※玉城さんにいただいたランボ&ツナ小説(続き)です。
釣りに行こう」からお読みください。




川の流れは
by 玉城


 ボンッと見慣れたベッドの上に戻ってきたランボは、しばらく目を閉じてちかちかと瞬く光の粒をやり過ごした。バズーカでの時空間の行き来に伴うちょっとした後遺症だ。視界を閉ざしたままくるりと身体を半回転させて、仰向けにシーツに倒れこんだ。下敷きになったタオルを手探りで身体の下から引っ張り出し、肌触りを確かめるように首筋に押し当てる。ふかふかしたパイル地からは乾いた日なたの匂いの他に、懐かしい柔軟剤の匂いがした。
 瞼の裏を縦横無尽に飛び回る光の軌跡が落ち着いてから目を開ける。煤けた天井の四隅は薄暗く、反対に窓の外は燦々と日差しが照りつけている。もう一度ぎゅっと目を閉じて、小さな気合いとともにランボは起き上がった。歩きながら器用に服を脱ぐと、着ていたものを全て洗濯機にぶち込む。少し考えて、タオルも一緒にドラムに入れてスイッチを押した。機械の作動音を確認してからバスルームのドアを閉める。
 コックをひねって頭から湯を浴びる。ふと見ると足元のタイルに身体に付いていたらしい砂粒が溜まっていた。十年前から持ち帰ってきた細かなそれは、ざあざあと音高く流れる湯に少しずつ押し流されてやがて排水溝へと飲み込まれていった。
 あの時代にいたという確かな証拠が消えていくのを僅かに名残惜しく思ったが、身体を清潔にしきちんとした身なりで出向くのが、これから赴く場所への必要最低限の礼儀だ。ランボは丁寧に汗と埃を洗い流す。今日は特に、出来るだけ自分の印象を良くしておきたかった。
 湯気をお供にバスルームから出て、バスタオルで頭を拭きながら洗濯の進み具合をチラッと覗いてみる。忙しくタオルを使って身体まで拭いてしまうと、最早自分の代名詞と言っていい牛柄のシャツに腕を通し、クローゼットを開けて生地から選んで仕立てたお気に入りのジャケットをハンガーごと取り出した。髪にドライヤーを当てながら、ランボは目当ての人物の姿を脳裏に思い浮かべ、言うべき台詞をシュミレーションする。この練習が役に立ったことはかつて一度もないが、今度こそは成功させてみせる。
 手櫛で整ってしまう手間要らずな髪に、普段滅多に使わないワックスを少しだけ付けてさらに形を整える。髪に何か塗りこむのがどうにも嫌で使わないのが一番の理由だが、それ以外にも、時折頭を撫でてくれる手のひらの持ち主がこの髪の猫っ毛具合を気に入っているので、必要もないのに整髪剤を付けてこの独特の柔らかさを損なうことを避けているのだ。面と向かって言われたことはないが、相手がそう思っていることをランボは知っていた。気に入られているという、自惚れも裸足で逃げ出すほどの自信がランボにはあった。
 しかし今日は場合が場合である。用意した言葉は勿論のこと、外見にだって万が一にも手抜かりや落ち度があってはならない。見た目の箔も実力のうちに問われる世界だ。注意深く毛先を中心に指の腹を使ってワックスを練りこみ、巻き髪の束ひとつひとつを自然な流れに揃えていく。
 鏡の前を離れると同時に洗濯機から乾燥開始の合図が鳴った。タオルだけは天日干しにすれば良かったかと、些細な後悔が胸をかすめる。時間がない上にいざ出かけてしまうと帰りが何時になるか分からないので、仕方がないと諦めた。
 ネクタイを締め、ジャケットを羽織る。アンティーク調の壁掛け式の姿見で念入りに最終チェックを済ませると、ランボは車のキーを掴んだ。目的地までは少し距離がある。この距離がいつも、せっかく自室で磨きたてた完璧な伊達男振りを、到着する頃には見る影もなく台無しにしてしまう。もうすぐ会えるという期待と喜び、飛んで行きたいもどかしさから来る焦り、そんなものに移動中ずっと晒されていたら誰だって余裕の持ち合わせは無くなる。好きな時に好きなように会えない相手なら、なおさら。
 でも今日はむしろ都合が良い。運転中は台詞のおさらいをして気持ちを落ち着かせよう。ランボは再度自分に言い聞かせた。とにかく今日は、どんな小さな失敗も許されないのだ。
 玄関のドアを開けると、外はくらくらと立ち眩みを起こしそうな、雲ひとつ無い晴天だった。
 
 
「で、必死こいて今日まで粘ったわけね」
隣のランボを見上げて、綱吉は面白そうに笑う。それを見てランボはますます決まり悪げに顔を伏せた。
市街地から車を走らせて、五分もすれば辺りの景色は一変する。春というよりはすでに初夏の日差しの下、葡萄畑の隙間を縫うように澄んだ水が流れていた。開花時期はまだ遠く、蔓状の幹にはこれから若葉になろうとする新芽が真新しい顔を覗かせて、陽光に初々しい萌黄色が映える。この国のこういうところは綱吉も好きだ。
ランボはこの前と同じジャケットを着て少し暑そうにしている。対する綱吉はTシャツに薄手のパーカーにジーンズという、今の立場を考えると信じられないほどの軽装だった。年齢なら立派な成人男性だが、この服装で街を歩けば高校生どころか中学生で通りそうだ。その格好で胡座をかいて座っていると、本当にあの日に戻ったような錯覚に陥る。まさかここまで乗ってくれるとは思っていなかったランボは、自分の詰めの甘さを反省した。
ここは葡萄の低木が整然と並んでいる以外何もなく、よって日陰を作ってくれる木立もない。日射病にはならなくても、帰る頃にはしっかり日に焼けてしまうだろう。でも今日はそれもありかもしれないと、綱吉は気分良くルアーへの当たりを待つ。今日の装備はすべてランボが用意したものだ。ことさらに存在感を主張する磨き上げられた釣竿が、のんびりとした風景に似合わないこと甚だしい。わざわざ専門店で大枚はたいて一式揃えたというのだから恐れ入る。
「この一時間のために、キミは二週間頑張ったわけか。割が合わないと思わないの?」
針の莚に座ることを意味するレンタル制度を自ら使って、主人が関わると途端に見境がなくなるあの歩く爆弾の殺気に耐えて、それで報酬がこのたった一時間の釣り遊びでは大いに勘定違いだろう。それでもこれが、綱吉が与えられる時間の精一杯だった。
この時間をひねり出すために、二週間のスケジュールを少しずつ前倒しに片付けて、遅らせられるものはどうにか二週間目以降の空き時間を見繕って予定を遅らせてと、こちらも相当大変だったのだ。勿論言い出しっぺのランボにはしっかりとその三倍くらい働いてもらったが、その任せた仕事の最中に、あわよくば事故に見せかけて始末してやろうと半ば以上本気でトラップを仕掛けに行こうとする獄寺を宥めるのが、実はこの二週間の間に綱吉に課せられた最も大変な仕事だったりした。
「まあ俺も結構無理したし、痛み分けっつうの?これで勘弁してくれな」
「いえ、そんな。元はと言えば俺がいきなり押しかけて、一緒に釣りに行こうとか言い出したんですから」
 颯爽としていられたのは執務室のドアを開けるまでで、今日こそはと勢い込んできたのにまったくいつもと変わらない体たらくだった。むしろ意気込んできた分、普段よりいっそう情けなかったくらいだ。何度会っても毎回そんな感じで、伝えたいことの半分も表せない。綱吉が表現しきれない部分をいつでも取り零すことなく掬い上げてくれるから、結果的に言葉が足りなくても何とかなってしまう。無意識についそれを当てにしてしまって、だからいつまでたっても進歩がなかった。
 陽気なラテン男には似合わない心底申し訳なさそうな口ぶりが可笑しくて、綱吉はからかい気味に言葉を続けた。
「ホントだよ!人の部屋に入ってくるなり『釣りに行きませんか』ってさあ。どんなデートのお誘いなんだと思ったじゃんか」
 でもそのおかげで片付いた仕事もある。綱吉はさざなみの照り返しに目を細めた。今のランボは綱吉専用のレンタル品でもあるのだ。レンタル料の払い込み先は当然ボヴィーノである。
 ランボの、ふたつのファミリーを行ったり来たりする、この世界の常識をあまりにも軽んじた普通なら決して許されない行為に理由付けをするために、両ファミリーのボスの間でひそかに契約が取り交わされていた。組織を介さない、あくまで個人的な契約として。
 子飼いとボンゴレ当主との入り組んだ関係を正しく理解したボヴィーノのボスが、このシステムを持ちかけてきた時に見せたまばたきに紛らせたウインクを、綱吉は苦笑とともに有り難く受け取った。ボヴィーノと言ったら今でも相変わらず弱小勢力で、当のボスに会うのもその時が初めてだったのだが、この世界で文字通り命懸けの綱渡りを続けてきた、小なりとはいえ一国一城の主に似つかわしい底の知れない暗闇を秘めた目の奥で、どこかいたずらっ子のような光が躍っていたのをはっきりと覚えている。
 たったひとりの部下のために、思い付いたところで誰ひとり真面目に取り合わないような案を検討し、便宜を図りに格上ファミリーの手の内に臆することなく単身、しかも丸腰で足を踏み入れる。万一の危険を厭わない度胸と配下に対する情の深さ、そして採用された結果を見越している冷静な計算力。治める勢力からは計り切れない器の大きさにしみじみと感じ入り、同時に格下を隠れ蓑にしたとんだ食わせ物が懐に飛び込んできたと気を引き締めることも忘れなかった。
「それで?ランボ、何か俺に用があるからこんな大騒ぎしたんだろ?」
「あ、はい。これをお返ししようと思って」
 ランボは慌てて綱吉の前にきちんと畳んだタオルを差し出す。両手で恭しく差し出したかったが、釣竿で片手が塞がっているので叶わなかった。
「うわー懐かしいなこのロゴ!このメーカー、こっちじゃ絶対見ないもんね」
 受け取ったタオルを嬉しそうに頬に押し当てる綱吉に、ランボは大急ぎで言い足す。
「一応洗濯してあります。あ、あとちゃんと日にも当てました」
 一旦引き下がったそのあくる日、機械乾燥の済んだタオルをもう一度洗って自宅の窓辺に干した。それを携えて後日再びボンゴレを訪ねるのが、一番手っ取り早くて誰の迷惑にもならないとランボも重々承知していた。十年前から持ち帰ってしまったタオル一本をダシに忙しい身の綱吉を引っ張り出したのだから、詳細を知らないボンゴレの衆にばれたらただでは済まないだろう。それでなくても、ボスの決定によって黙認されているだけの脆い足場である。特異な立場にいるランボにいい顔をする奇特な人間はごく僅か、綱吉個人の身近にいる、ランボにとっても昔馴染みの何人かだけなのだ。
 片手だけを上手に使って、綱吉はタオルを広げて肩に羽織った。成人しても未だ厚みに欠ける身体つきのせいで、余った両裾が肘の辺りにまで到達してまるでパイル地で出来たストールのように見える。
「うん、ちゃんとお日様の匂いがする」
 久々に何を気にするでもない、肩の荷が下りたような顔で綱吉が笑いかける。日ごろの憂いが取り払われたその顔を見て、ランボはあっちへこっちへと追い使われた二週間の苦労が報われるのを感じた。
 ランボの立場と綱吉の地位、それに付随する無視したくても出来ないもろもろの事情。大人になってもう一度あの日に戻れるはずがないし、今更戻りたいとも思わない。ただ、真似事でいいから十年前を再現してみたいと、そう思っただけだった。掃いて捨てられそうなささやかな望みのほうが、決まって叶えるのが難しい。だから叶った時は幸福という名の満足感で指の先まで満たされる。ランボが身に溢れる感情に気持ちよく浸っていると、目の前に古ぼけた本を差し出された。
「俺もこれ返すよ。長いこと貸してくれてありがとう」
 過ぎ去った時間の違いを証明するように、十年の歳月でただでさえ安い作りのペーパーバックは、さらによれよれの貧相なものに変わり果てていた。中のページはすっかり黄色く変色しており、角が擦り切れ色褪せた表紙には大きな染みの痕があって、描かれたイラストがかろうじて判別できるかといった有り様だ。たった二週間前に手放した本が過ごした時間の流れを思って、ランボは手元に帰ってきたそれを感慨深く眺める。
 無言で表紙に見入るランボをどう思ったのか、綱吉はちょっと笑って染みの痕を指先でつついた。
「これ、覚えてないかもしれないけどお前がつけたんだぞ。まあ、持ち主がつけた汚れだからね、俺もそんなに怒らなかったけど。それにしてもランボ、こんなの読むんだねー」
「いや、実はジャケ買いしたもので…。中身が詩集だとは俺も知らなかったんです」
 表紙のイラストに惹かれて購入しただけで、中身に興味があったわけではなかった。あの日暇を持て余して、そういえばと思い出してページをめくってやっと現代詩集だと知ったのだ。
「それさあ、完全口語詩じゃない?イタリア語会話の勉強に使ったんだよ」
「読んだんですか?」
 ランボの素朴な質問に、綱吉は顔をしかめてみせた。
「読んだよ全部。もー最初は全っ然訳分かんなくて。で、分かってきたらきたで今度は恥ずかしくてさあ」
「なんでです?」
 ランボには、これは美しい会話調の恋愛詩集としか読み取れなかった。それのどこが恥ずかしいのか、語学の隔たり以上に分からない問題である。本気で悩んでいると、綱吉がこれ見よがしなため息をついた。
「やっぱ根本的に、日本人とイタリア人は違うんだなそういうところが。まあいいや。でさ、まだ今日は言いたいことがあるんじゃないの?」
 途端に気まずそうにランボは下を向いた。何とも分かりやすい反応である。
 多分こうなると見当がついていたから、つかず離れず付き従っている護衛には拝み倒して視界に入るギリギリのところまで下がってもらい、モニターの類いもすべて外してもらった。「一時間だけですからね!!」と口を酸っぱくして言い立てる彼らに、綱吉は手を合わせて感謝を示した。ボスが部下に対して容易に頭を下げるのは誉められたことではないが、彼らの仕事を邪魔して道理を捻じ曲げているのだからやはり下げるのが正解だろう。ちなみに恥も外聞もなく追いすがろうとする獄寺は山本が引き受けてくれた。ちょうど運良くビアンキもいてくれたので、二人に任せて屋敷を後にした綱吉である。フォローは帰ってから三人三様、十二分にするつもりだ。
 お膳立ては整った。綱吉は、ランボが口火を切るのを待った。
 しばらくモジモジして煮え切らない態度をとっていたランボが、意を決したようにこちらを振り向く。
「ボンゴレ、結局あの後、俺はあの魚を見てどうしたんですか?」
あらかじめ予想していた反応が、あまりにも予想通りだとかえって笑いを誘う。他愛もない質問と思いつめたような顔つきのギャップに、綱吉は我慢しきれず吹き出した。
「わ、笑わないで下さいよ!聞いたのはそっちじゃないですか!」
情けない顔で詰め寄るランボに、「ごめん」と謝ると綱吉は首を傾げてみせた。
「質問に質問で答えて悪いんだけどさ、じゃあランボはどう思ってるの?思い出してみて、どうだった?」
 じっと見上げてくる瞳に、ランボは一呼吸置いて気持ちを落ち着かせてから、自分が感じた正直な感想を述べる。
「俺はやっぱり、大物を釣り上げたんだっていう手応えしか思い出せないんです。あんなのしか釣ってないはずなのに…俺の中には嬉しかった記憶しか残ってない」
 そう言うと、綱吉の視線がよりいっそう柔らかくなった。小作りな顔が、にっこりとランボが好きな花がほころぶような笑い方をする。
「だったら、それが本当のことなんだよランボ」
 思ってもみなかった答えを聞かされてランボは目を丸くした。
「それ、どういう意味ですか?」
「そのうち分かるよ。多分、お前がもう少し大人になったら」
 分かったような分からないような、禅問答まがいの遣り取りに今度は目が点になる。ボヴィーノに拾われ、自分で自分を養うようになってからずっと、実年齢に関係なくランボは大人のつもりだった。今のはどういう謎かけかとあれこれ考えていると、トン、と左肩に重みがかかる。
「…ボンゴレ、それはちょっと、いくらなんでも無防備すぎやしませんか?俺一応、他ファミリーの人間なんですけど」
 目に付かない位置に控えている気配が俄かに引き締まったのを、ランボは敏感に嗅ぎ取った。絶対分かっていてやっているに違いない。嬉しいのと同時に、始末が悪いとランボは思う。ついでに、ここにあの歩く火薬庫がいなくて良かったとも思った。いたら綱吉はしてくれなかっただろう。かわいい弟分がこの世とおさらばする羽目になるからだ。
 呆れ気味のランボに構わず、綱吉は体勢をずらし、ランボの肩の付け根辺りに頭を預けた。肩と胸のちょうど境くらいに、顔を押し付けて目を閉じる。
「……ボンゴレ」
 思わずランボは、綱吉の頭が支えを失うと知りながら、とっさに身体を引きそうになった。今綱吉が横顔を伏せている場所、その下にある当たり前過ぎて普段は気にならない硬い感触を、急に強く、はっきりと意識する。
 目をつぶったまま、綱吉は口の端を引き上げて笑った。その拍子にジャケットの下に収められたルガーのグリップが頬骨に当たる。無機質な冷たさの人殺しの道具は、ランボの体温に温められてその身体の一部となっていた。
「あの上目遣いをする奴が無防備とか言っても全然説得力ないって。ホント騙されたよなあ、あれには。この母性泥棒が」
 片腕を占領されて動くに動けず、ましてや綱吉の頭を肩で追いやるなんて無礼はなおさら出来ない。視線を落とせばすぐそばに綱吉の顔がある。半身の自由を奪って、伏せた瞼は信頼の証か。そのなめらかな頬の下、ジャケットの生地越しに隠されたものの意義を、肌身離せぬ世界に生きる意味を分からないはずがない。
 ランボは固唾を飲み込み、乾いた舌を動かして言葉を繰り出した。何でもない風を装ったのに、唇から出てきた声は揺れていた。
「母性泥棒って。ボンゴレに当て嵌めて言うんなら父性でしょう」
「男に母性でもいいんだよ。厳密には、父性って存在しないらしいよ」
 ランボの僅かに震えた声に、かすかに強張った身体に、綱吉は気づかないふりをした。手入れの行き届いた、美しい木目のグリップ。それを握るランボの冷静な眼差し。少年の頃はまったく想像も出来なかった強く隙のない姿にも、今ではすっかり馴染んでしまった。その透徹とした瞳に見据えられる日が、真実来ないとは最早言い切れないという考えにも。
 常に頭の片隅にあるその考えに今日は知らん顔を決め込んで、隣のぬくもりにさらに身を寄せて綱吉はいっそう居心地の良い姿勢をとった。ランボの肩に凭れかかり、その身体に体重を預けて長く息を吐き出す。近づける限界は存在する。互いに異なる勢力に属するランボと自分の間に確かに引かれた、目には見えない境界線の縁の縁まで近づいて、その懐でまどろみに身を任せようとする自分は一体何者だろう。ボヴィーノのボスのような、大いなる器でないことだけは確かだ。
「ボンゴレ、もうあんまり時間ありませんよ」
 綱吉の意図を悟り、ランボは諦めの境地に至った。されるがままと心得たランボに、綱吉は軽い調子で応える。
「ちょっと一眠りするだけだって。五分前になったら起こしてくれな」
 そう言ってゆっくりと浅い眠りに落ちていく綱吉の手から、ランボは釣竿をそっと取り上げた。十年前、まだ小さかった頃は、自分の胸元に頬をうずめて眠る綱吉は見上げるほどに大きかった。その背を追い越した今は、逆につむじを見下ろしている。何故か無性に泣けてしまって、綱吉に見られないで良かったとランボは息を殺してこみ上げてくる涙と戦った。
 遠いあの日の空を思い出す。清しくもどこかおぼろに霞む空に、風に乗り薄紅の雪がはらはらと降り落ちているように見えたあの景色。
 綱吉と手を繋いで家路につく、その間際に振り返った時は、散りゆく花びらは淡く視界を染めてただひたすら綺麗なばかりだった。来年もまた二人でこの光景を見られると、今日も明日も代わり映えなくひと続きで、待っていれば当たり前にその日が来ると思っていた。時がたてば跡形もなく消え失せるこの平穏と、止め処なく舞い落ちる桜が重なってひとつになる、あえなく美しい幻想がランボの胸を突いた。
 絶え間ない涼やかな音は、変わらぬ響きを耳に届けてくる。川の流れはどこまでもとどこおりなく穏やかで、時間の流れもまた誰にも止めることは出来ない。真昼の太陽のように誰の上にも等しく降り注ぎ、留まることなくただ流れ流れて過ぎて行く。それをあの不可思議な道具でほんの少したわめてきたけれど、歳を重ねるごとに戻らない時間に追いつかれる不安が募っていった。段々と使う頻度は減っていき、いつしかまったく使わなくなった。再び手にした時には、その銃身に掛けられた魔法は消えていた。何の手応えも寄越さないトリガーに、妙にほっとしたのを覚えている。
 呼ばれて行くことはあっても、望んで行くことはもうない。行って帰ってくると、決まって綱吉に会いたくなった。本当の意味で二人きりには二度となれない。今もそうだし、これからもずっとそうだ。綱吉の言葉にはあの頃と比べて、必要な分だけ嘘が増えた。それを寂しいと思わないのは、一緒に暮らした日々の中でもう一生分愛してもらったからだ。頭を撫でてくれる手のひらには、いつだって一杯の愛情が籠もっていた。だからその指に、銃器を扱う者特有の節くれが目立ってきたのにも、ランボはいち早く気づいていた。
 今でも、綱吉は頭を撫でてくれる。その優しい手が鈍い輝きを放つ凶器を握り、構えられた銃口から放たれた弾丸が真っ直ぐに自分の心臓を打ち抜くところを、ランボはこれまで何度も想像してきた。
 薬莢の散らばる廃墟の瓦礫のさなかで、硝煙の匂いの立ち込めるうら寂れた路地裏で、あるいは贅を凝らした執務室の、見るものを威圧するどっしりと重く黒光るデスクを挟んで、引き金を引き合う日が来ない保証はどこにもない。その世界の、今や頂点に君臨する人の呼吸を間近に感じて、その重みの心地よさに涙が溢れてくる。
 これが、ランボの生きる世界だ。綱吉が選んだ道だ。
 ランボは空を仰いだ。滲んだ視界に広がる、痛いくらいに澄んだ晴天を鳥が飛んで行く。睫毛を濡らす涙にまで染み入りそうな深い青に、ランボは静かに瞼を下ろした。射抜くような紺碧は春の終わりの色、焼け付く夏の到来を告げる色だった。
 どんなに気に入られ、好かれていても、そこから先には足を踏み入れられない場所がある。どれだけ思い、慕っていても、それ以上近寄らせられない距離がある。この国に帰ってきてから、二人で少しずつ線を引いてきた。他人に引かれる前に、自分たちで決めてきた。だから今でもこうして、お互いの鼓動が聞こえそうなほどに寄り添っていられる。
 目が覚めたら綱吉はまた、優しい嘘をつくのだろう。髪を撫でながら綱吉が囁くたび、ランボは騙されたふりをした。現実の水は苦く、想像の中の空気はいつでも黒焦げている。大切なものを守るために覚えた綱吉の嘘は、下手なまやかしよりも純度が高くて時に苦しいほど切ない。それでもそこに篭められた本音を受け取ることが綱吉の願いと知っているから、ランボは甘い毒にも似た言葉をいつも子供のように素直に飲み干した。毒をあおる姿に綱吉が救われている、それより重い真実などランボにはなかった。
 糸が引かれ、指先に負荷がかかる。針から逃れようと魚が跳ねて、その水音に綱吉が僅かに身じろいだ。ランボは薄目を開けて、眠りの途中にいる綱吉を起こさないよう注意深く腕を引き、釣竿を捻ってわざと糸を切った。用を成さなくなった釣竿を脇に置いて、ランボは自由になった右手を地面につき綱吉のほうへ首を傾ける。癖の強い、明るい柘植色の髪が鼻梁をくすぐった。いっそあどけないくらいの寝顔に、このままとランボは思う。
 このまま時間の流れから取り残されて、二人だけでいつまでも漂っていられたら、どんなに幸せだろう。
 自分も眠ってしまえば、泡沫と呼ぶにふさわしいこの楽園を永遠に続けられるんじゃないか。そんな益体もない夢想が浮かんで消える。眠れるはずがなかった。自分が望んだ時間の、幕引きの時刻が迫っている。綱吉は起こせと言ったのだ。あの街に、夜になってから花が咲く世界に帰るために起こせと。束の間の平和に幕を引くのが、ランボの役目だった。
 火照った肌を鎮めて、浅瀬を渡る風は穏やかに涙を乾かしていく。ランボはもう一度目を閉じて、綱吉の安らかな呼吸を数えた。頬に触れる髪からは、あの日と同じ太陽の匂いがした。

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またしても公開場所を提供していただきました。たからさん優しいよほんとに…(涙)
タイトルの『釣りに行こう』と『川の流れは』は、ともにTHE BOOMの曲から拝借しました。
歌自体が非常に好きで、好きが高じて(?)作中歌詞をもじったり、中には丸ごとフレーズを使ったりしています(ミッシェルも使ってるだろうが)。二重三重に著作権侵害です。
特に『釣りに〜』は初期の名作で、こんな拙作に使用して内心ビビッております。
しかしながら『釣りに〜』はもう本当に、ツナとランボで書きたくて書きたくてずっと温めていたお話でした。リボーンで書くきっかけも弾みもないうちから、この歌はランボ、と私の中で勝手に決まっていたのです。大変でしたが、書いている間とても幸せでした。
そして書いてみたらその先を何となく考えてしまって、『川の〜』が思い浮かびました。最初はタイトルだけ借りる気持ちでしたが、やはり途中から歌詞を意識せずにはいられなくなりあのように暗い内容に(笑)これも中期の名曲なのに…。
とにもかくにも、ツナとランボが書けて楽しかったです。もうそれに尽きます。
それでは、ここまでお読み下さり有り難うございました。

玉城拝




■玉城さんの小説はほんと繰り返し読みます、いつも。深い。ランボとツナの親子みたいな関係が絶妙! ついつい熱く語りそうになるのですが(実際玉城さんにはそんなメールを送っちゃいましたよ)読後感をぶち壊しにしたくないので抑えます。その最高の読後感を自分も味わいましたから! 玉城さん、ステキな小説を本当にありがとうございます! こんなすごい小説もらえて幸せです。本当に宝物です、大好きです。