空は高く澄み、遙かに青く長い山並みがくっきりと望めた。冷たく乾いた風が西から吹きつける。
村外れの小さな家の裏手で、幼い子どもが薪を積んでいた。小さな両手が危なげに薪をはさみ、たどたどしい歩みで山まで運んだ。重そうな尻を突きだして積み重ねる。三、四本積んだところで、前のめりに倒れた。山は音を立てて崩れ、子どもは口をへの字に曲げ、うなった。
「デュール。ならぬ」
子どもは宙に浮いた。細いが力強い腕に抱き上げられ、その胸にしがみつく。やわらかなふくらみが、頬を包む。
「リュー。リュー」
たちまち機嫌を直してはしゃいだ。
「奥方どの、ご子息が薪割り場におったぞ」
子どもを抱いた少女は勝手口をくぐった。長い黒髪が揺れ、母親の腕に子どもを預ける。
「まんま、まんま」
子どもがはしゃいで母親の暗褐色の髪をつかんだ。
「デュール、痛いったら。離しなさい、デュール! めっ!」
子どもそっくりの暗褐色の目が見開く。子どもが泣きだす。
「もう! ホントに手がかかるったら! お昼までおとなしく眠っててちょうだい!」
「用事を済ませてくる」
黒髪の少女は家を出た。愛馬を呼び、軽やかに飛び乗る。
二年の月日が流れていた。背はシズカを越え、まだまだ伸びそうな勢いだった。肩は細く痩せていたが、体は幾分丸みを帯びてきた。まなざしは憂いを含み、異国的な顔立ちを際だたせた。
葦毛は萌葱色に染まった道をよく駆けた。雪解けてまもなく、草丈は短い。難儀することもなく、四半ニクルで村にたどり着いた。
村の中心には井戸がある。隣接する四阿は洗濯場になっており、女たちがかしましく仕事に精を出していた。少し外れたところに、馬用の水飲み場がある。リュートは馬から下り、水を飲ませた。
「こんにちは、名医さまンとこの若さま」
洗濯物入りの桶を頭に担ぎながら、村女がおどけて挨拶していった。リュートは軽く目で応えた。
シズカの遣いでラノックの街に行くのは日課のようなものだった。頼まれ物はたいしたものではなく、赤い三角の飴玉だったり、息子のための玩具だったり、珍しい色の刺繍糸だったりした。実家に頼めば、取引のついでに買ってもらえる物だが、ユキが実家との接触を嫌ったし、なぜだかシズカ自身がリュートを遣いに出したがるのだった。
子息に悪影響だと遠ざけておられるのか? それとも、何か理由があるのだろうか?
リュートにはわからない。ただ、このまま何事もなければよいと思った。
「勝負しろ!」
黒い影が目前に落ちた。
半ば大人になりかけのガタイの大きな少年が、太い棍棒を構えて立っていた。秀でた額に大きな鼻。村長の跡継ぎ息子トビである。この二年で体は縦にも横にも伸び、丸い腹にはすっぽりリュートが一人おさまるほどだった。袖をまくりあげた腕は柔らかな肉で覆われ、棍棒を振り回すと筋肉の不足が露呈した。腰も落ち着きがなく、下半身が弱いことも見てとれた。運動不足、筋力不足にも関わらず、トビは強気だった。
「勝負しろ、女ぁ。オレが怖いのか、毎度毎度逃げやがって」
逃げざるを得ない。下手にケガでもさせれば村長が騒ぎたてるだろう。ミヤシロ家に迷惑をかける。
リュートをトビの攻撃を避け、葦毛が水飲みを終えるや否や、軽やかに愛馬に跳び乗った。
愛馬は賢かった。トビをかわして道を走り始めた。
道は東にのびていた。いつかリュートがユキに拾われたのも、この途上でのことである。街まで葦毛の足で二ニクル。朝ミヤシロ家を出ると、昼頃村に戻れるが、普通の馬や馬車ならば丸一日潰れてしまう。
リュートは街まで疾走を楽しんだ。葦毛は冬の間筋力をつけてはいた。雪道をこぐには力が要る。だが、瞬発力や疾走のための筋力は、また別物だった。鍛錬が必要だ。怠けた馬は、錆びた剣に等しい。
馬上で、リュートは剣を振った。地上と馬上の剣は異なる。腕の低下は死を意味する。相手があの男なら、なおさら。まだ追って来るだろうか? リュートは近頃疑問に感じていた。
逃亡から二年余りが経つ。母娘は死んだと安堵しているのではないか?
もし、このままここで暮らしていけたら。博士の下で教えを請い、葦毛と共に平穏に暮らしていけたら。
博士を思うと、胸の中が温かくなる。母に似た安らぎを感じる。
馬と剣と物思いに彩られた道中はあっという間だった。
ラノックの街にたどり着くと、外側を囲む城壁に足場が組まれ、上半身をあらわにしたたくましい男たちがレンガを積み上げていた。
以前は朽ちるままに放置されていたが、最近になって修復されているのだ。
城門に番兵が立っていた。番兵とは言っても、町人たちが自治体を組織し、交替で訪問者を誰何しているのであって、本物の兵隊ではない。
「なんの用だ? 武器は?」
四人の番兵が槍を掲げて訊ねるが、厳しさはない。リュートは毎日のように出入りする馴染みであり、一人で遣いに来た少女が彼らの敵であろうはずがない。すんなりと門をくぐり、街のにぎわいの中に身を置いて、目的の市場まで馬を進めるのは気分がいい。
何者でもないことも、時にはいいものだな。
大通りは活気に満ち、籠を頭に載せた女がせわしくなく歩き、山のように荷物を積み上げた荷車を引いた男が人々を押しのけている。その向こう、道の端で、細い路地裏から派手な身なりの女が顔を突きだし、目星をつけた男に声をかけている。男は女と指を付き合わせて交渉し、やがて路地裏に消えた。城壁近くの裏路地は街娼のたまり場で、男装の少女には未知の世界だった。胴元が娼婦を抱えこみ、客をとらせては懐を肥やしていると聞く。女たちの暮らし向きは貧しく不衛生で、しばしば逃亡者が出るという。すると、胴元に雇われた追っ手が女を追うのだ。たとえば……。
葦毛の前に、顔をひきつらせた若い女が飛びだしてきた。リュートは手綱を引いて馬を止めた。女は目を血走らせ、右に左に顔を振り、逃げ道を必死に探していた。後ろから男が四人、人ごみを乱暴にかきわけ、三方から迫りくる。唯一の逃げ道は葦毛が塞ぐ恰好になっていた。女は喘ぐように空を見上げ、編み癖のついたばらけた褐色の髪が翼のように広がった。丸い濃褐色の瞳が馬上の黒曜石の瞳を捉え、荒れた大きな唇が開いたが、言葉にはならなかった。
「ああ!」
喉の奥から発せられた声は、絶望とも嘆願ともとれた。
「ああ!」
「世話を焼かせやがって!」
皮鎧を身につけた男が女の前に立ちふさがった。腰に揺れる細剣の柄は錆びつき、描かれた紋章を茶色に染めていた。
「かわいがってやるっつってんだろ! 逃げんなよ」
「せいぜい楽しませろよ」
四人の追っ手が人ごみの中から次々に姿を現し、面倒事を嫌ったのか、通りにはリュートたちを迂回するような流れができた。追っ手は女の腕をつかんだ。赤紫に染まった手がもがき、暴れた拍子に葦毛の馬体にぶつかった。葦毛が高くいななき、威嚇のうなり声をあげた。長い尻尾が激しく振られ、追っ手たちを鞭のように打った。
「なんだぁ、この馬ぁ!」
「お前も一緒にかわいがってやろうかぁ!」
男たちが馬上の少女を睨みつける。一人は剣を抜いた。
「兵が葡萄摘みの娘御に何用だ?」
リュートは威厳をこめて問うた。
「大の男が寄ってたかって娘一人を追いかけ回すとは見苦しい。家に帰り、剣の手入れでもしておれ」
男たちは怒声を発した。次々に剣を抜き、錆まじりの刃先をリュートに向けた。
リュートは面倒げに、鞘を払いもせずに剣を振った。錆びた剣は空を切り、それぞれの持ち主の足下に落ちた。男たちは右手を押さえ、恥も外聞もなく、うなり、悲鳴をあげていた。
「兵隊に逆らって無事でいられると思うなよ!」
剣を拾い、捨てぜりふを残して人ごみに紛れていく。いつのまにか、女もいなくなっていた。
「お見事、お見事」
乾いた拍手を響かせて、黒いフード付きマントをかぶった男が現れた。
「いたいけな婦女子を暴漢から守る! 今時泣かせる話じゃござんせんか。しかし、相手が悪かった! 知らなかったとはいえ、兵隊を敵に回しちゃ……」
「知っておる」
リュートは鞘を腰に戻した。
「勇敢な娘さん、知っててムチャはいけませんよ。あいつらはそんじょそこらの傭兵じゃないんですから。国の兵隊ですよ?」
リュートは動じない。
「知ってたんですか?」
「支給品の剣だ」
「そこまでわかってて!」
マントの男は大げさにため息をついた。
「柄に王家の紋章が入った、あの支給品の剣を見分けていながら、どうしてケンカなんか売るんです? 正気の沙汰とは思えませんね! 国の兵隊ときたら! 徒党を組んで威張りくさって、今や、やりたい放題じゃないですか! たかが娼婦一人助けるために、なにも自分から貧乏クジ引かなくたって!」
「娼婦ではない。葡萄摘みの娘だ」
「どっちだって同じですよ!」
「同じではない。指が葡萄の汁で染まっておった」
「だから、なんです? 礼の一つでもありましたか? ああ、やだやだ。この世は正義や善人が貧乏クジ引く定めなんですかね!」
葦毛が歩きだす。
国から支給された、兵隊には命にも等しいはずの剣が錆びていた。軍はどういう教育をしているのか? そもそも国を守るべき兵が、無防備な娘に乱暴を働くとは何事か? 兵士としての誇りは捨てたのか?
リュートは憂鬱になった。
「娘さん、どこまでお行きなさるんで?」
人ごみをかきわけて、黒いマントの男が追ってきた。
「あまりうろうろしないほうがいいですよ。さっきの兵隊たちが黙って引き下がるとは思えませんからね。きっと、仲間を集めて戻ってきますよ」
リュートは無視して市場へと馬を進める。
「いくら娘さんが勇敢でも、多勢に無勢じゃ危ない危ない。痛い目見た上、とっ捕まって娼館に売り飛ばされちまいますよ。それでなくとも美人でそんな恰好してりゃ、目をつけられないわけありませんがね。悪いことは言いませんから、まっすぐ家に帰って戸と窓にカギをかけてお隠れなさい」
葦毛は足を速めたが、なお男は追ってくる。
「ご自宅までお送りしますよ。娘一人さんだけじゃ心配ですからね。なに、あたしは怪しいモンじゃありませんよ。ただね、娘さんは世間をよくご存じないようですし、あたしとしても心清い正義感あふれる娘さんがもめ事に巻きこまれるのを、指くわえて眺めてたとあっちゃ、寝覚めがよくないですからね。で、ご自宅はどちらです?」
リュートは答えない。
「さぞかし立派なご邸宅なんでしょうね! いやいや、娘さんを拝見すれば、おのずとわかります。なんといっても、気品があふれていますからね! いや、まこと、気品があふれ、加えてその美貌! お母君もさぞかしお美しいんでしょうね! お殿さまも幸せ者だ! いやいや、お殿さまというのは、娘さんのお父君のことですよ」
なぜ金持ち扱いするのだろう?
リュートは首をひねった。
金目のものは、母の形見の剣だけだが、それは鞍の下に隠してある。見る者が見れば、腰に佩いた剣のほうの値打ちもわかろうが、そちらも抜いて刃を見せたわけではない。
男は市場の中までついてきた。馬から下り、リュートが頼まれたリンゴ飴を買おうとすると、
「あたしなら、もっとマケさせてやりますよ」
頼まれもしないのに、横からしゃしゃり出て、わずかばかりのリンゴ飴を買いたたいた。売り手の言い値の一割にまで値引きさせ、得意そうにふり返る。
「どうです? 買い物っていうのは、こうやるもんです」
しかし、リュートは相場に色をつけて支払った。
「なにやってんです! あー、もう、これだから世間知らずの金持ちは!」
「借りを作るのは好かぬ」
冷たく言い放つと葦毛に飛び乗った。手綱を引き、器用に人ごみを素早く抜ける。
「あ、ちょっと!」
男の声はたちまち後方に消えた。
リュートは城壁へ向かった。昼過ぎには村のご婦人を慰めているユキと合流し、往診を手伝わねばならない。つまらぬことにかまけている時間はないのだ。
しかし、敵のほうはそうは思わなかったようである。
「いたぞ! あいつだ!」
威勢のいい下卑た声が人ごみの中から飛んだ。
リュートが声の主を見やると、先ほど痛い目に合わされたはずの兵士だった。
道行く群衆の中で悲鳴があがる。肩や腕の筋肉をこれみよがしに露わにした大柄な男たちが、女子どもや老人たちを押しのけ、リュートめがけ向かってくる。鞘から放たれた刃には、赤錆や血糊がこびりついていた。
リュートは眉根を寄せた。
興醒めな……。
懐に差し入れた手が、なにかをつかんでふくらんだ。引き出しなにしなやかな指がしなり、赤子のこぶしほどの赤い玉が、過たず、巨漢たちの眉間を打った。
その場でしなびた塩漬けのように崩れ折れる強者たちを目の当たりにして、自称兵隊たちはあっけにとられて、ただその場に立ちつくすばかりだった。
「兵は民を守るものよ」
馬上から低い声が降り、兵隊も、雑踏の老いも若きも、声の主を見上げた。声は凛と喧噪の中を響き渡った。
「その守るべき民に手を挙げるとは、道理にかなわぬ。下賜された剣が泣こうぞ」
葦毛は悠然と歩を進めた。威を借る馬……と言っては葦毛に礼を失するだろう。しかし、この名馬が乗せているのは威に満ちた獅子だった。いや。伝説に歌われる黒龍である。鞍上からは、何者も無視し得ない威厳が放たれていた。
兵はもはや妨げず、人波は葦毛の前でふたつに割れ、リュートは易々と街を抜けた。
街道に出ると、遅れた分をとり戻すべく、葦毛は一目散に駆けた。乗り手のほうは、懐に手をやり、苦笑した。リンゴ飴の数が減っていた。
村にもどると、葦毛に水をやりながら、リュートはリンゴ飴の数をしきりに気にしていた。
自分の悪い癖だ、と省みる。
後先のことを考えずに行動してしまった。一度市へもどって、飴を買い足すべきだったのだ。いや、そもそも食物を投げるのはよくない。躾の是非を問われ、母や博士たちが非難されては申しわけがない。
「名医さまンとこの若さま」
目をあげると、洗濯女が立っていた。材木屋の使用人で、名をヒキという。洗濯の途中なのだろう、袖をたくし上げ、真っ赤に染まった腕が露わになっていた。
「若旦那さまがお呼びでしたよ。名医さまンとこはいいから、すぐにお屋敷にいらしてください」
「三代目どのが? 何用だ?」
「知りませんよ。ただ、あたしは坊ちゃんが戻ってきたら呼ぶようにって言われただけですから」
街の往復にリュートが村の水飲み場に必ず寄ることは、誰でも知っている。
「ぐずぐずしないで、早く行ってくださいよ。でないと面倒になります、今、村長ンとこのツチが跡継ぎ息子を呼びに行きましたから。すぐに来ますよ……あのバカ息子」
最後は声をひそめる。
「まったく、一日二回は若さまにからまなきゃ気が済まないんだから。しつこいったらありゃしない!」
リュートは水やりを打ち切り、葦毛に飛び乗った。
材木屋の門は開いていた。中には立派な四頭立ての馬車が停まっていた。
貴族のものだな、とリュートは馬車を眺めながら思った。爵位のない下級貴族のものだろう。
乗客が乗る箱の部分は贅沢なことに黒檀の板で覆われており、美しい貝殻の飾りがふんだんにはめこまれている。巨額の富がつぎこまれているにも関わらず、金銀の類がまったく見あたらないのは、下級貴族の証拠である。身分が許さないのだ。
厩の前では見慣れない馬が八頭、ゆっくりと飼い葉を食んでいる。箱馬車の引き馬と換え馬だろう。換え馬まで用意するとは、よほど遠方からの客に違いない。
葦毛から降り、玄関の呼び鈴を鳴らすと立派な体躯の使用人が出てきた。
「若旦那さまがお待ちかねだ。すぐに裏に行って支度しろ。コズエが用意して待ってる」
コズエは年のいった使用人で、二代目の頃からずっと家内の仕事を受け持っていた。
「ひどい顔だねえ! 土埃で真っ黒でねえの。きちんと拭きな」
裏の小部屋に通されると、まず濡れた手ぬぐいを手渡された。
「偉い人が来てんだからね、それなりの身なりしねえとな。ほら、その汚い服も脱いだ脱いだ」
リュートは数歩退いた。
「着替える理由がわからぬ」
「若旦那さまに偉いお客が来てんだよ。まともな服着せて部屋に通せって言われてんだ。そんな服着たまんま行ったら、お客が目ん玉まんまるにしてひっくり返っちまうわ」
「客が私に何用だ」
「そんなの知るわけあんめぇ。オレは若旦那さまの言いつけ通りにしてるだけだ。ほら、さっさと着替えた着替えた」
用意されていたのは、若い娘らしい、しかも上等なドレスだった。
「若奥さまが若い頃着てた服だってよ。汚さねえようにしろよ。そのうちきっと、お嬢ちゃまたちが大きくなったら仕立て直して着なさるようになんだから」
コズエは馴れた手つきで手早く身なりを整えた。柔らかい帯布で腰を締め、長い黒髪を背中で一つに編み、帯布と共布の大きなリボンをつけた。
「若旦那さまの、都にいた頃のお友だちだって言うから、粗相がねえようにな。都の人は気取ってっから、特に気ぃつけんだぞ」
都? 脳裏に追っ手のことが過ぎる。
いや、まさか。
手が剣へと伸びた。
「そんな物騒なもん、持ってくもんでねえぞ」
コズエの抗議をよそに、リュートはドレスのふくらみの中に剣を押しこんだ。
ようやく支度が整い、客間へ通される。ここへ来るのは初めてだった。
「若旦那さま、名医さまンとこの若さまが来ました」
コズエの後から客間に入ると、暖炉の前のソファでヒナタと客人が談笑していた。客は男女の二人連れで、ヒナタより一〇か一五ほど年上に見えた。身なりは、付近の村や街で見かけるものとは明らかに違っていた。男はたっぷりしたリンネルのシャツを着ており、フリルがムダに多くついていた。ズボンは腰から腿にかけて大きくふくらみ、膝から下がピッタリと脚に吸いついていた。女のほうはといえば、髪もドレスも大きくふくれあがり、きらびやかな宝飾品を一面ふんだんに散りばめている。さながら歩く宝飾店だ。これが最近の都の流行とみえる。
「まあまあ、おかわいらしいこと!」
最初に声を出したのは女のほうだった。
「こちらへいらっしゃい。お顔をよく見せて」
ヒナタのほうは何度もまばたきを繰り返していた。
「リュート……だよな?」
得心がいかない面もちである。
「何用か? さっさと済ませて帰りたいのだが」
愛想もへったくれもない口調に、ようやくヒナタは我に返って手招きをした。
「こっちへおいで。紹介するから」
客はコズエの言う通り、ヒナタの都時代の友人夫妻だった。名を、メントル家のトレゾとリステルという。
「リュート、ご挨拶しなさい」
ヒナタに促され、リュートはスカートの裾を軽くつまんで足を引き、軽く体を上下させた。
「ほう。こんなところで貴族式の礼儀を知っている子に会えるとはな」
トレゾが感心したように顎に手を当てた。
ヒナタは苦笑した。
「意外な芸があったな。おまえは不思議な子だ」
「こうして近くで見ると、本当にきれいな子ね。異国風の顔立ちだわ」
リステルがリュートの顔をまじまじと眺める。
「こんなきれいな女の子が、あのユキの養女とはな。もう、とうに手をつけられて、嫁さんになるのを待つだけだろう」
トレゾは笑った。
「いや、シズカが目を光らせてるからだいじょうぶさ。オレだって許すものか。この子には、しかるべき嫁ぎ先を探してやろうと思ってるのさ」
ヒナタはソファの背にもたれ、気楽に話す。
リュートはこんな話を聞くのは初めてだったが、素知らぬふりをしていた。
「この子は変わった子でね、いつもは男の身なりをして馬に乗ってるんだ。剣まで腰にさげてね。ケンカも強くて、自分より二周り以上も大きい村長の息子を片手でひねるんだぜ。そのクセ賢くて、我が家の所蔵本をほとんど読破するわ、ユキの後について往診はするわ、おまけに働き者ときてる!」
「よくわかったよ、君がこの子をひどく気に入ってるっていうのはね」
トレゾが笑ってさえぎった。
「でも、妻がこの子を気に入るかは別だよ。遊びに連れていかれたら、いきなり川で魚獲り……なんてのはナシだよ?」
「それはないよ。ただのお転婆じゃないからね。将来は、うちのチビどもの家庭教師にしようと思ってるくらいだから」
これも初耳である。
ヒナタには六歳から二歳までの娘が五人いる。勉学に向いていればじゅうぶんな教育を受けさせたいと口にしているのは聞いていた。だが、自分には関わりないことだと聞き流していたのだ。
「田舎にはもううんざりよ。早く都に帰りたいわ。ヒナタ、あなたは田舎育ちだから馴れっこでしょうけど、私は都育ちでしょう? たまらないわ。田舎の人って、どうしてこうノロマで頭が悪いんでしょう! ああ、あなたは別よ、ヒナタ。でも、もうたくさん! この一年で田舎臭さがしみついてないか心配だわ。それに、都の流行にすっかり遅れてしまったわ。帰ったら急いでお友だちに聞いて、新しい服を作らなくっちゃ」
リステルは大きな頭を憂鬱そうに振る。
ヒナタは笑った。
「たった一年で? 昔、私が都にいた頃は、あなたはもっと質素な暮らしをしてたんじゃないかね? 頭だってドレスだって、そんなにムダにふくらんじゃいなかったのに」
「時代は変わったの!」
リステルは憤然と言い返した。
「今の王妃さまは流行を生み出す天才なんだから。今日はルビーが流行ったかと思えば明日はサファイヤが流行るかもしれないのよ。ぼんやりして遅れちゃたまらないわ」
「まったく出費がかさんでたまらないよ」
トレゾがこぼした。
「あなたって人は! 私が他の貴婦人方に笑われてもいいって言うんですか!」
「まあまあ」
ヒナタが間に割って入った。
「リステルにはもちろん美しく着飾っていて欲しいけど、王妃さまには多少自重してほしいよ。税金の取り立てが厳しくてね」
「君もか」
トレゾがため息をついた。
「私もそうだよ。だから、この一年、田舎暮らしに甘んじたんだ。皆が厭がる田舎周りを引き受ければ昇給されるんでね」
「王妃さまは宰相の一人娘だろ? 国庫でなく、ご実家の財産で贅沢してくれないかなあ」
「まあ! あんなにおきれいな王妃さまに向かって!」
ため息の男二人向かってリステルは息巻いた。
「きれいって、ご本人を見たことがあるのかい?」
「なんておそれ多いこと! 肖像画よ。都中にたくさん飾ってあるじゃないの」
トレゾが手で口元を覆い、ヒナタにささやいた。
「王妃さまには、お抱えの画家というのが何十人もいるって話だぜ? まったく少しは国庫のことも考えてもらいたいな」
ヒナタは顔を輝かせた。
「悪い話じゃないじゃないか。国が画家の後ろ盾になれば芸術の、ひいては文化の発展につながる!」
トレゾは力なく首を振った。
「画家という画家がすべて王妃さまの肖像を描いてもかい? 王妃さまはね、ご自分の見目麗しいお姿をいっそう美しく描かせてだね、都中、人の集まるところならどこにでも、ご自分の絵姿を飾らせてるんだよ。これのどこが芸術の振興に結びつくんだね?」
「で、実物は本当に麗しいのか?」
「君、君、下級貴族の私に、お目通りできる機会なんかあると思うかね?」
二人は小さく笑った。
リステルは無礼者の二人を遮るように、大声でリュートに話しかけた。
「ところで、あなたいくつ?」
「一二」
リュートが短く答えると、メントル夫妻の驚愕の声が響いた。
「一七くらいかと思ってたわ」
「まだ成人もしてないのか」
ヒナタが得意そうに笑みをたたえた。
「大人びてるだろう。それに、この年で我が家の蔵書を読破するんだからな、頭のほうも推して知るべしだ」
そこへ使用人が食事の用意ができたことを知らせに来た。三人は立ち上がる。
「リュート、おまえもおいで」
退室する心づもりでいたリュートにヒナタは呼びかけた。
「ご夫妻は今日から一シクル我が家に滞在される。おまえはうちに寝泊まりして、ずっとお相手してさしあげなさい。この村では、私をのぞけば、おまえが一番教養があるのだからね」
「楽しませてちょうだいね。田舎娘には飽き飽きなんだから」
リステルが悪のりするように笑った。