・掲示版 書庫


KENJI さん (ha4da@zeus.eonet.ne.jp) 2005年 08月 12日 21時 28分 38秒

お久し振りです。
今夜遅くから四国の石鎚山に行ってきます。本当はアルプス方面に行きたかったのですが、天候が悪いみたいなので、急遽、四国に変更です。
石鎚神社の山頂に有ります、奥社の写真を写して来ます。奥社担当員ですから。(笑)
少し前に、デジカメを買い換えました。SONYのDSC−H1です。
画素数は500万画素で、今では大した事は無いのですが、望遠が12倍有ります。
テスト撮影以外では、始めての使用に成りますので如何成りますやら?・・です。
石鎚神社奥社の写真は、帰ってきてから送ります。

tan さん 2005年 08月 10日 23時 03分 43秒

坐摩神、
昔、調べた時のメモが残ってまして、しかしメモ以外は記憶の彼方^^;
「漢辞海」によると摩のなりたちは(正座して)手を(こすり)合わせる、とか。そういえば磨くは石ですね。手と麻ですからどちらも神には縁深い。

花郎、
も結構残ってますよメモ。掲示板の過去ログにあります。はじめ3c頃まで遡るのかもと調べたら花郎らしき集団としては見当たらず、土俗的信仰程度はあったかも。程度でした。
妙齢の女性を集団でかつぐというのは集団内闘争とか分裂し易いのですね、昔も。
母系集団というか九州・豊前豊後あたりは地名のおこりなど女王国かもと思わせる縁起が多い。女性国?は秦王国と呼ばれた地域の周辺に多いのですが、これと花郎との接点・因果は?でした、調べたきっかけ。

西湖に富士山、ですねぇ、相模川の上流は桂川なんです。中国での月のかつらは木犀のことといいますが、大き目の香木はその対象だったのかもしれない。木犀といえば三島大社に大樹があります、いいですよね風にのっての香り。


か-たん さん 2005年 08月 10日 17時 04分 37秒

お忙しそうですね。。。(^ー^)ノ

坐摩神のご説明いっぱいありがとうございました。果たして理解できたのか・・・私(-_-;)
「井・波」など水に関係する神様なのかなぁ・・・って
5座というと5角形で星♪
皇室守護の神、いつのかすり・・いかすりで、御敵調伏 (/||| ̄▽)/ゲッ!!!
やっぱり恐いのですね・・・魔を座らせちゃうのかな。
新羅って、なんだか怪しい道教的な集団(花朗だったかしら・・・)に白山・高霊などの単語が日本と繋がりがありそうな雰囲気がしますが・・・(高霊は加羅だったかも・・・)
古代に越や呉からの人々が山東半島経由でやってきて加羅・新羅・九州辺りに住み付いた様なことが良く書かれていますが、そうするとその当時は仲間ですね。
新羅はそれに北方の要素も加わって来そうな感じ。
その仲間に神武さんがいたとしたら、半島との繋がりも蜜になりそう・・・
新羅からきた調伏の神、八幡様とも繋がりそうですね。
と書きながら、自分で訳わからなくなってる (-_-;)

そうそう、林神社の林って、林太郎さんかもってことですか?
楽しそう。

それから月に育つ桂の木。ではないけど、先日、西湖の帰り道に「蓬莱山」や「桂」に「月光寺」(だったかな?)などの名前を見つけて、ちょっとわくわくしました。
さすが富士山だなぁ〜って。

tan さん 2005年 08月 09日 23時 07分 33秒

そろそろ行きたいのですが山、なにか横ヤリが入って。。^^;延びてます。
茄子といえば、うまい漬物食べたいですわ、浅いのや深いの。。

坐摩、これは読めないですね「いかすり」神官さんも今は「ざま」を通称としてます。とのことでした。で「いかすり」って何?、ですが、5神の総称と言われてました。
5神とは「生井(イクイ)神、福井(サクイ)神、 綱長井(ツナガイ)神、波比岐(ハヒキ)神、阿須波(アスハ)神」で、これは延喜式祝詞に「生井、栄井、津長井、阿須波、婆比支」とあって、祝詞本文では、全部は書ききれないので大略^^;まず、皆さんかしこまってききなはれ、とあり。皇神、食物、動物と、かかわる神を讃え。その後「座摩」さん達とでます。 坐摩神は昔から皇室を守護する神で、住居守護、旅行安全、安産の神と一般から信仰されてますが”祝詞”にそのようにあります。

なぜ5神の総称が「いかすり」か、ですが。これは古く吉田東伍の「井戸之後」など諸説あって「よくわからない」状態でしょうか^^。
書紀の神武即位前紀の宇陀、兄磯城あたりに「嚴咒詛」の文字が載り、これは「此云怡途能伽辭離」と訓めとあるのですが、同じ学者でも時期により「いつのかしり」「いつのかじり」と多少違っていたりする。まあ、この「いつのかしり」が訛って「いかすり」神社になったと神官さんは言っていた(ような気がする)。

六国史では、坐摩神とか座間神の表記で、嚴咒詛は神武紀以外に見当たらない。咒詛は『律』には「人を呪えば穴二つヨ」と以外に多くでるが、嚴咒詛は記載無し。
嚴咒詛は心身打ち込み真面目に人(など)呪う、ことだろうから、戦の前に敵を調伏する儀式の一環、ハイライトでしょうか。摩は魔で結構アタリかも^^。

5つの神は東西南北中央とか、水の湧くところ中流下流とか時間を表すとか、儀式の目的で対象が違っていたのかも知れない。
宮中に鎮座する5神ですが、坐摩神社の南方に仁徳16の高津宮があったのですが、宮中にある理由はこの宮との関連が深いのかも知れませんね。仁徳16は坐摩社の旧跡難波の小江とは大溝で縁深いですし。。

そういえば久太郎町は百済の訛った名前というのが一般的ですね、渡辺というのは古く新羅江と言ったようですが。中世には今大阪と言う代わりに摂津渡辺が通り名だったとか、名は変わったりその範囲も時・条件によりさまざまですね。
坐摩神社に仕える童女は都祁(都下)の国造の娘をあてる、といったことがあった様子で、これですと太陽、特に朝日への信仰で迎日県とか都下国造で新羅がまた関わってきます。


か-たん さん 2005年 08月 08日 17時 58分 20秒

あれ?中国じゃなくて「インド原産」です♪<(_ _)>

か-たん さん 2005年 08月 08日 17時 57分 05秒

かわかつさん、渡来人研究所の飲み会、お酒もお話も弾みそうですね。

tanさん、そろそろお盆でお休みでしょうか?
また山篭りされるのかしら・・・
坐摩神社って、名前がちょっと変わっていますよね。○○坐神社っていうのは時々見かけますが。それに「いかすり」なんてぜったい読めない(-_-;)
摩が魔じゃなくて良かったわ・・・コワソウ
神功皇后に関係があるのですね。
全国の渡辺さん、なんだかすごいですねぇ・・・
仲間に入ってない見たい(-_-;)
最近大阪は泉州?名物の水なすを頂きました。なすは中国原産なのだそうですね。
とてもおいしかったです。

tan さん 2005年 08月 07日 20時 10分 34秒

かわかつさん
ご丁寧に連絡ありがとうございます。飲み会、楽しんできてください。

坐摩神社の
現在の住所は5千分の1の地図上では「中央区久太郎町4丁目−2」あたり、阪神高速1号と13号が交差する東南に接している。現地の住所表示では「中央区久太郎町渡辺」とあったと記憶していたが。。ちと調べてみると、東区と南区が合併し中央区ができたとき「久太郎町4丁目−(2?)」となる予定が、住民や全国の渡辺さんの猛反対が起こり、市はその対応として「街区符号」のひとつとして「渡辺」を使うことにした。
東区の時は東区渡辺町で北久宝寺などに囲まれた狭い地域、やはり中央区になった時と似たような経過があったのだろうか。

かわかつ さん 2005年 08月 06日 02時 08分 32秒

渡来人研究会が飲み会でしばらくご返事できません。お許し下さい。

tan さん 2005年 08月 01日 00時 15分 05秒

かわかつさん
そうですか、月にからんで桂とか本来の木犀とかあるのではと思ったのですが。


八百屋さん
花火や太鼓の音、夏祭りですね。拝見しました、8月6日に太鼓のフェステバルがあるのですね、pkは満車でしょうから歩きが無難でしょうね。


かーたん^^。さん
渡辺綱は武蔵で生まれて(直前に父亡)伯母の実家摂津国渡辺郷に乳母とともに行きこの地で成人。今の大阪市中央区淡路町あたりですが坐摩神社あたりだけ渡辺町になっている。

座摩神社は石明神の三つ鳥居(大和大神に似る脇門がある)神紋は鷺丸使用、
「摂陽群談」元禄14(1702):始め石町、往古神功新羅を征し帰玉て假(かり)に石上に鎮座奉れり、賎女、醤を献じ飲食し玉ふ処なり。石町(いしまち)のおこり、現在石町(こくまち)。
・延喜式巻3曰、「凡座摩巫、取都下国造氏童女七歳巳上者充之、若及嫁時申辨官充替云々。」
hpの載せずそのままはや5年^^。の坐摩(いかすり)神社。

かわかつ」 さん 2005年 08月 01日 00時 12分 47秒

あやや〜こいつはまいった。

ねねまま さん 2005年 07月 31日 21時 44分 26秒

話の流れをダンボの耳で聞かせて頂きました。
我が家の御先祖様は、海賊だったのですねー
坐摩神社?行ってこなくちゃ (^ー^* )フフ♪
東シナ海あたりから、九州松浦〜大阪と住み付いて行ったのでしょうか。
>もしやあややは海賊の末裔 笑 
あややをご存知で(^ー^)ノ 松浦さんも海人なんですね。
日本が水泳競技が結構強いのも、海人が多いからでしょうか?
でも苗字が違いますね(^^;;
日向が「日」で、大分が「月」というのもおもしろいです。
ほとんど理解できてない私ですが、ちょこっとお邪魔して見ました。
ではでは・・・




八百屋 さん 2005年 07月 30日 21時 01分 26秒
URL:http://www6.ocn.ne.jp/~hirakyuu/repo/repo05/tenji.html

こんばんは。
ごぶさたしております、リンクを貼って頂いている八百屋です。
さて、ご存知かどうか分かりませんが、
現在平塚博物館において特別展示にて市内全神社祭礼の特集が行われています。
もしよろしければ行ってみてください。(私もいっぱい写ってますので探してください 笑)

かわかつ さん 2005年 07月 29日 09時 15分 55秒

キンモクセイですか?聞きませんね。
中国から輸入された樹木ですね。

tan さん 2005年 07月 28日 23時 57分 01秒

坐摩神社からという渡辺氏は今でも名の一文字を受継いでいるみたいですね、身の振り方が大友氏と似るところがあるよな。松羅は十三湊のアンドー氏と関係があるとか。

西寒田というか特に中世以降、豊後は陰というか「月」と密接と考えられていた様子、天正の転記という縁起とか神道集とか、日向の北に位置するのも理由のひとつでしょうか。
月読は月弓で弓矢の武士の信仰をうけた、というのもあります、突く&弓矢でしょうか。
「いすはら」で少し気になるですが、本宮山か高崎山にキンモクセイとか木犀の樹はありませんか。
以前調べた豊後の古墳などデータが残ってました。展望ということでは亀塚が目立ちます、豊後富士、高崎山が見えるのは多いですが、湾内の海岸一望できるのは他にもありますが逆方向の本宮山や遠くの祖母山まで見えるという位置は珍しい。大野川に面していないのは相当な暴れ川だったのでしょう。

かわかつ さん 2005年 07月 27日 00時 18分 08秒

当掲示板に奇妙な祭りをアップしましたので、皆様是非ご覧下さい。ご感想を書き込んでいって下さいませ。http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs

かわかつ さん 2005年 07月 26日 03時 28分 28秒
URL:http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/

「上身嶽」調べてみます。
おそらく元宮があったという背後の山の別称だと思うんですが、ちょっと時間下さいね。
西寒多の「た」が「田」ではなくて「多」というのも不思議といえば不思議。田んぼじゃないんですねえ。実際、西寒多神社のあるところは地名・寒田なんですが、田んぼが作れるほどの広さのない扇状地です。そうだ・・が清流とか田水の涌く処って言うのはよくいいますね。走るとか早いと言う字を使うところも全国多い。
ま、HPを今、模様替えしていますので、よければ覗いて見て下さい。いろいろヒントになるかも知れないです。

かわかつ さん 2005年 07月 26日 03時 08分 32秒

そうですね。
やはり中世以降の武士団は月星ですね。特に渡辺氏系は思いっきり三つ星ですし、どうも八幡信仰の影響が大みたいですね。
もっとも渡辺氏はおそらく海人系の祖を持っているようなのでオリオン座とも考えられます。
和冦なんかは八幡大菩薩を旗印にしていたため彼等の船は「ばはんせん」八幡船の音読み・・・といわれました。これも彼等の中心にいたのが海人族から出た松羅などの海人だったせいdしょう。
ものの本では海賊の最も多かったのが松羅だそうで、もしやあややは海賊の末裔かなんて考えてTV見たりします。^^
西寒多は正面が天テラスって書いてますか。そういう書物もあるんだ。
私の見たのは昭和初期の神社発行の冊子でした。
子供の頃は月読が中心にいたのは間違いないんですが、この間行くと、もう完全にはじっこ追いやられてました。
多分、中世の神功皇后から明治の思想統制で天テラスに変えられた神社は多いでしょう。
いわゆる信仰を一本化、操作しようという時代の産物かも?
でも今のような民主主義の時代でも神さまの入れ替えみたいなkとをしてるのかなと思うと、なんだか靖国問題まで考えさせられます。まさかそっちの方へ移行してるんじゃないかなんてね。
木偏の「柞」ですが、「いす」と読みますね。いすの木という木があるそうです。いわゆるいちい樫のような常緑広葉樹で、楠木などと同じで、青々として神聖な木とされていたそうです。柞原八幡宮の「ゆすはら」も我々は「いすはら」と読んでいました。訛ったんだと思っていたら、本当は「いすはら」の方が正しい読みみたいです。
そういえば月読神社の月読も「つくよみ」が正しいらしく、「よみ」は黄泉に通じ、黄泉の国に着く・・・?
松尾大社の隣に月読神社がありますが、ここには聖徳太子も祭られています。
奇妙な丸い石の岩倉?がありまして、これが神功皇后の鎮懐石に似ています。
またこの石が伊勢内宮の前に置いてある小さな石にも似ている。
HPでは私はこれは「ひとつ巴」だと書きましたが、奇妙なことに外宮の前だけは三つ石なんですよ。
「三つ巴」は宇佐神宮なども神紋でして、どうも荒御霊を表すんじゃないかと考えてます。

tan さん 2005年 07月 25日 00時 13分 43秒

かわかつさん
いろいろ大分の話ありがとうございます。久々に昨日午後からたっぷりPC上で神社・大分あたりを彷徨しよと、が結果昨日は出来ませんでしたが今日はPCの地図上で面白く彷徨しております。彷徨中のメモちと纏めました
< http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/vtmp/tmp0.htm >

さすが豊後ですね、相模と比べると史料がかなり多いようです、2,3年前にはhitしなかった単語も検索でhitしたり多少の時間ではとても足りません。手持ちの資料も見方を変えると天正3の旧記転記という西寒田神社縁起断片がでてきたり。ご存知と思いますが、これによると、
応神の時・正面天照、相殿月読尊、右相殿天忍穂耳尊。故令寄進大分郡而奉号西寒多神社。
天智の時・三座之神也、一曰神功皇后、二曰応神天皇、三曰武内宿祢也。
敏達の時・西寒多山奥数町計に(橡?)樟樹有、三星が現れている。信仰の始まりは神功が三韓の帰り立寄り山に白旗を立てたのが信仰の始まり。とあり転記者は神主藤原某ですが卜部・巨勢氏も載り天正の頃の関係者も多少窺えます。月星が表にでるのは武士の抬頭と一緒なのかも。
上見嶽という名が何度も出てくるのですが現在の場所はお分かりではないですか。

「さ」か「ささ」もちろん結論はでてませんが「ささ」は樹種を通して柞と通じる可能性がありそうです。「そう」は清水を「そうず」訓ませる例が近所にいくつか見られるので冷たいよりは「きれい」の意が強いのかも、相模の寒川神社の名の由来の1つに清水があります。
岩清水八幡は紀氏が初めから長い間管理者として系図もありますが。柞原関連で発見できなかったのですが。


神奈備さん
お久しぶりです。和歌山に寒川神社があるとは知りませんでした、お陰で色々と発見ができました。地名由縁など地図で彷徨うとついついあちこち飛び火してしまいます。


かーたんさん
寒さん繋がり、サムスンといえばSONYを追抜きましたね^^。「さ」は色々面白いというか解釈が多様ですね。「さ」=田の神とか、単なる接頭語とか、「ささ」といえば誘いだったり酒だったり、酒は辟で僻邪とか。柞(ははそ)のははに繋がったりとか。まだ動物のように語彙が少なかった時には同じ発音を高低動作表情で意味を替えた時代が結構長かったのかも。
CSSへの変更はやいですね、ソフト使わずコマンド把握ってのがすごいです。


か-たん さん 2005年 07月 23日 23時 53分 51秒

tanさん、ありがとうございました♪
かわかつさん、遊びにいらしていただいたようでありがとうございます(^ー^)ノ
そうなんです。まだ設定途中で・・・(^^;;

のんびりなHPですが今後ともよろしくお願いします。


かわかつ さん 2005年 07月 23日 14時 16分 11秒

し、下は私です。

あれれ さん 2005年 07月 23日 14時 10分 26秒

ええと、かーたんさんこんにちは!
さっそく探訪に参りましたが、皇居とか開かないですね?

か-たん さん 2005年 07月 23日 11時 43分 35秒
URL:http://nene.pepper.jp/

お話が弾んでいるところに大変申し訳ないのですが、
私事ですが、神社側のアドレスが変わりましたのでお知らせに伺いました。
今後ともよろしくお願いいたします♪

寒さん繋がり、すごいですね。

かわかつ さん 2005年 07月 22日 02時 50分 24秒

や、これは名にし負う神奈備さんから情報いただくとは・・・感謝いたします。

CPの具合が悪くなってちょっと書き込み遅れていました。早速、和歌山調査したいと思います。

神奈備 さん 2005年 07月 21日 21時 12分 05秒

和歌山県日高郡美山村寒川284(そうがわ)に
寒川神社(そうがわじんじゃ)が鎮座しています。

当社は、元久元年(1204)寒川家の氏神として創建され、明治6年(1873)村社寒川神社となり、明治41年に村内各社を合祀しました。
祭神は国常立命 伊弉諾命 伊弉册命他20柱を祀っており、木造女神坐像二躯は平安後期、木造武神坐像は室町時代の彫刻です。


かわかつ さん 2005年 07月 21日 03時 34分 21秒

思い出しましたが、和歌山県の龍神温泉に行ったとき寒川と書いて「そうかわ」さん、という名前が多いのに驚きました。地名はどうなのかはわかりませんがね。
寒田はたしかに少ないでしょうね。福岡に寒田川がありますね。昔、寒田川事件というのがあった。
家紋が釘抜きなので藤原秀郷流近藤家から出た大友氏と同じです。

かわかつ さん 2005年 07月 21日 00時 14分 46秒

「さ」ですか?「さあ」・・・^^;
私は神奈川県松田の左牟多大神にたいしての西のさむたで、「ささむた」だと思ってるんですが・・・
 ただ、大分県大分市犬飼町に「寒田」そうだ・・がありまして、ここに西寒多神社の元宮とも思える西寒田神社があるのです。
 また、西寒多神社は元、大分神社(この場合は「だいぶしゃ」と読みます。)大分社は大分市にふたつあり、西寒多神社はかつてそのひとつだったらしい。
福岡県にも二つの大分社が遠くない間隔でありまして、どうやらこの神社は一対で一つだったようなのです。
 ですから、「西のさむた」とすると、大友氏がやってきてから改名されたという考え方もありますよね。
 「さ」を西のつづまった音であるとすると、さしずめ「さい」という西の字の呉音?ですから(漢音なら「せい」)音読みが定着する時代以降の銘々です。奈良以降の神社名でしょう。おそらく大友氏がやってきた中世以降というのが整合性がありそうです。

と申しますのも、豊後一の宮が実はふたつあるのです。今ひとつは石清水八幡から勧請された杵原八幡宮ゆすはらはちまんぐう・・というのがちゃんと奈良時代からあるのです。
近くに宇佐神宮という本家本元があるのに、京都からって変でしょう?宇佐神宮から分詞された八幡宮というのはなんと、石清水と、あとは手向山八幡だけで、手向山の場合は分詞というより東大寺の大仏建立に宇佐の大神氏が無理矢理祭った感じで、実際には正式勧請社は石清水だけなんですよ。おかしな話です。
 杵原八幡の建立には賀来一族が関与していますが、この賀来氏というのが宇佐の氏族らしい。麓には賀来神社もあり、そこは古墳群があって、被葬者達は海人族の大分の君であるとされています。不思議だらけですよ。

tan さん 2005年 07月 19日 22時 38分 08秒

伝わらないのは残念ですね。西寒多神社は山頂から降りてきたそうですが相模の寒田神社は河岸にも関わらず古くから場所が変わっていないようです。
寒田神社をhpにupした頃ですが、さむた、さむかわを調べかけたことがあるのですが、寒田の地名は意外に少なかったですね。訓みは、かんだ、さぶた、さあだ、そうだ、さむた、少ない中で分布は九州に偏ってます。
「さ・むた」なのか「さむ・た」判断に苦しむ所ですが、大分の「ささむた神社」とか竹田市の「笹無田」、国内では極端に九州に偏在する地名「牟田」「無田」。この「むた」の地形とか由来など気になるところです。
ところで西を「さ」と訓むのは九州では一般的なのでしょうか。


かわかつ さん 2005年 07月 18日 17時 11分 40秒

ありゃりゃ?またネームのところに題名入れちゃった。すまんこってす。

いやつたわってません さん 2005年 07月 17日 14時 12分 41秒
URL:http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/

 残念ながら言い伝え、古文書なしですねえ。わかんないから困ってます。福岡に寒田と書いて「さわだ」ならありますが。地名としての寒田は冷たい沢のあるところ、冷たい水の涌くところでしょうか。わさだ郷寒田には寒田川が涌いてます。
 西寒多神社は一の宮ですが、祭神が月読命なんです。最近は天照大神ということになってますが、10年前までは確かに月読でした。神社の出している縁起帳にはそう書いてあるのですが、なぜか変えられてます。これも不思議なことです。

大友氏は、じゃあ地震に縁があったんですね。大分市の海上にあった貿易島・瓜生島を地震でうしなっていますからねえ。

tan さん 2005年 07月 17日 13時 32分 14秒

大友あたりは地震の巣ともいうべき実に多く揺れ易いところのようです。
荒陵寺関連に大伴郷50烟、8c初に南隣接地に相模で一番?古い官寺(千代廃寺)、同族の丸子も近所、色々な部を率いた大伴の相模での本拠はわりと早くから鎌倉近辺だった様子。家持が国司になるずーっと前、改新後に部民が最初に相模へ入った地、が現小田原市上下大友だったのかも。東に相模国二宮神社がありその東が出雲神を祀る六所神社。
相模では史料に載るのが多い方といえる(地)名です。ところで寒田の名を選んだ由縁は伝わってますか。

かわかつ さん 2005年 07月 16日 12時 18分 28秒

そこそこ。さむた大明神です。
大伴との関係はわりと可能性あるかも。大友は地名ですが、奈良や平安にはなにがしか関係がありそうなことを「闇の日本史」サイトの竹内氏も書いてくれてました。
http://6014.teacup.com/granvia/bbs

tan さん 2005年 07月 15日 23時 20分 27秒

子持ち女ですか^^。うーん検索で出てきた記憶がないです、エンジンが違うのかなぁ。
相模出身?<拝見しました。相模でいうと大友の地名の北方向に寒田神社があります。あと鎌倉の鶴岡八幡の大伴系図に筑前介、豊後守がでてきます。
そうですね同族とか同系の判断ちと広げると列島皆同系になってしまうでしょうね。AとB家があって百年前に婚姻し千年前の相手の祖をウチの祖とするかどうかあたりの有無でしょうか。
子持ち高杯、似すぎているの感じが抜けないのですが。データの間違いでなく別物とすると窯がどちらか或はどこかにあったのかも知れませんね。

かわかつ さん 2005年 07月 15日 02時 03分 47秒
URL:http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/

岡山のは、なんとそっくりです。吉備と豊前、筑紫はよく似たところだなあと思ってはいましたが、これ程同じものが出ていたとはちょっと知りませんでした。
実際に行った感じでは、岡山から日本海へ抜けるJR沿線は、もう豊前あたりの内陸部とそっくりで、例えば採石場や石灰工場が多い。川沿いに遡上していった人々の姿がしのばれます。いずれも秦姓や海人族系のひとびとだったのかも知れませんねえ。

かわかつ さん 2005年 07月 14日 00時 08分 28秒

群馬はどうも同族ですねえ、うちとこと。装飾古墳と言い、海人族といい。私は相模国出身らしいし・・・
子持ち・後漢で検索したら、後漢の時代の子持ち女の話ばっかり出てきてお笑いでした。
中国人は恐妻家が多いですからねえ。^^;
藤原氏まで出てきましたか。いよいよ古代は近親結婚ですかなあ???

tan さん 2005年 07月 13日 21時 41分 40秒

かわかつさんupの日田の子持、岡山出土という子持高杯とそっくりですね、同じ角度でないので細部の判断ができませんが。 下記に一時的に載せました。
 http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/vtmp/tmp2.htm
後漢時代の緑釉の出土地明細は不明ですがこの後4〜500年ほどして日本で結構広範囲に見られる。日田は朝倉宮の置かれたというところですよね、斎明の死に際して子持ち壷は使われていなかったのか。
朝倉といえば土師の祖野見宿祢の出身地かもという奈良県磯城郡「朝倉村」大字出雲、雄略泊瀬朝倉宮でもある。子持など情報が少ないですが子持ち勾玉との関連とか出土地と時期を追うのも面白い。

かーたんさん
でしたね、たぬきと狐の化かし合いというか夜な夜な宴会のあきは原。
月夜野は上毛高原、昔冬によく通ったものです、一度弥生の火葬骨のある場所をと探したのですが分からずじまい^^;
羊太夫が藤原という本もありますよ、前後の文献を引き合いに出して。まあ多胡あたりは物部姓を負った人達がいたのは間違いないのですが、胡人が多い故の多胡の地名とか西の山側に散見されるなかなか興味ある地名も残ります。


かわかつ さん 2005年 07月 13日 21時 21分 06秒

うーん、ここでも物部が!いや、こっちのことですが、私は羊太夫が秦氏だと思ってましたもんで。まあ、秦氏が出てくると皆さん、敬遠気味になるのが常ですが、どうもこのあたりに日本史のふか〜い謎がありそうですねえ。

か-たん さん 2005年 07月 13日 18時 33分 00秒

▽・w・▽こんばんわ
かわかつさん、すみません突然お邪魔してしまって(-_-;)
あのタヌキの置物は、秋葉原にあります柳森神社の授与品です。
で、そう♪この神社の「神使」でもあります。
出世祈願のお守りだそうです。

「オオ、よき月よのー」で、月夜野!
なんだか風流でいいですねっ
群馬の月夜野は、以前にtanさんとのお話で話題に上がった貫前神社・多胡碑関連の羊太夫の従者の八束脛が金の蝶になって隠れた場所と言うのが妙に記憶に残っています。羊太夫が物部氏の落ちぶれた姿かも?というのが、ちょっと物悲しい感じ。


かわかつ さん 2005年 07月 13日 01時 48分 46秒
URL:http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs

日田でしたね子持ち壺。後漢の画像がちょっとみつからないです。画像もってませんか?
日田のはうちの画像掲示板に貼りつけておきますね。

tan さん 2005年 07月 13日 00時 59分 17秒


子持ちというのはやはり豊穣につながるのでしょうか、地中海あたりの豊穣の神とつながる?とか、ふと。
子持ちの装飾に使われる動物などが良渚あたりの家畜のはしり?とつながったりしたり。須恵器での子持装飾日本では6c頃の出土が多いみたいですが中国での出土は後漢のがありますがこれ以前の銅器の飾に見られる意匠に重なったりしてまして。。

たぬき>たしか、最近、どこかの神社の「神使」ででましたね。


>楽天スローライフ さん こんばんわ
 http://7kamado.net/tunakosi.html
これなら、ななかまどさんにお聞きになられたら、いかがでしょ。


楽天スローライフ さん (hagiolife@msn.com) 2005年 07月 12日 14時 19分 47秒
URL:http://plaza.rakuten.co.jp/tomatolife/diary/?ctgy=1

古代であそぼさん、初めてサイトを訪問いたしました。
教えていただきたいのですが、
http://7kamado.net/tunakosi.html

の頁の大田タネコの妻などのお話は、どちらからの出典なのでしょうか。
よろしかったら、教えていただけませんでしょうか?
楽天のブログでヤマトのことを話そうというブログを書き始めました。
よろしかったら、コメントいただけましたら、幸いです。

かわかつ さん 2005年 07月 11日 11時 56分 36秒

かーたんさん、たぬき?ありがとうございます。あれは手作りでしょうか?^^

また月夜野村についての情報ありがとうございました。さっそく検索してみました。
http://www.smartgarden.co.jp/cityinfo/gunma/tukiyono/tukiyono.html

源順の巡行に関係していたのですね。実際の地名由来というものはなかなか判断に苦しむところですが、ゆかしき名前、いつまでも残ればいいですね。

これに懲りずまたお気軽にお越し下さい。私の人となりをお知りになりたいときは、「ここロゴ」バックナンバー「過去のここログ」を開いてみて下さい。

かわかつ さん 2005年 07月 10日 13時 06分 00秒

そうですねえ・・・私の感じではあんまり類似性はないみたいなんですが、感じ方の違いかもしれんですねえ。私もその辺を見たんですが、殷、周、秦あたりまでに、今回は感じなかったです。縄文や、その子持壺はどうも南方からダイレクトなんじゃないかなと・・・
弥生以降になると、シルクロードの北側はかなり期待できますね。なにしろグローバルであることは間違いないです、日本は。

tan さん 2005年 07月 09日 22時 19分 20秒

有難うございます。前漢後漢の商人が左衽。武帝以降の西域からの人達でしょうか。
趙の時代にでてくる胡服は北方からの騎馬服のようですが唐の時代も含めて「胡」の意味も微妙に違うのかも。
左衽もですが南の風俗という刺青、これも紀元前のミイラが見られる黒海からアラル、アルタイ、バイカル湖からの南下、このあたりもっと注目してもいいですね。シルクの北のステップツンドラルート。刺青に限らずシャーマン、墓制などなど。
殷の饕餮紋はどうでしたか。日本でも須恵器の子持壷とか動物風俗をつけた飾壷がでてますがどうも殷以前の中原のイメージに重なってるのですが。

かわかつ さん 2005年 07月 06日 16時 33分 29秒

ごぶさたしました。
中国歴代王朝展に行って参りました。
兵馬俑などの大きい像に混じってちいさな商人の騎馬俑もいくつかあり、ふと見ると、皆左衽でした。後漢のも前漢のもそうでした。主に殷や秦の遺物が多く、中心は例の金婁玉衣のミイラでした。唐の時代の三彩も素晴らしかった。
でも、肝心の三国時代の遺物はほとんどなく、ちょっとxザンネン。
日本の内向内行花紋鏡にそっくりの鏡には興味引かれました。周囲に銘文がありましたが、翻訳、拡大がされてなくて読めませんでした。
総じて、今回の遺物には日本との類似性を感じさせるものはなかったようです。

tan さん 2005年 07月 02日 18時 04分 32秒

どうも洗練される以前の桐は鳳凰が棲む木ということで高貴な方々が使っていた様子。意匠が洗練されたのは後鳥羽以降で下賜は後醍醐からみたいやはり味方に引き込む安上がりな手段だったか。江戸期では武家の2割は超えていたみたいです。
因幡家の出自由来、楽しみにおまちしてます。

おお!、南船北馬。「馬の文化、船の文化」で福永さんが明快に分けてますね、紀元前後の越の説明に南方系風俗が載ったり。ですが趙の建国逸話に胡服とか5cの半島北の壁画の騎馬人物に左衽がみられるのですわ、なかなかすなおに割切れません。
左衽とゆったりズボンはペルシャとか有名ですが、風俗史では発祥は北アジアらしい、では北アジアの森林からでてきた商は?追出された羌は?
なんとなく漢民族(あるとすれば)の古は三苗とか客家のイメージでいますが宋明あたりの風俗までしか分からない(いまのところ)。なにか見つけられたらご連絡お願いです。


かわかつ さん 2005年 07月 02日 00時 37分 01秒

その渡来人の紀氏さんからtanさんへのプレゼント。埴輪の右衽左衽は中国では、南部と北部でわかれていたそうですよ。
だから埴輪の人物は中国系なのかも知れませんねえ。
http://bbs5.cgiboy.com/p/54/02899/

かわかつ さん 2005年 07月 02日 00時 04分 01秒
URL:http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/

わわわ・・・00;
ねねままさん、こんんばんは。私をご存じとは世間は狭いですねえ。^^;
渡来人研究会、いらしてたんですねえ。ありがとうございます。
よければ私のサイトへもお越し下さい。私、庭いじりが趣味で花の画像などもお待ちしています。小鳥を拾って山に返す小説を今HPで連載しているんですが、今度、長野県の文学賞に出品するつもりで中断してますが、画像をふんだんに使って人気あるんですよ!

かわかつ さん 2005年 07月 01日 23時 54分 45秒
URL:http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/

tanさん、ありがとうございます。
家紋のサイトで見ましたら、桐は藤原の時代に天皇家が与えたのが始まりで、五三、五七、マルに桐などいろいろあるそうです。
藤原家は五三、武内家は五七というふうに、要するに摂政や将軍といった天皇家補佐をする家系に与えられたそうです。足利家や豊臣家はそんなわけで桐の家紋らしく、織田信長や徳川家康は、それを受けなかった。つまり天皇家に媚びなかったということらしいです。
ややこしいのは藤原家以降、武家諸家があやかって我も我もと桐を使っちゃったらしく、
あまりにも乱用されたみたいです。^^;

ただ、この奇妙なお人形さんたちを護っているのが因幡家であることは重要でして、因幡家がどんな出自なのかが気になるところです。
今後、海部氏とのかねあい、秦氏との関係などとあわせて調査して行くつもりですので雄楽し生みに。

tan さん 2005年 07月 01日 23時 41分 29秒

かわかつさん
リンク先も見てきました。面白いですね、アマと住吉、渡しの神をナニワノキシが祀ったとあるがキシが血縁とは書いてないですし、この辺も解決しそうですか。
疑問なのが、桐紋と高良神の関係。高良大社では巴と木瓜?で玉垂は木瓜としてるようですが。また大浦神社の馬に見える桐紋は細川氏の家紋では、足利氏は武内宿祢が祖?。
桐紋は菊紋よりは早そうですが下賜が始まったには同時期とか、足利も乱発したみたいですし、宿祢とどの辺りで結びついたのかも知りたいですね。大陸で高貴かもの桐は青桐で意匠が違ったような気がするのですが。


ねねままさん いいですよ^^。わかります。
おおっ実物みましたか角杯、なにか携帯の椅子テーブルで皆で乾杯、といった光景が浮かぶのですが。。
ハルジョオンでしたか、少しピンクぽいのが見分けですか、小雨後の少し元気だしかけたところ。


か-たん さん 2005年 07月 01日 23時 13分 49秒

あっ、名前が・・・(^^;;
か-たんです

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