薄めたインクのような色の雲が空に垂れこめていた。冷たく湿った風が草むらを揺らす。
草丈の短い場所を選んで、騾馬が足を運ぶ。音を立てて、馬車の車輪が後に続く。御者台では若い男が揺られていた。二十代半ばだろうか、中背で恰幅がいい。栗色の髪を肩で切りそろえているところを見ると、学者か医者であろう。
「寒くなってきたな」
男は黒い外套の胸元をかきあわせた。
「まだ秋だってのに、もう雪かよ。ちくしょう。親爺の天気予報が当たりやがった」
男は明るい茶褐色の目を前方に向けた。小さな森が視界の半分を占拠していた。
「とんだ寄り道だ。それもこれも、あの亭主がいきなり帰ってくるからだ。お楽しみはこれからって時に」
手綱を振ると、騾馬の足が早まる。
「水はあの中だぞ。町で飲みそこなった分、あそこで飲めよ」
小さな幌馬車は、森に入った。
密に繁る木々の間に乗り入れた瞬間、目は視力を失った。曇天の日ではない。幾重にも枝葉が陽光を妨げていた。
ようやく樹木の間隙を見分けると、無意識に引いていた車輪のブレーキを外す。下草が車輪の下に踏みつぶされていく。車輪の音が、森の奥へと吸いこまれていく。木霊はない。葉ずれの音と、鋭い鳥の声が、騾馬と車輪の蹄の音に混じる。
ほどなく、水音が仲間入りした。
樹木の間隙が広くなり、視界が広がる。
幌馬車三台分ほどの水たまりが目に入った。水面は静かだが、中央よりやや奥が盛り上がり、若干上下をくり返している。わき水だ。
「よしよし。まだ残ってたか。しばらく来ない間に涸れたかと心配したぜ」
男は御者台から飛び降りた。草の間から泥が跳ねた。
騾馬を馬車から外し、水場へ導く。
「たっぷり飲めよ。家までは、まだまだ先が長いんだからな」
男は御者台から水筒を取り、わき水の源へと手を伸ばした。水を詰めると、顔を洗う。
「ふう〜っ、冷てぇ〜」
当たり前のことを言って首を振る。
目の端に、黒い影が映った。
男はふり向いた。何かが馬車から飛びだしたように見えた。
馬車に駆け寄り、幌の中をのぞく。荷物が崩れている。くくり紐が切れ、包み紙が破れている。
「出て来いっ! コソ泥めっ!」
男は叫んだ。すねの半ばまで覆う草をかき分け、こぶし大の石を見つけては投げた。胸に届かんばかりに生い茂った下草の中に、石が二つ、三つと消える。
「出てきやがれっ! この盗人!」
騾馬一〇頭分向こうで、高い背丈の草むらが揺れた。
男は我が意を得たりとばかりに唇の両端を上げ、頬にくぼみを作った。ますますもって、見込みの箇所にねらい撃ちする。
草むらが左右に大きく開いた。黄灰色の影が飛びだす。
大山猫だ。体長は子どもの背丈ほどと小柄だが、鋭い爪や牙は人間の比ではない。
開いた口は見事な緋色で、男はその場に釘づけになった。武器一つ探す機転は、この危機において、まったく働かないのだった。
オレは死ぬ!
男は運命の刻を待った。
だが、いつまでも終幕は訪れなかった。
気がつくと、黒い影が黄灰色の獣と組み合っていた。ほどなく、カタはついた。黄灰色の獣が地面に転がり、動かなくなった。
黒い影は体を震わせていた。よく見ると、それは長い黒髪の子どもで、死闘の後に肩を大きく上下させているのだった。
子どもは、肩ごしに男を見た。泥に汚れた顔の中から、アーモンド型の黒い目がのぞいた。右手を振ると、血が飛び散った。巨大な刀から、獣の血糊が飛んだのだ。
子どもの足下には、果物や乾物が四、五個転がっていた。男には見覚えのあるものだった。
「あっ、この盗人め!」
子どもが支払ったものは男自身の生命で、品物に比してあまりあるものだった。しかし、男の腹には熱いものがこみあげてきた。恐怖が怒りに転じたのだろう。
「よくも、ぼうず、許さねぇぞ!」
子どもはうっすらと笑いを浮かべた。歳には似合わず、目には悟ったような色が浮かんだ。跳ねるように、草むらへと足を踏みだす。
長くは続かなかった。二歩めで、膝をつき、倒れ伏した。黒髪が、持ち主に一瞬遅れて地面に接吻した。
「おい、ぼうず、どうした!」
男は怒りを忘れ、子どもを抱き起こした。
すでに意識はなかった。わき腹が真っ赤に染まっていた。
雲はますます灰色を濃くし、ついに耐え切れぬかのように、その一片を地上に垂らした。雨ではなかった。冬の到来を告げる、白い結晶だった。地上に降りては解けて消え、背の高い枯れ草も、硬い地面も、赤や黄に彩られた木々も、しばらくは何一つ見た目に変わりはなかったが、やがて微小な白銀に世界は支配されていく。
まだ秋も半ばだというのに、雪は三日間降り続いた。森も川も道も、すべて白銀に埋もれた。村も、家も。
小川を越えた村外れに、民家が建っていた。母屋と離れ、小さな厩が、厚い雪に埋まっている。空に突きでた煙突が、母屋と離れからそれぞれ一つずつのび、煙を吐き出していた。
母屋の一室で、薪ストーブが勢いよく燃えていた。ストーブの上で、ポットが音を立てて真っ白い蒸気を噴きだしている。
太った女が、雪水の入った桶で手ぬぐいを濡らしていた。三〇歳前後だろう、頬ははちきれんばかりに膨れ、顎の肉はたるんで二重にも三重にも盛りあがっている。眼も髪もありふれた暗褐色で、小さな目はまぶたと頬の間に埋もれている。鼻は丸く、小鼻が大きい。
手ぬぐいを絞る手はふくよかを通り越して丸々だったが、肌は赤子のように滑らかだった。
女は手ぬぐいを折り、かたわらのベッドに眠る病人の額に置いた。黒髪の子どもが横たわっていた。
「どう? 気がついたか?」
男の声とともに、女の背後から冷気が吹きつけた。
「ユキ、早く戸を閉めて。寒いわ」
「ごめん、ごめん」
ユキと呼ばれた男は急いで戸を閉じた。森で命拾いした男だった。
「変わりはないか、シズカ」
ユキは女の横に立った。
「顔色はすっかりよくなったんだけど。ホントにキズはたいしたことないの?」
「オレの腕をなめてもらっちゃ困るね!」
ユキは片手をあげ、得意そうに力こぶを作る仕草をする。
「わかってるわよ。王都ロックルールで修行したんでしょ。何度も聞いたわ」
シズカはあきれたように笑う。
「違うね。同じ王都ロックルールでも、オレは伝統ある王立医学院で学んだんだ。そんじょそこらの医者と一緒にしてもらっちゃ困るね!」
「はいはい。その名医さんのお見立ては間違ってないのかしら? まだ気がつかないんだけど?」
「極度の栄養失調だったからな。もう一本、栄養剤射っとくか」
ユキが一歩下がると、子どもの眉が動いた。まぶたが二、三度震える。
「お嬢ちゃん!」
シズカが声をかけた。
「目をあけて! お嬢ちゃん!」
子どもがうっすらと目を開けた。黒曜の眼が、ぐるりと周囲を見回す。
「もう、だいじょうぶよ。怖い動物はいないから」
シズカが笑いかけたが、子どもはかまわず身を起こした。
「ダメよ、起きちゃ。キズが開いちゃうわ」
「そうそう。せっかく名医が縫ってやったんだからな」
ユキがシズカの後ろで笑った。
「感謝しろよ、お姫さま」
その瞬間、子どもは高く跳躍した。ユキとシズカを飛び越え、戸口に回ると、部屋を飛びだした。
「ちょっと待てよ、ぼうず……じゃなかった、お嬢ちゃん!」
ユキが追いかけると、短い廊下に子どもの姿はなかった。
高い口笛の音が鳴り響く。離れのほうだ。
駆けつけると、離れへ続く石畳に子どもが裸足で立っていた。傍らには、大きな葦毛の馬。
森で子どもが倒れた時、音もなく現れた馬だ。ユキが子どもに近づくと、鼻息荒く足を踏みならして威嚇した。応急処置を施すのに、どれほど手こずらされたことか。ユキは必死に自分は医者だと説明しなければならなかった。
相手は言葉も通じない畜生だというのに。思い出すと、失笑を禁じ得ない。
手当が済むと、馬はおとなしくなった。幌馬車の後をついてきたから、いい馬を手に入れたものだとユキはご機嫌だった。
厩に入れておいたはずなのに、いつのまに外に出てきてしまったのだろう?
子どもは葦毛の馬の手綱を引いた。今にも雪の中を馬に乗って消え去るような勢いだった。
離れから老人が現れた。白髪と白髭で顔のほとんどが埋まり、疲れたように肩は落ち、生気はもはや目に残るのみになってしまった老人である。
「休んでいきなさい」
老人は何気ないようすで子どもに話しかけた。
「この大雪では、何者も前に進めぬよ」
老人は口調と同じようにごく自然に離れに戻った。
子どもの動作は止まっていた。
「そ、そうだぞ。なにも、とって食おうってわけじゃあるまいし」
ユキは急いで説得に入った。
「こんな大雪の中、外に出たら、あっという間に凍え死んじまうぞ! せっかく名医が手当てしてやったのに、意味ないじゃないか!」
子どもはユキを上から下まで眺め、初めて口を開く。
「そなた、何者だ?」
ユキは一瞬言葉を失った。胸に、妙な威圧感を覚えたのだ。
「オ、オレは」
咳払いする。
「オレはユキ・ミヤシロ。この家の当主で名医だ。こんな田舎にはもったいない名医だぞ! ぼうず……お嬢ちゃんは運がよかったんだぞ! 大山猫に切り裂かれたわき腹は、オレが縫ってやったんだからな。この名医にかかれば、痕も残らずきれいに治るぞ。女の子の体にキズが残ったらかわいそうだからな!」
遅れて、シズカがやってきた。
「こんなとこにいたの! 寒いでしょ! カゼ引くわよ! ユキ、こんなとこでなに自慢してるの! さっさと温かい部屋に連れていきなさい!」
ユキを押しのけ、子どもの両手をとる。
「こんなに冷たくなっちゃって。早くお部屋に入りましょう。キズだって痛むでしょ」
子どもの眉がわずかに開いた。
「馬を屋根の下に入れてくれないか。飼い葉と水も与えてやってほしい」
口調も、今度はやわらいでいた。
「あなたの馬? いいわよ。厩に入れておきましょうね。ユキ、やっといてね」
「ふぁい」
シズカに押しのけられた拍子に石畳の横に尻餅をつき、雪に埋まっている一家の主人は、情けなくも返事をした。
子どものキズは、順調に癒えていった。
「名医というのも、まんざらウソじゃないでしょ」
ベッドのわきで、シズカは笑った。膝には仕掛かり中の刺繍がある。赤い野バラを象ったものだった。
「あなたが担ぎこまれた時には、ホントにびっくりしたわ。キズのことじゃないのよ。もっとひどいのだって見馴れてるんだから。驚いたのは、あなたが女の子だったってことよ。ユキも私もてっきり男の子だと思ってたのよ。だって、泥だらけだったし、男の子のかっこうをしてたんですもの」
シズカは笑って、刺繍針を進めた。
「お裁縫は得意?」
子どもは横になったまま、わずかに首をふった。
「じゃあ、お料理は?」
また、わずかに首をふった。
「お掃除は?」
答えが同様なのを見ると、シズカはため息をついた。
「女の子なんだから、ちゃんとできるようにならなきゃ! あなたの親御さんは、どういう躾をしてるのかしらね! どこに住んでるの? 文句言ってやるわ!」
子どもはうっすらと唇に笑みを浮かべた。苦笑にも冷笑にもとれた。
「そういえば、あなたって見かけない顔よね。どこから来たの? そうそう。名前も聞いてなかったわ。あなた、名前は?」
子どもは答えなかった。
シズカは子どもの腕をつかんで揺さぶった。
「名前ぐらいあるでしょ! ちゃんと答えなさい。名前は?」
「リュ……」
「リュ?」
子どもは一瞬間をおき、ゆっくりと響きを確認するように答えた。
「リュート」
「リュートちゃんね。いい名前だわ。楽器の名前でしょ? 旅の芸人さんが持ち歩く、こんな四角いお琴よね」
シズカは指で大人の顔より一回り大きい四角を描いてみせた。
それはキタラだが、子どもは勘違いを指摘しなかった。
「じゃあ、リュートちゃん、どこに住んでるの? おうちの人に連絡してあげる。きっと心配してるわよ」
小さな暗褐色の目が、リュートの顔をのぞきこんだ。
リュートは一度だけ瞬きした。
「住まいはない」
「それ、どういうこと? 親御さんは?」
「死んだ」
「まあ!」
丸まるにふくれた両手が、丸まるにはちきれんばかりの頬を包みこんだ。
「かわいそうに! でも、ご親戚は? ご親戚ぐらいいるんでしょ?」
リュートは口を開かなかった。
「いないの? なんてかわいそうに!」
シズカはいっそう大きな声をあげた。
その夜、シズカはユキにリュートの身の上を語った。
「そいつはマズいな」
夕食のポテトをつつきながらユキは言った。
「治療代がとれん」
救われた自分の命は、治療代に入らないらしい。
「バチあたりなこと言って!」
シズカは木のボールから、木じゃくしでポテトを取り、ユキの皿に重ね盛りした。
「そんなに食えないよ。それより肉食いたいなあ。こないだのハムの残り、まだあったろ」
「ダメです! 節約しないと。私だってお金を稼ぐために細々と刺繍をやってるんですからね。自覚してよ、パパ」
「はいはい」
うらめしそうに、テーブルに目をやる。その向こうには、シズカのふくらんだ腹があるはずだった。
「おまえって、じょうぶだよなあ。つわりもなくて、なんでもバクバク食えるんだから」
「あら、感謝してもらいたいわ。じょうぶなほうが、じょうぶな赤ちゃんを産めるんだから。ねえ、私の赤ちゃん」
シズカはせりあがった腹を撫でる。
「それより、かわいそうなのはリュートちゃんよ。親も兄弟もなくて、この世にたった一人きりなのよ。何か力になってあげられないかしら」
「心配ないだろ。あれだけ器量がよけりゃ、嫁のもらい手に困らないさ」
「ユキ! あの子、まだ子どもよ!」
シズカの剣幕に、ユキは椅子の背もたれいっぱいに身を引いた。
「まあまあ。うちだって、おまえが臨月になりゃあ人手がいるんだ。しばらくあの子に家のことを手伝ってもらおう。それから先のことは、後でまた考えようじゃないか」
「そうね」
シズカは意外にすんなり引きさがった。
「いざとなったら、実家の父に相談するわ」
ユキは苦い顔になり、ぼそぼそと口の中でつぶやいた。
「また、『実家の父』か」
「ユキ、何か言った?」
「いや、別に」
ユキは山盛りのポテトに匙を突きさし、うんざりしたように口に運んだ。