[ 母の記憶を語り継ぐ ]
       再生式ラジオと
 *『 オーケストラの少女 』 
  

昭和二十年 夏( 4歳 )  戦時下のラジオは
社団法人日本放送協会 の 大本営発表や国民の戦意高揚の為の必須アイテムです。

我が家のラジオは
電源スイッチを入れてから3分位経つと、徐々に耳障りな「 ピー音 」が消え
安定した放送が聞こえてきます。
このことからスーパーでは無く「再生式真空管ラジオ」で、時々裏面で
棚の上に置かれていたのは
父が真空管の接触不良を直す為だったと、後に母が言っていました。

幼かった私は、放送の内容は理解できていないのですが
冒頭の「 臨時ニュースを申し上げます 」や 勇ましい「 軍艦マーチ 」は いまでも
記憶の片隅から消えません。
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  大分空襲は
昭和20年7月17日の深夜0時頃から1時40分頃にかけて行われた
大分市中心部の市街地が「火の海になった」といわれる、B29爆撃機による
無差別焼夷弾空襲です。

不気味な空襲警報のサイレンで、両親と兄と私は飛び起きました。
父が雨戸を開けると
パチパチと音を立てて火柱が立ち上る光景と、爆弾による衝撃が赤く染った夜空に響きます。

ただならぬ規模を察知した父は、玄関先の防空壕では駄目だと判断し
私を背負い母が兄の手をひいて、比較的頑丈な町内の防空壕に避難しました。
此の日、すでに数度の空襲で被災していた大分市の中心街は、約6,000発の焼夷弾で
ほぼ壊滅し、多数の死傷者と10,730人が焼け出されたと伝えられました。

翌朝、我が家は200m のところで辛うじて焼失を間逃れましたが
もう一つの避難場所になっていた砂糖工場は破壊され
炭化した砂糖が燻ぶり、川には無数の鰡が浮いていたとのことです。

小倉陸軍造兵廠から大分に単身赴任の父と合流し、後に焼失する此の住まいは
同年の2月に八幡市から、母と兄とで引越してきたばかりでした。
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 8月に入り、不思議なことが起こります。

いつものお昼にスイッチを入れた「 ピー音 」ラジオからは、ニュースでは無く
どこかで聞き覚えのある、クラシック音楽が流れてきたのです。

それは普段聞く雑音混じりの、か弱い放送ではなく
とてもクリアーで強力なものだったとのことです。

しばらくして母は、看護婦で働いていた頃に観た
アメリカ映画*『オーケストラの少女』の、挿入曲の一つであることに気付きます。
しかし、戦時下の日本では西洋音楽など、もってのほかで

何故・・・この曲が・・・何故」。

放送は曲が終わっても、 5分位は無音の状態で肝心の
日本放送協会の放送は聞けなかったとのことです。

サイパン・沖縄が堕ちて、米軍は本土上陸に向けて着々と迫り
航空母艦から敵地の情報網を撹乱すべく、強力な電波を被せ込んだと思われます。
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  8月10日  昼食の支度ができた頃

兄は遊びに出たままで、母と私が汁椀だけの丸膳にいました。

突然、空襲警報のサイレンが、場違いな紺碧の空に響きわたります。
母は胸騒ぎを感じました。

先日の出来事。*「 オーケストラの少女 」・・・。

"  敵は近い!!"

7月の市街地での空襲では、避難した防空壕での焼死情報を
聞かされていたので、父は勤務中で不在でしたが
事前に話合っていた山の防空壕に逃げる決心をしました。

急いで兄を探し出し、途中で町内の老人も一緒に避難することになります。
老人は夏着の白いシャツを着て居り案の定、山まであと少し200m位 のところで
敵の艦載機に気付かれました。

兎に角、慌てて農家の里芋畑の大きな葉っぱの中に隠込み息を潜めます。
段々わが身に近づくエンジン音と、繰り返し急降下してくる恐怖の記憶は
今でも忘れることはできません。

しばらくして、音が少しずつ遠ざかり、辺りに静寂が戻ります。
「 もう大丈夫・・・ 」と母の声
私達全員は何とか山の防空壕に辿り着きました。

壕内は満員で、前日の大雨で浸水し、姿勢を低くした母に背負われ、足先が水に触れて
冷たかったことを覚えています。


しかし、この日の 白昼、西部地区を中心の空襲は
7月空襲で焼け残った地域を掃討するための作戦で
[ B24 : コンソリデーテッド ]約20機と護衛機による小型焼夷弾攻撃でした。

夜になって町内の消防隊から我が家を含め全戸焼失したとの
無情な伝令が届きます。

翌日、父の同僚宅で一泊し 国鉄大分駅で祖母の家に向かう私達家族は
母が持ち出した僅かなお米と大豆
そして貯金通帳と夏の山中で蚊に刺されないようにと、咄嗟に揃えた蚊帳と丹前が
我が家の全財産となります。

そして、このことから
8月15日に 終戦の放送を 伝える筈の、あの「 再生式ラジオ 」は
私たちの命と引きかえに 灰と なっていました。

============================== 2015・11 ==
     
1941  11 八幡市にて誕生
 12.8 ハワイ真珠湾攻撃 宣戦布告
1942  6. 5 ミッドウェー海戦
1944  7. 7 サイパン陥落
1945  5.10 東京大空襲
 6.19 福岡大空襲
 6.23 沖縄戦終結 
.
 7.16 大分空襲 市街地
 8. 6 広 島 原爆投下
 8. 8 八幡市 市街地空襲
 8. 9 長 崎 原爆投下
 8.10 大分空襲 西部地区
.
 8.14 ポツダム宣言受諾
1945  8.15 終 戦
                      
******************************** 2023. 11. 2 更新*
    *『 オーケストラの少女 』    原題:One Hundred Men and a Girl
 
  1937年にユニバーサル・スタジオが製作したアメリカ映画。
     主演・ディアナダービン
  
  名指揮者レオポルド・ストコフスキーと
  実在のオーケストラであるフィラデルフィア管弦楽団が
  出演したことで知られる音楽映画。
  1937年のアカデミー作曲賞を受賞。

  主な挿入曲は
      冒頭の チャイコフスキーの 交響曲第5番
           リストの ハンガリア 狂詩曲第2番
          ラストシーンでの ヴェルディ作曲「椿姫」から「乾杯の歌」。
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