・掲示版 書庫


ねねまま さん 2005年 07月 01日 23時 11分 58秒

tanさん、こんばんは♪
今日はシルクロ-ド展に行ってまいりました。
で実物の「角杯」見てきたんです。ちょっとw(゜o゜)w オオー!って感動しちゃいました。
topのお写真は、ハルジョオンですね♪土手かどこかにお出かけですかヾ(=^▽^=)ノ

「渡来人・・・」は、時々遊びに行ってました、あの掲示板のかわかつさんなんですね。作家さんでもいらしたようで、すごいですね!
ざんバラ髪の聖徳太子像、どこかで見ましたー
どこだったかなぁ・・・博物館?それとも本?
あぁ、もう記憶力が衰えてる・・・(^^;;

かわかつ さん 2005年 07月 01日 12時 19分 48秒

どうもまたまたすいません、下、わたくしです^^;

また画像掲示板見てもらえます? さん 2005年 07月 01日 01時 20分 58秒
URL:http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs

こうやの宮に行って参りました。中の五体の木像を撮影してきた貴重?な画像です。ちょっと海部一族がミステリーですよ。

tan さん 2005年 06月 29日 23時 17分 49秒

タギマケハヤ
角觝は始め武人が正装しての儀式であったのでしょう、それが天子の前で武器を隠し持ってはあぶない、から裸での相撲になった、のかな。闘鶏のように賭け事とか右か左かの占いにも使った気配。垂仁の時の逸話ですが西(当麻)と東、盆地の東西対決の逸話かも。この後、当麻の倉、曽我の倉とか近所に朝廷直轄地がでてくるし当麻の地は土師氏に与えられてます。後世に妃などででる当麻、葛城氏はそれ以前とは違うのでしょうね。
ケハヤは押し潰され死んで墓が当麻寺の門前1km程ですか二上山麓下にあります。常陸風土記の地名説話に「タギマ=凸凹して」とあるので葛城というのは歩きにくい場所だったのでしょうね。
太子像はどちらも秘仏らしく昔たしか本で見た記憶があるのですが。。見つけたらupします。


かわかつ さん 2005年 06月 29日 22時 23分 08秒
URL:http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs

野見の宿禰が出雲から呼ばれてから、殉教をやめて埴輪を代用としたというのが日本書紀の言い分なんですけど、それにしても相撲をとるというのはちょっと意味がわからない。
古墳造営技術と力比べっていうの、要するに重たい石を運ぶ力がある方がいいってことなのでしょうかねえ?^^
相手のケハヤの方は負けて二上山かどっかに逃げちゃうんでしたっけ?この辺、国譲りのタケミナカタのかたきを大和で返したみたいな、バランス感覚なんですかねえ・・・

茶髪の聖徳太子?外人さんなんだなあ、やっぱり厩戸は。画像があればうちの掲示板に是非流して下さい。私もちょっと探してみましょう。

tan さん 2005年 06月 29日 21時 17分 40秒

みずら。ありかも、と かわかつさんと同程度です。
たしか天武の死直後に女子は以前のように髪を垂らしてもいいとか言ってますね、風体へのこまかいご指導と自信なさそな「詔?」推理には格好の材料ですね。
ところで聖徳太子として伝わる像に垂髪とか茶髪があるそうですがご覧になったことはありますか。
短いほうが楽なのでsを抜いたりしてます^^。イラヌメールの発信レベルが無くなればnetも色々変わるでしょうね。

かわかつ さん 2005年 06月 29日 10時 10分 17秒

こんにちは
埴輪のみずらですが。
みずらを解いて垂らしてる埴輪がありますねえ。山高帽子みたいのをかぶってる奴。
あれがユダヤの風習だとかいう人がおられますが、tanさん、そういうのありだと思われますか。私はありかもなあ、位ですが。

ところでtanさんはtanさんでいいんですか、stanさんでいいの?




tan さん 2005年 06月 28日 20時 35分 54秒

貴重なというものではなくて研究というにはおこがましいですが。。襟というのはハッキリしてますから。。
実は「右の衽(おくみ)が左に被さる」これを何故左衽(さじん)というのか分からないのですわ。左衽は左利きの人が多かったから出来た襟、左利きは野蛮という中華で、、かな、程度の理解。
首長(王)だろう埴輪は小刀(蕨手に近いかも)が左にあり右利きが多かっただろうとか、翳にもカタチのバリエーションがある。小者(従者、民)は丸首の服?と詳細な作りではないですが髪は頭頂に小さく纏めたのが多い。武人の冑とか備品のカタチも結構バリエーションがあるみたい、ヤマトタケル逸話の燧袋(ひうちぶくろ)は殆どが左腰にぶら下げているようです。

皆、なかなか表情豊かで”これは美男子!美女!”とか、モデルの清楚な感じを受けたりとか。また実に写実的というか多くの情報があります。挂甲では長矩形、三角はキッチリ分けられてますし、山梨二子出土の挂甲は長長矩形鉄板が表現され他では見られないとか。
たぶん巫女の長だろう顔面には赤い塗料?が眼の下あたりに塗られていたりそれが両方だったり左だけだったり右だけだったり、全裸で写実的で咆哮?している巫女?とか、実に面白い。
最近はnetも速くなりPCも性能upで各所の画像も鮮明になってきました、座してみれる!と楽しめます。そのうち国内とか世界横断的なデータベースをおクニがつくるハズと思ってます。


かわかつ さん 2005年 06月 27日 08時 34分 15秒
URL:http://bbs5.cgiboy.com/p/54/02899/

訂正
使者→死者

かわかつ さん 2005年 06月 27日 08時 27分 29秒

これは非常に貴重な研究ですね。なるほど埴輪という具体的な遺物があったんだ!是非この検証をお続け下さい。きっと重要な成果がもたらされることでしょう。そしてその結果を私たちが作ろうとしている機関誌に発表してほしいなあ。感心しました。

襟の右左。使者なら左前なのに、右前の埴輪がある・・・女性ではない。う〜ん、面白い!

tan さん 2005年 06月 27日 00時 55分 16秒
URL:http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/vtmp/tmp1.htm

こんばんわ。
時期外れの反応ですみませぬ。コレは極早い方^^;。
古代でもいくつか気になっている事柄があるのですが。。そのひとつ「左衽」のページをupしました。<↑>

かわかつ さん 2005年 06月 26日 13時 40分 26秒
URL:http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/

掲示板への書き込みありがとうございました。
ちょうど装飾古墳の画像を取り込んでいる最中で、すぐわかりました。^^
うちもあそこもどうぞお気軽に入らして下さい。かなり突っ込んだ話ができると思います。私もできるだけこちらに書き込みしたいと思っています。では・・・

かわかつ さん 2005年 06月 22日 20時 53分 41秒
URL:http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/

よければここの掲示板でお話しできればと・・・お暇なときにおいでください。

tan さん 2005年 06月 20日 22時 48分 51秒

かわかつさん どうも タイミングがあわぬようですね。

かわかつ さん 2005年 06月 19日 10時 57分 57秒

tanさん、申し訳ないが、50を迎え日増しに残りの日数が少なくなりつつあるのを実感するこの頃、せっかちにならざるを得ない人間の性をご理解頂きたい。待ってられない、暇がない・・・ということで失礼ながら、ご質問などあればまたお会いしましょう。すまぬ。

かわかつ さん 2005年 06月 13日 22時 45分 54秒

失礼しました。ここは題名欄がないものでついハンドル入れるのを・・・
下のレスは私、かわかつです。m--m

なるほど、了解しました さん 2005年 06月 13日 22時 40分 40秒
URL:http://bbs5.cgiboy.com/p/54/02899/

tanさん、こんばんは。
はからずも貴方を試すようなことになってしまい心苦しく感じていたところでした。
仰ること了解しました。せっかくの出逢い、大事にさせていただきます。
貴方が古墳に偏らない方であることは理解できました。
実はかつてこうした古墳好きの方のBBSにレスし、あまりいい想いをしなかった経験があって、つい慎重になってしまいます。なにしろネットというのは様々な情報が安易に手にはいるかわりに手痛いしっぺがしをくらうこともありますよね。お許し下さい。

では手始めにこのBBSから私と言う者の考えを体感して頂けますか?私が家族のようにつきあっている研究会のHPです。URLをクリックして下さい。m--m


tan さん 2005年 06月 13日 21時 01分 36秒

topの写真は、名前は不明、どなたか教えて頂けるかも、と。。小高木に属するのかな。。
ちなみに次の予定もハルジオンかヒメジオンか名前不明^^;。例年のつつじは盛りを過ぎてました。

松尾、上下カモ、木嶋これら葵ですね。加茂の神官いわく古いのはタチアオイでなく背丈の低いフタバアオイ花付らしい、何れにせよ伝承では別雷が指定した祭りの道具の1つで清少納言の頃にはアオイ=祭りが流布していたらしい。まあ紋は古いほど原型に近いのでしょう。
「本多家家譜」に「祖先は山城の賀茂神社の神主で立ち葵を家紋とする」とあります。三河の伊奈氏は賀茂の神官松木氏から葵紋をもらった。松平氏あたりは加茂郡やはり神社関連ですね。
徳川の時代には本多は葵を崩した意匠に変え、伊奈氏は2巴にかえ、松平氏は酢漿草とかに変えている。
葵の家紋で古いのは足利時代の丹波西田氏みたいです、やはり賀茂神社の御料地。

衝角付冑、あの弁帽を少しつぶした感じです。
角盃、、異次元レスで。。^^。



>かわかつさん
ジクソーをどんな形にするのかパズルの1片をどこに置くのか1片の形状特定とか、大和岩雄から彦山流記、姓氏録、鴨県主氏系図あたりの「会話」をできそうかなぁ。。
と思っていたのですが、できず、残念!ということです。



か-たん さん 2005年 06月 12日 21時 50分 11秒

U。・ェ・。Uノ~コンバンワン♪
topのお写真のお花はなんでしょう?
かわいいお花ですね♪
tanさんの京都の松尾神社のペ−ジを見て見たら、これって「立葵」っていう神紋名なんですね。本多氏の家紋と似ているかも?
そういえば本多氏は、賀茂神社の祠官をつとめていたとか?

「衝角冑」というのが、あるんですね!
今度見つけて見ます。

借りてきた本に、
鴨型・馬型土器や車輪飾り型土器の写真は載っていたんですけど、
セットになった角盃は見つからず・・・
この車輪飾り型土器ってかたつむりみたいですよねぇ? ?(゜_。)

かわかつ さん 2005年 06月 11日 13時 04分 25秒

え?
このヒントはかなりなものだと思いますよ。

tan さん 2005年 06月 11日 10時 06分 33秒

 かわかつさん
そうですか、それは残念ですね。

かわかつ さん 2005年 06月 11日 03時 55分 20秒

tanさんこんばんは。残念ながらそのご要望にはお応えしません。何故かと申しますと・・・
1、貴下が祭祀に関して心から真実を知りたいと思われているのかどうか、今の段階で私にはまだわかりません。
2,衆目に覆いをかけられないネット上に書き記すには場所が不適切です。
3,それは私も作家の端くれとして簡単には情報は流せません。ここへレスして貴下から古墳情報をいただこうとしていながら、誠に勝手だとは思いますが・・・
4、各地の神社をまわり、直接現地の神官さんから集めた情報です、そう簡単におしえられません。著作にて発表したものをお読み下さい。これはプロなら当然の要求でしょう。

しかし、それではあんまりなと仰るでしょうからヒントだけ提示することでお許しを。

大三輪氏の祖は鴨氏の祖と同じ。
大物主のエピソードにある人物が現れる。
彼の母親は京都の秦氏系神社の伝承に秦氏出身であると記されている。
その人物の姓は「大(意富)」である。
出雲のオウ地方は秦姓が多く、かつここが大=多=意富一族の出身地であることは定説化してきた。

宇佐の大神氏は簡単です。彼等は「おおが」氏と読みますが、自身、ヤマトの大三輪系図に現れる最後の兄弟・大神比義と特牛から派生している。大三輪氏出身ならそれは秦氏出身です。

ただし、大神氏に関しては系図に作為がある可能性もあります。私は大神氏よりもむしろ地元祝の宇佐氏が途中から秦氏系に乗っ取られた可能性があると思っています。その理由は宇佐氏の系図に当然いるべき、中央でも有名な奈良朝時代のある僧名が欠けているからです。
少々納得いかないかも知れませんが、それは貴下自身で上のヒントを元にご学習ください。
それとタックンがこのBBSにレスしてくるとは思っていませんでした。彼は古墳に詳しくいろいろ当BBSにて古墳情報を教えてくれていますが、なかなかたいしたもんです。よろしくお付き合い下さい。
それでは今回はこの辺で・・・おやすみなさい。

tan さん 2005年 06月 11日 01時 48分 26秒

 かわかつさん
>大三輪氏はもと大=太=オウ、出雲のおう地方にいた秦氏でした。
>出雲大社もあとから「出雲国造家」という秦氏がやってきて大国主を監視しています。
>このように秦氏は日本のすべての神社に影響を持つ祭祀集団です。
>日本の最高の祭祀者は「鴨氏」ですが、彼等も秦氏なのです。
#出雲のオウ氏といいますと神魂に関連の氏ですか、など、この結論へのウラづけというか推理の手順に非常に興味深々です。hp伺いましたが上記に関連する場所を見つけられず、出来ましたら該当(関連)頁などアドレスお教えください。

歴史というかヒトの営みに単層はないと思います、もちろん祭政にも、複層であり二面でしょう。秦氏が有る程度まとまりやってきたのが4,5世紀とすると出雲のオウ氏と年代的には合いそうな気がしますが、出雲国造家も秦氏、大三輪も。。すると宇佐に三輪から行ったとされる大神氏はバリバリの秦氏となるのでしょうか、出戻りといった感じはあまり受けないのですが。。
出雲の実力者の本家は福井県あたりが本家かも、など思ったりするので、かわかつさんの「秦氏は日本のすべての神社に影響を持つ祭祀集団」とする推理のモトに非常に興味があるのです。

神長守矢氏は物部色が強いと思ってます、管理監督者である大祝神氏の下で実務者(墓守?)の5係の筆頭が守矢で、この5という数字とか近年まで続いた鳴鏑神事の独占とか。
善光寺平・松本南の4cの古墳、同箇所でこれ以前の時期の銅鐸が出土していて、これがモレヤとつながるのか、モレヤは鉄以降かそれ以前を強く残すのか興味深いところ。
祭祀、神社で質問ですが、諏訪湖東に先宮という社がありますが、この社伝の時期と当事者が分かると物部、阿蘇などの関わりに多少の光が。。主祭神は高光姫命(別名「稲背脛命」)このいなせはぎの名によく似た名が(諏訪)阿蘇氏の系譜にあるのですが、時代と事象はどのように捉えられてますか。


 碧洲斎 さん おひさしぶり!
桜の木の下で。。芥川の神々の微笑という小編です。と思ってましたが、念のため確認してみました。最近netは実に便利です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html
これを見ますと同一の文はないですね^^;
思うに、小さい頃(少年少女○○文学全集あたり)読んでイメージをつくりあげ文章に(勝手に)置き換えていたみたいです。或は別のもので似た文章を読んでいたのかも知れません。


 タックン さん こんばんわ
神長官裏古墳の案内ありがとうございます。遺物は少ないみたいですね、近くのT字型横穴も面白そうですね、T字とか両袖とかは石室石棺が多いみたいですが、掛川静岡にも見られますし、上社の北のは前方後方墳かもといった話もあるみたいですし。。
方墳といいますと伊那谷には4,5cの最末期ともいうべき方形周溝墓が結構多いです、この周溝墓とか住居址に後期の古墳がかぶさり東進というか北にのびていく様子なのも気になるところです。周溝墓から数えると大きな波が3つあった事になる。。。



タックン さん 2005年 06月 10日 23時 43分 23秒

管理人様、はじめまして。

かわかつさまのサイトでもお邪魔している、タックンと申します。
信濃の古墳文化にも興味を持っており、最近信濃地方の文献を集めて資料にしております。

実際に信濃地方の古墳を歩いた数は少なく、考古学全般に渡って興味があるので、信濃地方の遺跡歩きは専ら、縄文の時代が多かったのが事実です。

ただ今度機会があれば、伊那地方の後期古墳を中心に歩く計画をしております。

レスの中で話題になっている、神長官裏古墳のことですが、今私が読んでいる「茅野市史」によると、この古墳大正13年頃に調査がされていて、木棺破片・小刀子などが発見されているようです。
ただこの古墳の墳形なのですが、茅野市史にはこの事は書かれていなく、この地域の古墳群のその多くが円墳で構成されている事からみて、私はこの古墳も円墳の可能性が高いと見ております。

ただ近くに存在している、疱瘡神塚などはこの地域にあまり見られない、T字型の横穴式石室を内部主体にしており、終末期の古墳が多くある地域ですので、ひょっとするとかわかつさんのおっしゃられているように、この2基は方墳の可能性があるようとも思っています。

諏訪地域の古墳の数は、南信の地域と違い顕著な前方後円墳があまり見当たらないという特徴があり、古墳時代終末期頃になって築造されてくる古墳が多いというのも一つの特徴ですが、諏訪市域に存在している青塚古墳などを見ると、ある決まった地域にだけ前方後円墳が造られているようです。

伊那地域に前方後円墳が多い理由の一つには、下伊那史に書かれているような牧との関連と、天竜川から容易に東海への出入り口に当たっていた、大和朝廷が東進するに当たっての、いわば信濃・東国の進出への手始め的な、地域ではなかったか?

この辺りが、伊那谷における古墳時代後期からの、爆発的な古墳の築造に結びついて言ったように思われますが・・・・

かわかつ さん 2005年 06月 10日 00時 20分 51秒
URL:http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/

こんばんは。管理人さんレスの中に「物部守屋敗死の頃に諏訪に変化」というの非常に重要ですね。どうも諏訪には守屋の霊が祭られたのではないか?私は先頃刊行した拙著にその点を書いています。

碧洲斎 さん 2005年 06月 09日 22時 28分 21秒
URL:http://www5f.biglobe.ne.jp/~bun-bu/index.htm

こんばんは、お久しぶりです。
そのうちおたずねしようと思ったのですが、神社の紹介の項にある
「桜の樹の下で、キリスト,マホメット,仏陀が人の幸福についてなどなど,議論しているのを、桜の花翳から微笑みながら見ている神々。」
は何の本に書かれているのですか? 何かこう、胸にじんとくるような情景を思い浮かばせる文なのでずっと気になっていました。
しからば御免!

はじめまして さん 2005年 06月 09日 09時 04分 13秒

あの、?さんではなんですので「かわかつ」とでもお呼び下さい。秦川勝のかわかつです。

はじめまして さん 2005年 06月 09日 08時 59分 41秒
URL:http://homepage2.nifty.com/2004mmc-junsouda/

HPはありますが、私のスタンスは秦氏研究です。どちらかというと祭祀、神社、祭、遺跡などから総合的に渡来のルーツを探る歴史推理作家といういい加減な生き物です。^^
ですから古墳関係の専門用語などはお手上げです。

日本の祭祀形態は2重性を持っています。つまり地元神を祭ること自体は地元の人がやってる後から、中央から祭祀者がやってきて「荒御霊」=地元神の荒ぶる反逆心を押さえ込もうとしているのです。おの祭祀者は必ずと言っていいほど秦氏です。
例えば物部氏の祭っているヤマトの大神神社は、その祭祀を執り行うのは物部氏の者でなく大三輪氏でした。大三輪氏は物部の神話などを利用しつつ物部を押さえつけます。これは物部氏が「まつろわぬ者」だったからです。大三輪氏はもと大=太=オウ、出雲のおう地方にいた秦氏でした。
出雲大社もあとから「出雲国造家」という秦氏がやってきて大国主を監視しています。
このように秦氏は日本のすべての神社に影響を持つ祭祀集団です。
日本の最高の祭祀者は「鴨氏」ですが、彼等も秦氏なのです。

そこで、今秦氏の埋葬に関しての知識をいろいろ物色していて、例の神長裏古墳につきあたっちゃったのです。神長守矢氏というのは地元守矢一族を監視するために朝廷が送り込んだ祭祀者です。実際はもれや一族とはなんの関係もありません。
上から被さっていくことで古い祭祀形態は朝廷に都合よいものに変えられて行く。

ですから、古墳や遺跡を細かく分析するというスタンスではないので、そちらにはご迷惑かもしれません。でも逆の視点で遺跡を見るのも面白いもんです。よければ覗いてみて下さい。
どうもありがとうございました。

tan さん 2005年 06月 09日 02時 25分 28秒

> かーたんさん
弁帽子拝見! 後世の烏帽子を少しつぶした感じですね、近い時代では短甲とsetが多い衝角冑(5c初-中(縦継6c末))に似ているでしょうか。弁韓(3韓)というと金銀装飾が流行る以前とのイメージなので弁帽が銀製とは思いつかなかったです。
半島南の出土では騎馬や車輪の意匠?とセットになった角盃が気になりますね。
衝角といえばエジプト王朝でライオンなどの船首の飾りが敵艦体当たりの時に船首の強度増強材モトになったとの説もこの船首の突出し部も「衝角ram」という、日本での準構造船の突き出た構造も連想してしまいます。

ナイスフォローありがと! &お手数さま。


> ? さん こんばんわ
古墳に詳しい訳ではないですが。方墳は角が崩れやすいので周湟で確認することが多い様ですね、愛知、静岡、神奈川、千葉にも点在してます。大阪の渋川(跡部)にもあるのですか。
かーたんさんも書かれてますが方墳=物部氏というのは面白いです、もう少し詳しくお話していただけると。。大型で著名な印波の岩屋も物部氏に関連ありでしょうか丈部らしいとの話もありますが。

>物部系の祭祀者が神長一族だったでよいのでしょうか?
#と思っています。今のところの状況証拠ですが、
まず守矢(モリヤ・モレヤ)という名前。
諏訪の古い記録は「諏訪大明神絵詞」これは鎌倉末期-成立、これに洩矢の鉄輪と明神の藤の枝の話がある。阿蘇氏系図では欽明29の時に金刺麻背が科野国造になる、その子倉足が諏訪評督に、弟の乙頴が用明31の時に諏訪大神祝となる(上社)、(麻背の兄・目子君は他田直姓でその系統は伊那郡の大領などになる)。
科野の主古墳は4c代の善光寺平の前方後円墳、これが6cには築造がなくなり伊那谷にその主流が移る。
諏訪湖南の古墳は、杖突峠に近い前宮北の狐塚は4c末、上社近くに蛇行剣鉄鎌出土のフネ古墳と片山古墳は5c初め?で粘土槨or木棺直葬。これが6c末から7c初めに伊那からの道筋である有賀峠付近の横穴石室高塚へと変わる。
だいたいですが、科野の古墳は継体26(500頃)に大きく変わり、物部守屋敗死の頃に諏訪に変化があった、ということです。
前宮の有る扇状地は北隣に比べて狭いですが杖突峠からと甲斐へののアクセスがその理由かもと思います。甲斐の物部神社付近の積石塚と南の大型古墳、杖突峠から南下した位置に有るヤマナシ(月見里)。このあたりがおもしろそうです。
?さんはhpおもちではないですか、神長館の古墳は横穴石室程度しか知りませんので出土物などお分かりでしたらご教示ください。

諏訪の古墳は地元の「八ヶ岳原人さん」http://www.yatu-genjin.net/ がよりお詳しい。



はじめまして さん 2005年 06月 08日 13時 56分 21秒

これは優しいフォローありがとうございます!そうですか、ご出張が多い方なのでしたか。これは私が早計だったみたいですね。ではしばらく待ちましょう。
方墳が物部氏のものかどうかは定説ではないんですが、私が回ってる範囲でどうも物部か秦氏などの渡来系じゃないかなと思うんです。まだ確信はありません。

か-たん さん 2005年 06月 08日 13時 11分 42秒

はじめましてさん、こんにちは♪
時々お邪魔させていただいているか−たんと申します。
tanさんは時々長期のお出かけに行かれるようです。
でもそろそろお帰りのようなので、もうしばらくお待ちくださいね。
方墳って、物部氏系なのですか?
これはお勉強になりました。

はじめまして さん 2005年 06月 08日 10時 32分 24秒

お返事いただけないというのは寂しいもんですなあ・・・では消して頂けると有り難いのですが。

はじめまして さん 2005年 05月 29日 14時 36分 11秒

はじめまして。諏訪の古墳にお詳しいとのこと・・・ちょっと教えて欲しいことがあるのですが。守矢神長館の古墳を見てきました。九州から行ってもともと豊前などにも方墳があり、また大阪の交野や物部氏の本拠などに、あるいは岡山、滋賀などにも方墳が点在しますよね?この神長館」の古墳は方墳ではないかと思うのですが・・・
とすると物部系の祭祀者が神長一族だったでよいのでしょうか?それとも日本の祭祀を代表する秦氏でしょうか?ちょっと重要な物で失礼を承知でおしかけました。よければご意見、あるいは他所の識者を教えて頂けませんか。

か-たん さん 2005年 05月 25日 17時 26分 58秒

⊃`ノ二千ヮ...φ(´ー`*)
今日図書館で「韓国古代史」の本を借りて来ました(^ー^)ノ
本の注釈にこちらの上巻P371〜372が参考と載っていたので見てみましたところ
”「額有角人」とは、弁辰人の頭上に被る冠帽前面に角型のものが付いているのをみてそのように読んだ言葉である。”
とありました。(作者の考えでしょうか)
参考には慶州98号古墳出土の銀製冠帽の写真と梁山郡北亭洞出土弁辰冠帽(弁帽)模写図と言うのが載っています。
新羅も弁辰族の一部なので古代の冠帽が似ていたのでは?と言うことです。
で、この弁帽という名称もたんに短く名づけただけのような・・・(^^;)
年代的に、どうなのか・・・う〜ん
もしかしたら、どこかでこちらの写真を見ていらっしゃるかもしれませんが、
あとでスキャンしてBBSか日記にでも載せておきます。
あんまり角っぽくないかも?
それより高霊池山洞古墳出土の金銅冠と言う方が角っぽいです。
(いろいろ本を借りてきてしまった・・・)
弁辰人と倭人の交渉が古代から繁く行われていたとしたら、能登か瀬戸内にでもこの様な兜が多少でも出土してもよさそうですね。
>エセ関西語
あら・・・?関西にお住まいしたことあるのでしょうか?
そう言えばどこかに、神社がご実家とか・・・

tan さん 2005年 05月 23日 01時 18分 33秒

>英文化
日本語をしっかり記述してないとオモシロイ訳になるですね、よく見ると特にてにおはをよく省くココは実におもしろい。関西弁のソフト、エセ関西語をしゃべれますワシ^^。

カブトint-net&HDD検索しましたが、見つからず。紙の上だったか、記憶違いか、羊の角とか角盃あたり連想してるのですが、弁帽の形が分からない←気になってます。魏書などに載る烏丸の婦人とか夫余の帽子とか弁髪につながるのかとか妄想してま。
しかし弁韓と呼ばれるモトなら金銀使えぬまーまぁの国以前から弁帽がある訳ですね紀元前100年より遡るのかな弁帽。。


か-たん さん 2005年 05月 18日 22時 26分 46秒

>hpの英文化
見つけました(^ー^)ノ
そういえば前にどこかでHPが関西弁(だったかな?)になるソフトが載っていましたよ。
ちょっと面白かったです。
あとあの「?」のペ−ジ、文章ほんとにそっくりですねー (^ー^* )フフ♪
それだけこちらが、すばらしいHPということだと思います。

カブト・・・HPでですか?
検索するとでてくるかな・・・

いつの間にか、しゃくやくがいなくなってました 笑


tan さん 2005年 05月 18日 00時 56分 52秒

かーたんさんおはつの文字化けですね。少しいじったけどどうかなぁ。
ツヌガアラシトのというカブトどこかで見た記憶アリですが。。

hpの英文化にいどんでみました^^。> www.d3.dion.ne.jp/~stan/tmp-e5.htm <

か-たん さん 2005年 05月 17日 15時 58分 34秒

あらま、大変!
これでどうかしら?

李内トウ氏の「韓国古代史」によると、「弁韓の古墳から額の部分に角型のものが付いた「弁帽」が出土しているが、ツヌガアラシトの角が生えた人というのもこの兜をかぶった人のことであり、この「弁帽」に弁韓の呼称が由来するのでは」とある。とのことが「倭人と韓人」の本に載っていました。

か-たん さん 2005年 05月 17日 15時 55分 48秒

「帽帽」に? ('-'*)フフ
李内算瓩痢峇攅餮殿綮法廚砲茲襪函◆嵎朶擇慮妬CC薐曚良ネ「乏儼燭里發里ヌ佞い拭嵎柬后廚サ佚擇靴討い襪氈」張魅」▲薀轡箸粒僂セ犬┐真佑箸いΔ里發海粒C鬚C屬辰真佑里海箸任△蝓△海痢嵎柬后廚吠朶擇慮鴇里ヒ獲茲垢襪里任蓮廚箸△襦C箸里海箸泝ヘ楚佑抜攷諭廚遼椶忘椶辰討い泙靴拭」
ほんとなら、その通りのような気がしますが、写真にでもその実物があると良いですね。
韓国の巫さんの龍角帽なんていうのもあるのですか?
角が好きなのかなぁ・・・
ちょっと鬼っぽい感じ。

KENJI さん さん、おひさしぶりです。
>歴史的な所はご無沙汰
そうなんですかー?もしかしたら、なにか見ちゃったのかなぁ〜笑
猪などもあるのですか?なんだかいろいろでてきそうですね。
怪しいもの・・・結構好きです(^ー^)ノ
明日香は石造が多いそうですね。
その時はぜひぜひよろしくお願いします。

>私も復帰を考えようかな
お待ちしていまーす



tan さん 2005年 05月 16日 20時 48分 16秒

 上田 さん
 ほんとうに検索ではびっくりすることが多くなりました、特に個人の方のページに、ここ2,3年でとか今まであたためてきた物の公開とか。
int-netの無い昔も知りえないだけで表に出ない素晴らしいものが多々あったのではないかと思ってます。


 aruce さん
 お元気そうで なによりです。ふと aruce さんげんきかなぁとお邪魔しましたらカウプレに^^。
のちほどメールさせて戴きます。


 かーたん さん
 連休も、かわらず、余裕の無い日々でござります^^;。
「弁帽」ですか、初めてお目にかかりました。弁に冠の意味があるので「帽帽」でしょうか^^。
『韓国の巫(ムダン)』という本に「龍の角のような龍角帽」というのがあったのですがコレ(図失念)に似ているのかな。ムダンは降神(占い、イメージ的には青森のイタコ?)の時、のり移る神の階級などに応じて仮装するらしい。帽子のほかにカツラもあるとか。(ムダンは今、消滅寸前らしい)
弁帽のイメージからすると、弁韓が発祥でしょうか、武人の隊長辺りが儀式などで被るのかも。
調神社のうさぎのコマ犬は江戸期からみたいですね。


KENJIさん
あいかわらず、お強い GET! &朗報>早い物ですね。ソロソロ、私も復帰を考えようかな。
 そうそう【岡太神社】尼崎に近いあたり、猪の足元には願掛けだろうの赤白などの布切れが巻いてあった。他には、 竜、亀、ネズミ、狐。。主祭神の眷属お使いを使うみたいです。


KENJI さん (ha4da@zeus.eonet.ne.jp) 2005年 05月 16日 20時 00分 20秒

お久し振りです。

連休は、伊豆半島を一周してきました。場所によっては凄い渋滞。(ーー;)
で、今回は、海岸沿いだけ。天城峠など、内陸部は行っていません。
松崎の漆喰は素晴しかったです。長七美術館はとても良かったです。

aruceさん、此方で切り番プレゼントを知って、早速、お伺いしました。
執念でGETしてきましたよ。(^m^)
そうそう、遅ればせながら、4周年オメデトウございます。
早い物ですね。ソロソロ、私も復帰を考えようかな。

かーたんさん、お久し振りです。(^O^)/
私は最近、歴史的な所はご無沙汰です。ハイキングとドライブ旅行ばかり。
狛犬。確か、記憶だけですが、猪が有ったのじゃないかなァ。
tanさんの方が正しい記憶でしょうが、西宮市の岡田神社だったかな?
tanさん、違いましたかね?
兎さんは見た事無いです。怪しい石造がお好きなんですか?(笑)
明日香には多いですよ。若し来られる事が有ったら、案内しますよ。

神出鬼没のKENJIでした。今度は何時やら。(笑)

か-たん さん 2005年 05月 16日 17時 45分 28秒
URL:http://tokyo.cool.ne.jp/ka-tan/

▼o・_・o▼コンニチワン♪
ご無沙汰しています。連休も終わってまたお仕事の日々でしょうか?
最近本を読んでいたら、弁帽と言うのが加羅にあって角がある形の帽子となっていたのですが、これってほんとうにあるんでしょうか?
って、s_tanさんにお伺いするのもおかしい? 笑

こま犬の犬や獅子以外の動物って何がいるのか面白そうだなぁと調べていたら、
埼玉の調神社、兔さんがこま犬の変わりにいるのですね。
あまりにもかわいいので見に行きたいと思いましたが、月と関係するわけではなく租庸調の「調」との関係の神社と知ってちょっと夢がなくなりました(^^;)
でも「神社探訪」に何やら怪しい石造が載っていたので、やっぱり楽しそうかなと・・・(^ー^* )フフ♪

妙義山に行かれたんですか?

aruce さん 2005年 05月 16日 15時 31分 28秒
URL:http://riesen-stern-boxer.com/

s_tanさん、こんにちは。
ご無沙汰していますが、お元気ですか?
プロバイダの契約が終了したので、簡単にブログがつくサーバーに引越ししたところでした。
検索してくださってありがとうございます。

リーゼンシュテルンボクサー4周年記念カウプレに参加してくださってありがとう。
そして、きりばんゲット、おめでとうございます。
今回は、moonさんやKENJIさんもいらっしゃらなくて、寂しかったので、s_tanさんが参加して下さってうれしいです。
お好きな品物を選んで、お届け先をお知らせ下さい。
メールお待ちしています。

上田啓之 さん (dkanp700@kyoto.zaq.ne.jp ) 2005年 05月 14日 08時 30分 09秒
URL:http://homepage1.nifty.com/hjueda/

「古出雲王朝」の引用の件ご了解いただきありがとうございます。川上氏のHPを拝見した時にはどうしてこんなことが描けるのかびっくりいたしました。また、詳細な図や年表にも驚きました。大変刺激を受け、とまどいつつ読ませていただいております。当方のページもご覧いただきありがとうございます。検索をしていますと、すざまじいページが沢山あり、それも本業以外のところで作成されているようで日本の趣味人はたいしたものだと思っています。多々感謝。

tan さん 2005年 05月 12日 00時 24分 25秒

 千葉さん
「甦る日本」「人生出発の地」神武が立った出発の地ならではの標ですね。
写真の確認ありがとうございます。写真といえばつい先ごろDPEに出したフィルムの初めのほうには2年前の画像がありました、この間デジカメばかりだった訳です。
能登半島の付根は大きな地溝帯で古くはかなり奥まで海だった様子で着く場所を違えたり能登をショートカットする位置で交通の要所ですね。渤海ルートの要地でもあり秋田青森十三湊辺りから北上して海流に乗って大陸沿いを南下といったルートが割りと楽だったような気がします。
姓氏録に継体26を祖とする氏族が多く見られますが三尾、江沼から羽咋はその本拠ですね。ネット上でもあまり北陸道の情報はみられませんがもっと注目してもいいところですね。
ヒメとヒコをまつる社が多いのは祖神のソレなのかそれ以前の男女神なのか面白いところ、何社か周られてのイメージはいかがでしょう。
 金沢の割烹でのさよりの昆布じめ鮎、昼夜と続けたなら美味いステーキ!うーぅぅっよだれが。。

 上田啓之さん
 はじめまして、ご利用、リンク&ご連絡ありがとうございます。
早速上田さんのお邪魔しました。幅広い内容で驚きました、紙芝居など拝見し「Fly」が気に入り暫し見入っていました。直リンク戴いた古代出雲王朝の題からすると川上さんのと思いますが個人リンクは「有難う」の姿勢です。今後ともよろしくどうぞ。


上田啓之 さん (dkanp700@kyoto.zaq.ne.jp) 2005年 05月 11日 15時 13分 38秒
URL:http://homepage1.nifty.com/hjueda/

貴HPの「古出雲王朝」の自然銅や餅鉄等に関する記述を引用させていただいております。(http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/gishi1.htmの投馬国の節の日本海沿岸交易に関するあたり)全体的なリンクでは意味をなしませんので、個々の記事、個々のサイトの引用となっておりますが、不都合がありますでしょうか?よろしくお願い申し上げます。

千葉ちゃん さん 2005年 05月 10日 18時 08分 20秒

S_tanさん、こんにちは。

熊野本宮の写真整理をしていて四月の書きこみに誤りを発見、同じような意味ですが「甦る日本」でした。となりに「人生出発の地」の看板もあり。また幟は普通の大きさのものは従来どおりの白地で、ミニサイズの幟は心棒にサッカー関連の水色と黒が入っていたと記憶していますが、写真は取っていなかったので確認できませんでした。以前はすぐにフィルムを現像にだしていたので一週間後には写真を見られましたが、今は自分がさぼるとすぐにブラックボックスになってしまいますね。

能登半島の付け根のあたりに大きな勢力があったと思います。せまい範囲にかなりの数の式内社があり、ヒメとヒコの両方があり、渡来系の開拓者が切り開いたのかと考えています。今回パスした鹿西町・鳥屋町(合併して今は別の名前)も気になります。

tan さん 2005年 05月 08日 21時 05分 27秒

千葉ちゃん さん こんにちわ。天気も良くてよいGWでしたね。

江沼からカガ能登、前回と合わせて北陸道制覇目前ですね。金沢はサッシですか、サッシが木造の覆いから覆い無しになるんですか、そういえば富士浅間の北本宮の本殿もサッシで囲まれてました。氏子さんの多少というか財力の差もあるのかもしれないですね。
突然太鼓が鳴り出すと驚きますね。忘れましたが拝殿前に寄ると笛やらが鳴り出すところが何箇所かあったですね自動演奏でしたが。

北陸道といえば、と見直しました。↓
・国造成立と天皇(北陸道)
崇神朝、久比岐・高志深江(新潟三条辺り)
成務13、高志・三国・角鹿・能等
仁徳16、加宜・
反正18、江沼。
允恭19、若狭。
雄略21、穂・加我・羽咋。
 国造本紀での国造任命?は成務13が一番多いのですが、大和からの距離からいえば小松から羽咋にかけての地区での任命が遅いですね、新潟近辺から富山にかけてのほうが任命が早い。加賀あたりを中心にヤマトとは違う大きな勢力があったのかも知れませんね。


千葉ちゃん さん 2005年 05月 05日 18時 55分 27秒

S_tanさん、こんにちは。
今回は小松空港から能登空港までの加賀と能登の神社を回ってきました。羽咋から七尾に抜けるところは式内社が密集していておもしろそうだったのですが、行程が厳しくなりそうなので次回にしました。今回は白山ヒメ神社から気多大社周辺を回ってきました。金沢市では拝殿も本殿もサッシでかこまれた神社が多く、能登に近づくと木造の覆いで囲われるようになり、倉庫のようになっていました。それが志賀町に入ると覆いがない神社が多くなり、この辺は雪が少ないのか?と疑問がわいたところです。

内灘町の小浜神社でお賽銭をいれてお参りをしようとしたら、中に神職さんが待機していたようで、太鼓がドンドンドンドンと鳴りだしびっくりしました。ご祈祷をお願いしなくても、このような対応をしてくれることもあるのですね。

最後に食べ物報告。今回は金沢の割烹で食したさよりの昆布じめが美味でした。今がはしりだという鮎の塩焼き、「のどぐろ」の肝や焼き物などもでたのにお会計はお手ごろです。羽咋市では店が少ないこともあり、昼と夜に同じステーキ店にでかけました。どちらも「マップル」にはでていませんので、こちらの方面におでかけのおりにはご連絡ください。

藤本 蕩太  さん (fujimototouta @hotmail.com) 2005年 04月 17日 15時 28分 57秒

はじめました、藤本というものです。
 中国でいろいろと抗日反応があります。私は中国人に中国には哲学があり、しかし、日本では哲学がないと説明している。
 日本の年号で歴史は大化からです、この年号は、どのような書物から取り上げられたか、そして、平成までの本が有りますか。
 そして、日本語と中国語で比較した本があれば中国の方へ説明すると、両国の理解が出来ると考えています。
 敬具



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