〜 リュウイン篇 〜

 

【二 田舎医者(二)】

 

 

 薪割り場は勝手口と風呂場の裏にある。ここからは馬小屋と、青い山並みが見えた。長大な山脈の向こうには、北の大国があるという。

 西は離れに遮られて見えないが、森林が広がっているはずだ。未開拓のジャングルで、その向こうに何があるのかは知らない。国があるのかも知れないし、地の果てや、もしかしたら黄泉の国があるのかも知れない。

 自分には関係ねーや。とユキは思う。

 それより要るのは使用人だ。代わりに薪を割り、騾馬の世話をし、時にはカバン持ちをしてくれる働き者がいい。見たくれもそこそこ良くなくちゃ困る。頭も悪くちゃ困る。都帰りの名医の顔に泥を塗られてはたまらない。

 口が軽いのも困る。さみしいどこぞの奥方への献身的な治療をシズカに言いつけられた日にゃあ……。

 思わず身震いした。シズカは実家へ帰り、ユキは義父にこってり搾られるだろう。義父にはまったく頭があがらないのだ。

 薪割り用の小ぶりの斧を振りあげる。斧は薪をかすり、台に突き刺さる。薪は回転して飛び、順番を待つ薪の山に当たった。

 もう、ヤメだ、ヤメだ!

 ユキは斧を放りだした。両手に息をかけ、上着の襟元をかきあわせて空を仰ぐ。

「また、降るかなあ」

 季節外れの降雪はあれ以来なく、秋らしい晴天が続いた。積雪はあっという間に消え、生き残った雑草と枯れ葉が地面を覆った。

 だが、一カ月が経ち、季節は移ろった。もう、いつ雪に見舞われてもおかしくはない。

 現に、空には重たげな雲が垂れこめ、頬を冷風が叩く。その風が湿り気を帯びているような気がするのは、気のせいだろうか。

「今日はもう天気が悪い。悪天候なんだから、しょうがない」

 いいわけがましくつぶやいて、勝手口から中に入った。観音開きの窓を閉めると、室内は真っ暗になった。ランプに火をつける。台所の床下から瓶を出し、ひしゃくで中身を汲みだす。大人の片手にあまる黄褐色の椀に白く濁った液体を満たし、ぐいぐいと飲み干す。

「ふうーっ。寒い日はこれがなくちゃなあ」

 再び、椀をいっぱいにする。二度三度は四度五度になり、しまいには数え切れなくなった。

「ユキ! なにやってるの!」

 廊下側の戸口から、鼻にかかった女の声が飛んできた。丸いシルエット。

「仕事もしないで、真っ昼間から飲んでばっかり!」

 床がきしんだ。足音荒く、シズカが近づいてくる。

「い、いやあ、まだ一杯めだ。天気が悪くてな」

 ユキはあわてて口走ったが、耳には、こんなふうに聞こえた。

『まら一杯めら。天気が悪くれな』

 気のせいだろうか?

「ウソおっしゃい!」

 シズカは勝手口に駆け寄り、扉を開いた。冷気とともに白いものが吹きこんでくる。

「ホントだわ。ひどい雪」

「まさか」

 これも『ましゃか』と聞こえた。いや、空耳に違いない。

 ユキは椀に口をつけながら歩み寄った。足がふらつき、椀の中身を床と服とにこぼした。

「おっと、もったいない」

 急いで飲み干す。

「飲み過ぎよ」

 シズカが椀を奪い取った。その肩越しに、白に支配された世界が見えた。土の色はなく、かすかに白い小山が見えた。積みあげられた薪である。その先にあるべき離れは見えなかった。大きな白いつぶてが横様に吹きつけ、視界を奪っていた。

 氷のような欠片が頬を激しく叩いた。勝手口の戸口がみるみるうちに白く染まる。シズカが身を翻して扉を閉めた。

「積もったもんだなあ」

「まだ積もるわ」

「おお、冷えちまった。もう一杯やって暖まろう」

 ユキは腕をさすって、シズカの手から椀を取り返そうと手を伸ばした。

「飲み過ぎって言ってるでしょ! ろれつが回ってないわよ!」

 シズカは左手を腰に当て、睨めつけた。

「オレは酔ってないぞ!」

 強気を装いながら、ユキは手を引っこめた。

 亭主が負けてやるのが家庭円満の秘訣だからだ。オレは酔ってないんだぞ! 譲ってやるだけだ。

「おとなしくストーブにでもあたっててちょうだい。私はリュートちゃんに刺繍を教えてますからね」

「はいはい」

 リュートが並外れて器用なのは、すでに知っていた。初めて縫ったという作品を見せられて、刺繍としての価値はいざ知らず、その針運びが見事なのにはユキも驚いた。針を刺す間隔も、糸の張りも一定で、外科医でもなかなかこうはいかない。

「あの子、とても飲みこみが早いのよ。教えがいがあるわ。今は勿忘草の刺繍をさせてるの。あれ、売り物になりそうよ」

「おおいに鍛えて稼がせろ。うちには、怠け者に食わせるメシはないんだからな」

「飲ませるお酒もないわ。少しは反省したら?」

「オレは家長だぞ!」

 ふんぞり返った拍子に、よろめいて尻もちをついた。

「な、長い足がもつれたんだ!」

 あきれて見下ろす妻にうそぶく。

「はいはい。おまけに舌もね」

「オレは酔ってないぞ!」

 身重の妻はぶざまに座りこむ亭主を後目に姿を消した。

 名医の家長はストーブに火を入れた。手をかざし、ひとしきり不満をつぶやくと、いつのまにか眠ってしまったらしい。激しい風の音で目が醒めた。

 体をさすり、戸棚に向かう。

「こんなに寒くちゃ、飲まないわけにいかないよなあ」

 椀を取り、例の瓶へ向かう。

 風の音はいよいよ激しく勝手口の扉をたたく。扉は破れんばかりに騒々しく揺れる。

「うるせえな、このクソボロ屋!」

 椀を傾けながら毒づくと、誰かに呼ばれたような気がした。

 酔ったかな、と首を振り、さらに椀を傾ける。

 湯気の立ったポットを持って、シズカが廊下から現れた。

「まだ飲んでるの? いい加減になさい」

 勝手口の扉が大きく揺れた。

「せん……せ……」

 妙な声が聞こえ、シズカが身を固くした。

「ユキ、誰かいるわ。出て」

 一家の長はストーブの火かき棒を押しつけられ、勝手口に引きずられた。

「だ、誰だ」

 扉に顔を寄せ、誰何してみる。

 風のうなりに混じって、野太い男の怒鳴り声が返ってきた。

「村長んとこの使用人のコカゲでさぁ。坊ちゃんが急病で。診てくだせぇ」

「急患か?」

 火かき棒を置いてかんぬきを外し、扉に右肩をつけた。力を込めて押すと、そろそろと開いた。湿った冷気と大粒の雪が吹きこんだ。真っ白に染まった小山がすばやく中に飛びこんでくる。ユキが力を抜くと、扉は音を立てて閉まった。かんぬきを締め直し、向き直ると、客はシズカに手伝わせて分厚い外套を脱いでいた。牛の皮をなめしたもので、使用人には分に過ぎるものだった。たぶん村長のものだろう。その下から十歳前後の太った少年が現れた。村長の跡継ぎ息子のトビである。革ひもで使用人の背中にくくりつけられていた。

「診察室に火を入れてこい」

 シズカはあわただしく廊下に出た。

 少年がうなった。

「いてぇよぉ」

 寒さのためか、痛みのためか、顔は青ざめていた。

「症状は? 具合はどうなんだ?」

「腹がいてぇと。腹痛の薬を飲んでも治まらねぇんで」

 コカゲは名前に似ず大柄な男で、腕の太さは女の胴ほどもあった。村長の家がある本村から村外れのここまで、大人の足で一ニックはかかる。この吹雪では道が埋まり、馬車を走らせるどころか、雪を漕いで歩くだけでも難儀するだろう。並みの人間なら行き倒れになったかも知れない。

「とにかく診よう。診察室に」

 暗い廊下に出ると、冷気が体に押し寄せてきた。壁についた両手から体温が奪われていく。

「先生?」

「こっちだ」

 壁に両手両肘をつけ、もたれるように進んで、突き当たりの扉を開けた。

 室内から頼りなげな黄昏色が漏れた。足下に影が長く伸びている。元をたどると、もっとも輝かしい黄金色の炎を、丸い図体がふさいでいた。シズカだ。せりだした腹のためにしゃがむことができず、苦しそうに身をかがめ、ストーブに薪を入れていた。炎の勢いはまだ弱い。

「早く部屋を暖めろ」

 ユキはシズカに声をかけ、右に進んだ。寝台と机があった。

「そこに寝かせよう」

 薄暗い中、大男の背中から肥えた少年を降ろす。少年は寝台の上に、体を丸くして横たわった。

「さみぃ。さみぃぞ。凍え死ぬ」

 やや太い声で、少年はうなった。

「このベッド、かてぇ。骨が折れる。死ぬ」

「ベッドが固いぐらいで、どこのどいつが死ぬもんか」

 ユキはあきれ声で言った。机から聴診器を取る。

「オレは死ぬんだよ! デリケーキにできてるから」

「それを言うならデリケートだろ。どこがデリケートだ」

「うるせぇ、このヤブ医者! よけいな口きいてねぇで、とっとと腹痛治せ!」

「わかったわかった。今診てやるから、腹を出せ」

「こんなさみぃところで出せるか、ボケ!」

「うるせぇな。コカゲ、そいつを抑えてろ」

 ユキが指示すると、大男は身を縮めた。

「カンベンしてくだせぇ。坊ちゃんに手を出すことはできねぇ。旦那さんのご命令なら、話は別だけんども」

「村長にはオレから言ってやるから。いいから、トビを抑えろ」

「カンベンしてくだせぇ」

 ユキは眉をつりあげた。

「おまえは何のためにこいつを運んできたんだ! ガキのわがままにビクついてんじゃねえ!」

 大男はいっそう背を丸め、うつむいた。

「まったく使用人ってヤツは使いものにならん! シズカ! ここに来てこいつを抑えろ」

 村長の息子は寝台から滑り降り、大男の後ろに隠れた。

「おい、おまえ、この生意気なヤブ医者をやっちまえ」

「坊ちゃん、カンベンを」

「うるさい、おまえは黙って言うことをきいてりゃ……いつつつ……」

 腹をかかえて、その場にうずくまった。

「ほら、ごらんなさい。おとなしくベッドに寝てお腹を診てもらわないからよ」

 シズカがよたよたと少年の後ろに寄ってくる。

「うるさい! このウシ女!」

 年齢よりもはるかに立派な体格をした少年は、ふり向きざまに両手で妊婦を突き飛ばした。

 丸い体が、あっけなく傾いた。背中が無防備に落ちていく。

 シズカは両手で腹をかばった。

 とつぜん、落下速度が緩み、ゆっくりと尻が床についた。後ろから抱きすくめた腕がほどかれ、肩越しに小さな白い顔が現れる。

「大事はないか、奥方どの」

 病床で刺繍に耽っているはずの少女だった。シズカは声もなく、ただ黙ってうなずいた。

 黒髪がひるがえった。妊婦に無礼を働いた少年の腕をつかみ、背中でひねる。

 かん高い悲鳴が響く。

「つかまえておればよいのか、家長どの」

 ユキはわざとらしく咳払いした。

「家長じゃない。オレは名医だ」

「名医どの」

 眉一つ動かさず、新しい助手は訂正した。

「よしよし。いい子だ。まずベッドに寝かせてもらおうか」

 助手より二回りは大きい少年は、その場から動くまいと足を突っ張って必死に抵抗した。

 細身の病床人はまともに力くらべをしなかった。腕をわずかに動かし、若干ひねりを加えただけだった。

「折れる。腕が折れる」

 少年の悲鳴はかん高さを増した。少女に軽く背を突かれると、改心したらしく、素直に歩いて寝台に上がった。しおらしく横になる。

「さて、痛いのはどこだ?」

 ユキは足の上に乗り、服をめくって聴診器を当てる。

「痛い目見るのはおまえだ!」

 とつじょ、少年が身を起こした。

 いや、起こしかけたが失敗した。枕元の少女が間髪を入れず少年の額を寝台に押し戻したからだ。

 少年の両手が少女の眼に伸びた。人差し指がまっすぐに伸び、黒い眼を狙う。

 少女は軽々と左手で両手首をとらえ、寝台に押しつけた。その手は歳の割には大きく、大人の男のように皮膚が厚くこわばっていた。

 ユキは小気味よさそうに笑った。

「どこを押されると痛い?」

 鳩尾から下へ、順に押していく。臍の左下にさしかかると、村長の令息は悲鳴をあげた。

「死ぬ! 死ぬぅ!」

「こりゃあ盲腸だな。切るか」

「ひっ、人殺し!」

 丸い顔が恐怖にひきつった。渾身の力をこめて暴れる。頭と腕こそ抑えられて動かなかったが、脚力はじゅうぶんに発揮できた。上に載っていた自称名医を寝台の下に叩き落としたのである。

「クソガキ!」

 若き名医は机の上から注射器を取った。

「今すぐ眠らせてやる!」

「やっ、やめろぉぉぉっっ!」

 銀色に光る鋭い突起物を見て、恰幅のいい不遜な少年は叫んだ。

「コカゲ、助けろ! イヤだイヤだ、誰か助けてくれえぇぇぇっっ!」

 絶叫は、とつぜん途絶えた。少年の首が力なく寝台に沈んだ。

 大きいがほっそりとした手が、少年の首筋から離れた。

「気を失わせたが、よかったか? 名医どの」

 少女は手刀をおさめて、大人びた黒い眼をユキに向けた。

「ああ」

 ユキはうなずいて注射器を元の場所に戻した。しかし、注射器はなぜか机の上から転がり落ちた。

 あれ?

 目眩がしたような気がした。

「麻酔薬を飲ませて、すぐに手術にとりかかろう。手遅れになったらたいへんだ」

 壁や天井の燭台に次々と火を入れると、寝台の周りは昼間のように明るくなった。

  麻酔薬を飲ませるには、また一騒動ありそうに思えたが、リュートが解決した。意識を失わせたまま、すこしずつ口に麻酔薬を流しこみ、胸をさすって嚥下させた。

「まあまあだな」

 手際よい処置に気圧されながらも、ユキはうそぶいた。

「もっと最初から手伝ってくれりゃいいのに。気がきかないヤツだな」

「すまぬ。差しでがましく思ったので」

「今回は大目に見てやるが、次はこうはいかないぞ」

 手術刀の入った箱を開けさせる。

「これはな、王都ロックルールであつらえた道具だ。誰でもそう手に入れられるものじゃないんだぞ」

 手術刀を手に取り、灯りにかざして見せる。

「どうだ。美しいだろう!」

 おや?

 手術刀が灯りに揺れているように見える。

「先生?」

「ユキ?」

 大男と妻が同時に言った。

「手が震えてるわよ?」

「ただの武者震いだ。王都で鍛えた腕が鳴るな!」

「先生……」

 大男が上目遣いにおそるおそる話しかけた。

「なんだ!」

「ここに着いた時からずうっと気になってたんだけんども、先生酔っぱらって……」

「オレは酔ってなんかいないぞ!」

 ユキは手術刀を振り回した。

「だいたい、オレ以外の誰が手術するっていうんだ。麻酔はもう飲ませちまったし、これは強い薬だから一回飲ませちまったら大人だって一シクルは間を置かなきゃならないんだぞ。子どもだったらその倍で二シクルだ。そんなに待ってみろ! 手遅れになるぞ!」

「だから、飲み過ぎだってあんなに止めたじゃない!」

 シズカが怒鳴り返した。

「それに、そんなにたいへんな薬なら、酔いが醒めてから飲ませればいいのよ! なにが酔ってないよ! ユキ、あなたそれでもお医者さま?」

「誰がなんと言おうと、手術はする!」

 ユキは手術刀を火に当てた。

 蜜蝋の蝋燭から立ち上る炎は、手術刀を嫌がるかのように、右に左に逃げる。

 くそっ。火までオレをバカにするのか。

「おまえにやらせてやる。火に当てろ」

 かたわらの少女にメスを押しつける。

「シズカ、おまえはメシの仕度でもしてろ」

「ユキ……」

「手術なんか、女の見るもんじゃない。コカゲ、おまえもさがれ。どうせ凍えてるんだろ。台所で温かいものでももらって食ってろ」

「ユキ!」

「出てけっ!」

 額に青筋を立てて怒鳴り、残りの手術刀をつかんで投げる真似をした。

「脅しじゃないぞ。出ていかなかったらひどいからな!」

 二人は不満げながらも、おそるおそる診療室を出ていった。

 ユキは手術刀を無造作にケースに放りこんだ。

「やれやれ。シロウトはこれだから」

 いいわけがましくつぶやき、炎の中のもう一本に目を留めた。

「もういいだろ。寄こせ」

 幼い助手の手にある手術刀を奪った。いざ切ろうと構える。

 黒髪の助手は患者の腹を薬液で拭いた。

 そうそう。消毒が必要だったな。オレ、もう指示したんだっけ? きっとしたんだろう。そうだ、したに違いない。そうに決まってる。

 ユキは消毒を待って、手術刀を腹に当てた。手元がゆらりと揺れる。見当はずれの場所に刃が落ちつく。

 違う違う、そこじゃない。

 手術刀を当て直す。また、ズレている。

 いや、そこじゃない。

 三度手術刀を当てた。

 行きすぎだ。そこじゃない。

 何度やり直しても、狙いが定まらない。

「代わろう」

 向かい側からくぐもった声がした。いつのまにか頭と口を白い布で覆い、白い手術服を身につけた助手がいた。黒い眼光が、やけに落ちついている。

「バカなことを言うな」

 ツバが飛んだ。

 しまった。マスクをつけ忘れた。帽子もかぶっていない。そもそも手術服を着ていないじゃないか。どうかしている! 今までこんなことは一度もなかったのに。

 辺境の医師は己を恥じ入った。しかし、それは一瞬だけのことだった。

 シズカが悪いんだ。今まで何度も手術を見ているクセに、服を着せていかなかった。トビも悪い。おとなしくしてないから調子が狂っちまったんだ。

 それにしても……。

 自称名医は向かいの助手をぼんやり眺めた。

 なんだって、こう手際がいいんだ?

「おまえ、いったい……」

「虫垂炎は多少経験がある」

 くぐもった声が歯切れよく応えた。

「経験ったって、患者じゃ意味ないんだぞ」

 言いながら思いだす。手当をした時、少女の体に盲腸炎の痕跡はなかった。

「名医どのは体調を崩しておられる。せっかくの名医ぶりも、その指先ではじゅうぶんに発揮できまい」

 黒い眼が、田舎医者の反応をうかがっている。

「手順はひと通り知っておる。名医どのの手先の代わりにしてもらえまいか」

「知ってるのとできるのとは違うんだぞ。わかってんのか、子どものクセに」

「名医どのがついておられるのだ。うまく行くに決まっておる」

 ユキは少し考えた。

 刺繍の件で器用さは証明されている。眠っている患者に飲み薬を嚥下させる方法も知っていたし、手術刀を熱する時の手つきも堂に入っていた。何事につけ手際もよい。

 自分の手を見た。

 この思い通りにならない手よりマシかも知れない。もしこのまま続ければ、確実によけいな部分を切ってしまう。

「やってみろ」

 ユキは手術刀を差しだした。

 白い手に渡るなり、刃物は銀色に閃いた。迷いのない鮮やかな手際だった。

 それは、都帰りの医者に、学院時代を思い起こさせた。まるで、教授の模範演技を再現しているかのようだった。

 縫合も確かだった。

「おまえ、医者の娘か?」

 手術が終わると、ユキは訊ねた。にわか医師は首を振った。

「じゃあ、どこで習った?」

「うまく行ったのは名医どののおかげだ」

 白い手が薬液に浸かった。寝台のわきに用意された洗面器に、いつのまにか消毒用の薬液が満たされていた。

「いい手術刀だ」

「そうだろう。なんたって、王都ロックルールの王立医学院で手に入れたんだからな」

 手術刀の話は、ツボをついた。ユキはたちまち上機嫌で、次々に器具の自慢話を始めた。

 患者の容態も少々気になってはいた。だが、見たところうまくいったようだし、もししくじっていれば助手のせいにして言い逃れもできる。

 霞がかかったような頭で、ぼんやり考えていた。

 

   

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