〜 リュウイン篇 〜

 

【三 辺境の地(三)】

 

 

 帰宅すると、すぐに夕食だった。

 リュックの中から日持ちのしないもの、腐りかけのものを選り分け、それらを中心に料理する。今夜は川魚の干物が主役だった。腐臭を放ちはじめていたのだ。

 野菜のスープに川魚の干物、堅いパン、青菜の漬け物が夕食のテーブルに載った。

 ユキは口をきかなかった。目も合わせず、まずそうに黙々と口に運んだ。

 リュートは湯屋に行った。焚き付け口で火を熾す。ふいごで風を起こし、炎に勢いをつける。朝割った薪をくべ、沸いた湯をポンプで湯屋の床に送りこむ。

 湯屋の床には浅く湯が張られ、その上にすのこが敷かれている。入浴者はこの上で蒸気に当たるのである。室内が心地よい蒸気で満たされると、リュートはユキを呼んだ。

 ユキの入浴は長い。火加減を見るため、その間、リュートは焚き付け口を離れることはできなかった。しかし、手は空いている。

 リュートは葦毛を呼び、鞍の下から剣を取った。出かける前に仕込んでおいたのである。

 炎の調子を見ながら、剣を振る。稽古を休むわけにはいかなかった。追っ手に見つかれば、この腕だけが頼りだった。鈍らせるわけにはいかない。

 湯屋の中から鼻歌がやんだ。ユキが出たのだ。

 家長は毎日湯屋を使えるが、リュートや老人は三日に一度である。今日はその日ではない。厩へ行き、ラバと葦毛に水と飼い葉を与え、一日の仕事すべてが終わると、ようやく自分たちの食事である。二人分の夕食を離れに運ぶ。

「疲れたろう。火のそばに寄りなさい」

 穏やかな老人の声が迎えた。

 すでに日は落ち、離れのよろい戸は閉まっていた。暗い室内を、テーブルの上のランプが赤々と照らしていた。ストーブは熱く燃えており、その前で猫たちが丸くなって眠っていた。

 朝と同様、猫たちに餌をやり、席について老人と食事を摂る。

「今日、ムギホが来てな、焼いた鶏を置いていった。納戸から取ってくれんか? パンと菜漬けも一緒にな」

 鶏の肉塊をストーブの上であぶると、獣脂の香りが立ちのぼった。食欲をそそられる。

「食べなさい」

 勧められるままに、リュートは食べた。夜の早いうちに食べたものは、翌朝匂わない。ユキに勘づかれるおそれはないのだ。

「どうだ? 旨いか?」

 肉は固く筋張り、おまけに痩せていて、お世辞にも旨いと言えるシロモノではなかった。が、いくらでも食べられそうな気がした。空腹が最大の調味料だとは、よく言ったものだ。

「ムギホどのは、何の用事で来られたのですか?」

 リュートが訊ねると、老人は笑顔で答えた。

「来年の気候を訊ねに来たのだ。種付けに迷っておるらしい」

 ムギホは農民である。一家を養うには充分の広さの土地を持っており、豊作続きのため経済状態もよい。それもこれもジイちゃんの天気予報のおかげ、とムギホはミヤシロ翁を敬っている。

「博士どのは人望が厚い」

「そなたの母君ほどではあるまいよ」

 リュートの顔が思わずほころんだ。黒目がちな目が生気を得て輝き、くちびるがやわらかいカーブを描いて、左の頬にかすかなえくぼを刻む。

「博士どの、勉強に入りましょう。母上の名に恥じない者にならなければ」

 老人はにっこり笑い、ノートを出した。朗々と語り始める、凝縮された科学知識を。

 リュートは石版を取り出し、老人の声に耳を傾けた。時折メモと質疑を繰り返しながら、与えられる情報を自分のものにしていく。

「……天気の変わり方というものは、土地によって異なるものだ。たとえば、この辺りでは西風が吹けば冬がくると言われているが、リュウイン北部のマヨル山脈では北風に雪が飛ばされてくれば冬がくると言われている。マヨル山脈は、そなたの出生地だったな」

 老人は目を細めた。

「はい」

 リュートはうなずいた。

「母は崖から落ち、谷底の村人に助けられ、厩で私を生んだのです」

 厩がいちばん安全だったからだ。乗馬にもっとも近いところだったから。

「しかし、育ちはロックルールの郊外です。マヨルの言い伝えは存じません」

 老人はうなずいた。

「王都ロックルールはリュウイン王国の北東部に位置しておる。北はウルサとの国境のマヨル山脈まで馬で二日の距離がある。東はパーヴとの国境のエスクデールまで半日の距離だ。北には大国ウルサが構え、東にはパーヴが隣り合っておる。戦争には向かぬが、文化の交流には適した街だ」

「しかし、国境には兵士がおります。人の出入りには厳しく、交流の妨げになるのでは。権力者が望まぬものは何一つ出入りできますまい。物も人も」

 つい、リュートは我が身に振り替えて考えた。

 老人は笑った。

「ではいっそ、西へ出て、南回りでパーヴに出るがよい」

「西に? しかし、西は未開の森が行く手を遮っております」

「うむ。西には未開拓の森林が広がり、南には密林が広がっておるな。道はなく、人は立ち入らぬ。兵士も同じことよ。ならば、誰にも妨げられず、ぐるりと国を迂回して、東の隣国パーヴに入ることができるわ」

 リュートは目をみはった。未踏の地を迂回するなどという発想は聞いたことがなかった。

「なにも、それほど驚くことではない。東の隣国パーヴは、リュウインより南に長い。なぜだかわかるか? 密林を開拓したのだ。それだけの話よ。よいか、我々の知っている場所だけが人間の生きる土地ではないのだ。国がなくとも、人は生きられる。パーヴの北東にはな、ファイアウォーという街がある。どの国にも属さぬ商人の街よ。ここにはあらゆる土地から人や物が集まってくる。リュウイン、パーヴ、ウルサ、イリーン、さらに東の果ての沿岸地帯……」

 老人の目が夢見るように輝き、吐息が漏れた。

「博士どのは、まるで見てきたかのような言われ方をする」

 リュートが小さく笑みを浮かべると、

「わしはこの目で見たのだよ」

 老人はにっこりと笑みを浮かべた。

「昔、パーヴにおった頃、気球に乗ったのだ」

 気球。聞き慣れない言葉だが、リュートは知っていた。

「気象観測のため、上空に浮き上がる乗り物ですね」

「そう、まこと、気象観測のためだった。しかし風に流されてしまっての、思わぬ長旅をする羽目になったのだ。わしは海を見てしまった」

「海? 海とは?」

「東の外れに大きな山脈があっての、越えると海が見えるのだ。海とは大きな水の塊よ。水が地平線を作っているのだ。見渡す限り、先はすべて水なのだ」

「水の塊? 湖のようなものですか?」

「いや、比べようもなく大きい。水は塩辛く、常に波立っており、その波も大きいのだ。魚や貝も大きい。わしの気球は流されて大山脈を越えてしまった。戻ることも叶わず、仕方なく着陸したが、そこには海の民が住んでおった。半年後にようやく風向きが変わり、わしはパーヴへ帰ることができた。

 ああ、今でもあの光景は忘れられぬ。地平の先まで海が広がり、空と溶け合うのだ。見渡す限り、青一色となるのだ」

 この老人は、確かに気球に乗ったのだ。パーヴで昔作られたと母から聞いた覚えがある。莫大な建造費用を要したため、国から援助があったという。この老人こそが、その主人公ではないのか。

「もしや、博士どのはパーヴの貴族だったのではありませんか」

 リュートは訊ねた。高度な教育や研究の資金面を考えると、そう考えるのが妥当だった。

 老人は力なく首を振った。

「わしは田舎暮らしの貧しい老人よ。わしが持つものは過去ばかりだ。しかし、そなたは違う。長い未来が待ち受けておる」

「私には闇の迷路に思われます」

 リュートは皮肉な笑みを片頬に浮かべた。

 老人はうなずいた。

「それは、灯りの灯し方も、道の進み方も、まだ知らぬからだ。わしの知る限りを教えよう。多少とも知恵がつけば、迷路もまた楽しかろうよ」

「楽しいことなど有り得ましょうか?」

「道連れができるかも知れぬ。一人ではつらい道のりも、連れ立てば楽しかろうよ。経験が積み重なれば、変化を楽しめるようになるかも知れぬ。こんな年寄りの言うことなど、信じられぬかな?」

 老人はいたずらっぽく笑った。

「そなたにも、いつかは友や連れ合いができよう。そなたの心を射止めるのはどんな相手かの。目の黒いうちにひとめ見たいものだ。いやいや、見ずとも目に浮かぶようだ。きっと、そなたのように働き者で、気だてのやさしい男に違いない」

 リュートは違うことを考えていた。

「老いるということは、人生の高みに上りつめるということではありませんか? 過去に徳を積みあげ、経験と知恵とを身につけ、後裔たちに実績のすべてを譲り授けるということではありませんか?」

「なにを怒っておる?」

 老人は微笑みを浮かべて少女の顔をのぞきこんだ。

 少女は無表情で、声も静かだった。

「医師どのも村長どのも親御を粗末にしすぎます。親御あっての現在でしょうに」

「すべての親がそなたの母君のようであるとは限るまいぞ。親が却って子の重荷になることもある。親としての責務を果たさず、子に犠牲を強い、好き勝手をしてきた結果だ」

「博士どのは違います」

「いいや、わしこそが、そのよい例だ。わしは親である資格がない人間なのだよ」

 リュートは口をつぐんだ。胸の中に晴れないもやがある。喉元にこみ上げてくる。この気持ちを、どう言葉に紡いだらよいのだろう?

「私は思います。医師どのは王都ロックルールへ行かれました。もし、博士どのが、医師どのの将来など考えず、ただ手元で稼がせようと思ったなら、王都などには行かせなかった。それ一つとっても感謝すべきだと……」

「息子の将来を考えたのは、死んだ妻のほうよ。毎日の糧を稼ぎ、材木屋との縁談をまとめることで学費を得たのも、すべて妻が一人で為したこと。わしは家族を顧みなかった。空ばかり追っておったのだ。恨むなというほうがムリというものよ」

「しかし、今は暮らし向きを陰で助けておられます。過去をそうして悔いてもおられるではありませんか」

 老人は小さくため息をついた。

「黒猫よ。仔猫たちの妹分よ。そなたはやさしい。親子には、もはやどうしようもない確執というものが生じることがあるのだ。人は、いくつもの欲望を抱いて生きておる。時には義務も責務も投げ捨てて心の赴くままに生きることもある。為すべきことを為して生きるというのは、言うは易くともなかなか実現し得ないものなのだ」

「私にはわかりません。為すべきことを為すのは、ごく自然なことではないのですか?」

「無垢なる心にはた易くとも、惑った心には難しいものだ。いや、そもそも為すべきことを為すのは当然のようでいて難しい。そなたはよくやっておる。だが、覚えておくがよい。いつか選ぶ時がくる、為すべきことか、心が求めることかを。よくよく考えることだ、己にとってなにが大事か。失ってからでは遅いのだからの」

 リュートにはよくわからなかった。気象学を究め、未踏の地から生還し、老後は経験と知識とを村人のために役立て、どうして後悔などあるのだろう。これほど偉大で賢明な老人が。ユキにしても、なぜ親を憎まねばならないのか。教育を受け、思い通りにさせてもらっているではないか。少なくとも、自由に生きることを妨げられてはいない。いったい何が不満だというのか。

「無駄話が過ぎたの。もう時間だ、寝なさい。夜更かしは体に毒だ」

 老人に促されてリュートは席を立った。

 離れを出て、母屋の北東の部屋に入る。リュートに割り当てられた小さな部屋には暖房はなかった。

 ベッドに腰掛け、傍らの小さなテーブルから仕掛かり中の刺繍を取る。ランプの小さな灯りは心もとなげに手元を照らした。濃淡のある緑の葉と、白やピンクや紫の小さなヘザーベルが布を彩る。華麗さには欠けるものの、素朴な美しさがあった。

 リュートはせっせと針を運んだ。子どもの頃から見慣れた風景だ。住まいの外は一面のヒース野原で、夏になれば真っ白い花が視界を埋め尽くした。ピンクや紫の花は、いとこたちと遊んだ野で見たものだ。幸福だった日々が、一枚の布を埋めていく気がした。

 刺繍が完成すれば、シズカが売ってくれる。その金の半分は家計に、残りはリュートの小遣いになる。

 博士どのに、気持ちばかりの小さな品物を買おう。

 リュートは思った。

 その次は、奥方どのや医師どのに。材木屋の三代目どのにも、そのうち礼ができたらいい。

 決めたところまで縫うと、リュートは灯りを消してベッドに潜りこんだ。たちまちまどろむ。

 明日も仕事が待っている。だが、寝首を掻かれる心配はない。ここは王都より遠く離れた辺境の地。眠ってもよいのだ。

 長い睫毛が下がり、眠りの海に沈んだ。

 

 

   

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