※玉城さんにいただいた小説です。




釣りに行こう
by 玉城


 赤と黄色に塗り分けられた小さな浮きがゆらゆらと、あるかなしかのさざなみに揺られている。
 始めのうちはうるさく騒いでいたランボも、今は水面に浮かぶカラフルな浮きを見つめてじっとしている。乾いて砂っぽい敷板に胡坐をかいて、隣で同じように釣り糸を垂らす綱吉は、そのぷくっとした頬が引き締まっているのに気がついた。たかが子供の遊びだから、綱吉のほうは身を入れて当たりを待ち構えたりはしていない。しかし、信憑性など無きに等しいというのに大真面目にヒットマンを名乗るランボの、普段は全体的に締まりのない幼顔は妙に真剣だった。
 ここはバスで移動すること30分くらいの、綱吉が唯一知っている釣り場だ。小学生の頃、父親に連れられて二、三度釣りをしにやって来た。二週間くらい前テレビの釣り番組を見ていて思い出し、何とはなしにその話をしたら、ランボは釣りに対して並々ならぬ関心を抱いたらしい。それから半月もの間、目先の興味がころころ変わり、何でもすぐ飽きてしまうランボが諦めずにひとつのわがままを言い続けたのだから、結果としてはランボの粘り勝ちと言える。今日のランボはいつにも増して朝からハイテンションだった。
 バスの中でも落ち着きなくぴょんぴょんと飛び跳ねるランボをどうにか宥めつけ、鄙びた停留所からテクテクと山裾の道を歩いておぼろげな記憶を頼りに角を曲がると、もう目の前に小川が流れていた。せせらぎの音が耳に清々しい。まるで童謡に出てきそうな浅い流れに、ミニチュアじみた板張りの橋が架かっている。大人がやっとすれ違えるくらいの幅の橋には手すりもない。
「ツナ、釣り!つ・り!」急かすランボに手を引かれながら綱吉はさりげなく周りを見渡し、こんなにちっぽけだったのかと呆気に取られた。思い出の中の風景は、川も橋ももう少し大きなものとして残っている。
 両岸に植えられた桜の木から、時折小川へと花びらが舞い落ちる。街中より気温の低いこの場所で満開なのは、寒さに強い品種を植えてあるからだと、綱吉は父親に教わった。下生えの柔らかな緑と、木々を彩る淡い薄紅に縁取られた景色は美しく、辺りはのどかで風もない。ランボが静かになると、歩いてきた道を時々車が通り過ぎる音の他にノイズらしいノイズもなくなった。橋の上に並んで腰掛けた二人の背中を、春の日差しはぽかぽかと暖めてくれる。綱吉は竿を握ったまま、いつしかこっくりこっくりと船をこぎ始めた。連日連夜の特訓で疲れているのだ。
 近頃リボーンがやたらとはりきっていて、新しい強化プログラムを組んでは綱吉の都合はお構いなしに押し付けてくる。根がぐうたらな綱吉には迷惑千万な話だ。しかし「この春で義務教育の最終学年を迎えるんだ、今までみてえな甘い鍛え方はしてやらねえぞ」と、じゃあ今までは手加減していたのかと俄かには信じられない台詞をしゃあしゃあと吐いて、嬉々として家庭教師スピリットを燃やすリボーンを前に、綱吉に口を挟む隙などあろうはずがない。
 昨日はかつてハルと荷物をおんぶして家路を歩いた経験を持つ綱吉にはぴったりだと、どうしてそうなのだか良く分からない理屈で、あの時とは比べ物にならない重さのリュックサックを背負い(ウエイトの他に拳銃やら手榴弾やらが多数入っていて、とどめにビアンキに作らせたと思しき兵糧を見つけた時点で綱吉のボルテージはどん底だった)、徒歩で家からハルの通う隣町の女子中学までの往復のタイムを計る、軍隊のサバイバル訓練のような真似をさせられた。
 小山のごとく膨れ上がったリュックサックを背負って歩く姿は街の人々の視線を集め、かと言って如何に恥ずかしかろうと途中放棄など後が恐ろしくて出来ない綱吉である。とにかくこのプログラムを早く終わらせる為に、肩に食い込むストラップの痛みに耐えてただひたすら黙々と歩いた。そのおかげで今回は苦手なタイムトライアルの割に成績が良く、そのせいで余った時間を別の訓練に費やす羽目になった。
 終業式が終わった翌日からこんな調子で、この強化プログラムに春休みはすべて潰された。さすがに不満を覚えた綱吉だったが、人生至福の時という表情でカリキュラムを組む、目に見えんばかりのやる気のオーラが漲っている今のリボーンに面と向かって文句を言える度胸は、残念ながらなかった。そこでいつもなら面倒くさがって半分は無視してしまうランボのおねだりを聞いてやるという体裁で、三月最後の日を「休日」とする確約をリボーンからもぎ取ったのである。
 本音を言えば、一日だけの貴重な休みなのだから、綱吉はひとりで心置きなく羽を伸ばしたかった。子供と一緒だと神経を使って存外疲れるものだし、相手がランボならなおさら疲労の度合いが高くなるのは目に見えている。それでもまかり間違えば永眠一直線なプログラムに最後の最後まで付き合うより、こうして青空の下で釣り糸を垂らしている時間のほうがはるかに天国だ。
「ツナ!ツナ!」
突然ランボが興奮した声を上げた。はっとうたた寝から起きた綱吉の目に、ピンと張られ、今にも切れそうに小刻みに震えている釣り糸が飛び込んできた。
「ツナ!ランボさん、先にお魚捕まえちゃったもんね!」
口では得意げな台詞を吐きつつも、小さな足を踏ん張って仁王立ちのランボからは余裕のかけらも感じられない。釣竿を握り締めた両腕が力を込め過ぎてブルブルと震えている。水面下で抵抗する魚の動きと相まって、釣り糸に伝わる振動はいよいよ大きくなっていった。
「うわ、ばか、ランボ。こういう時は魚と喧嘩してもダメなんだって。ちょっと糸を緩めて、魚に好きに泳がせてから引くの。ホラ、貸してみ」
横から手を伸ばそうとした綱吉に、ランボがいっそう高い声で叫ぶ。
「ダメ!ツナ!ランボさんが捕まえたお魚だよ、ランボさんひとりでも平気だもんね!」
「…まだ捕まえてないだろー。つーか、゛捕まえる″じゃなくて゛釣る″だぞランボ」
どう考えても平気には見えなかったが、綱吉はおとなしく手を引っ込めた。ランボは魚が暴れるたびに何度も水に沈む浮きを、グリグリと目をむき出して一心不乱に見つめている。小鼻をふくらませて口をへの字に結んで、魚との格闘に集中する顔は力み過ぎて面相が変わっている。丸々と膨らんだ頬は真っ赤だ。
綱吉は少しばかりこの子供のことを見直した。いつもはネジが弛んだような顔しかしていないのに、さっきの真剣な面構えといい、今日はなかなかどうして根性のあるところを見せる。
すっきりと晴れ渡る蒼穹の下、綱吉と桜の木に見守られたランボと魚の攻防は、しかし長くは続かなかった。いきなりそれまでと逆の方向に魚が泳ぎ、よりいっそう釣竿がしなる。ブチン、とあっけない音を立てて糸が切れた。
「ぐぴゃ!!」
 引き合う力が消失して、反動でランボは勢いよく後ろへ転がった。たわんだ分だけスピードのついた釣竿が思い切りぶち当たって、ランボの顔面に斜めに一本真っ赤な筋が走る。
「うわあぁん!!」
 あざの痛さと魚を逃した悔しさで、ランボは盛大に泣き出した。投げ出された釣竿がコロコロと板の上を転がる。間一髪、川に落ちる寸でのところで綱吉の手が追いついた。ほっと安堵のため息をついて綱吉が振り返ると、ランボが泣きながらごそごそ荷物を漁っている。
「って、うわーランボ!十年バズーカは置いてこいってあれほど言っただろー!」
 荷造りは自分がしたというのに、一体いつの間に荷物に潜ませていたのか。大型銃器が増えたくらいでは重いと感じなくなっている。気がつかないうちに相当鍛えられているようだと、綱吉は変なところで特訓の成果を実感した。
 厄介なことになる前に取り上げようと身を起こした綱吉の手を掻い潜り、ランボはバズーカの銃口を鼻水でぐしゃぐしゃになった泣きっ面に向けた。制止の声を上げる暇もなく、丸っこい指がトリガーに結ばれた紐を引っ張る。
 ボカン!と毎度お馴染みの爆発音。同時にもくもくと威勢良く煙幕があがり、視界が遮られる。至近距離での派手な目くらましに、綱吉は反射的に目をつぶった。
「…これはこれは若きボンゴレ、お久しぶりです」
程良く低い、耳触りの好い声。それがなにやら足元のほうから聞こえる。ピンクがかった作り物めいた煙幕の、作り物ではない証拠の鼻をつく火薬の匂いが薄れてから綱吉は目を開けた。視線を下げると、ゆるくウエーブのかかった黒髪が綱吉の踏み出した足先に寝転がっていた。
「…うん。なんか、今日は特にくつろいでる時に呼び出したみたいで、ごめんね大人ランボ」
ランボはいつもの牛柄のシャツとジャケットではなく、洗い晒して色落ちしたグリーンのタンクトップと古着らしい黒のカーゴパンツといういでたちで、片手に新書サイズの本を持っていた。外国映画に出てくる、紙質の荒いペーパーバックだ。お決まりのサンダルも履いておらず裸足である。
「ええ、今日はオフでしてね、午前中からずっとごろ寝してましたよ」
 デート中に呼び出されなくて良かった、今日は何故かしら誰ひとり都合がつかなくて、などとうそぶいてランボは眩しげに目の上に手を翳して綱吉を見上げた。閉ざされた室内から開かれた屋外へいきなり放り出されて、瞳はもちろん身体のほうもすぐには明るさに順応できない。静かに胸を上下させて、ランボはゆっくりと深呼吸した。せせらぎの音が鼓膜をくすぐる。吸い込む空気は暖かくて少し埃っぽく、肌に感じる光は心地よい中に紫外線の強さを感じさせる、甘くて鋭い春の日差しだ。
 細長く狭い橋の面積いっぱいに長々と寝そべり、手のひら越しに綱吉を見上げたままランボは動こうとしなかった。いかにも着倒した部屋着といった身なりだからなのか、服が汚れるだろうに気にする素振りもない。子供のランボならいざ知らず、それなりに洒落者な彼のこんな無防備な姿を綱吉は初めて見た。そしてそんな格好でも所作は相変わらずの色男気取りで、本当にこれは習い性なのだなと改めて綱吉は納得した。
「ま、とにかくさ、寝っ転がってないで起きなよ」
 そう言って綱吉が手を差し伸べる。それを合図に、それまで手の影を透かしてじっと綱吉の喉もとのあたりを見つめていたランボは、目を覚ましたように何度かまばたきを繰り返した。音もなくその痩躯を起こして剥き出しの二の腕についた細かな砂粒を払い落とすと、差し伸べられた手のひらとは逆の手を指差す。
「糸、切れちゃいましたね」
 気づいてああ、と綱吉は軽く左手を上げてみせる。片手を空けるために自分のぶんと二本まとめて釣竿を握ったはいいが、手の作りが小さいので実際はさほどでもないのに何となく持て余し気味でバランスが悪く、重たげに見える。
「良かったら、時間までちょっとやってみる?俺の使っていいよ」
 はい、と差し出された青い釣竿を、ランボは素直に受け取った。ペーパーバックを傍らに置き、綱吉が釣り糸を直している隣に座ってしなやかに腕を振り上げる。小川に向かってナイロンの釣り糸は美しい軌跡を描き、日光を反射してきらりと銀糸の色に光って水面に到達した。大粒のトルコ石のような浮きがプカリと流れの中央に浮くのを見届けて、ランボはおもむろに口を開く。
「記憶が確かなら、俺この日、魚を釣り上げてるんですよね。それも、結構な大物を」
「へえ、そうなの?」
 ランボは肯き、グリップの握り心地を確かめるように片方ずつ手を開いたり閉じたりした。そのたびに肉付きの薄い指の、骨ばった関節が浮き上がる。その様子を綱吉はしげしげと見つめ、ふと思い浮かんだことを何気なく口にした。
「ランボの手っておっきいのに平たいよねー。痩せてるからかなあ」
「……。俺、そんなに幸薄そうに見えますか?」
 しゅんとしおれた声に一瞬ぽかんとする。単なる軽口のつもりだったのに、ランボは急にがっくりと落ち込んでしまった。綱吉は慌てて原因を探したが、何にそこまでショックを受けたのかまるで見当がつかない。数秒間無言で頭をひねった挙句、仕方なく肩を落とした本人に直接その理由を尋ねることにした。
「あの、ランボ、俺なんか気に障るようなこと言った?」
 眉尻を下げた顔に苦笑いを浮かべて、出来るだけ優しく綱吉は問いかける。うつむけた首をそろりと綱吉のほうへ向け、ランボは「すいません」と短く謝った。そしてちょっと言いよどんでから、目を合わせないでぽそぽそと呟いた。
「ボンゴレのせいじゃないんです。『手のひら薄いは幸薄い』って言い回しがあるって言われたもんだから、それで」
 さすがにここまでくれば綱吉にもピンときた。
「リボーンか!あいつなんでまたそんな、マイナーな言い回しを…」
 十年後の未来も、今と少しも変わらない力関係であることを端的に表した話だ。片手であしらいながら皮肉を撃ち込むことも忘れない、幼い殺し屋の軽快なステップがありありと目に浮かぶ。楽天家のランボがここまでへこむのだからよほどの言い方だったのだろう。そこへさらに自分が追い討ちをかけた格好になったのだと、綱吉にもようやく得心がいった。そんな事情は知らないし、当然含みを持たせて口にしたわけでもない。それでも目の前でうなだれた姿を見せられては放っておくわけにもいかなかった。
 これで周りをいつもの面子が囲んでいて、いつものように賑やかなのであれば、その雰囲気に乗っかって誤魔化してしまうことも出来たに違いない。周りの連中が好き勝手に喋ったり動いたりして空気がどんどん入れ替わり、自分もランボもすぐにこんな些細な失言は気にならなくなっただろう。二人だけの今は、それに頼ることもできなかった。
 何かフォローしなくてはと気ばかりが焦って一向に考えはまとまらない。思いあぐねて、綱吉は身体をひねってディパックを引き寄せた。
「ランボ、これ被ってな」
 ふわりと綱吉が広げたのは、白地に青い縫い取りでメーカーのロゴがでかでかと入った大判のスポーツタオルだ。何度か水にくぐらせ、たっぷりと太陽の恵みを浴びたタオル特有の肌触りがランボの肩を包む。
「タンクトップ一枚じゃいくらなんでも寒すぎだろ。ほんとは日よけに持ってきたんだけど、まあいいよな、どう使っても」
 出来るだけ明るい調子でそう言って、綱吉は少しためらった後タオルの上からぽんぽんと子供をあやすリズムでランボの背中を叩いた。謝意のしるしと励ましの気持ちのつもりでごく軽く叩き、すぐにその手を引き下げようとする。
引き下げるその動きを察知して、ランボは思わず追いかけるように声を上げた。
「あ、あの」
「うん?」
呼び止められて綱吉の腕は中途半端な位置で留まる。やっぱりこれはあんまり子供扱い過ぎたかと、墓穴を掘った予感に怯んで知らず及び腰になる。
そんな綱吉の様子をどう受け取ったのか、丸めた背中から首だけ伸ばしてランボは綱吉の顔色を窺った。おずおずと言葉を続ける。
「あの、もし良ければもう少し今のやっててくれませんか?」
もしかしたら余計に気を悪くさせたかもしれない、ランボの性格からしてきつい物言いは決してしないだろうが、果たして何を言われるのかと身構えていた綱吉は、思いもよらない催促に拍子抜けした。目をぱちくりさせて、ランボの顔を覗き返す。
「え、今のって、背中を叩けばいいのかな?」
「はい。ダメですか?」
肩をすぼめて上目遣いに綱吉を見上げて、ランボは首を傾げた。十年後のランボがこの時代の綱吉に、はっきりとわがままを言うことは滅多にない。恐る恐るといった感じで、でも期待が裏切られないことも確信している目つき。確かに、否やを唱える所以は綱吉にはない。原因を知らなかったとはいえ口を滑らせたのは綱吉のほうだし、何よりこの上目遣いに対抗するには綱吉はまだまだ人生経験が浅かった。ランボに向かってにっこりと笑う。
「分かったよ。これでいい?」
リクエストどおり、先ほどのテンポで背中の中心を軽く叩く。ランボの背中はその指同様痩せて肉付きが薄く、叩くたびに布越しに背骨の硬い感触が手のひらに伝わってくる。猫背にしているので、なおさら皮膚を押し上げるようにその形が浮き上がっていて、ごつごつした関節のひとつひとつが指先ではっきりと数えられた。綱吉はいつも、自分よりも歳を重ねていて、裏の世界に身を置いて生活を営んでいる十年後のランボを、その力量や腕前に対して若干の疑問を抱きつつもずっと大人だと認識してきた。今こうして叩いている痩せっぽちな背中から感じるのは、身の丈ばかりが伸びて中身の成長が追いつかない、周囲の言動に一喜一憂しそれによってあっけなく傷ついてしまう、自分と同じ悩み多き年頃の気配だった。
「しっかしこれだって充分プライドが傷つきそうなモンなのになあ?」
 隣のランボに聞こえないよう、綱吉は喉の奥でこっそりと呟いた。しかし当のランボが宥められ、あやされるこの状況を心底嬉しがっているのが、手のひらを通してそれこそダイレクトに伝わってくる。空気という曖昧で目に見えないもののあからさまな変わりように、しかし内心綱吉はほっと胸を撫で下ろしていた。子供扱いと紙一重のこの慰めが癇に障ったりせず、素直に受け取って甘えてくれるのであれば結果オーライである。ランボが良いならそれで良いと、気が済むまで付き合ってやろうと綱吉はテンポ良く手を動かし続けた。


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