「刑事弁護の大切さ〜市民の法意識・法文化を深めるために」
神戸学院大学・法学部教授(当会代表) 渡辺 修
疑問の柱は、「黙秘」が「真犯人」隠しになることへの疑問だ。
「本人の弁解を尊重するのはいいが、うそを付いているのかも知れない。甘すぎる。」
「被疑者がウソつこうとつくまいと知らん、というように感じられる」
「黙秘権は本当の犯人を助けてしまいます。弁護士も警察も人々を守る仕事。一方にだけ有利になる黙秘権の行使には反対です」。
「もし真須美被告が本当に無実ならば積極的に犯人でないことを証明すべきであると思います。残念ながら、今回の件ではその努力がなされていないので悪い印象を与えていると思う」。
「小林先生の理念は立派だが、こうしたやりかたで本当に社会正義を果たしているのだろうか。被告人に自白するように提案する態度は必要だ」。
「理屈ではよくわかる。だが、全く納得できない。真須美被告人は十分に強くてしたたかな女性。小林先生のような有能な弁護士がつかなくてもいい。」
「悪いことをしたのに、被害者より被疑者への援助の方が強いのは納得できない。被疑者を守りすぎだと思う」。
「真須美被告の人権。これはピンと来ない。人権侵害を受けている人の人権を優先して守るべき。超極悪人といわれる人の人権はその次でいい。日本では、極悪人の人権が守られすぎ」。
「被告人の自己弁護のみならず、犯罪に対する自覚や責任感なども弁護士として被告人に説得することも必要なのではないかと思っています。その被告人が、後に社会参加するための支援活動の一環として。」
実のところ、「学者」はのんきなもの。現場の弁護士さんは、「わかってくれない、、、」とぼやきそうなこんな意見が並んでも平気のへいざ。
むしろ、小林弁護士の話で、弁護活動の具体的なイメージを明確に持つ、そして率直な疑問を形成すること。これこそ、刑事弁護の意義を理解する大切な第1歩だ、ぐらいにしか考えていない。
甲山事件の被告人に対する捜査段階の取調べでは、被疑者に対して、拷問や脅迫が使われたわけではない。法律が認める逮捕・勾留中であって「不当に長い」身柄拘束にもあたらない。早い段階から弁護人がついて、自白する前後にも、ほぼ連日接見が認められていた。
だが、取調官が、無意識にやったのではないかと迫る、面会にきた父親も有罪と思っていると責める、自白すれば執行猶予になるかもしれないと持ちかける、こんな様々な捜査側による誘導、説得が繰り返されたようだ。
3度の判決いづれも、そうした働きかけが積み重なった場合にも、「虚偽自白」を生むこと、これを確認したことになる。
身柄拘束中、取調官に追及される状態。これは、おだやかな日常生活を繰り返している一般市民には、とてつもない心理的な圧迫を与えるのではないか。
ある参加者のアンケート回答に書かれた次の経験談こそ、そのまま「虚偽自白」を被疑者に迫る取調べを生む原因なのだ。
「私の経験として、高校時代、学校の帰りに恐喝にあいました。なぐられて口の中を5針縫うケガをしたのですが、警察は緊急取り締まりをするので、すぐ調書を取りたいとのことで警察に行きました。説明の後、調書にサインを求められ、内容を読んでビックリしました。内容が大きく誇張されているのです。こんな内容ではないと言いましたが、『これ位でないと逮捕できない』と言われました。立場が代わっていたら、と考えるとゾッとしたが、高校生でありそれ以上何も言えなかった」。
「被疑者に公的費用で弁護士を付ける制度ができるのなら、被害者にも同様の制度を付するべきだと思う」。
「加害者も一人の人間としてプライバシーを守られることは大切。だけど、それ以上に被害者達の心身を守り続けることの大切さが今欠けている」。
「自分たちの払う税金から、悪いことをしたかもしれない人に弁護士をつけることには少し抵抗を感じます」
被害者と被告人の関係を「対立」と意識すること。これはやむを得ないことだろうが、同時にここを乗り越えてもらわなければ、被疑者弁護の充実も、もとより被疑者公選弁護制度の実現もおぼつかない。
では、どう考えるべきか。実のところ、私は、裁判傍聴を通じて、法廷で今までたくさんの被害者とその家族を見てきた。
強姦されて殺された娘の母が「人殺し。娘を返せ」と被告人に怒鳴り、「検事さん、なんとかして下さい」と泣き崩れる場面。二人組の強盗に惨殺された郵便局長の妻と老父母、子供達。高校の同級生に殺された少年の父母と兄が傍聴席前列に位置して被告人が着席するまで起立してにらみつけている姿。一七才の子供をジャズ仲間の高校生に殺された両親が法廷の外で被告人の両親に怒鳴り散らす場面・・・。
刑事司法システム全体の中で、「被害の声」をきちんと汲み上げて対応をしなければならない。さもなければ、被害回復にはならない、これは間違いのないことだ。そして、その責務を国が負うべきなのも当然のことだ。
私的な制裁を許さず(「赤穂浪士の敵討ち」は、今では単なる集団テロの「犯罪」なのは、誰でも知っている)、国が治安維持と処罰の権能を独占しているのならば、被害が起きたとき、相当の手当をする責務もある。そして、「被害者」は、「国家に対して」、心のケアを求める「人権」がある。
だが、今まで国は、犯人を捕まえ有罪立証に必要な情報を被害者に提供させるが、被害回復には冷淡だったのだ。
だからといって、例えば、「被害者の人権」として、刑事裁判で「意見陳述の権利」を認めるべきであるとする提案がなされているが、これは、「被害者救済」と「被害者の人権」を筋違いの場に持ち出すだけだ。端的に言えば、「裁判」の場で、法の名のもとに言葉による「リンチ」を認めるのに近い。
刑事裁判は、「被告人が、だれかに犯罪被害を与えたのかどうか」、これを「証拠」に基づいて裁判所に公正に判断してもらう場だ。
「検察官が被害を受けたと決めた者」=「被害者」。
その資格で発言権を持つ者が法廷に立つと、裁判官に大きな予断と偏見を与える。
他方、被告人が、「被害者」の発言に反対するには、「自分は犯人でなく、その人は被害者でない」、これを裁判所に説明しなければならない。
これでは、検察官こそ「合理的疑いを超える有罪の証明」をするという我が国刑事裁判の鉄則に反することになる。
この原理によれば、国=検察官にのみ有罪を立証する義務があり、被告・弁護側が無罪であることを立証する必要はない。
繰り返すが、「被害者の人権」はもちろん重要だ。だが、それは「刑事裁判」の場で、国家に有罪を宣告され、刑務所に送り込まれ、場合によっては死刑により生命を奪われる危険にさらされている別の市民の「人権」=「被告人の人権」を制限できる性質のものではない。
刑事裁判の場に、「被害者の人権」を持ち出すと、検察官の有罪立証を容易にするために利用されるだけだ。「えん罪」や事実よりも重い量刑につながる。
アメリカでは、陪審が有罪か無罪かきめる「裁判手続」の後で、裁判官が刑の重さを決める「量刑手続」を開く。我が国でも「被害者の人権」を保障するには、こうした「手続二分」制度を取り入れた上で、「量刑手続」でならば、発言の機会を与えることは考えていい。
被害者の人権も、そして、被告人の人権も、内容は異なるが、等しい重みを持つのだ。両者を対立させるのは、「国家の論理」であって、「市民の良識」にしてはならない。
「今迄は警察とか弁護士さんは、権力側で特権階層の人々と思っていたが、小林先生のような弁護士さんがおられて安心しました」。
「弁護活動について、感情的な批判などが多いのは、世間の人々がほとんど弁護士の活動を知らないからだと思う。もっと弁護士の仕事について広く知ってもらえたら、、、と思っている」。
「小林先生のお話をうががって、悩まれながら弁護活動をされていることが少し理解できました。司法に詳しくない市民は『弁護士とは一体何をする仕事か』ということ自体、理解していないのかもしれません」。
弁護士と市民の距離の遠さ。「法律のプロ達」の世界とそれを取り巻く市民の接点がなさすぎること。
もっとも、今は、少しずつだが、弁護士の側から市民に向けて幅広く門戸開放をはじめているのではないか。ただ、「法曹三者モンロー主義」の時代が長い。大勢のプロは、無意識のうちにその中に浸っているようにも思う。
医者であれば、たくさんの人が日常的に治療を受けるうちに、いろいろな評判ができてきて、地域にいれば結構医者のよし・あしが解る。医者が何をしているか、これもそう詳しいことまで解るわけではないが、すくなくとも、弁護士像よりは身近だ。
そううまい解決手段がある訳ではないが、市民の目に弁護士の姿が、具体的に映る工夫がまだまだ要る。この点を克服しないことには、国民の税金を被疑者公選弁護制度に使う政治意識は高まらない。
「日本人は、自己の人権にも疎いため他者の人権も尊重できないのが現状です。そんな中で、税金を使って被疑者に弁護士を付けることにどれだけ理解が広がるのかいささか疑問もあります。しかし、人権の尊重はこれから世界的にもますます大切にされるように思います。その流れの中で日本でもこういう制度に理解を示す人たちが必ず増えると確信しています」。
「被疑者に法に詳しい人がつくのは、当然の権利です。だれも法律や権利など知らないですもん」。
「当番弁護士制度は必ず必要。突然逮捕され何日間も隔離されると絶対に精神的にまいってしまう。実は犯罪を犯していないのに、その状況から離脱するために自白してしまったり、脅迫や暴行によって自白してしまう。これを防ぐのは絶対に必要だと思う」。
「大賛成です。高い税金を払っているのは国民なのです。国の資金をもっと司法の場にもたらして頂きたい。憲法32条は国民が裁判を受けることを予定しています。これはまさに人権を守る目的からでしょう。逮捕されてから裁判に至るまでの間も同じです。司法の場により多くの資金を費やし、裁判などを充実していってほしい」。
司法への国民参加の大切な一部、こう指摘する最後の意見は鋭い。この健全な感覚が市民良識として共有されるようになること。道は遠いだけで、通れないのではない。地道な学習活動が、大切だと思う。
最後に。小林弁護士にこんな言葉もありました。
「先生の弁護活動。大変な世論、マスコミの非難の中でがんばっていると思い、頭が下がります。体に気をつけてがんばって下さい。」
やさしい参加者の方。お言葉、ありがとう。小林弁護士にもこのアンケートのコピーをお見せしました。