〜 リュウイン篇 〜

 

【二 田舎医者(一)】

 

 

 薄めたインクのような色の雲が空に垂れこめていた。冷たく湿った風が草むらを揺らす。

 草丈の短い場所を選んで、騾馬が足を運ぶ。音を立てて、馬車の車輪が後に続く。御者台では若い男が揺られていた。二十代半ばだろうか、中背で恰幅がいい。栗色の髪を肩で切りそろえているところを見ると、学者か医者であろう。

「寒くなってきたな」

 男は黒い外套の胸元をかきあわせた。

「まだ秋だってのに、もう雪かよ。ちくしょう。親爺の天気予報が当たりやがった」

 男は明るい茶褐色の目を前方に向けた。小さな森が視界の半分を占拠していた。

「とんだ寄り道だ。それもこれも、あの亭主がいきなり帰ってくるからだ。お楽しみはこれからって時に」

 手綱を振ると、騾馬の足が早まる。

「水はあの中だぞ。町で飲みそこなった分、あそこで飲めよ」

 小さな幌馬車は、森に入った。

 密に繁る木々の間に乗り入れた瞬間、目は視力を失った。曇天の日ではない。幾重にも枝葉が陽光を妨げていた。

 ようやく樹木の間隙を見分けると、無意識に引いていた車輪のブレーキを外す。下草が車輪の下に踏みつぶされていく。車輪の音が、森の奥へと吸いこまれていく。木霊はない。葉ずれの音と、鋭い鳥の声が、騾馬と車輪の蹄の音に混じる。

 ほどなく、水音が仲間入りした。

 樹木の間隙が広くなり、視界が広がる。

 幌馬車三台分ほどの水たまりが目に入った。水面は静かだが、中央よりやや奥が盛り上がり、若干上下をくり返している。わき水だ。

「よしよし。まだ残ってたか。しばらく来ない間に涸れたかと心配したぜ」

 男は御者台から飛び降りた。草の間から泥が跳ねた。

 騾馬を馬車から外し、水場へ導く。

「たっぷり飲めよ。家までは、まだまだ先が長いんだからな」

 男は御者台から水筒を取り、わき水の源へと手を伸ばした。水を詰めると、顔を洗う。

「ふう〜っ、冷てぇ〜」

 当たり前のことを言って首を振る。

 目の端に、黒い影が映った。

 男はふり向いた。何かが馬車から飛びだしたように見えた。

 馬車に駆け寄り、幌の中をのぞく。荷物が崩れている。くくり紐が切れ、包み紙が破れている。

「出て来いっ! コソ泥めっ!」

 男は叫んだ。すねの半ばまで覆う草をかき分け、こぶし大の石を見つけては投げた。胸に届かんばかりに生い茂った下草の中に、石が二つ、三つと消える。

「出てきやがれっ! この盗人!」

 騾馬一〇頭分向こうで、高い背丈の草むらが揺れた。

 男は我が意を得たりとばかりに唇の両端を上げ、頬にくぼみを作った。ますますもって、見込みの箇所にねらい撃ちする。

 草むらが左右に大きく開いた。黄灰色の影が飛びだす。

 大山猫だ。体長は子どもの背丈ほどと小柄だが、鋭い爪や牙は人間の比ではない。

 開いた口は見事な緋色で、男はその場に釘づけになった。武器一つ探す機転は、この危機において、まったく働かないのだった。

 オレは死ぬ!

 男は運命の刻を待った。

 だが、いつまでも終幕は訪れなかった。

 気がつくと、黒い影が黄灰色の獣と組み合っていた。ほどなく、カタはついた。黄灰色の獣が地面に転がり、動かなくなった。

 黒い影は体を震わせていた。よく見ると、それは長い黒髪の子どもで、死闘の後に肩を大きく上下させているのだった。

 子どもは、肩ごしに男を見た。泥に汚れた顔の中から、アーモンド型の黒い目がのぞいた。右手を振ると、血が飛び散った。巨大な刀から、獣の血糊が飛んだのだ。

 子どもの足下には、果物や乾物が四、五個転がっていた。男には見覚えのあるものだった。

「あっ、この盗人め!」

 子どもが支払ったものは男自身の生命で、品物に比してあまりあるものだった。しかし、男の腹には熱いものがこみあげてきた。恐怖が怒りに転じたのだろう。

「よくも、ぼうず、許さねぇぞ!」

 子どもはうっすらと笑いを浮かべた。歳には似合わず、目には悟ったような色が浮かんだ。跳ねるように、草むらへと足を踏みだす。

 長くは続かなかった。二歩めで、膝をつき、倒れ伏した。黒髪が、持ち主に一瞬遅れて地面に接吻した。

「おい、ぼうず、どうした!」

 男は怒りを忘れ、子どもを抱き起こした。

 すでに意識はなかった。わき腹が真っ赤に染まっていた。

 

 

 雲はますます灰色を濃くし、ついに耐え切れぬかのように、その一片を地上に垂らした。雨ではなかった。冬の到来を告げる、白い結晶だった。地上に降りては解けて消え、背の高い枯れ草も、硬い地面も、赤や黄に彩られた木々も、しばらくは何一つ見た目に変わりはなかったが、やがて微小な白銀に世界は支配されていく。

 まだ秋も半ばだというのに、雪は三日間降り続いた。森も川も道も、すべて白銀に埋もれた。村も、家も。

 小川を越えた村外れに、民家が建っていた。母屋と離れ、小さな厩が、厚い雪に埋まっている。空に突きでた煙突が、母屋と離れからそれぞれ一つずつのび、煙を吐き出していた。

 母屋の一室で、薪ストーブが勢いよく燃えていた。ストーブの上で、ポットが音を立てて真っ白い蒸気を噴きだしている。

 太った女が、雪水の入った桶で手ぬぐいを濡らしていた。三〇歳前後だろう、頬ははちきれんばかりに膨れ、顎の肉はたるんで二重にも三重にも盛りあがっている。眼も髪もありふれた暗褐色で、小さな目はまぶたと頬の間に埋もれている。鼻は丸く、小鼻が大きい。

 手ぬぐいを絞る手はふくよかを通り越して丸々だったが、肌は赤子のように滑らかだった。

 女は手ぬぐいを折り、かたわらのベッドに眠る病人の額に置いた。黒髪の子どもが横たわっていた。

「どう? 気がついたか?」

 男の声とともに、女の背後から冷気が吹きつけた。

「ユキ、早く戸を閉めて。寒いわ」

「ごめん、ごめん」

 ユキと呼ばれた男は急いで戸を閉じた。森で命拾いした男だった。

「変わりはないか、シズカ」

 ユキは女の横に立った。

「顔色はすっかりよくなったんだけど。ホントにキズはたいしたことないの?」

「オレの腕をなめてもらっちゃ困るね!」

 ユキは片手をあげ、得意そうに力こぶを作る仕草をする。

「わかってるわよ。王都ロックルールで修行したんでしょ。何度も聞いたわ」

 シズカはあきれたように笑う。

「違うね。同じ王都ロックルールでも、オレは伝統ある王立医学院で学んだんだ。そんじょそこらの医者と一緒にしてもらっちゃ困るね!」

「はいはい。その名医さんのお見立ては間違ってないのかしら? まだ気がつかないんだけど?」

「極度の栄養失調だったからな。もう一本、栄養剤射っとくか」

 ユキが一歩下がると、子どもの眉が動いた。まぶたが二、三度震える。

「お嬢ちゃん!」

 シズカが声をかけた。

「目をあけて! お嬢ちゃん!」

 子どもがうっすらと目を開けた。黒曜の眼が、ぐるりと周囲を見回す。

「もう、だいじょうぶよ。怖い動物はいないから」

 シズカが笑いかけたが、子どもはかまわず身を起こした。

「ダメよ、起きちゃ。キズが開いちゃうわ」

「そうそう。せっかく名医が縫ってやったんだからな」

 ユキがシズカの後ろで笑った。

「感謝しろよ、お姫さま」

 その瞬間、子どもは高く跳躍した。ユキとシズカを飛び越え、戸口に回ると、部屋を飛びだした。

「ちょっと待てよ、ぼうず……じゃなかった、お嬢ちゃん!」

 ユキが追いかけると、短い廊下に子どもの姿はなかった。

 高い口笛の音が鳴り響く。離れのほうだ。

 駆けつけると、離れへ続く石畳に子どもが裸足で立っていた。傍らには、大きな葦毛の馬。

 森で子どもが倒れた時、音もなく現れた馬だ。ユキが子どもに近づくと、鼻息荒く足を踏みならして威嚇した。応急処置を施すのに、どれほど手こずらされたことか。ユキは必死に自分は医者だと説明しなければならなかった。

 相手は言葉も通じない畜生だというのに。思い出すと、失笑を禁じ得ない。

 手当が済むと、馬はおとなしくなった。幌馬車の後をついてきたから、いい馬を手に入れたものだとユキはご機嫌だった。

 厩に入れておいたはずなのに、いつのまに外に出てきてしまったのだろう?

 子どもは葦毛の馬の手綱を引いた。今にも雪の中を馬に乗って消え去るような勢いだった。

 離れから老人が現れた。白髪と白髭で顔のほとんどが埋まり、疲れたように肩は落ち、生気はもはや目に残るのみになってしまった老人である。

「休んでいきなさい」

 老人は何気ないようすで子どもに話しかけた。

「この大雪では、何者も前に進めぬよ」

 老人は口調と同じようにごく自然に離れに戻った。

 子どもの動作は止まっていた。

「そ、そうだぞ。なにも、とって食おうってわけじゃあるまいし」

 ユキは急いで説得に入った。

「こんな大雪の中、外に出たら、あっという間に凍え死んじまうぞ! せっかく名医が手当てしてやったのに、意味ないじゃないか!」

 子どもはユキを上から下まで眺め、初めて口を開く。

「そなた、何者だ?」

 ユキは一瞬言葉を失った。胸に、妙な威圧感を覚えたのだ。

「オ、オレは」

 咳払いする。

「オレはユキ・ミヤシロ。この家の当主で名医だ。こんな田舎にはもったいない名医だぞ! ぼうず……お嬢ちゃんは運がよかったんだぞ! 大山猫に切り裂かれたわき腹は、オレが縫ってやったんだからな。この名医にかかれば、痕も残らずきれいに治るぞ。女の子の体にキズが残ったらかわいそうだからな!」

 遅れて、シズカがやってきた。

「こんなとこにいたの! 寒いでしょ! カゼ引くわよ! ユキ、こんなとこでなに自慢してるの! さっさと温かい部屋に連れていきなさい!」

 ユキを押しのけ、子どもの両手をとる。

「こんなに冷たくなっちゃって。早くお部屋に入りましょう。キズだって痛むでしょ」

 子どもの眉がわずかに開いた。

「馬を屋根の下に入れてくれないか。飼い葉と水も与えてやってほしい」

 口調も、今度はやわらいでいた。

「あなたの馬? いいわよ。厩に入れておきましょうね。ユキ、やっといてね」

「ふぁい」

 シズカに押しのけられた拍子に石畳の横に尻餅をつき、雪に埋まっている一家の主人は、情けなくも返事をした。

 

 

 子どものキズは、順調に癒えていった。

「名医というのも、まんざらウソじゃないでしょ」

 ベッドのわきで、シズカは笑った。膝には仕掛かり中の刺繍がある。赤い野バラを象ったものだった。

「あなたが担ぎこまれた時には、ホントにびっくりしたわ。キズのことじゃないのよ。もっとひどいのだって見馴れてるんだから。驚いたのは、あなたが女の子だったってことよ。ユキも私もてっきり男の子だと思ってたのよ。だって、泥だらけだったし、男の子のかっこうをしてたんですもの」

 シズカは笑って、刺繍針を進めた。

「お裁縫は得意?」

 子どもは横になったまま、わずかに首をふった。

「じゃあ、お料理は?」

 また、わずかに首をふった。

「お掃除は?」

 答えが同様なのを見ると、シズカはため息をついた。

「女の子なんだから、ちゃんとできるようにならなきゃ! あなたの親御さんは、どういう躾をしてるのかしらね! どこに住んでるの? 文句言ってやるわ!」

 子どもはうっすらと唇に笑みを浮かべた。苦笑にも冷笑にもとれた。

「そういえば、あなたって見かけない顔よね。どこから来たの? そうそう。名前も聞いてなかったわ。あなた、名前は?」

 子どもは答えなかった。

 シズカは子どもの腕をつかんで揺さぶった。

「名前ぐらいあるでしょ! ちゃんと答えなさい。名前は?」

「リュ……」

「リュ?」

 子どもは一瞬間をおき、ゆっくりと響きを確認するように答えた。

「リュート」

「リュートちゃんね。いい名前だわ。楽器の名前でしょ? 旅の芸人さんが持ち歩く、こんな四角いお琴よね」

 シズカは指で大人の顔より一回り大きい四角を描いてみせた。

 それはキタラだが、子どもは勘違いを指摘しなかった。

「じゃあ、リュートちゃん、どこに住んでるの? おうちの人に連絡してあげる。きっと心配してるわよ」

 小さな暗褐色の目が、リュートの顔をのぞきこんだ。

 リュートは一度だけ瞬きした。

「住まいはない」

「それ、どういうこと? 親御さんは?」

「死んだ」

「まあ!」

 丸まるにふくれた両手が、丸まるにはちきれんばかりの頬を包みこんだ。

「かわいそうに! でも、ご親戚は? ご親戚ぐらいいるんでしょ?」

 リュートは口を開かなかった。

「いないの? なんてかわいそうに!」

 シズカはいっそう大きな声をあげた。

 

 その夜、シズカはユキにリュートの身の上を語った。

「そいつはマズいな」

 夕食のポテトをつつきながらユキは言った。

「治療代がとれん」

 救われた自分の命は、治療代に入らないらしい。

「バチあたりなこと言って!」

 シズカは木のボールから、木じゃくしでポテトを取り、ユキの皿に重ね盛りした。

「そんなに食えないよ。それより肉食いたいなあ。こないだのハムの残り、まだあったろ」

「ダメです! 節約しないと。私だってお金を稼ぐために細々と刺繍をやってるんですからね。自覚してよ、パパ」

「はいはい」

 うらめしそうに、テーブルに目をやる。その向こうには、シズカのふくらんだ腹があるはずだった。

「おまえって、じょうぶだよなあ。つわりもなくて、なんでもバクバク食えるんだから」

「あら、感謝してもらいたいわ。じょうぶなほうが、じょうぶな赤ちゃんを産めるんだから。ねえ、私の赤ちゃん」

 シズカはせりあがった腹を撫でる。

「それより、かわいそうなのはリュートちゃんよ。親も兄弟もなくて、この世にたった一人きりなのよ。何か力になってあげられないかしら」

「心配ないだろ。あれだけ器量がよけりゃ、嫁のもらい手に困らないさ」

「ユキ! あの子、まだ子どもよ!」

 シズカの剣幕に、ユキは椅子の背もたれいっぱいに身を引いた。

「まあまあ。うちだって、おまえが臨月になりゃあ人手がいるんだ。しばらくあの子に家のことを手伝ってもらおう。それから先のことは、後でまた考えようじゃないか」

「そうね」

 シズカは意外にすんなり引きさがった。

「いざとなったら、実家の父に相談するわ」

 ユキは苦い顔になり、ぼそぼそと口の中でつぶやいた。

「また、『実家の父』か」

「ユキ、何か言った?」

「いや、別に」

 ユキは山盛りのポテトに匙を突きさし、うんざりしたように口に運んだ。

 

   

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