〜 リュウイン篇 〜

 

【四 狭き巣(三)】

 

 

 リュートはほどなく、こちらに走ってくる二騎の馬を見つけた。乗り手はなく、左右に狼を伴い、鋭い牙で四肢を傷つけられていた。

 リュートは長剣を振った。狼の毛が二度、三度と舞った。剣先は血に染まったが、致命傷には至らなかった。

 長さが足りぬ。

 リュートは歯がみした。

 弓があれば! せめて、この刃がもう少し長ければ!

 鞍の下で何か固いものがリュートの腿を刺激した。

 これだ。

 持っていた長剣を投げ、狼一頭を地面に串刺しにした。すばやく、鞍の下から新たな長剣を抜く。並外れた大振りの長剣。母の形見の名剣。振り上げると、重みがずしりと全身を襲った。

 母上!

 一日たりとて忘れ得ぬ黒髪の佳人。遙けき郷の血をひくあまり、疎まれ、隣国へ輿入れさせられた悲運の黒龍。

 体中に力がみなぎった。指先まで熱っぽく、体内の血液という血液が機械油のように関節という関節、筋肉という筋肉に行き渡り、動きを滑らかに化したようだった。

 もはや、重みは感じなかった。青や赤の大粒の石を埋めこんだ巨大な柄は、手にぴたりと吸いついた。二、三度振るってみると、残りの四頭はすべて事切れていた。いずれも若い、成犬になったばかりの狼である。

 騎手はいずこへ? 逃げ去る馬をそのままに、葦毛は奥へと駆けた。切り株野原が続き、やがて林へと入る。犬の鳴き声がこだました。反響の中、研ぎ澄まされた耳に人の怒号が届いた。

 まだ、生きている。

 リュートは肺いっぱいに息を吸いこんだ。

「加勢が来たぞ!」

 凛と、声はよく通った。向こう側に届いていればいいが、とリュートは思った。

 ほどなく、木立の中に狼の姿が見えた。犬よりも痩せ、毛並みも悪いが、野性味ある美しいフォルムである。牙を剥きだし、涎を垂らしながら、激しいうなり声をあげている。その数ざっと四、五〇頭。

「助けてくれー」

 情けない声が上方から聞こえた。

 狩人たちは木の枝に逃れていたのだ。植林された木の幹は細く、日陰のために枝はことさら細かった。下枝刈りの前だったのだろう、低い位置にも枝が伸びたままだったのが幸いした。

 ヒナタは安全だった。山の男らしく、木登りは造作ないとみえる。さしもの狼も大人の背丈の三倍もある高さまでは手が出せなかった。

 問題は貴族のほうだった。ヒナタの伸ばした腕にすがりつき、とうに折れた枝の節に辛うじて足をかけていた。膝は震え、いつ足場から滑り落ちても不思議はなく、おまけに足下では狼どもが獲物を爪にかけようと競って飛び上がり、時々爪先が靴をかすめさえするのだった。

 後続の加勢が着くまでもつまい。

 リュートは高く口笛を吹いた。狼たちの注目が樹上の獲物から逸れ、一斉に人馬に向いた。間髪入れず、葦毛は翻り、群を誘って走りだした。群の縁にいた老いた狼が、まず新たな獲物にとびついた。

 刃が一閃した。

 年若い、まだ仔どもの面影を残す一頭が間をおかずに喰らいつく。

 かえす刀で、首すじを一斬。

 さらに続いた狼は、もんどりうって宙を舞った。

 剣を振るう姿は鬼神さながらだが、リュート自身は己の雄姿に酔ってもいなかった。尖兵に気をとられてはならない。狼は利口だ。いずれは頭数にまかせて包囲線に持ちこむだろう。群のリーダーはどこだ?

 残した二人も気がかりだ。群のすべてをこちらに引き寄せたはずはない。見張りが残っているはずだ。疲労か恐怖かで客人が足を滑らせれば、数頭もいれば充分だ、たちまち骨だけになってしまう。

 周囲に目を配り、進路をジグザグにとりながら、リュートは材木置き場に向かった。充分な武器もない今、とにかく加勢が欲しかった。

 不意に、森のざわめきが大きくなった。数多の蹄の音が木立に響く。

 加勢だ。

 ここにいる! と叫びかけ、リュートの咽は凍りついた。

 記憶の片隅で、ある不信が結びついていた。

 加勢ではなく、追っ手だったら?

 もし、客人が、あの男の放った密偵だったら。

 姿を現したのが猟師たちではなく、母を奪った狩人、あの男の私設軍隊、あるいは国王の親衛隊だったら?

「若旦那ァ! 若旦那ァ!」

 野太い猟師たちの叫び声が、リュートの夢想を破った。

「ここだ! ここだ!」

 大声で叫び、迷いを断ち切る。

 今は、自分のことよりヒナタのことだ。恩義を忘れて生きて何になる?

 猟師たちが姿を現すと、辺りは一層喧噪を増した。

「弓をくれ!」

 狼をなぎ払いながら、応援と合流する。

「若旦那は?」

「この向こうだ」

 ようやく加勢の一人と馬を並べ、弓を受け取る。

「頼りない弓だな」

「子どもにゃちょうどいいだろ」

「弱すぎる」

 矢筒を肩にかけ、弦を弾く。これではいくらも飛ぶまい。

「ちっ。頭数が多すぎらぁな。回り道もできやしねぇ。ここを片づけにゃ、若旦那ンとこに行けねぇって寸法か」

「おがくずは?」

「あっちだ」

 どん尻を見ると、鞍の両わきに大きな麻袋をくくりつけた馬が二頭、仲間の陰にくっついていた。

「袋を投げろ!」

 リュートは弓を構えて叫んだ。

「投げても届かねぇ!」

 袋の主が叫び返した。

「構わぬ。口紐を緩めて放れ!」

「ちくしょうめ!」

 大きな袋が低く舞った。リュートの弓が鳴った。矢羽がうなり、袋をとらえた。突き通し、狼の頭上をさらっていく。緩んだ口から、黄色い粉塵が降り注いだ。

 狼が甲高い悲鳴をあげた。おがくずの粉が目に、鼻に入ったのだ。狼の攻勢が鈍くなる。

 猟師たちは鬨の声をあげ、弓を絞った。次々に狼たちが屠られていく。残った袋から、おがくずが狼の上に降り注がれていく。

 狼たちは混乱に陥り、見えないまま、むやみやたらに逃げまどった。粉塵は踏みにじられ、ますます舞いあがった。さしもの猟師たちも咳きこみはじめた。一頭の馬がうなり、神経質そうに足踏みした。それが引き金のように、馬たちは一斉に騒ぎたて、暴れまわり始めた。

 猟師たちがあわてて手綱を引いた。幾人かが弓を取り落とす。動揺が走る。弓なしで、どう戦うというのだ? 短槍では、接近戦となる。数の少ない側では不利だ。

 リュートは目を細く開け、長く豊かな睫毛におがくずがかかるのを感じていた。葦毛は周囲の動揺に惑わされなかった。ただ、主人がかすかに身を傾けると、その方向へ機敏に動いた。

 リュートの目が、大きな弓をとらえた。猟師の一人がとり落とした強弓である。周囲には狼がたむろし、拾う者もなく、黄色い粉塵に埋もれかかっていた。リュートは左手で手綱を持った。慎重に歩幅を合わせ、葦毛に本筈を踏ませる。蹄に強く踏まれた勢いで、弓筈が跳ねあがった。リュートは手綱を放して弓をつかみ取った。

 その時、ひときわ高い遠吠えが響いた。長く、力強かった。狼たちは動きを止め、耳をそばだてた。

「借りるぞ」

 近くにいた猟師の矢筒から、ひときわ強い矢を数本、リュートは引き抜いた。葦毛を走らせたまま、弓を引き絞る。

 また、長い遠吠えが響いた。今度は他の狼たちも合わせて吠え始めた。混乱はたちまちおさまり、再び群に力がみなぎり始めたようだった。

 リュートは群の外れの高台に向かって弓を引いた。粉塵に紛れて行く手は見えないが、響きから推すに、遮るものは何もないはずだ。距離も、この強弓なら申し分ないはずだった。

 矢が放たれた。勢いよく黄色い靄の中に消えていく。

 遠吠えがやみ、狼の悲鳴があがった。粉塵の向こうで、その悲鳴が急速に遠ざかっていく。すると、狼の群が一斉にその後を追い始めた。整然とした撤退というよりは、あわてふためいた逃亡という風体だった。

 リュートは狼を追わず、来た道を引き返した。ヒナタたちが心配だった。

 戻ると、案の定、四頭の狼が二人のいる木の周りをぐるぐると回っていた。客人の足は木の節から離れ、ヒナタの腕一本で辛うじて墜落を免れていた。

「もうだめだ。私が死んだら、リステルのことは頼む」

「ばかなことを言うな。今に助けが来る!」

「誰も来ないじゃないか。来るもんか。誰が危ない橋を渡ってまで他人の命なんか助けに来るもんか」

「きっと来る! だいじょうぶだ」

「君のお気に入りの子だって、狼に追われていったじゃないか。かわいそうに、今頃は喰われてしまっているよ。私もきっと死ぬんだ、ああ、こんなとこで死にたくない」

「がんばれ!」

「もうだめだ!」

 ヒナタの体が、枝の上で滑った。トレゾの重みを支えきれなくなったのだ。手を放せば、ヒナタだけは助かったかも知れない。だが、彼は手を放さなかった。

 二人の体が宙を舞い、木の根元に派手な音を立てて落ちた。狼たちが輪を作って待ちかまえていた。若い狼が勢いづいて宙に躍った。

 風がうなった。

 トレゾをかばうように抱きしめていたヒナタは目をみはった。

 跳びかかってきたはずの狼が、地面に串刺しになっていた。

 蹄の音が耳に入った。

 風が鳴った。

 狼たちがたちまちその場に崩れていく。まるで、糸の切れたあやつり人形のように。

「遅くなった。すまぬ。無事か?」

 たくましい葦毛の背から、黒髪の少女が見下ろしていた。右手に握った巨大な長剣から獣の血が生々しくしたたっていた。

「リュート!」

 一気に力が抜け、ヒナタはその場に倒れこんだ。

「ヒナタ!」

「三代目どの!」

 トレゾがあわてて顔をのぞきこむ。リュートもまた、馬を飛び降り、駆けつける。

「どこを負傷された?」

「うん、木から落ちた時にわき腹と足を打っただけさ。それより、なんだい、リュート、そのかっこうは」

 寝転がったまま、ヒナタはリュートを指さした。

 服も、腿まで露わになった脚も、土埃とおがくず、狼の血糊にまみれて真っ黒だった。

「ああ、すまぬ。すっかり汚してしまった。縫い目はうまく切ったつもりだが、いまさら繕ってみたところで、これだけ汚してしまっては……。奥方どのに申しわけない」

「服なんかどうでもいい。それより、脚が丸見えじゃないか。艶っぽすぎて目のやり場に困るぞ」

 ヒナタのヘタな冗談に笑いもせず、リュートはたずねた。

「一緒にいた猟師どのと犬たちはどうした?」

「この先の見晴らし台にいるよ。あれが見晴らし台にあがって狼を見つけたんだ。私たちは馬で逃げたが、あれはその場に残ったはずだ。ロバじゃ逃げ切れそうになかったからね」

 トレゾの答えを聞くなり、リュートは葦毛に飛び乗った。

「おい、どこへ行くんだ」

「見晴らし台へ」

「狼が戻ってきたらどうするんだ。ヒナタを馬に乗せて運んでやるほうが先だろう」

「葦毛は他人を乗せぬ。助けはじきに来る」

 耳を澄ませると、数騎の蹄の音が近づいていた。

 リュートが見晴らし台に顔を向けると、愛馬の体躯は翻り、たちまち走り去った。

「どうだい、オオヤマネコを倒したというのはウソじゃないだろう」

 ヒナタがうれしそうに自慢した。しかし、友人のほうは別のことに心を奪われていた。

「なんて馬だ! あんなに見事な馬は見たことがない。幾らだったら売ってくれるだろうか?」

「よせよ。あの子は売らないよ。家族同然の馬なんだから」

「いや、しかし、是非とも欲しい! 君から話をつけてくれないか?」

 ヒナタは苦笑し、首を振った。

「トレゾ、君は命の恩人から家族を取りあげるつもりかい? 欲をかくのもほどほどにしたまえ。それに、気性の荒い馬なんだ。近づくと大ケガするぜ」

 貴族はまだ未練がましそうだった。

「きっと、草原の国の馬というのは、あんなふうなんだろうな」

「草原の……なんだって?」

「伝説の国さ。どこまでも続く広い草原の中で、民は馬を駆り、獣を狩って暮らしているという。馬はしなやかで疾風のごとく、民は勇猛果敢で黒龍のごとし。なんでも、先の王妃さまは、その蛮族の血をひいてたとか。……ただの伝説だけどな」

「黒龍のごとし、か」

 ヒナタはつぶやいた。

「まるで、あの子のことじゃないか」

 

 

   

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