>北島さん こんばんわ
新著「歴代天皇陵総覧」 出版おめでとうございます。
かねてからの、色刷りの上梓ですね、新刊本の案内のページなどできましたらご連絡ください、リンクさせて頂きます。
>かーたんさん
コンチャ、バンチャ、といえば旨い番茶はほんとにうまいですね、出雲の番茶はなんとなく一味違ったです。
思い出しました胡録、なぜ胡なのかとか第六天とのつながりは?とこんな話題でしたね。
やはり千葉さんに期待です。
(^-^*)/コンチャ!
あっ、「胡録神社」の千葉ちゃん発見!
私、書き間違えを発見しました。「胡録会」ではなく、「胡六会」でした。
ゴメンナサイm(_ _;)m
で、牡蠣の粉がなぜ胡粉で胡録の名称につながるのかが疑問だったんですよね。
思い出しました。
で、なんの参考にもなっていないようす・・・笑
「しらうおのおどり食い」体験、おめでとうございます。(^ー^)ノ
ご無沙汰致しております天皇陵の北島です、この度12年ぶりに新著「歴代天皇陵総覧」と言う書籍を新風舎より出版する運びとなりましたB5版でオールカラーでの仕上げとなりました、天皇陵のデターはホームページでも掲載しておりますが書籍になりますと又格別の読本になります、書店への配本は5月末か6月初旬になろうかと思いますが、本格的な書籍の出版です、事前のご注文は当方電話052−896−9711山陵会若しくは出版社でんわ03−3764−4648でも受け付けております、ぜひお問い合わせ下さい、価格は4700円+税となっております是非多くの有志の皆さんへの勧誘をお願いたします、久しぶりの連絡が私個人のお願いになりましたが宜しくご指導下さい。
千葉さん こんばんわ。いやあ解析つけてますが見てないです、特に最近。胡録{竹シタニ録}神社といえばやはり千葉さんでしょう。
諏訪神社、鹿児島が9位というのはオオ氏関連か島津以降なのか明治以降に残ったのが多いのか、古代からの下地があったのが原因ののかも。
熊野大社いかれたのですか、のぼりはいつも多いほどあるみたいですね、行ったときは白地に黒文字ばかりでしたが何時もソウレなのかなぁ。「日本復活」は何を目標にしてるのか、経済&サッカー?
しらうおは喉食堂胃のなかで踊り動くのを感じるのが醍醐味らしいですが、とてもできなかった。若い命をとりこむ、ですね。旬、初物、初穂を神・天皇へとなってゆく。。。
これから梅雨まで神社あたりの散策には絶好の気候ですね。
こっそり見ていたのですが、ばれました?
千葉県にも諏訪神社は多いですね。おととし諏訪大社に出かける前に読んだ銀河グラフィク選書の「諏訪大社」に全国の分社の数が県別に出ています。総計5590のうち、長野がダントツの一位で1152、二位群馬451、三位埼玉318、富山、新潟、山梨、福島と続いて千葉146の八位です。こまでは比較的長野の近県ですが、九位に鹿児島が入っているのがおもしろいです。東京は 51でそれほど多くないですね。
先月、熊野大社に行ってきました。ぎりぎりまで仕事におわれ事前学習ができなかったので、後から本を読んでいます。本宮大社は参道の両脇にのぼりがびっしり立って(ミニサイズもあり)拝殿の入り口にも「日本復活」(記憶がさだかでないですが)の看板があり、式内社とは思えない怪しい感じでした。
さて今回の珍味は「しらうおのおどり食い」です。もともと予定したものではなく、お店がこの時期しかないものをと気をきかせて前菜に出してくれたもので、器の中で威勢良く泳ぎ回っているのを食べるのはかなり勇気がいりました。喉ではねられても困るので、しっかりかんで食べましたが、もうこりごりですね。おどり食いは、味よりも若い命をとりこむことが目的なのかと思いました。
木瓜が咲くと冬の寒さは遠く、です。
諏訪神社が多いのですね、平井の諏訪を地図上で確認しました。この辺りに続く戸(亀戸)とか○○津はフネの湊、道の一部なんですね。
「胡録」といえば、千葉さんですね^^。今はお忙しい時期のピークでしょうか。
汐入と兼信家臣、諏訪、高田七兵衛、胡粉、胡録会、。、流れというのは面白いですね、胡録の命名の理由はなんでしょうね。七兵衛さんは高田屋嘉兵衛さんとは関係あるのだろうか。
ボケの花も咲き始めたようですねっ♪
諏訪神社が摂社等として入っているところも含めると結構多そう・・・
武田さんの関係なのでしょうか?そうすると江戸時代より前になるのかしら?
とそれはさておき、今朝の新聞に以前話題に上がっていた「胡録神社」に関連のこの地域の記事が載っていたのでちょっと御報告。
この地域を「汐入」と言うのですが、この地名は「つ」の字に隅田川が蛇行しているために満潮時に海水が流れ込むことに由来し、伝承では川中島の合戦で落ち延びた上杉謙信の家臣4人が移住して「汐入」と名づけたことにさかのぼるそう。
で彼ら4家の本家分家で「胡録会」と言うものが1967年に結成されたそうですが、これは江戸時代から明治初期まで地元名産だった「胡粉」に由来するとのこと。家臣4家の中の1軒である「高田七兵衛」さん宅の胡粉は特に上質で京都まで注文があったそうです。
たぶん想定されていた通りの内容?でしょうか。
このあたり、最近高層ビルが立ち並んですごいです。
中川沿いの平井、行ったことは(もちろん)ないのですが昔は河口近くの砂地あたり?。恵祐法印というと恵林寺ゆかりでしょか、下町低地は特に川沿いは諏訪あたりに関係ある寺社が多いみたいですね、信長から逃れていた武田のゆかりに低地ならと開放したのでしょうか。
『諏訪神社 謎の古代史』もう手元、でしたか^^。各地に点在してあった或いは残る似た風俗というのは現地発生か伝播か、面白いところですね。環境可能か決定かヒトが考えることは大差ないのか、大きな違いは革新的素材の有無だけなのかも、伝播なら経路が証明できか、ってところでしょうか、百年前の犯人を刑事が追うようなものかも、でも世界各地にある似た風俗、推理するには楽しい。
>楽浪・半島・北九州・出雲辺りで・・・
仙台から秋田まで道なき山を越えるよりは近かったのかも。
今日は近所にある中川土手沿いの(平井)諏訪神社に遊びに行ってきました。
享保年間に隣にあるお寺の恵祐法印が出身地である信州の諏訪神社を勧請したそうですが、諏訪神社よりこちらのお寺の方が大きくて古そうで立派です。
で、『諏訪神社、謎の古代史』は早速今私の手元にあります。笑
やっとかなり前に読んでいた出雲風土記の簡単な説明本(山川出版の日本史リブレット)を読み終えました。
ある時期、楽浪・半島・北九州・出雲辺りで、なにか一つの繋がりがあった様子。さっ、今日からこちらを今度はがんばって読んでみますね。
何を読んでも迷宮入りしちゃうんですけど、なかなか楽しそうです。
tanさんいろいろありがとうございます。
QUBOさん こんばんわ
中国正史「倭人倭国伝全釈」ご紹介ありがとうございます、倭人倭国の文字を25史あたりから抜粋したものみたいですね、面白そう。
鳥越氏は殆ど読んでませんが神武以降9代=葛城王朝、でしたっけ。
越後は越の属国だったという説もありましたね。関係深い人が居たのは間違いないでしょうね。インド(仏)ー中国(仏+道教)ー半島(巫)ー列島と、列島は大陸の北と南の道教が入って神道になったみたいなモノでしょう、し。
文字化けすみません、多少改善したみたいですが何とかして欲しい→ hi-ho。
文字化け部分は、鮮卑条というと、
「見烏侯秦水廣從數百里 , 水停不流 ,其中有魚 ,不能得之 .聞倭人善網捕 ,於是東 (撃) 倭人國 ,得千餘家 ,徙置秦水上 ,令捕魚以助糧食」
※(内)は化けそうな文字、一部my-pcで表示できない文字有(,)。
誤記といえば、魏書で「倭」を「汗」にしてる箇所がありましたね、ひょっとして誤記ではないのかも。
倭人の認識は列島以外も有には納得ですね、明朝辺りまでは半島南から台湾あたりまでは倭人のネグラがあると思っていた。様に思える。
こんにちは
以前「習志野のてつ」で書き込みをした「QUBO」です
いろいろ、新しい話題ありがとうございます。
最近読んだ本
中国正史「倭人倭国伝全釈」鳥越憲三郎 中央公論
この中に面白い話があったのでご紹介します。(既にご存知なら失礼)
倭の古代発音はWoで、越(えつ)族の越も古代Woと発音
通字で同じモノを表現した。との説です。
つまり倭(わ)と越(えつ)は別物ではなく、
倭=越(発音はWo) この越の発音は日本にも来ている。
それがたとえば「越知」 確かにWoと発音してます。
後漢書の列伝・鮮卑の条(同書P26の又引きです)
「ゥヅ譴靴届楚佑旅颪魴發繊∪蜻渦箸鯑澄「徏(うつ)して秦水の上(ほとり)に
置き、魚を捕え以って糧食を助けしむ」
これは甘粛省の話(あの敦煌も甘粛省に含まれる)です。
http://www.jcbus.co.jp/chinahotel/map/ganshu/
いくらなんでも、今の日本にまで来ることは有りえない。
一般的には誤記とされていますが、その辺りにも倭人が
いた。
だから倭人=日本列島に住む人、ではない説です。
> しゃくやくさん
尾張地方から伊那谷を通り侵食するように変る墓制・小野矢彦の位置、駿河(月見里やまなし)辺り?から甲府盆地(山梨)へ盆地を見下ろす地に東最大の古墳・赤烏(238)銘ある呉鏡、日本海からのヌナカワ姫の伝承(生島足島から白樺湖辺りを通ったらしい,穂高神社辺りは未詳)、この3方向からどうも諏訪を目指した(時期)があったような感じがするのです。。
余談、西八代郡(九州でなく山梨県)三珠町の鳥居原(とりいばら)は呉鏡で有名?ですが、他に古墳出土の陶磁片を鑑定(1982)中国江南浙江省の窯出土の胎土と酷似とでた。。
古墳やら発掘ばかりだと疲れるので(私だけか^^。)『諏訪神社、謎の古代史』(隠された神々の源流)清川理一郎、1995.3/5彩流社\1900-、薙鎌をメインに古代インド、ゲルマン、ケルトなどでてきます、図書館で借りるのにお勧めです。
荒川、新川近くを走ると(足でなく)田圃に白鷺が実に多いです白くて大きく動作もゆったり実にみごとです、都内では見れないかも。
シルクロード○○年記念でしたかたぶん最初だけ見たですがロアール近くの美人ミイラとか舟の棺とか朱に塗られた墓とか、、朱は血の色で結構地域民族普遍で使う色なんでしょうね。
> しょうさん こんばんわ
ご指摘ありがとうございます。たしかに神社の区分に入ってますねhp、薬師は薬師ですが、「人の得るところ各々厚薄あり天神は見合った符書で命じる『太平経』」といったことですね、間違える人もいるかもってことで寺の区分に入れておきます。
日向薬師が神社として掲載されていましたが、
あそこはお薬師さん=ほとけさまであって、
神社でなくお寺だと思うのですが・・・。
高野山真言宗のお寺のはずです。
ご承知の上でならいいのですが、万一
誤解されているのであればと思って、念のため。
細かいようで申し訳ありません。
諏訪の辺りはいろいろな抗争があったのですね。
強敵がいた様子・・・
ヤマト軍に降伏した勢力を出雲族と一緒にまとめて語られたのか、
もともと出雲系の部族だったか。
それとも諏訪とタケちゃんは敵?
タケちゃん武神・農耕神と言われてるけど、どことなく力持ちな海神族のイメ−ジがあって、安曇氏を頼って行ったのかと思っていました(^^;)
(んん、なんだか意味不明かも。。。)
荒川、PCの地図ソフトでさかのぼって見てみたら、氷川神社や八幡に熊野に稲荷神社って言うのが多そう。まさに白鷺!?
最近NHKでシルクロ−ドを特集していますね。
皆さん親近感のある顔立ち。
>つるみねさん いらっしゃい
おなじ氏子であった時期がありそうですね。平塚あたりの資料は鎌倉以降は割と見られるのですが古代から平安は殆ど見られなく国衙も発掘物からの推定といった感じです。須賀の湊から今の平塚八幡宮あたりは空海の伝が散見され行基のそれもあります。須賀あたりに空海が立寄ったのは史実だろうと思います。9c後半位には四之宮に下郷(廃)寺があり江戸期の新編相模風土記には四之宮・八幡あたりは寺が密集?しそれも古義真言宗がほとんど。大山道の入口としての須賀湊、小田原北条の須賀。これ以前室町辺りまでは大磯寄りの唐浜が結構にぎやかだったようです。
子供の時の八幡から五稜台といいますと結構な冒険ですね^^。
>しゃくやくさん おひさ。
零下&雪に暫く囲まれておりました。 小野弥彦神社のあたりから天竜川の諏訪湖あたり、大門の銅鐸以外にも松本近くの大型古墳あたりに銅鐸が出たの伝もありますし、生島足島の伝承とか、伊奈から諏訪一体の古墳などの変化、藤島社あたりの抗争?の伝、などなど大きく変ったか入れ変ったか、の時があったのは間違いないですね、おタケさんをどの時代とするのがつながり良くなるのかまだ未確定です^^; 無関係ではないでしょうが出雲のおタケさんでなく、多氏の建○×からの造語(名)かも。
旧塩尻の立地(北から西南の小野方面への展望良)からすと諏訪に居た勢力の物見的場所の感じが強く、その後の阿礼神社の奥宮と里宮の立地など、、。諏訪湖側から外敵の侵略に対応したのは大きく2度あったのではとは思ってます。
(諏訪先宮は2年前の情報です、UP済と思ってましたら掲示板の話で未UPに気付き・・、^^;)
(1700)頃の利根川付替えまでは荒川が本流で前玉までは東京湾からが幹線、明治になってからも下町は工事多ですね、そういえば新川の千葉埼玉あたり田圃の多い所、鷺が一杯ですね、自転車でのポタなんかいいかも。
tanさん、お久しぶりです♪
諏訪に行かれたんですか?タケミナカタの神様も出雲から随分と遠くまで逃げられました。当時の諏訪にいらした方とはお友達だったのでしょうか?
(またまたピントがずれてるかしら・・・笑)
最近、皇居を探検してきました。でもま新しいことも特別ありません(^^;)
そういえば近所に石浜神社を発見!
今度遊びに行ってきます。荒川をず〜〜と上っていくと埼玉古墳群や秩父にもいろいろな史跡がありますよね。川沿いにいろいろ訪ねるのも楽しいかもと思いましたが流れが当時と違う場合もあるし、なかなか難しいかな。
何をしに来たのでしょう? 笑
ではでは・・・
つるみねさん、はじめまして
私もtanさんにいろいろ教えていただいていま〜す。
はじめまして。調べ者をしていたらこちらに出会えました。
平塚八幡宮の隣の幼稚園出身の者です。
神社のペ−ジで平塚の神社が沢山掲載されていたので嬉しかったです。
実家に帰った際に夫がカ−ナビを見ながら、「この辺りは神社、お寺が多いね」と言っていましたが…。離れてみて興味がわいて、この春からいろいろ探索してみたいです。
子供の時、五領台付近の神社を探す旅(散歩?)に出て、結局たどり着けなかった思い出が懐かしいです。(ロ−カルですみません)
神社や古代史が大好きですが、奥深くていろいろきりがありませんね。
ITには不信感がありますが、こういう好奇心追求の時には助かります。
また、その他のペ−ジや、ここBBSでの皆さんのお話を楽しみにしております。
(寒川神社の場所の話もとても良かったです!!!私もちょっと不思議に感じてたので)
門口さん こんばんわ。
不在しておりまして遅くなり失礼しました。
当サイトへのリンク、またご丁寧な紹介ありがとうございます。
リンクはフリーでして、個々の頁へのリンクは、サイト(アドレス)の移動がおこりやすいといった事位ですが、個人の方からのソレは感謝のみです。
連絡先不明瞭で失礼してます。このご時世で大量のゴミメールが途切れず少し日があくとmailboxが一杯になり受信できないことがあります。ので公表メルアドはhp内から消しています。
八ヶ岳原人さんのhpは諏訪をメインにされているのですね、地元ならではの口承などゆっくり拝見させていただきます。
諏訪といえば諏訪先宮(鷺宮)が気にかかっていますが、その氏族とか年代など書かれた資料などご存知ではないでしょうか。
:リンクの承諾をお願いします。
「伝言板」と「掲示板」は同一の内容なので、「メールで」とも思いましたが、この伝言板からお願いすることにしました。
長野県の門口と申します。当サイトから貴サイトのメニュー「神社探訪・本館」の小野神社と矢彦神社にリンクを設定しました。直リンクは避けるように、とありますが、当サイトの内容から関係ページへの直リンクでないと分かりにくいという実情があります。そのため、勝手なお願いですが直リンクの承諾をお願いします。
該当ページは、メインメニュー「風景」のサブメニュー〔御柱と小野・矢彦神社〕です。最下部にサイト名を入れることでそちらの要望にも配慮したつもりです。よろしくお願いします。
春日は『姓氏録』に「 仁徳天皇仲臣の家に幸して、糟(カス)を委(ツ)みて堵(カキ)と為さしむ。詔て、糟垣臣(カスガミノオミ)と号す。後改めて春日臣(カスガノオミ)と為る。」とありますがこれ以前から春日の名はみられますね、一般的な春日の使い方は万葉でもみるのがいいのかも知れません。
カスガとアスカ(トorべ)の関連程度は今後。。
またまた残念な文字化けです。ご指摘されておられると思いますが、ケヒ神とツヌガアラシトはたしか別宮でした? 笥は広く使われた食物ですしアラシトも現れた人で住吉神とか応神をまつる社もあるようですし現在の祭神はいつからなのか動きの背景はなどなど。。実にたのしいですね。
暫くnetから離れられるとか、、お持ちしています。
越前の古墳にはい・辰靴磴襪茲Δ縫團鵐・个鮖箸辰申・狙亟修・燭い任垢諭」
たしかぞ床・・軌薜儖・颪・个靴討い襦崗床・・慮妬・廚辰討い・駟・・椶靴い任后」
さてず鯑ラ颪C修咾譴燭彦山と継体ですが
後世のことになりますけどざ・い凌晋戚・気任六預膽藐鄂タ(四社明神)の1つとして伊奢沙別命がい泙榛農,療径飜・気任盖と羶声劼・藐鄂世箸靴乍・蕕譴襪修Δ任垢・蕕修験のメッカたる彦山に気比神が祀られたことはあるのでしょう。そういう気比神の祭神をツヌガアラシトだと早合点してはいけないですけどもね。(実はわたしも以前それで苦労しまして・・・・笑)
さてせ篁・砲覆蠅泙垢・都合があって5月ころまでネットが使えなくなりましてい箸蠅△┐困そのころまでお休みします。あしからず。
この書き込みが文字化けしませんように・・・・一応ぅ瓮眥△撚悉颪C靴燭鵑任垢・ΑΑヲ
そうですね、やみくもに否定するというのが困りますね。そりゃあ「トンデモ説だ」との言い方は厭なものです、そりゃあ「お偉い先生が言ってないから」と似たよなもんですね。50歩100歩とは言いませんが専門家でないですから1歩を大事にしたいもんです己も他人も。
和迩氏の春日との関連は探索不足ですが、地形とか気象の制約もあるのでしょうが、川内の飛鳥戸とかいくつかの春日、奈良の春日大社・和迩下(古墳)はどちらも西向の斜面に社がありますね。都怒我阿羅斯等の大伽耶の表示は百済(扶餘?)寄りとの表現なのかも。
>能登や加賀の古墳でも九州産の石材で石棺を作っています。
#ありがとうございます、次は越の古墳を調べてみます。
松岡町の古墳の石棺は地元産の石で舟形が多い、との記憶がありますがこれは九州産(ピンク石?)に較べて三尾あたりだけ、分布状況など、良い資料はありませんでしょうか。 そういえば四隅突出墳もみられるのですね。
>文字化けについて
お手数おかけします、折角の書込をみすみません。
いくつか試しましたが私の機械では再現できません、恐らくEUC・ユニコードが理由の化けと思いますが、エクセルなどのワープロで入力されているなら「メモ帳」で書かれると事前に化けが分ると思います。
ユニコードはシフトJISより多くの漢字を使えますが、共通部分以外(多い分)は文字化けします。 通信状況も考えられますが。
文字化け部分はとりあえず削除しました。
そういえば、福井の永平寺の名は仏教が伝来したとする中国の年号から、と云う話とか。永平といえば、東漢(58-75)、晉(291-291)、北魏(508-512)で 北魏の永平年号が継体の時期と重なりますね、道元は口伝か書物で知っていたということですね。
万世一系という思想が、全国民は天皇の赤子、という発想を生み、破滅的な戦争につながったわけですから、その反動として万世一系をやみくもに否定するのではなく、少しでも理論的に積み上げていかないといけない、と思うわけです。
継体の幼名は上宮記でも 男大迹 ですね。
春日戸は百済系なんでしょうかね。和邇氏の春日とは直接の関係がないと思いますが、河内地方の百済人たちの信仰で、継体や息長氏との関係については二次的と言いますか、その地域での春日神と百済神の習合というより、春日戸の春日は一般的美称なのではないでしょうか。正直言って、あまり考えてみなかったです、今まで。
越前の古墳、四世紀代後半からは比較的大きいです。150mくらいが最大級でしょうか。近江と比較すると、四世紀から五世紀初めくらいまでは越前、五世紀中盤から近江という感じですね。ご指摘のように五世紀になるかならないかくらいに、息長氏を介して中央と越がつながったのでしょう。
越前もそうですが、能登や加賀の古墳でも九州産の石材で石棺を作っています。能登半島の先端に輪島や珠洲という地域がありますが、戦後すぐくらいまで九州の人たちと交流があったようです、もちろん漁師さんや船乗りさんたちですけども。
継体の場合、岩井との戦がありましたから、いっそう九州とは縁が深かったでしょうし・・・・通説では、雄略代に九州まで領土にした、というような言われ方をしてますが、岩井との戦いが終って、やっと九州が支配下に入ったというのが実情でしょうから、今城塚に有明産の石棺を用いたのは記念碑的な部分もあったと思いますね。
彦山と継体・・・・・・今後の課題にします。
> マッコッリさん
そうですよね万世一系とは列島内皆親戚ということですね、万分の一でも入っていれば血筋というみ方でしょうか^^。
たしか記では袁本杼、紀では男大迹・彦太尊の表記ですが、上宮ーでの幼名は逸文か何かに載るのですか。
春日神社の密集というのは珍しいですね、北陸の神社は未踏なものですから色々とお教えください。春日といいますと大坂の「天照大神高座神社」これの旧名が「春日戸神」とありますから、昆支をまつる飛鳥戸と繋がり深いのかも知れませんね、ご存知近くには太子と墓やら科長などがあります。
福井の古墳は調べたことは無いのですが、たしか九頭竜川の平野に出るあたりにに密でした?100m級の前方後円墳が、新しいので5c後半でした?、少し南の若狭では割と横穴式が早いとか。近江に較べると遥かに大きいですね、応神期に良く出る息長氏は継体の時には少なくなるようですが、これらから経済力など近江よりも三尾の方が強いか古い(元?)ではなかったのではないでしょうか、近年大量の鉄器も出たようですし。もちろん応神前後の中央?との結びつきは息長でしょうが。
最近摂津の今城塚が継体とされてますがその石棺の石が有明海から運ばれている。これは記紀の逸話からからかもですが後世の彦山縁起に継体云々が見られる、このあたりはどの程度に解釈されますか。
> 台伊さん ようこそ
「連立大和朝廷創設」おもしろいですね、後ほどゆっくり読ませて戴きます。この頃といいますか、大きさの序列はあるようですが巨大な古墳が百年足らずで関東北辺まで造られている、これの納得できるウラがとれないのです未だに・・・^^;
参考&掲載ありがとうございます。後ほどこちらからもリンクさせて戴きます。
はじめまして。台伊(トイ)といいます。
古代史を勝手に想像してあそんでいたところ、
物部王朝(神武〜)と崇神王朝の「連立大和朝廷創設」説を
つくってしまいました。
[天照国照彦]というHPです。
http://www.sol.dti.ne.jp/~toy-ohba/
このHPの「参考文献」に、
勝手に「古代であそぼ」のURL載せてしまいましたが、
よろしかったでしょうか?
ついでにご意見などいただけたら嬉しいです。
*継体が旧王家と血縁だったかどうか?
まがりなりにも大王になった人間が王族の血縁ではないのはおかしい、という論理?に基づいて立論する人が多いですね、最近。しかしその立論には根拠もなにもないと思います。萬世一系なんて絵空事ですし、中国の史書に倭の5王が血縁関係で描かれていたとしても、継体もそうであったという証拠にはなりません。継体という漢風謚号から、逆に前王家と違う血筋の大王であった可能性のほうが強いとも言えます、もちろん可能性ですけどね。
*継体の故郷は?
近江、越の両説がありますけど、近江とした場合、父・彦牛王の居地、あるいは継体を強力に後押しした息長氏に引きずられた見方でしょうね。振姫の故郷が現・福井県三国あるいは坂井町で、古代、子供はおおむね母方で養育されることから、継体(幼名は文字化けするので継体で統一します)が今の福井県三国から山手の地域に居たことは、まず動かないでしょう。 (上宮聖徳法王帝説)
*では、継体が生まれる前、振姫の祖父くらいの時代に、越ではどういうことが起こったのか?
近江の彦牛王の居地もそうですが、福井のこのあたりというのは三尾氏の地盤なんです。三尾氏は和邇氏と擬制的同族ですが、福井県芦原市には春日神社が密集しています。地元には越前国司であった藤原某が京から勧請したものという説がありますが、すべての春日神社がそうであるとは言えない。後世、春日といえば藤原の氏神とされただけで、藤原以前の春日というのは、奈良の春日と同じように和邇氏の神だったのです。近江での和邇と息長の親密な関係から、継体は近江に出ることになるわけで、逆ではないと思います。また西暦350年頃、この越前地域では盟主古墳の位置が変わります。旧来の中国系の鏡や古い形の鎧を出す古墳から、半島系の埋蔵物を出す古墳へ、より高所に位置し山中にありながら日本海を展望できるほどの巨大古墳が盟主となるのです。他に越の三尾氏を追うと、能登の羽咋氏、これが三尾氏同族です。それまでは、七尾という能登の内海に面した地域の豪族が有力だったのですが、ここでも西暦350年を境として、日本海に面した地域で能登の水路の要衝をつかんでいる羽咋氏が支配的となります。盟主古墳の変動でわかるのです。
もっとも、西暦350年頃というのは、中央でも大和や巻向の勢力から奈良北部の勢力に権力移動があったころですから、越の動向というのは中央の動向と軌を一にするものと言えましょう。そのころですよ、継体の母系氏族が越でリーダーシップを取るのは。記紀で和邇氏が一番幅をきかす時期、つまり時期的に言えば神功のころでしょうかね(正確ではないかもしれませんけど)。そして、もっと強く中央とつながったのが応神のころでしょうから、継体は応神の5世の子孫などと言われたのかもしれませんね。(神功や応神が実在だとか、そうでないだとか、ということではありません)
それとアラカシヒコがどう関係してくるのか?
これは可能性の問題ですが、振姫の家系というのは渡来系じゃないか。和邇氏は伽羅系の海人族であると考えているので、三尾というのも渡来系である可能性が強い。能登の羽咋地域、特に日本海沿岸から内陸に入ったクマカブトアラカシヒコ神社あたりまでは、渡来系の神社や渡来伝承が数多く残っています。また、福井市から少し内陸に入った今立郡地域には継体の宮伝承や安閑・宣化を育てた伝承も残っていますし、能登と同じ神を祀るアラカシ神社というのもあるんです。安閑や宣化の母堂は尾張の目子媛ですよ、この女性も海人族出身。今立郡近辺の山中には、新羅の金冠に酷似した王冠を出土した古墳もあります。つまりアラカシヒコというのは、海人族で渡来系である継体の母系氏族の伝承の神であるとも考えられるし、ひょっとすると継体の直接の祖先であるかもしれないですね。
要するに、そういう渡来系の人たち(海流からいえば新羅系)が越にはワンサカいて、自分たち独自の神を祀った。その中で一番有名なのがツヌガアラシトだった(あるいは後世にツヌガアラシトに習合された)。そしてそういう人達のなかには近江・山城方面に移動したのも大勢いたでしょう。それらが後世になって秦氏(もちろん秦氏の一部として)と呼ばれることになったのではないでしょうか。気比神宮の古文書に、社家や奉祀した人の名前として、秦や加茂という苗字が出てきます。そういう、後に秦氏と呼ばれるようになった人たちが、継体の支持基盤であり、経済的基盤であったと考えているんです。継体の宮のあった場所、人脈、いずれを取っても渡来人と強く関係してくるんですよ。秦氏が中央で権力を得るのも、継体の子である欽明の頃ですしね。
> KENJIさん
そうなんです、楽しいところ。ヒボコとアラシト、意外に近いというか遠い先祖が一緒だったのかもですね。
阿加流比売を追って来たのは『記』では日矛で応神の段、『紀』では阿羅斯等で垂仁2年条別伝。 アカルヒメを祭るという社は九州姫島と大坂住吉。 日矛の軌跡と神功のそれの類似。
これらと「崇神朝にきた大伽耶のアラシトが垂仁の初めに帰るとき新羅の一行に遇って宝物を盗られこれ以降新羅と不仲になった(任那と名を変えた時期)」コレがうまく繋がる説明、というか楽しい解釈が色々できそう。例えばアカルヒメに仮託されたのは神功で日矛は建内宿祢。軌跡は半島西或は東からの古くからの話が各地に伝わっていて軌跡・航路として認知されていた。^^。
日矛に繋がるタジマモリに関る宝も比礼が多く宗像に繋がりますね、
久麻加夫都・・、久麻加志賀波袁とか波毘呂久麻加斯なんかに関連?ってマッコッリさんが答えられていますね。
> ほーりーさん ようこそ
エンムスビ、いいですね。このhpではご神徳など殆ど(全く?)触れていませんが、掲載神社の場所(経度緯度)など必要でしたらご遠慮なくどうぞ。
> マッコッリさん
夙と呼ばれた民が、秦氏とどれほどの濃さで繋がっているのか或は田原天皇の芸能の民とのつながり?気にしているところです。
>文字化け、すみませんこのBBSは古い仕様で半角カタカナ機種依存文字はもちろんシフトJIS以外の文字をサーバーで持っていません。
一つ文字化けすると、次の「リターンキー」を使うまで殆ど化けます。
文字化け部分
KUMAKABUTO ARAKASI TOIUNOHA ITTAI NANNNANODESHOUNEE
>tanさん
夙について
そうですね。中世につながる、いわゆる常民ではない被差別民や芸能の民については、自分も勉強中なんです。古代から中世、近世、そして現代の部落問題や人権問題につながるテーマは大変重要ですよね。
>kenjiさん
よくご存知ですね。自分は金沢に住んでいますからあたり前ですけども、クマカブトアラカシヒコを知ってらっしゃるとは・・・・
同社の宮司さんや能登に関する地元も文献の解釈によれば
クマ=朝鮮、カブト=兜、アラカシ=高貴な ということですので
クマカブトアラカシヒコ=朝鮮風の兜をかぶった高貴な人
というのが一般的で、そこから北陸に縁の深いツヌガアラシトに擬せられたのではないかと推測できます。同社の祭神は2柱で、地神(あらかしひこ)とツヌガアラシトとなっています。この神社のお祭り(9月20日)は明らかに朝鮮スタイルで、文芸春秋社から出ていた、司馬遼太郎・金達寿・上田正昭先生の対談集でも取り上げられ、先生方をして△靴・掘▲・泪・屮肇▲薀・靴箸楼貘硫燭覆鵑任靴腓Δ佑┌と言わしめた神社です。
わたしの解釈は
能登に渡来した基層の渡来人たちが故国の祭りを持ち込むと同時に、自分たちのリーダー(現実に同時代を生きた指導者なのか、もはや伝説となった指導者なのかはわかりませんが)や精神的な支柱である存在を神格化したのではないか。それはツヌガアラシトだったのかもしれないし、別の存在だったのかもしれない、ということです。
ただし、継体の祖父・曽祖父くらいの人を、あらかしひこ として祀った可能性も捨てきれないと思う。ここで当然、何で継体なの? という疑問が湧いてこられると思います。
それは、また後日。
初めまして。神社好きのほーりーと申します。
神社の話題がすごく豊富ですね。
まだ行ったことのない神社の写真も多くて、
いろいろと行きたいところが増えてしまいました。
こちらの情報を元に、またいろいろ出かけてみたいと思います。
今晩は。(^O^)/
ん?ツヌガアラシト?天日矛?神功皇后?この辺は、古代の遊べそうな所ですね。
日子坐王 − 大筒木真若王 − カニ米雷王 − 息長宿禰王
|−−息長帯比売(神功皇后)
天日矛・・・・・ 比那良岐 − 比多訶 − 葛城高額姫
の様な系図に成り、神功皇后は、天日矛の血統を受け継いでいますね。
息子の応神天皇が、敦賀の気比神社の神と名前を交換した話は、御存知と思います。
その神社は、ツヌガアラシトを祭っている筈でしたね。
繋がりは有る所か、かなり濃いみたいです。
五十迹手の事ですが、「筑前国風土記」の逸文に、「五十迹手奏ししく、高麗の国の意呂山(おろやま)に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり・・・」と
書いて有るそうです。(私は風土記は未見で、他の本に書いて有りました。)
意呂山(おろやま)は、後の、蔚山(ウルサン)の事だそうです。
天日矛は、新羅から来たのは間違い無さそうです。
ツヌガアラシト、別名を、ウシキアリシチカンキと言うそうですが、何となく、
「角が有る人」で、「牛岐有シチ干期(干期は朝鮮の王族に付す称号)」となり、
角の生えた兜を被っていたのかな・・・なんて、思います。
本当の名前は、応神天皇と名前を交換する前の、「ホムダワケ」だったのかな。
石川県の鹿島郡中島町に、「久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)」と言う神社が有るのでしょうか?
其処にも、ツヌガアラシトが祭られていると言うのです。
敦賀も、角鹿(つぬが)と表記されているし、「書記」には「額に角が有る人」と書かれています。
若しかしたら、「牛頭天王」とも関係が有るかも・・・。(勝手な想像です。)
天日矛とツヌガアラシトは、全く同じ人物ではなくとも、同じ系列の民族(部族?)だと思いますよ。
マッコッリさん こんばんわ。早速有難うございます。
「既に」でしたか、少し残念です。といいますのは、夙と芸能から秦氏・敏満寺・世阿弥やら近所の多氏との関連などもひょっとしてお聴きできるかもと思いましたので。。
彦山、読み返したら分りにくい書き方ですね私、申し訳ない。。
鶴我宮司家の紋所は「鶴(丸)」なのでしょうか、鎌倉の鶴ヶ岡八幡はじめいくつか鶴丸の紋がみられますが何か関連あるのだろうかとふと思ったところです。
神功皇后を船で迎えた県主五十迹手はツヌガアラシトの後裔らしい神功はどこからきたのでしょうね、○−敦賀−日本海−九州、?。京都淀川沿いの北と南に神功の戦勝祈願と報告の伝えをもつ社もみられますが。この頃突然出てくる住吉神も筑前に元があるかもですし、たのしそうなところです。
継体振姫、ご案内有難うございます。早速さがしてみます。
すいません。↓の文字バケしているのは
△・・氷唯という拙い論文です。
>管理人さん
*(天日矛を持ち込んだ渡来人が秦氏の居地と重なるのは夙に指摘された事実ですけども)
の(夙)は、ご指摘のように 既に ということです。
*(英彦山に製銅の神としてツヌガアラシトが祀られていますね)
すいません。香春岳と勘違いしてました。
福岡県田川郡香春町大字採銅所 に現人神社がありますね。祭神はツヌガアラシトです。
(日本の神々1 田村園澄氏(白水社)及び鶴我盛仁宮司からの聞き取り調査by小生)
振姫については後日、拙稿・紡芻餽唯 東アジアの古代文化第105号 2000年秋号を参照していただけると幸いです。
しゃくやくさん こんばんわ。
あの図会ですか、年表はほとんど記憶にありません^^; ○○図会があると見たりしますが殆ど絵を見るだけです。鳥居はあるか、形は、社殿の並びはとか風俗だったり。結構面白いです。
で、古代とか神社関連は高額ですので図書館がお勧めです。中身をある程度見れるのは超都会か周辺の図書館です同一県内なら取り寄せもできるし。。でどうしても手元に置きたいモノだけ購入してます^^。
絵図といえば以前、大坂住吉大社の鳥居柱が4角柱はいつからかなどで見比べてましたが細部不明で判別できず、が、4つの社殿の並び方方向が時代で違うのを発見したり。大工道具のカンナは日本は引いて削るで中国など押して削るで引いて削るのは世界的に珍しいのですがエジプトのカンナは引いて削るというのを見つけたり、など絵とか漫画はおもしろいです。
そうなんですよね、いくら時間があっても・・・ですね。特に断定とか私だけの新発見・持論とか、他者の否定とかは大変ですよね、なにしろ過去の総ての文献それも現在世に出ていないモノまで調べないといけませんしね^^。さらに石碑・墓誌でさえも100%正しいとは限らない^^;。で「あそぼ」なんです、とわいえこの所古代ではあそんでないか、、『羊太夫伝承と多胡碑のなぞ』関口昌春著,文芸社\1500+税-450p、コレ面白いのですが昨年からまだ1/3も読んでません^^;
こんばんわ マッコッリさん。こちらこそ宜しくお願いします。
河内科長神社、残念ながら行きそびれてます、竹内街道やら太子墓には行ったのですが。 河内には神功にまつわる話を持つ神社が多くて海岸から奈良京都への途中にもほぼ万遍なくあるようです。何処の社かは忘れましたが「神功が住吉神の妻に夫を盗って申し訳ないと謝った」などありました。
ひっそりとした境内では樹木のざわめきなど古代からの語りかけに感じてしまうことがあります。これが暗闇の山中ですと焚火の炎のむこうから縄紋以前のご先祖が棍棒片手に出てくる様な気がします。
秦氏は古代をみると殆ど引っ掛ってきますね、色々な論を集めると日本人総てが秦氏といった感じですね。倭人は秦氏だったといったのもありますし、
>天日矛を持ち込んだ渡来人が秦氏の居地と重なるのは夙に指摘された事実ですけども、
#この「夙に・・」ですが、江戸期に言われた芸能の民?或は「既に」にタイプミスでしょうか。
>英彦山に製銅の神としてツヌガアラシトが祀られていますね。
#この根拠というか出典などありましたら、ぜひお教えください。
香春岳の神官に赤染氏・鶴賀氏などみえますがこのツルガ氏あたりからでしょうか、香春(鹿春)は銅がメインと思ってますが。彦山の1岳は神功、2岳は忍骨というのが多いようですが。
ぼんやりとですが秦氏としてまとまりになったのは半島北西部で2c頃、馬韓隣に流れて辰韓(秦韓)と呼ばれ、列島である程度まとまったのは琵琶湖周辺で4c頃ではないかと思ってます。新羅或は少し南から出ても海流との加減で丹後から能登にかけてが多く、意思を持って対馬を抜けての九州北ではないかと思います。
平安京の先住豪族といえば秦氏とカモ氏で聖地だろう場所から銅鐸が出土、それ以前には弥生の住居址がみられ、さらに前には瀬戸内海−山中−日本海を定期的に移動する生活があったようです。この移動というのがウサ(宇佐)氏に伝わるという伝承と重なったりします。
継体と息長氏もですが母の振姫に一層の興味がありますがなにか面白い話はありませんでしょうか。
お伊勢参りの本は、以前にtanさんに教えていただいたもので2100円です♪
ただ今掘り下げるも何も年表読んでアップアップ状態・・・(‥;)
そんな私に付いて来るのは、それは大変ですよねっ ヽ(´▽`)/へへっ
古代史のブ−ム浸透!
それぞれいろんな持論が出てきて楽しそう。
古くからの神社や数少ない書物と確認されている遺跡などから総合的な判断しないといけないとなると、膨大な時間が必要ですよね。
長生きしないとかな・・・笑
はじめまして。マッコッリと申します。宜しくお願いいたします。
大阪の神社は科長神社さんくらいしか行ったことはないです。かつて息長氏の調査をしていたときに息長系の皇族の古墳めぐりの途中、立ち寄りました。ひっそりとした境内にたたずむと、自然と古代の風景が頭に去来し、感じ入った記憶があります。みぞれの降る、寒い日でした、一人でね。(神社、好きなんですよ、ほんとに。)
話題は変わって、秦氏なんですけどね。秦氏と呼ばれるようになったのは氏姓制が固定してからのことでしょうけども、彼らはどういうルートで渡来したのか。山城以前は葛城でしょうから、葛城氏の半島ルートを通ってなのか、独自ルートがあったのか?
もっとも単一の氏族が後世の秦氏になったわけじゃないでしょうから、いろいろなルートがあったものと想像できますよね。北部九州から豊国を通って瀬戸内海航路で大和へ。山陰海岸から吉備や播磨に抜けて、河内・紀のあたりから大和・葛城に入る。あるいは丹波から山城へ来て、葛城の秦氏より早く山城に定着していた人もいるでしょう。
わたしが注目しているのは越から山城のルートなんです。天日矛を持ち込んだ渡来人が秦氏の居地と重なるのは夙に指摘された事実ですけども、わたしはツヌガアラシトに注目します。日矛とアラシトは別モノだという指摘もありますが、秦氏の一大根拠地、豊国の領域であった英彦山に製銅の神としてツヌガアラシトが祀られていますね。天日矛とツヌガアラシトは少し系統の違う氏族が持ち込んだものでしょうけども、全く別モノというわけではなく、同じ伽羅・新羅系の人たちなのだと思います。
福井県・敦賀市の気比神宮、ご存知だと思いますが、ツヌガアラシトを祀る北陸総鎮守の神様です。また能登から越前にかけてツヌガアラシトを祀る神社が多数あります。奈良・平安時代になって文献記録としては京に近い山城の秦氏の名前が頻出しますけども、記録のない頃、秦氏は日本海側各地に多数いたのではないでしょうか?
まだ秦氏という氏も姓もないころ、越の新羅系の渡来人たちは伽羅から来た貴族の子孫である若きころの継体を近江の息長氏にゆだねます。彼ら渡来人の経済的バックボーンは製鉄と養蚕・製塩でしょう。息長氏は中央とのパイプ役です。また摂津・河内の渡来人と連携し馬匹を東国(信濃と毛野)に求め、軍事的にも充実させて大和へと進出します。
ちょっと黒岩チックになりましたが、一生かけて研究する価値のあるテーマだと思っています。長くなりました。またお邪魔します。
昨年中はいろいろお世話になりありがとうございました。
皆様 ことしも(は)良い年となりますように!
千葉さん
地道な神社めぐり感服です。現地の空気に触れ浸り色々思い巡らすのは楽しいですし事前事後の調査もさらに楽しくなりますね。
白鳥といえばタケルとか鶴を連想しますが鶴の恩返しとか夫鶴を撃った猟師が・・とか、ありますが白鳥はそのウエに居るのかも。
今年の愛知から丹後への社めぐりまたいろいろ教えてください。
しゃくやくさん、
昨年はいろいろとありがとうございました、本年もどうぞよろしく(尚一層^^)お願い致します。
>今年はもう一段掘り下げていろいろ考えて行きたいなぁと
#興味を持ち続ければ色々と情報は入ってくる、のだと思います。一段も掘下げられると、ついていくのに大変ですので判段くらいにしておいて下さい^^。
伊勢参りの本って図録ですか高額ではなかったですか。
そういえば年末に図書雲に行ったら古代史のコーナーだけ棚に空きがあった、ブームは過ぎて浸透しているのかなぁ。
八百屋さん
こちらこそ、ご無沙汰しております。
神社の彫刻は、って私も時々眼に入る程度なのですが、寄木のように風雨などで崩れた部分をみると鑿先の残っていた時代のをみたいと思います。
ところで御霊ですが、これは「ごれい」?「みたま」って言ったりしてます?。田村は広いですね昭和60頃の資料では田村の表記になってますが、寄木が大神で八坂田村で御霊が田村ではなんかおかしいですね、やはり横内でしょうか。中世以前田村の総鎮守であった御霊の歴史が田村と表記させているのかも。
あけましておめでとうございます。
ごぶさたしております。
さて、寄木、御霊、八坂等の彫刻の画像見させていただきました。
どこの神社も行ったことありますが、全然気がつきませんでしたよ(恥
そうそう、御霊神社は田村ではなく横内ですよん。
まぁ大神も横内も旧田村の一部でしたが。
明けまして、おめでとうございます。
昨年は、こんな未熟な私にお付き合いしていただいてありがとうございました。
今年はもう一段掘り下げていろいろ考えて行きたいなぁと
思っていますが、出来るかなぁ・・・(‥;)
そうそうお伊勢参りの本購入してみました。ヽ(´▽`)/へへっ
ではでは、たぶん今年も相変わらずだと思いますが
よろしくお願いいたしまーす♪
S_tanさん、新年おめでとうございます。
ここのところ他のことに興味を奪われ、神社は後回しにして書きこみはしておりませんでしたが、神社めぐりは地道にしておりました。
今年の年賀状に書いた文面を引用します。
神社めぐりの旅は続いています。昨年は滋賀から若狭・敦賀方面、豊前から筑紫・筑後方面を回りました。福井では、三方五湖で食べた天然の鰻、二日間に四匹でた青大将、猪よけの柵に囲まれかんぬきをはずして入らないと参拝できない神社、大分・福岡では、中津で食べた鱧、高良大社から見た久留米市街、日田の小迫辻原遺跡が埋め戻されて元の農地になり看板のみだったことが特に印象に残っています。今年は、岐阜・愛知、丹後方面に行く予定です。
年賀状では割愛しましたが、福岡県三井郡北野町赤司の赤司八幡宮で「かささぎ」を見ました。これがあのかささぎか、と感動したものです。でも広辞苑にははっきりと「佐賀県ののみに生息」と書いてあるので別物かとの不安もありますが、まさか鳥に県境がわかるまい、と思っています。
さて、鳥つながりでもう一つ。去年、子供の頃からの素朴な疑問がとけました。それは「どうして白鳥は食用にならないか」です。親の故郷の宮城県北部には白鳥の飛来で有名な沼があり、白鳥がたくさんいるのを目撃して、「あんなにたくさんいるなら、簡単に取れるのではないか」と思ったものです。その時は「食べてもおいしくないのだ」という親の適当な説明にいちおう納得しましたが、戦後の食糧難のときも白鳥は食べなかったとも聞き、食糧難なら味は関係ないのでは、と疑問は残っていました。谷川健一の「白鳥伝説・下」を読んでいたら、今の宮城県南部・中部では白鳥は神そのものだった、との記述があり、それにまつわる明治の事件も出ていて、やっと納得できました。
鬼無里常設で見れるのですか!暖かくなったら行ってみます。
伝承館のhp見ました、不鮮明な写真をみるとさらに^^現物を見たくなりますね。
やっとというか久々に頁を、とりあえず1枚だけ、
>http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/dct03.htm
沼津市大朝神社本殿の飾りです('02.01撮影)。デジカメがnewでまだ馴れない時の分です^^;。
鬼無里の山車は常設展示館が有りますので、お祭り以外の時でも見れます。
参考に、URLを載せておきます。
http://www.vill.kinasa.nagano.jp/shiryoukan/denshoukan.htm
私が行ったのは夏で、白髯神社の境内から周りの山並みを眺めていますと、初めてなのに、懐かしい日本の原風景を見ている様な気に成りました。
山車は珍しく、一軸(二輪)なんです。山間部で、普通の二軸四輪では道を曲がりきれないからだそうです。
夏は涼しい場所で、お勧めですよ。
KENJIさん おひさ!
鬼無里は機会があれば行こうと・・・まだ未踏査、来年あたり小谷村を含めて行きたいなあ・・・。祭にはあまり出かけないので山車とか御輿を見る機会が少ないのですが手の多い木組など見ると驚きます。
お二人の彫刻の話から来年からは楽しみがひとつ増えそうです。
画伯の作品楽しみです、今も吹屋の大作がすぐ左手にあります格子なまこ壁いい味みせてくれています。
撮り溜めている画像を見直してましたら、いくつか出てきたので近々upします。やはり見逃しているようだしじっくり見てもいなかった^^;しかし社殿彫刻を撮るには天気や時刻、脚立やカメラ機材など苦労しそうですね。
ps:只今,stan@dionーのメールは使えなくなってます。
お久し振りです。(^O^)/
彫刻の話ですか。コリャ、顔を出さないと・・・。(笑)
下記の神社は、地理的な条件から未見ですので、何とも言えません。
昔、彫刻の仕事をしていましたので、目ばかり肥えた、三流評論家(?)から見ましたら、大抵の所は、「もう一つ、彫り込めばよいのになぁ。」が実情です。
神社の彫刻じゃ有りませんが、一度だけ、「うん〜〜ん。恐れ入りました。」と、思った物が有ります。
信州、戸隠から白馬の方に抜ける途中、「鬼無里(きなさ)」と言う所が有ります。
其処の山車の彫刻は、今迄で見た中では、ピカイチ、断トツの素晴しい物でした。
私の眼力では、到底文句の付け様の無い、素晴しい物でしたよ。
もし、其方に行かれる時には、立ち寄ってでも見る価値は有ると思います。
作者は、棟梁で、彫刻家で、文化勲章の受章者でした。(爆笑)
私が唯一、「恐れ入りました。」と、言った彫刻です。
今、年賀状の版画を製作中です。今年は、少し細か過ぎた様で、時間が掛かりました。
後は、色の部分を彫り、来週中には刷り上げ、年内には何とか出せそうです。
今年、再度行きました、岡山県の「吹屋」の図柄です。
何度行きましても、此処の地区は、版画にするには良い景色の地区です。
京太さん こんばんわ
社殿にみる彫物は、ドキッとかスゴイなど思う事があります。特に目的としていないので素晴らしいものを見逃しているコトが多いとは思いますが。
大手有名社は殆どご存知と思いますので、それ以外ですと、
神奈川(相模川以西)ではあまり記憶に残るのは少なく高部屋神社以外では、平塚大神の寄木神社。山梨県市川大門町の熊野神社。(この2社は当hp掲載有)。同じく山梨白州町教来石の諏訪神社、これは立川和四郎富昌の手で猩猩と酒壺・唐獅子・昇竜降竜・手長足長・瓢箪から駒など面白いというか一風変った題材が彫られています、金網で囲まれ撮影には適さないですが、(掲載未)。
彫物が多いのは今まででは千葉の印旛辺りから太平洋岸にかけてです。いくつか千葉の鳥見・宗像社に掲載案内してます。
場所・案内など必要ありましたらご遠慮なくお尋ねください。
初めて、このHPを開きました。多くの神社が掲載されており、良く調べてある記事と写真
に感心いたしました。
そこで御願いがあります。当方、神社の彫刻の写真を撮ることを趣味としております。
彫刻のすばらしい神社がありましたら御教え願えませんでしょうか。
今、神奈川県に住んでおりますが、例えば高部屋神社などは、このHPの写真では紹介され
ておりませんでしたが、龍の彫刻など、神社全体を覆っております。このような神社が
他にも沢山あるのではないでしょうか
ようこそ
> 豊浦さん、
こんばんわ、豊浦さんは「宮」の、あるいは「大臣」どちらの感じが強いのでしょうか、山里みたいな感じがお好きな方なのかしら。。
> お邪魔していろいろ勉強させてもらおうと思います。
こちらこそ! よろしくお願いします。
> 大津皇子さん、こんばんわ
ご指摘ありがとうございます。5年にわたる長期の間違いを修正できました、感謝!。
訂正させていただきました。
志都美神社は近くで人様にお会いできず社前のお宅を訪ねてご不在、再度訪問と思いながら。。心残りの大きな神社です。陵墓への小路(?)入口にある小さな鳥居、小祠・碑など、興味深い杜でした。また陵ができた頃は頂から東方への展望は素晴らしいモノだったでしょうね、、
志都美村史、お邪魔させていただきました。これからゆっくり拝見させて戴きます。
(志都美、駅名は”しずみ”の様ですが、”しづみ”は一般的ではないのでしょうか?)
有難うございました。今後とも宜しくお願いします。
志都美神社の近くに住まいするものです。志都美をキーワードにこのサイトにたどり着きました。近くの神社が写真付きで紹介されているのを見て嬉しく思っています。
ただ、交通案内に誤謬がありますので、機会に訂正していただけたらと思います。
志都美神社
×場所:JR和歌山線志都美駅東500m。国道168より東へ、pk特になし。
●場所:JR和歌山線志都美駅西500m。国道168より西へ、pk特になし。
http://kokomail.mapfan.com/receiven.cgi?MAP=E135.41.57.9N34.33.25.1&ZM=10
片岡神社
×場所:王子駅南1km。国道168東へ王子小学校グランドの東、pk無。
●場所:王寺駅南1km。国道168西へ王寺小学校グランドの西、pk無。
http://kokomail.mapfan.com/receiven.cgi?MAP=E135.42.28.0N34.35.10.9&ZM=11