お慕い申しあげております。初めてお目にかかってからずっとお慕い申しあげておりました。姫を、心より……」
女はあきれたように苦笑を浮かべ、熱に浮かされた即席王子の肩を小突いた。
「そなたの国では口説くのが女に対する礼儀か? 隣国の作法にはついてゆけぬ」
場内は笑いで沸いた。空気が和む。
我に返った若き殿下は耳まで赤くなってうつむいた。
「ま、まだ話は終わってないぞ!」
第一五王子が哄笑に負けじと叫んだ。
「あの羊はいったいなんだ! オレに恥かかせやがって!」
「お怒りはごもっとも。水責めにでも、八つ裂きにでもお好きなように。兄上が一声お命じになってくだされば」
短い黒髪の姫は、からかうように国王を見た。
パーヴ国王は眉根を寄せ、困り果てたように力ない声で訊ねた。
「羊もよい迷惑だと思わぬか? あのような何もないところに連れていかれては」
「とんでもない! やわらかな若草に恵まれ、羊たちも喜んでおりましたぞ。やはり、肥料が違いますからな!」
第一五王子が大きく床を踏みならした。
「肥料だと! 人間の死体のことではないか!」
「さよう。我が国と隣国の、勇敢なる兵士! これ以上に贅沢な肥料がございましょうか! たとえ、由縁が愚鈍な国政にあるとしても!」
「父上を非難するつもりか! 反逆罪だぞ!」
姫はひるむようすもなく、両手を鳴らした。
「これへ!」
ワゴンが運ばれてくる。大きな銀の覆いがかけられた大皿が載っていた。肉の焼ける匂いが漂ってきた。
「これは、客人に」
姫はアプスに微笑みかけた。
「わ、私に?」
胸が躍った隣国の王子は、一目散にワゴンに駆け寄った。
姫は、私を憎からず思ってくださっている!
「開けてもよろしいでしょうか?」
銀の覆いに手をかける。
姫は軽くうなずいた。
「そなたが選んだものだ」
何か選んだ覚えがあったかな? 不審よりも期待が勝った。勢いよく覆いを開ける。
悲鳴が響きわたった。
皿の上には、骨付き肉が山と盛られ、その天辺に羊の頭部がグロテスクに飾られていた。
『さて、客人、おわびに一頭差しあげよう。どれがよいか?』
そういえば、羊の群に囲まれた時、姫はそんなことを言っていなかったか? これは、あの時触れた羊……。
アプスは悲鳴をあげた。長い長い悲鳴だったが、息が切れた時、呼吸も意識もなかった。隣国の若き王子は死んでしまったのだ。