〜考えてみませんか?和歌山カレー事件の刑事弁護〜

「捜査と弁護の調和」


渡辺修・神戸学院大学教授(刑事訴訟法、当会代表)
(当会の会報より)


1  「ピアスに茶髪?そりゃ、勉強しない学生のお手本だ」。
キャンパスにそんなファッションが登場した頃、古い世代の私は率直にそう感じた。今は慣れた。某警察本部の試験に合格した後、卒業まで茶髪にすると自慢して見せに来たゼミ学生がいる時代だからだ。ただ、感情的な抵抗感は押さえきれない。

 ファッションと言えば、実は私は、日蓮宗の「僧侶」の資格を持つ身。一応、きまりに従って、剃髪=ボーズ頭にしている。だが、今やお寺の僧侶でも髪を伸ばすのが普通。ボーズ頭は、茶髪と同様にか、それ以上にか、インパクトがあるらしい。

 というのも、先日、テレビを見ていたら、和歌山の毒入りカレー事件に関連して報道されている林夫婦(但し、98年11月末段階では、別の殺人未遂と詐欺容疑で逮捕・勾留、起訴)の弁護団の中に、見事なスキンヘッドを発見したからだ。「おおっ!!右翼だ、右翼だ!」などどいう他愛のない第一印象を勝手に抱きながら、接見後の記者会見のニュースに見入った。なにかの新聞の中で、この弁護士の方、トライアスロン選手なのでスキンヘッドだとか。それでも、「異様な髪型」という印象は不思議に消えない。妻にそのことを話したら、黙って鏡を差し出された。「なるほど、自分の頭もそうか、、、」。

 偏見、嫌悪、否定。新たなるもの、未知なるものへの、さほど根拠のない拒絶反応。冷静に考え、我が身を振り返れば、なんということもないのだ。


2  刑事裁判の世界でも、未知なるもの、新たなるものがある。それが、実は、「捜査段階の弁護活動」なのだ。

 刑事訴訟法は、戦後に制定されたときから、なによりも被疑者にも弁護人依頼権があること、弁護活動がなされることを予定している。憲法34条も、「何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない」と定める。被疑者が勾留されたとき、その理由に疑問をもてば「勾留理由開示」という手続をするのは、弁護人の当然の責務だ。

 だが、戦後数十年にわたり、「捜査段階の弁護」はなかったといっていい。被疑者が弁護人を選任する比率の正確な統計はないが、ほとんどめだたない程度だった。逮捕・勾留された被疑者は、日常生活から隔離されて警察署の取調べ室で捜査官に囲まれて厳しく取調べを受ける、そして詳細な自白をする、それに基づいて裁判ではくわしい事実認定がなされて有罪になる。「犯人は、警察の取調べで自白する」。これが、刑事裁判の当然の姿と国民も信じ込んでいた。多くの事件は、こうした方法で深刻な誤りを招かずに処理されていたことも事実だろう。


3  「刑事裁判の世界」。この法文化の中に、90年代になって、今まで経験したことがない現象が生まれている。「当番弁護士」。

 捜査の段階から、被疑者の側の主張を整理し、それが捜査機関の圧力で歪められないようにする。具体的には、取調べに問題がないかこまめにチェックする。捜査を監視する番人がはっきりとした姿を現した。だが、そんな捜査段階の弁護人の活動を市民が目の当たりにするようになったのは、ちょうど凶悪・悪質事件が頻発する時期、とくに一連のオウム事件の前後と重なる。神戸の中学生による小学生連続殺傷事件、堺の19才シンナー少年による通り魔殺人事件。そして、今回の和歌山の一連の事件。
 市民は、まだ「捜査と弁護」をひとまとまりにして理解する経験に乏しい。ないより歴史が浅い。「自白」で事件を処理することができないことへの「いらだち」。「逮捕者=真犯人=自白」という方程式が成り立たないのだ。それでも、真犯人の厳正処罰ができるか、不安に思うのも無理はない。だから、「真犯人=逮捕捕=弁護人」という歪んだ方程式が、市民意識の中になんとなく生まれてしまう。凶悪犯人の弁護人に攻撃の矛先を向ける誤った感情の先走りが生まれる。

 だが、当番弁護士がいなかった過去の数十年の歴史を振り返ってほしい。

 狭い閉ざされた取調べ室で、捜査官に囲まれて被疑者がひっそり座らされている。連日、長時間、過酷な取調べが続く。そんな取調べの土壌の中で、数々のえん罪が生まれたこと、主な原因が過酷な取調べによる虚偽自白であったこと。これは忘れてはならないはずだ。

 冷静に考えれば、市民も、「取調べは適正でなければならない」「えん罪を生んではならない」、この意識はあるはずだ。国民の人権意識がそんなに低レベルであろうはずがない。行政に対する市民オンブズマンの活動が成果を上げている今、「捜査と弁護」、この形も十分に理解できるはずだ。むしろ、体質の古さを示しているのは、マスコミ報道だ。「黙秘させてはならない」「自白させるのが弁護人の役割だ」「法律に定める勾留理由開示をやるのは捜査妨害だ」、こんなトーンの情報を流す。新聞記者の法文化意識の「低さ」を示すだけの文章。国民の健全な法意識を反映したとも思えないし、それを作る建設的な方向を示しているとも思えない。


4  実のところ、捜査段階で、弁護人がなすべきことが何か、法律の建前では明かであっても、それが国民に納得する形で、実際の運用の中で、なじむにはまだまだ時間がかかるのだ。歴史の大きな目で見れば、警察も検察も捜査における弁護活動をどううけとめたらいいかとまどっている段階だ。捜査段階の弁護を積極的に発展させなかった弁護士会にも責任のいったんはある。

 ところで、アメリカの国民は、市民が自ら市民を裁く陪審員となる責任を負う。陪審裁判は、被告人が「黙秘」していることが通常なのだ。捜査から弁護人がつくのも当然のこと。黙秘権の尊重もやむなき手続と割り切って受け入れられている。それでも、刑罰を科すのにどれくらいの証拠があればいいか、それも市民自身の責任で判断する。無罪も有罪も市民自らの責任で決める。

 日本の国民が、いつまでも、捜査機関に「厳しい取調べで自白させること」を期待し、それで、事件の解決になると信ずる文化にとどまるようでは、「えん罪」の芽を摘むことはできない。事件を警察の密室=取調べ室で裁いてもらう意思はすてなければならない。その点で、刑事裁判に対する国民の責任感に、日米のギャップがあってはならない。

 警察が被害の側、処罰の側から事件をみてきめ細かく証拠を集める一報で、弁護人が被疑者の側から事件をみる準備を整える。その両側面での事件の見方を、国民が監視する公開の法廷で裁く、それが、適正な事件解決の道筋でなければならない。高い市民意識をもつこと。それが、長い目で、人権と処罰の適正な調和をもたらすものだと思う。

渡辺修教授のホームページ


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