見晴らし台は山の頂上にある、木材で組まれた高台である。伐採の状況を確認するために作られたものだが、猟師が獲物を探したり、遠く離れた村のようすをうかがったりするためにも使われていた。
付近に狼の姿はなかったが、猟師は動かずに助けを待っていた。
「あっという間に、骨だけになっちまったよ」
荷馬車の周りの血だまりをつま先で叩きながら、猟師はぼやいた。
「新しいロバを買わなきゃなんねぇ。若旦那になんとしても弁償してもらわねぇと」
リュートは犬の安否を訊ねた。
「さぁなぁ。ちゃっかり狼の仲間入りしたのもいるかも知れねぇなぁ。無事、家に帰ってっといいがなぁ」
後になって、連れていった八頭のうち六頭が材木置き場に、一頭が自宅にたどり着いていたことがわかった。
被害はロバ一頭、犬一頭と、存外に軽くて済んだ。ヒナタは弁償に応じた。
狼に襲われた材木屋の馬二頭は材木置き場付近で保護されていた。ヒナタの負傷は思ったより重く、木から落ちた拍子にあばらと下肢の骨にひびが入ったようだった。
「リュートには救われたな」
ユキの治療が終わると、ヒナタは言った。
「親爺にもさんざん怒鳴られたよ。跡継ぎもできないうちに死ぬつもりかってね」
二代目は隠居暮らしで、現場に出ることはあっても、母屋に顔を出すことはめったにない。だが、さすがに負傷したヒナタが担ぎこまれると姿を現し、ケガ人を慮る前に一喝した。
「跡継ぎなんか、男にこだわる必要はないと思うけどなあ。賢ければ、女でもいいじゃないか、なあ、リュート」
「ヒナタ兄さん、うちのリュートを巻きこまないでください」
ユキが憤然として言った。
「女は働き者で、いつも小ぎれいにしてりゃいいんです。リュートはまだ子どもだから、お転婆も大目に見てやってますが、ゆくゆくは嫁に入って、母親になって、おとなしく家庭を守るようになるんです」
「リュートは賢いよ。おまけに強い。こんな才能を埋もれさせておくのはもったいない。望むなら、剣でも学問でも好きなものを学ばせてやろう」
「今でも充分学ばせてます! これだけ医学を仕込んでやれば、もうたくさんじゃありませんか!」
ユキは語気を荒くした。
「王都にやろうと思う」
負けずにヒナタはきっぱりと言った。
「そのためにトレゾたちを呼んだんだ。預かってもらえるか、一度見てもらおうと思ってね」
「勝手なことを!」
「二人は承知してくれたよ。教養も礼儀も申し分ないし、護身についても充分だとね。近頃都の治安はかなり悪いらしい。若い娘は狙われるからね、二人は特にそこを心配していたが、今日の一件で吹き飛んだようだ」
「リュートはうちの養女です。リュートの将来は、家長のオレが決めます!」
「将来を決めるのは、リュート自身だ。ユキ、君だって、自分の将来は親ではなく自分で決めたんじゃなかったかな? そうだろう?」
ユキは言葉に詰まった。ヒナタはにっこりとリュートに笑いかけた。
「リュート、王都に行くね?」
「行かぬ」
リュートは短く答えた。
「ど、ど、どうして?」
承諾するものとばかり思っていたヒナタは、かわいそうなほどあわてた。
「トレゾたちが気に入らないのかい? 村から離れるのが不安なのかい?」
リュートは少し考えた。
王都は敵の懐の真っ只中だ。行くことはできない。だが、ヒナタが自分の行く末を考えてくれる気持ちはありがたい。何か失望させない答えはないものか?
「王都には行かれぬ。だが、その他のことは今すぐには決められぬ。博士どのに相談してみたい」
「ああ、ユキの親爺さんにか。いいよ。今夜帰ってじっくり相談してくるといい」
ヒナタはユキと違い、ミヤシロ翁に一目置いていた。学問に一途な姿は尊敬に値すると言い、それを惜しまず人々に役立てている姿は学者の鑑だとも言っていた。
ユキは不機嫌に帰途についた。座席の隣にリュートをすわらせ、ぶつぶつと不平をくり返した。
「うちにはうちの事情があるんだ。勝手に決めるなってんだよなあ」
リュートは黙っていた。汚れたドレスの代わりに、シズカが実家においていた古着を仕立て直しもしないままに着せられていたが、ぶかぶかと大きく、動きづらかった。
今、敵が来たら、裸で逃げねばなるまいな。
右肩がだるい。
まだ早すぎたのだ、母の長剣は。過ぎた武器は持つものではない。今、敵が来たら、疲労で長くはもつまい。
目が、無意識に逃走経路を探していた。
「今の暮らしに不満か? リュート」
いきなり話を振られて、我に返る。
「こんな名医から医術が学べるんだぞ。亭主が留守の時に子どもが病気になってもあわてずに済むだろう? 勉強させてやってる上に、メシまで食わせてやってるんだぞ。こんな幸せはないだろう。どうだ、ん?」
リュートは答えなかった。
もし、村を離れることになったら。この医師は薬をどうやってまかなうのだろう?
この名医は、ありきたりの薬を調合することしかできなかった。材料である薬草を見分けて摘むこともできず、複雑な加工もできなかったし、知ろうともしなかった。以前は街から買いつけ、リュートが来てからは採取も加工もすべてリュートに任せていた。
また、すべて買いつけるようになるのだろうか? そんなようで、家族の食い扶持は稼げるのだろうか?
シズカにしても、家事はどうするのだろう? 育児をしながら家事をこなすのはたいへんなことだ。
博士は?
老人のことを思うと胸が温かくなった。
まだまだ学びたいことがある。空の不思議、人の世の不思議。老人のそばで一生を過ごすのは最高の幸福に思える。
ふと、視線を感じて、リュートは目をあげた。ユキが、ぶかぶかの古着ごしに、リュートの胸元から腰の辺りを何度も眺めまわしていた。
「まだまだ子どもで艶気もないが、まぁ、いいか」
ユキがため息をついた。
ただならぬ空気を感じて、リュートはさすがに不安になった。
「なにがよいのだ?」
「今夜、おまえの部屋に行ってやる。待ってろ」
いぶかしげにリュートは首を傾けた。
「既成事実を作っちまえば、ヒナタ兄さんもよけいな口出しはできなくなるからな。言っておくが、これはおまえのためなんだぞ。おまえはうちにいるのが一番いいんだ」
そうか。ずっとそのつもりだったのだ。
なるほど、ユキにとってはいいこと尽くめである。薬草の心配も、家事の心配も不要になる。
自分にとってはどうだろう? 母は『自分の生を生きよ』と言い遺した。これが自分の生なのだろうか?
答えは出なかった。
馬車が家に着くと、シズカが出迎えた。
「お帰りなさい。まあ、どうしたの?」
行きとは違う姿で帰宅したリュートにシズカは目をみはった。
リュートは黙ってリンゴ飴を渡した。数が少ないことにも気がつかなかった。
「おまえの実家でさんざんな目に遭った」
ユキが不機嫌に言った。
「おまえの兄さんがよけいな気を起こすから、リュートは死ぬとこだったんだぞ!」
過剰とも思える剣幕で怒鳴り、目は盗み見るようにシズカとリュートの間を何度も往復した。
「とにかく! もうさっさとメシ食って、風呂に入って寝る! リュートも仕事はいいから、早く休め! 風呂にはちゃんと入れよ! 埃だらけの体で寝床を汚されちゃかなわん!」
リュートは騾馬を厩に入れ、水と飼い葉を与えるのもそこそこに、離れに飛びこんだ。
「博士どの!」
翁は机の上で何かを熱心に書いていた。
「どうした、猫たちの妹分よ」
温厚な声を耳にすると、胸の苦しさが融け去るようだった。
猫たちはじゅうたんの上で、思い思いに寝転がっていた。
「私には知恵も経験もないのです。英知をあおがねばなりません」
「大仰だな、何事だ」
翁は静かに笑う。
「どう生きたらよいか、わからないのです。『自分の生』とは、どうあるべきなのですか?」
「それはそれは大問題だのう」
老人は声をあげて笑った。
「まずはここへ来てすわりなさい。今、茶でも淹れよう」
茶といえば……。
昼間の顛末を思い出し、リュートは訊ねた。
「茶には塩を入れるものなのですか?」
「塩とな!」
老人は茶を淹れながら笑い出した。
「そうか、ヒナタどのに都から友人が来たか」
「その通りです。なぜご存じで?」
「塩入りの茶など飲むのは、形だけ気取った貧乏貴族ぐらいなものだからのう。彼らは辛うじて色のついた薄い茶を、塩でごまかして飲んでおるのだ」
「それでは、旨くないのでは?」
「だから、形だけなのだ。気取ってみたいのだろう。その点、ヒナタどのはお父上に似て、本物を心得ておる。よい茶の葉をいただいた。黒猫よ、そなたも飲みなさい」
「はい」
熱い茶は、腹に染みわたった。
「さて。そなたはどうしたいのだ? 王都には行かぬのだろう?」
「どうしてそれを!」
「都から友人がくれば、そういう話になろう。それで、そなたは何を悩んでおる?」
「王都には参りません。しかし、三代目どののご厚意はありがたく、礼を失しない返答はないかと考えあぐねております」
「王都以外にも街はあろう。どこか、ひっそりと学問のできる場所へ行かせてもらうがよかろう」
「学問ならば、ここででもできます」
翁は笑って首を振った。
「この老いぼれを慕ってくれるのはありがたいが、そなたはもっと広い世界を見なければのう。そなたの翼を広げるには、この巣は狭すぎる」
「翼ですか?」
「そうだ。そなたはただの黒猫ではない。背中に翼を隠した黒龍の仔よ」
リュートは落ち着きを失ったように目を伏せた。
「ヒナタどのの奥方は、ヒルブルークの街の出だったな。馬で南に三日の大きな街よ。そこへ行くのはどうかな? 牛と桃の旨いところよ。たっぷり食べて肉をつけるがよい。そなたは少々痩せすぎだからの」
「博士どの!」
リュートは胸が張り裂けそうだった。
「どうかおそばに仕えさせてください! 遠くへ追いやらないでください! 私はまだ何一つ一人前ではなく、英知と温情の前にひざまずき、教えを乞うほかないのです!」
「わしは老い先短く、そなたには長い未来があるのだぞ。爪を研ぎ、翼を鍛えておきなさい。いつまでも龍の仔を籠めておける家ではないのだから」
「一生お仕えするよい方法があるのです!」
しがみつくようにリュートは食いさがった。
「医師どのに嫁ぐのです!」
翁が大きく目を見開いた。
「血迷いごとを! そのようなこと、決して口にしてはならぬ!」
「しかし、そうすれば、どこにも行かず、一生博士どのにお仕えすることができます!」
「そなた、自分の言っていることがわかっておるのか?」
「わかっております! 一介の町医者の相手ではご不満とおっしゃるのですか!」
語気を荒上げるリュートに、翁はかえって醒めたようだった。
「ふむ。では訊ねるが、そなたはあれを好いておるのか?」
「医師どのは憎からず思ってくださっているごようす」
「あれは、きれいな女には誰にでもそうよ。しかし、そなたのほうはどうだ? そなたの母君はどうだったかな? 好いた男と一緒になったのか? 幸せだったか?」
リュートは返答に詰まった。
「よいか、小龍よ、情というものを軽んじてはならぬ。情は人を救いもするし、滅ぼしもする。別の目的のために情を利用してはならぬ」
「もう遅すぎます。今夜、医師どのは部屋に忍んでくるのです」
「なんという! 浅ましい男だ!」
机をこぶしで叩いた。
「むろん、断ったのだろうな?」
リュートは首を振った。
「断れば、この家には居られなくなりましょう。よいのです。これが運命と……」
「愚かな! 軽々しく運命などと言ってごまかすのではない! 今すぐシズカを呼んでおいで! さあ、今すぐ!」
呼ばれたシズカは、リュートにデュールを預けて、少しの間、離れで話していた。
「リュートちゃん! 今すぐ兄さんのところにお遣いに行ってちょうだい!」
台所でまとわりつくデュールと遊んでやっていると、足音荒くシズカが戻ってきた。
「大至急、迎えの馬車を寄こしてちょうだいって伝えて」
居間からユキが出てきた。
「実家に帰るのか? そうか、メントル家のヤツらをもてなす女が必要だもんな。よろしく顔を売っとけよ、いずれデュールが世話になるかも知れん」
ユキはうれしそうだった。
「兄さんの手を煩わせるまでもない、オレが送ってやろう。リュート、留守番を頼む」
「いいえ! お疲れの家長さまのお手を煩わせるつもりはございませんわ! リュートちゃん、実家に着いたら戻ってこなくていいわ、お客さまのお相手をしててちょうだい」
「おい! 二人とも家を出ていったら、うちの仕事は誰がやるんだ?」
ユキは色をなした。
「あなたがいらっしゃるじゃございませんか」
「冗談じゃない! 第一、デュールはどうする! 置き去りにされて、教育にいいわけないだろう!」
「あら、もちろん連れていきますとも。妻を喜んで追い出すような父親に預けたんじゃ、教育によろしくありませんからね」
「オレは喜んでなんかいないぞ! おまえが行くというから……」
「あなた、私が何も気づいてないとでも思ってたんですか?」
シズカは腰に手を当て、夫を睨めつけた。
「ご帰宅なさった時のあなたの態度! あの目つき! 胸に手をあてて、よぉく思い出してごらんなさいませ! あなたの考えていることなんか、ぜんぶお見通しですとも! 私の目は節穴じゃないんですからね!」
ユキはバツが悪そうに黙った。
「さあ、リュートちゃん、すぐに兄さんのところに行ってちょうだい」
リュートは急いで着替え、葦毛を駆った。
事情を知らぬままにヒナタは迎えを出し、知ってからは、洗濯女のヒキと女中のコズエを交互にミヤシロ家に送った。おかげでユキはどうにか飢え死にせずに済んだ。
「おまえはしばらく街に出るといい」
ヒナタは言った。
「王都へ出るせっかくの機会をどうして棒に振るのかはわからないが、何か事情でもあるんだろう、ユキの親爺さんの勧め通り、ヒルブルークの街にやることにするよ。妻の叔母が下宿屋をやっているから、そこに一部屋とってもらうことにしよう。田舎だから、王都と違って女には学問のしにくい場所だが、まるっきり閉ざされているわけでもない。何を学ぶ? しばらく考えてみなさい」
学びたいことはたくさんあった。ミヤシロ翁のように天気を読みとれるようになりたかったし、誰にふりまわされることなく自立できるようにもなりたかった。なにより、あの男の手から逃れる方法を……いや、母の仇を討つ方法を知りたかった。だが、いずれも、それらを教授してくれる学舎はないのだった。
「リュートちゃん、遠くへやるのを悪く思わないでね」
シズカは言った。
「あなたのことは妹のように思ってるわ。私は末っ子だから、妹ができたみたいでとてもうれしかったのよ。でもね、私からユキを取るなら、あなたを憎むわ。たとえあなたが望まずにそうなるしかなかったとしても、ユキを取ったら憎むわ」
博士の言う通りだと、リュートは思った。情は人を滅ぼす。軽々しく利用してはならなかったのだ。
「奥方どの、考えおよばず、苦しませてすまなかった。私が軽率だったのだ」
シズカはあわてて手を振った。
「悪いのはユキなのよ。あなたはまだ子どもで……。ユキがあなたをどうするつもりなのかわかってからは、街にお遣いを頼んだりして、少しでもあなたを遠ざけようとしてたの。ごめんなさいね。でも、本当にユキを取らないでね? 本当によ?」
シズカはユキを深く好いているのだとリュートは思った。
自分はこれほどまでに誰かを好いているだろうか? 母と博士のほかに?
否。
これから先もありえないような気がした。