tanさん
早速のカキコありがとうございました。れす参照願います。
「ある神社」は平塚八幡宮のことで五之宮なのかどうか等でやり取りがありました。
よろしかったら私のBBSを1月4日ぐらいまで遡って見てください。「八百屋の息子」のHNでいくつかの投稿がありますのでご笑覧を。
> 菅谷のおじさん ようこそ
神輿、お祭り、いいですね、祭囃子太鼓の音が聞える季節はなんとなくハレな気持ちになります。
”ある神社”お役にたちましたでしょうか。東国の神社といいますか神奈川は古い資料が見当たらなく当hpの説明の殆どが神社境内の案内程度になっています。鎌倉以降はお寺に関連して断片が見つかる程度なのですが、なにか良い資料をご存知でしたらご教授下さい。
> 千葉さん
白旗、白幡。それぞれの神社が表示を明確に区別して使っているかどうか、など考えるのも面白そうですね。白幡のほうが多いようですが白旗は神奈川にもいくつか藤沢、鎌倉八幡宮の境内とか、房総にもいくつか見えます。
大六天は魔王からの発想でお寺の境内の外れとか魔界との境界に多そうなイメージでいますが、信長以降武家に入った流れも強そうです甲斐から伊豆相模武蔵に見られるもので北条氏武田氏からみなら武家の守護神というのがメインでしょうか。
大六天は設置は、本来の仏法守護として、武家(城)の守護、魔界との境(区別)に、というのと。神仏分離以降に多い「大六≒面足・惶根」。あたりでしょうか。
大六天い多い祭神の面足惶根は利根川の堤防近くにもみられますがこちらは胡録ではなく面足とか惶根とかの名での神社(祠)が多いようです。
市川の胡録神社をnet上で見ますと、縄暖簾を短くした注連縄がありました。これは江戸川近くの胡録に共通なのか気になる所です。旧江戸川上流の利根辺りでも幾つか縄暖簾のを見てます。また神事・祭りに使われる笹と団子(笹餅?)は江戸川辺の胡録で共通なのかも気になるところです。
大六→小六→胡録というのもありそうですね。大六になる大きな社がありそこから分社?したのが小六とか。なぜ胡録という漢字を使用したのか、胡が西洋なのかエビスなのか、録が幸いなのか俸禄なのか、対馬の様に草冠で笹とか矢に関連するのか?、が面白そうです。。余裕ができたら市川松戸の図書館にでも張り付いてみたいものです。
管理人さん、皆さんはじめまして、神奈川県の神輿好きです。
どちらかというとお祭りを主体としたHPを開いておりますが、
ある神社のことで質問があり、検索しましたらこのページに
たどり着きまして参考にさせていただきました。
管理人さんが不明?でどのような方のHPか判らないのですが
今後も参考にさせて頂くことがあると思いますので、よろしく
お願いいたします。
前回の書き込みにて,白旗と書きましたが白幡の間違いでした。由緒書に「源頼朝が安房の国に旗揚げの際,この地に白旗を掲げたるをもって」とあったので覚え違いをしていました。祭神が武内宿禰の件については,近くの葛飾八幡宮の祭神が,玉依比売命・誉田和気命・息長帯姫命であることに気がつきました。忠臣を応神天皇・神功皇后のそばに配したのではないかと思います。
さて,胡録神社について。市川では江戸川に近いところに分布しているので,海運業者が海の神様を祭ったのだと思っておりました。大六天は初耳だったので調べてみると埼玉,東京,千葉,長野など各地にあるようですね。S_tanさんのご示唆のとおり,行徳の胡録神社は明治23年までは神社を大六天様と呼んでいたようです。そうすると対馬の胡録神社とは関係がなさそうで,気になってきました。市川で一番大きな胡録神社はおそらくこの行徳の神社なので,図書館で調べてきます。ひょっとして,大六→小六→胡録という流れでは。
市川の胡録神社はどれも平地にありますが,松戸の胡録神社は台地にあるのではないかと思います。こちらは地形から判断して,市川とは由来が異なりそうです。こちらも松戸の図書館で調べてみます。
海中みそぎ祭り、寒そうですね〜。風邪ひかないようにしてください。
私の田舎は、どんど焼きっているのをやるんですが、そういうのはないの、かな??
結構、燃える迫力もさながら焼いた団子を食べるのも乙です。
> ところで、今年も1月15日ですか。
要の情報を書き漏らして失礼致しました。
本年は、1月12日月(祝)に挙行致します。
> タケトラさん
「海中みそぎ祭り」、案内ありがとうございます。我入道海岸での勇壮な浜おりつつがなくを祈願しております。ところで、今年も1月15日ですか。
> 千葉さん おめでとうございます。
白旗天神社、ほのぼのとの杜、お賽銭を増やすカンジ、いいですね。
武内宿祢を祀る社、千葉では少なそうですね。神奈川では相模三宮の比々多神社(紀氏)、小田原宗我神社・厚木林神社(どちらも蘇我氏系)に武内宿祢の話があります。蘇我ヒメ神社・寒川神社とのつながりなどないでしょうか。
市川といいますと、江戸川に沿って松戸まで胡録神社がよくみられますが、殆どが明治に大六天から胡録へ名前を変えたようですが、牡蠣の粉(胡粉)と大六を合せたのが「胡録」というには分布範囲がちと広すぎると思ってますが、何か伝承でもありませんでしょうか。
胡録の創建は江戸中期以降が多いようですが江戸川(利根川)付け替え以前からの社もあるとの事なので、中洲の人達が祀った社が利根川東遷以降拡大したのかな、など思っているのですが。それとも胡枌を使った人形の存在がこの地区では大きかった?。
伊豆 楊原神社の「海中みそぎ祭り」のご案内です。
沼津御用邸の近くに鎮座する式内名神大社「楊原神社」と「大朝神社」の例大祭行事で、神迎えのために、神輿を海岸から「浜おり」させるご神事です。
午前中、10:30から楊原神社で参拝した後、
午後2時に、大朝神社で出陣の儀を執りおこない、
市中を神輿渡御し、
午後3時から、我入道海岸で、祭典を執りおこないます。
弓占い他、各種行事の後、
海にはいるのは、3時40分頃の予定です。
当日は、海に入らない神輿も参加します。
こちらは飛び入りでも担げます。ふるってご参加下さい。
お問い合せは、
055−962−0008 二社お祭り復興会 ハラダタケトラ
までどうぞ。
S_tanさん,みなさん,あけましておめでとうございます。
初詣は,自宅から少し歩きますが,市川のお屋敷町,菅野にある白幡天神社にいきました。神社名鑑にはのっていませんが,宮司さんが常駐しています。境内の手入れが行き届いており,とても上品な神社です。驚いたことに,一家族・グループが拝殿の前にならぶごとに「あけましておめでとうございます」とのべて,ひとはらいしてくれます。また,巫女さんがお参りを終えた人に御神酒をふるまっていました。小さい神社なのに長い列ができていた事情がのみこめ,お賽銭の金額を10円から100円に上げました。
祭神は武内宿ネと菅原道真です。お参りするたびに,どうしてここに武内宿ネが現れるのか疑問に思っています。
> しゃくやくさん 本年もよろしく。
のんびりと、いいですね、古代も神社も変化がゆっくりのひとつですね。
本、早速の購入! 感想とかぜひおまちしてます。
香取、諏訪、いつから一緒に祀られているかが分ると理由など狭まりますね。明治時代に合祀とか同じ境内とかになったのが多いようですが。今残っている神社に明治時代に合祀などが全く無かったという神社には殆ど会ったことがないです。
はがねのうた
私の名前を
御知りに成り度いのでせう
でも今思ひ出せ無くて
哀しいのです
働く私に名附けて下さい
御呼びになつてだうぞ御好きな樣に
鉄で鉄さえも切る
私に 似合ひの名を
赤白い炎は
焼入れの合圖でせう
雪ふる山奥で生まれます
汗を拭ひて顏を上げて下さい
ほらもうじき私もニエをつくります
変わらない切れ味を
貴方に 御屆けします
私が憧れて居るのは
人間なのです
泣いたり笑つたり出來る事が素敵
たつた今私の名が判りました
貴方が仰る通りの「和鋼(ハガネ)」です
美しい切れ味を
職人さんへ御屆けします
働きます
何も語らず
s tanさん、皆様明けましておめでとうございます♪
今年ものんびりと古代や神社を楽しんで行きたいと思っています。
よろしくお願いいたします。
早速「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」をネットで購入しました。
(たぶん、読んでもよくわからないかも?なのですが・・・(^_^;))
それから、「関東の古代地図」をパソコンの壁紙にしてみました。
神社は、毎年同じで七福神めぐりと浅草寺に、地元の香取神社。
香取様の中に諏訪神社がなぜかあるのが不思議な気もします。
> 山田さん
おめでとうございます。すでに3社以上の参詣ですか、今年は神社との縁が深まりそうですね。
> KENJIさん
おめでとうございます。昨年はいろいろお世話になりました。房総半島一周ですか、海岸沿いだと九十九里浜には行かれましたか、関東では砂浜近くまで車で入れる数少ない場所です。漁港近くの魚屋さんとか寿司屋さん多いところですね。
おめでとうございます!
昨年は少しでしたがいろいろお話きけてよかったです。今年も宜しくお願いしますね!
朝日の直刺す国、夕日の日照る国、私も興味もちました。早速読んでみようと思います。
神社は少しばかり行き過ぎてしまいました・・亀戸天神、神田明神、待乳山・・。
明けましておめでとう御座います。m(__)m
今年も相変わらず、年末から風来坊のドライブに出掛けていました。
今年は房総半島を一周してきました。で、神社は・・・何処にも寄っていません。
何せ、正月は交通渋滞の所が多い物で・・・(;^_^A
tanさんの近くも通ったのですが、今年は行きも帰りも夜中でしたから、お寄りしませんでした。お許し下さい。
タケトラさん始め、皆々様、今年も宜しくお願い致します。m(__)m
タケトラさん
おめでとうございます。加速がついてお忙しそうですが御身お大事に。そろそろ浜神事ですね、当日のスケジュールお決まりでしたらこの掲示板にでもお知らせください。
北緯35度21分、本面白そうですね、捜してみます。1分の幅は1.5kmですがどの程度を「同じ」の範囲とするかが「?」ですね。21分を基準とすると相模では寒川よりも前鳥神社のほうがズレがないです。出雲では出雲大社より熊野大社元宮が21分に該当ですね。千葉の玉前もかかります。
日本地図での平面と現地での日の出、日没は標高で結構なズレがありますから紙の上からとのイメージは結構違うことがあります。今は公表されるデジタルマップの制度もあがり良いソフトもありますから簡単に確認できて面白いですよ。
正確な地図のない昔では平面上の確認は出来る筈も無く遠距離を繋ぐには視認できる距離で連続して繋げられることが前提になりますね。21分の出雲から富士山にこの連続の説明があるかどうか興味有る所です。
伊勢と富士は噴火も有り位置を知ることは出来ますね、内宮裏の山頂から富士山を結ぶ夏至の日の出線上には、答志島−秋葉山など、少しずれて神島などあります。この富士と重なり見える秋葉が防火火伏というのが興味をひきます。伊勢は鎮火・鎮魂だったり。。
stanさん、皆様
あけましておめでとうございます。
旧年中はお世話になりありがとうございました。
冬至、初日の出と、昇る朝日に関心が向かう旬ですが、
郁朋社という自費出版系出版社が主催している「古代ロマン文学大賞」というものの第三回受賞作である『朝日の直刺す国、夕日の日照る国--古代の謎・北緯35度21分の聖線--』(池田潤 郁朋社 H15.11.1)という本が面白く、オススメです。小出版社なので、書店に並んでいないかも知れません。
寒川神社の社地が、春分秋分線で、富士山を経て出雲につながることなど、
stanさんはもとより、既に多くの先覚者が気づいていた「奇日方」ですが、丹念にまとめられていて読みやすく、素晴らしい出来映えです。
富士の裾野、いにしえ「ほつま」の國に暮らすものとして、『記紀』には「何故富士が語られないか」は、大変気になるところですが、著者の私解は示唆に富みます。
> 祭祀遺跡は...遠望のきく位置にありますから...
は、われら伊豆住人にとって常々実感するところです。
富士山と伊勢の朝熊ヶ岳を結ぶ、夏至日の出ラインの延長に室戸岬と足摺岬があり、さらに延ばすと西都原古墳群をかすめて、笠沙の岬に到ります。これは、ひのもと国の「奇日方」のひとつですが、ここに神話読替の着眼点があったと看る、著者の慧眼は、興味深いものでした。
ともあれ、本年も宜しくお願い申し上げます。
國次さん
おめでとうございます。昨年はお疲れ様でした、本年もお元気でご活躍ください。
年末大変な発見ですね、あのドッグの沖辺に灯台跡ですか、楼閣の基礎部分の深度が55m、深いですね。
鎌倉以前となると。。かがり火の跡は神戸にあったような記憶ですが現地探索はしていません。明治以前ですと名古屋熱田神宮の南とか千葉船橋に灯台(跡)、は三浦の三崎・房総の洲崎などがありますが古いのにかぶさっているのでしょうね。
航行の灯台(かがりび)前提でいつかは再訪を含めて行ってみたい場所はいくつかあります。伊豆諸島の祭祀遺跡は殆ど伊豆半島側にあり遠望のきく位置にありますから伊豆の島嶼とか白浜神社の海岸(どうも波に洗われる位置)。沼津の大瀬神社、淡島。伊豆西海岸の諸口、佐波など。遠くでは隠岐郡西の島町焼火山の焼火神社とか、沢山あります^^。
しゃくやくさん
おめでとうございます。雑煮、お餅はいくつ食べられましたか、醤油に角餅でしょうか。。
小豆雑煮、面白い分布ですね、北九州と出雲と熊野と能登半島辺りというと「ソリコ舟」を使っていた地域に重なりますね、たぶん小豆雑煮の分布より範囲はそれぞれ狭いとは思いますが。小豆は3世紀頃には使われていたようですね、大陸中国かららしい。大豆は中国の北東から入ったらしいですから連作に不向きで寒さに強い小豆も朝鮮半島北部なのかも知れないですね。
民俗学は緻密なフィールドワークが必須ですので広範囲となると大変と思います。食文化は素材収穫の可否条件が前提と思いますが、分布がその条件と一概に重ならないというのが面白いです。
奈良大仏の造立に携わった人達に、今で云う職人さんとその頭の名に多いのは秦、物部で秦氏は銅関連、物部氏は鉄関連に多いです。この時代、秦氏は北九州の、物部は端地の、と棲み分けしていたのでしょうか。生駒西麓の大県鉄遺跡は両者混合か物部から秦へ移った後なのかちと気になってます。奈良の多神社から村屋あたりも時差有が強いのかどうか。。
歴史の見方ってムズカシイです。記紀いわゆる正史も多種の解釈ができうるのは、その様に(其の為に)つくられたからと思います。特に事蹟を残した人名は「]」に置き換えて読む事も必要と思います。人名に関る事象の年代操作も多いでしょうし、年代は失念ですが「墓誌」の禁止時代が続いたようですのでそれ以前のものは徹底的に廃棄されたかも、など思ってます。
民俗学も断定できない学問ですが、歴史もある部分似た様なもので推理の巾を縮めていくのが面白いところ、古代は特にこの「遊べる」巾が多くて楽しいですね。
あけまして おめでとうございます。 本年もよろしく。。
> 山田さん
小山町は良く行きましたよ神社は浅間さんくらいですが。
そうですか翳りのある神社ですか、同じ社でも人により感じ方が違うのかも知れないですね。黒っぽい鳥居の佐倉麻賀多は色に慣れていないというかなんとなく違うなぁーの感じでしたね。皮を剥いただけの鳥居は小さな神社(祠)に見る事があります、山の中に限らず田圃の中とか、千葉、埼玉、郡馬・・。鳥居の材質は色々ですがステンレスパイプというのが一番違和感有でしたね。
> 唐松神社
KENJIさん、社殿が低いとか参道が下りというのはさすが少ないですね、奈良の廣瀬は参道が若干下り、郡馬貫前は参道石段が急な下り、あと、、記憶にない。唐松が今の場所に移ったのは秋田佐竹2代目にやっと石高も決まり領内整備で山辺に散在していた部落を宿に集めたとき山上から宿場に降ろしたと云うことでその折の棟札には「卍奉修復出羽国仙北郡境庄唐松山光雲寺愛宕勝軍地蔵権現社一宇」とあるようです。
秋田の神功皇后の伝承、象潟の他に男鹿半島・唐松と神功に関る話。とか、男鹿にからみ唐土の大船とかナマハゲは漢の武帝が連れてきたとか、日本海を通じての交流の痕跡だろうが残り、面白いところです。
明けましてお目出度御座います。
stanさん 昨年は色々と有難う御座いました。
昨年の12月29日にかがり火灯台の楼閣を見つけましたよ〜(^^)
余りにも深いのと、沖側だったので時間的に後回しに成っていました。
禊の場? と思っていた物は実はかがり火の焚く場所でしたので、これも納得です。
映像は1月3日頃に撮れるかなと・・・ただ今準備中です。
しかし、楼閣の基礎部分は55m〜53mですので深いですよね・・・(ーー;)
上端が46m位で立派な石積です。
鎌倉や平安時代・・・奈良時代のかがり火灯台の遺構はどこかに無いのでしょうか?
今日テレビで、小豆雑煮を食べる地域というのが、北九州と出雲と熊野と能登半島辺りとなっていました。(地図で示されていたのでその辺りということで・・・)
中国から小豆が伝わった為となっていましたが、「なんでその地域なの?」とか「何時頃?」ッて疑問が浮かぶのと同時にその地域のあやしさに、なんだか古代の世界に引き込まれてしまいました。。。小豆雑煮一つでも何かが見えてくるのでしょうか?
物部氏って、金属と祭祀の両面があるようですね。ニギハヤヒと物部氏って、どうなんでしょう?同じ流れの方たちなのでしょうか?ちょっとイメ-ジが合わないのですが。。。
自分が大和地方を制圧した神武軍に味方するのか、出雲軍を好むのかでも
歴史の見方って変わってきてしまうものかもしれませんね。
今年もあと少し、s-tanさん、KENJIさん、みなさんいろいろお世話になりました。
来年も、よろしくお願いいたします。
阿比留草文字の掛け軸は拝見できませんでした。
其の読み方は口伝で伝わっているそうですが、同じ物が奈良の「石上神社」にも伝わっています。同じ物部氏の神社だからでしょう。
今回、神主の物部さんにもお会いして話を聞きたい事が有ったのですが、残念ながら所要で御不在でした。
ニギハヤヒだけでなく、神様が実在したかどうかは判りません。でも、古代の日本史に其の神に相当する人は居たと思う方が、夢やロマンが有ると思って居ます。
唐松神社の本殿(天日宮とは別に有ります。)は、参道より低地の所に有るのは確かです。でも、由来書によりますと、本殿は元は違う場所に有ったそうで、後に今の地に移したそうです。
その辺を考えますと、裏切った・・・が原因とは思えません。
他の神社に無い(有るかも知れませんが私は未見です。)形式から、後の時代に付けられた話しじゃないでしょうか。
物部氏が蘇我氏との抗争で負けて、この地に移り住んだとの由来書の話から考えても、長脛彦が裏切ったから、低い地に本殿を作ったとは考え難いです。
日本の、特に古代史関係は、今は教えられる事も無く、其れに関係した場所も忘れられがちに成っています。
神社=天皇家=帝国主義 と結びつけたがる人も居ますが、如何なんでしょうか。
本当に歴史を知らない人達の誤解と思います。
>KENJIさん
いろいろ見てみたんですけど、凄く興味深いですね!唐松神社には呪言とか阿比留草文字でかかれているとか?みました?
ニギハヤヒって神なのですか?実在した人物?物部の祖神で、長髄彦をうらぎった・・とかいてありました。だからこの神社は参道が下り坂、かつ低地にうつされた・・。??ヌ?(゜Д゜?)
天日宮はほんと、古墳みたいですね。神宝でもあったのかな。神話はわからないけど、すごーい。不思議で深いなぁ。日本のことなのに知らなかった自分が少し悔しいですね。いろいろあればおしえてくださいね!
山田ディカプリオさん、何時も拝見しております。
秋田の唐松神社天日宮に行きましたKENJIです。
私も其れなりには神社に行っていますが、此、天日宮は歴史と重みを漂わせた、素晴らしい神社です。
奈良や京都、其の外の数ある神社の中でも、確実に第一級の神社と思いました。
何時も私に付き合わせられ、仕方無しに(爆)彼方此方に行っている家内が、「この神社は奈良や京都の有名な神社にも負けない風格と重みが有るね。」と、言うほどです。
もし、秋田方面に行かれる時が有りましたら、是非、行かれる事をお勧めします。
私の勝手な感想ですが、天日宮の下の石組みは古墳じゃないかと思います。
今では、古墳と言えば緑に覆われた物を思い出しますが、出来た当時は皆、石葺だったそうです。此処は、昔、其の侭の形が残っていると思いました。
私も、もう一度行ってみたい場所です。
おばんです。小山町いったことあるんですか?きいてみようかなぁ。
でもTV局は多分無理じゃないでしょかね?(小心者なんで考えてなかった)
へぇ、っていうのはなんだか怪しさを感じたのでw。感覚的なことだからなんともいえないけど、翳りのあるとことか寂しいとこ、すきですね。無論大きくて人がいっぱいいるとこも好きなのはありますけど。TOPの秋田の唐松神社天日宮、かなり私にはきました!ああいうのが好きですねぇ。・・
麻賀多神社はちょっと立派すぎるかな、でも黒いのは惹かれます。なんでこんな惹かれるんだろ?ってかんじですね。皮を剥いだだけのものって千葉にあったんですか?
こんばんわ 山田さん
黒木鳥居は見てないですね、やはり皮が付いていると腐りやすいからでしょう。皮を剥いだだけのは小さいモノでいくつかありましたが。
色が黒いのは千葉佐倉市の城の南にある麻賀多神社、鉄製で両部型たしか黒に近い焦茶だったと思います。神社探訪本館に画像があります。
画像の神社、小山あたりですか、記憶にないですね。TVなら放映した局に聞くのが一番ですね。ところで「へぇー」と思ったのはどうして?
こんばんわ。レスありがとうございます。名前は、いえ好きだけど・・なんとなく、くだらないかな・・と思って^^合体させてみました。
黒木にはこだわっていないです。自分的に色が黒いのが何だか気になってるんですね。
今まで見かけた事がなかったんです。部分というよりは全体ですね・・。
野宮神社とか福井の4つ鳥居は検索でよくみますけど、それ以外ってどこかあるのでしすか?どこかで玄武神をお祀りしているところは黒い鳥居をたてるとかいてあったんですが・・最近興味を持ちはじめたばかりであまりよくわかりません。
画像は、テレビにうつっていたものなので、粗くてごめんなさいです。
どんな神社とかまったく不明で・・静岡県駿東郡小山町?かもしれないんですが、いまいちはっきりしたことがわかりません。ちらっとうつっただけなので;でもこれをみてへぇーって思ったので分かればいってみたいですね。どこなんだろ・・。
> 御明さん こんばんわ
専用pageは未校正とかタグも満足につけていないメモが殆どですから非公開&一時的なんです。ですがbackupは大事ですねそれも頻繁にするのが。神社関連画像などはCDにも保存してあり殆ど助かったのですが。
国会図書館、なにか見つかるといいですね。来年になりそうですがこちらも再度探索してみます。
> 山田さん 映画好きさんですか。
黒鳥居というのは、 1・黒木鳥居、2・黒い色の鳥居(全体or一部)、3・その他。。どんな鳥居ですか?
画像、気になるトコロはどんなトコですか?。モアレ?、・・?
たびたびすみません。なんか無効になりました。
http://cgi.members.interq.or.jp/www1/q-mail/gh/img-box/img20031218013301.jpg
s_tanさま、こんばんは。先日書き込みました御明と申します。
> 専用pageは時間限定
そうだったんですか。残念です。しかもPCごとデータ消失とは……お早い回復をお祈りします。
> 義真和尚の情報などなにかお持ちではないですか。
いえ、申し訳ありませんが私も本当に調べ始めたばかりで;インターネットで検索できる程度のことしか知らないのです。伝教大師入唐時に通訳として随行した弟子で、後に初代の天台座主となった、という……。
トップページのリンク先(貼り直してくださってありがとうございます!)にありました「修襌大師義眞尊者遺徳顕彰碑」を比叡山で見かけ、古刹の中でぽつりと真新しい碑にこの人は誰なんだろうと疑問に思ったのがきっかけでした。
近々国会図書館の方へ「天台学報」等の雑誌を訪ねてみようと思います。何か判りましたら、お知らせしますね。
あ、できました。
これです。
ttp://www2.makani.to/akutoku/upload/dat/1071674628.jpg
静岡の神社を調べていてここにきました。というのも黒鳥居の神社を探しています。
それが静岡か千葉にあると思っているのですが、多分小さいものなので検索にひっかかりません。黒鳥居の神社をしってましたらどんな小さな情報でもかまわないので教えていただければな、と思ってます(みなさん、とってもくわしそうなので)
ちなみに自分の気になる神社の画像があるので、UPしたいけど、どうやったらいいのかわからない・・。
> 國次さん
お疲れ様でした。朝日さんの機材はスゴイものだったのですか、それとも透明度が抜群?。期待して待ってます。ロープを通したかもしれない溝とか施設の寸法それぞれの位置など分るのが待ち遠しいですね。
> 御明さん
こんばんわ。リンク切れの連絡有難うございます、TopPage下さっそく訂正しました。 さて専用pageは時間限定で現在dataはありません、さらに悪い事に今夏PCが壊れdataをなくしてます。新しいHDDを入れて再構築中ですが。。義真和尚の情報などなにかお持ちではないですか。
はじめまして、タコポンと申します。
実は、知っていただきたい神社さんがあり書き込みを
させていただきます。場所は、宮崎県の延岡市の
大門町(おおかどちょう)にある御陵神社さんという
小さな神社さんです。小さいですが、大変霊験あらたかな
神社さんです。ホームページアドレスは
http://www.wainet.ne.jp/~goryou/です。
せおりつひめが御祀神です。初めて訪問して
こんな書き込みをして申し訳ございません。
s_tanさん こんちです(^^)
先日は朝日新聞の取材撮影のお手伝いをしていましたが、今週の予定で全国版に掲載との事
です・・・!!
写真は良く撮れていますので皆さんに見てもらい考察して欲しいですね!
焼尻紋次郎さん しゃくやくさん 遅くなりましたが・・・こんにちは!
焼尻紋次郎さんの言語学解釈感謝致します。
>★ アイヌ語で o-t-a と続くのは グアムのチャモロ語(フィリピン.タガログ語系)に連>結する ota(砂)だけなんですがねぇ〜〜。
> なにかのマチガイじゃありませんか?
>
> 伊豆の山奥に「エサシ」があるのは、ご存じでした?
アタとオタの繋がりは私自身では未だ?なんですが、ここ熱海の走湯山の影響が青森まで及んでいますのでどの様な流れかを調べています・・・・・。
伊豆のエサシですか? 知りませんので、どの辺に有るか教えて下さい。
はじめましてこんばんは、御明(みあかし)と申します。
最近古寺巡りが好きになり、度々こちらのページを参考にさせていただいております。
現在個人的に比叡山の開創のころを調べておりまして、こちらの義眞和尚の記事タイトルを検索エンジンで見つけました。残念ながら会員専用ページとのことなのですが、突然で失礼とは存じますが拝見させていただけませんでしょうか?
トップページの一番下にある「義真和尚、出生・事績をめぐる一考察」もリンクが切れておりましたので;
風の便りさん、こんばんわ、早速、ありがとうございます。
文字化け、お手数おかけします。この掲示板は極シンプルでして、機種依存文字(=このBBSのサーバに無い文字)を使うとサーバーが少しの間前後不覚になります^^;。
漢字ですと「{口羊}メ」とか、記号ですと「・(中黒)」の半角とかです。あやしい文字を使う場合はその文字の後ろに「改行」を入れるとそれ以降文字化けしない場合があります。
すみません。文中の文字が化けてしまいました。訂正できませんのでどヒ廚任靴燭蕁▲曠謄詭召埜〆C靴討C世気ぁY埜紊諒C呂大阪が便利と書きました。
はじめまして。橿原神宮付近の宿ですが、ホテルでよろしかったらご紹介します。橿原オークホテル、07442−3−2525こ犖郷正椡悗茲蠹綿1分。大和橿原シティホテル、0744−23−5151とハ收掌P悗茲蠅垢阿S7000円位です。橿原神宮前駅の近くには他にもホテルがあったと思います。またぢ膾紊覆藹匹鮗茲蠅笋垢C交通の便も悪くないと思いますが・・・参考になれば幸いです。
> キタジマさん
その神社の鳥居は古いのでしょうか或はこれから建てるのですか?
五七のデザインで葉が8枚というのは未見ですが「変り桐崩し」という紋は葉(花)が8つというのがあります。古い鳥居に、或はその神社の伝承などに8が見られると面白いですね、名古屋の市章はたしか「○に八」ですし。。
>しゃくやくさん
ギックリ腰ですか、痛いですよね、暫く安静で徐々に筋力をつけて下さいね。
エジプト?だったかシュメールだったか忘れてますがその辺です^^。
縄文人が大陸に、は、あったでしょう。量的部分は不明ですが、縄文土器の意匠の蛙、大陸の月に住む蛙とか、たしか4本足というのも共通だったような。。
鬼は、そうですね、反体制まつろわぬ者+αでしょうか、αは死人=鬼界かな。いつも同じ者というのは、鬼の一族といった流れがあったのかも?
> 千葉ちゃんさん
茨城、帰りが大変ですね利根川もネックですが千葉の幹線は一箇所に集るのが多いですね。
阿見神社、最近利根川手前でひっかかってまして未見ですが、老尾の感じとすると台地端でしたか?祭神も武甕槌というより経津主斎主とか、阿見は網とか「阿」にも連想させるものがありますね。
『神々の明治維新』小冊子ですがいい本ですね。タテマエ監修の由緒書は地元の元宮創立伝承が欠落しているとか見られますね、おさんとか人柱とか。
> 所さん
申し訳ない橿原神宮近所で泊った経験がありません、どなたか!
元旦に橿原神宮へ初詣に行って見たいと思いますが、近くに適当な旅館がありましたらご紹介頂けるとありがたいと思います。どなたかよろしくお願い致します。
Stanさん,こんにちは。
最近は遠くに行かずに,隣県の茨城の神社を回っています。それでも,大洗・水戸・常陸太田一帯を回ったときは走行距離300キロでした。自宅から車だと,帰りに必ず渋滞にはまるので大変ですね。
先日,稲敷郡の阿見神社(竹見)に行きまして,老尾神社に似ている気がしました。自分では,同じ文化圏ではないかと思っています。
いくつかの神社の由緒書に「水戸光圀公が,もともとの祭神をさがしだした」旨の記載がありました。その時は,光圀公は良いことをしたと思ったものですが,その後「神々の明治維新」(岩波文庫)を読みまして,水戸藩の意図を知り,割り引いて考えることにしました。
そこで考えたのですが,由緒書きをうたっていない神社の中には,知っているけれども言いたくない場合もあるのかと。明治維新の時にも,かなり無理なことをしているようです。さすがに社叢はかえられないでしょうから,全体からよみとることもしなければ,と思っています。
焼尻さん、
出雲、三河、ですか?そういえば、日光も出雲系の神様が多いですが・・・
アフガニスタンを百合の花のように歩きたかったのですが、
只今ぎっくり腰中です♪
栃木のイントネ−ションは習得済み、まねできますよ。
言葉の解析は私には、難しすぎますが、なにかの拍子に情報を捕らえる準備だけしておきます。ありがとうございました。
s.tanさん、
九州の珍敷塚の写真、検索して見てみました。
エジプトにつながるんですか?すごいですね。
最近思うんですけど、中国大陸からたぶん多くの人が、この列島にやって来ていますよね、でその反対に、縄文人が中国大陸に移住して行ってるって事は無いのかしらと?
で、戻ってきたらスサノウがいらっしゃって・・・冗談
貫前神社の鬼退治祭 う〜ん、奥が深い。
ホムペを見ると、酒造の神事や鹿骨神事に機織神事とちょっと秦氏っぽいところ
ありぐらいしか、わからないですよね。
鬼事態が、誰を指しているのか未だに?です。
反体制勢力の人(族)という説明の場合、体制が変わったら鬼も変わっちゃうでしょう?それとも、いつも同じ者に対しての表現なのかなぁ・・・
有り難うございました、その神社で揉めておりましてそれでお聞きした次第です甚だしい間違いがあり現在指摘しているところです、鳥居に桐門が描かれているのですが57なら判りますが、58になっており58の桐門は無いよと言うことを指摘しましたところ年寄りの方はそうだと言われますが若手が何枚でも良いのではとこんな案配です、いよいよ日本も歴史観がなくなりつつ有りますね、ご指導有り難うございました。
有り難うございました、その神社で揉めておりましてそれでお聞きした次第です甚だしい間違いがあり現在指摘しているところです、鳥居に桐門が描かれているのですが57なら判りますが、58になっており58の桐門は無いよと言うことを指摘しましたところ年寄りの方はそうだと言われますが若手が何枚でも良いのではとこんな案配です、いよいよ日本も歴史観がなくなりつつ有りますね、ご指導有り難うございました。
桐紋の図柄をみると、
1:葉っぱの根本が互い違いかどうかとすると、葉・花とも左右同じ位置から出てます、53含め変形各種も。(これは桐の実物の枝葉からでしょう)
2:葉っぱの根元の位置の水平位置?とすると、左右は同じで対称、中央との水平位置はズレ有り(全体のバランス優先)。
桐紋は天皇家の菊以前とか替紋とかいわれ足利尊氏依頼特に下賜が増え、秀吉が大々的に使い信長まで下賜が続き家康が断った。尊氏もよく与えたらしく使う家はかなり増えたようです。
天皇が使う意匠(印)として古いのは「日と月」でしょうか、桐は中国では「帝」の印とかですが、これは日本での桐でなく「アオギリ」ということです。
紋は意匠(デザイン)ですので細部では同じ社寺でも違うことが意外にありますが、五七桐は一目で分る違いは無いようです。お近くの古い社寺、式内社とか秀吉ゆかりの建物などで確認されてはいかがでしょう。或は染物屋さんとか。
ご無沙汰しております皆さんお変わり無い様子何よりです、お聞きしたいことがありましてご連絡致します。実は桐紋に付いてですが普通53の桐と57の桐と言いますがこの桐の葉っぱですが葉っぱの出る位置について教えてください左右同じ位置から出るのか、どちらか片方に高低の差を付けて出すのか、中と左右では位置を変えるのが決まりなのか解らなくなりましたので、教えてください。桐紋の制作で正解がどのように決まりがあるのか57の桐に付いてご指導をお願いします。
> しゃくやくさん
船の絵は弥生に限らず古墳にも見られますね、たしか九州の珍敷塚が古代エジプト?のと意匠類似などで有名です。
香取摂社の側高は、今のところ「側高の神」との記載にしか出会ってません。第一摂社以外の千葉県にある側高神社では「彦火火出見」を祭神としている所はありますが。
物部、秦・・それぞれ?の部分がありますからね、まあ楽しい所でもありますが。
羊は給羊で各論アリの部分ですね、伝承からは飛翔の部分かもと思いますが「羊」は瑞祥の略で使われている事も見えますのでコレかな等思ってます。貫前神社は現在の地の北東対岸磯部あたりから河を渡り、さらに現在の地に鎮座したのが安閑元年(531?)。14cの神道集以前からインドからの「好美女」の話やら諏訪の男女神、赤城神など伝承は多いです。生弓矢生太刀神事というのがあってその中の鬼退治祭が時系列ではどのあたりなのかなど気になってます。
> 国次さん
お久しぶりです。アタというと「隼人」と「カムアタツヒメ」を連想しますね。伊豆諸島から富士山への大山津見、木花咲耶姫の流れでしょうか。伊豆山の火も隼人阿多君の祖の火明命からでしょうか、阿多が君(公)で大隈が直なのも面白いところでしょうか。
壱岐の阿多弥神社、高尊王と名乗った阿智王の子の阿多部。は高尊(貴)王と号した、とか、記、履中段の瑞歯別皇子(反正18)と中王側近の隼人の曾婆加里とか、河内の式内加津良神社とか。。
まだ分布など調べた事はないですが地名では地形との関連は強いのでしょうか。
鵜飼は大陸のそれと日本とは違うとかなどの記述を何かで見たのですが、また調べておきます。
石加工は小穴を開け木を入れ湿らし、ではなく、現在のエジプトでもある金属だけでの加工が古くから行われていた、というのが正解らしいです。
与那国の木村教授ですか、港の施設の年代系統など分るといいですね。
今日本屋で/25のプレイボーイ探したですが、さすがにありませんでした。
> うさみさん
はじめまして。伊勢の伊奘諾の神様といいますと、月読宮の社でしょうか、でしたらこの神社探訪に社の画像が入ってます。火具土といいますと伊勢両宮で奉斎する140余柱にはなかったように思うのですが、、神宮と火具土の関連など情報ありましたらお願いします。
タジク人は出雲をポリス国家にした立て役者だとオレ考えています。
それはソホドの神とかタニグクとかに現れています。
三河あたりが「ホのくに」だったのもタジク文化らしい。
イントネーションは一つひとつの「発音と内意(語彙)」を越えて氏族・民族の固有性
を訴え、証明します。
百合の花みたいに歩いてアフガニスタンあたりで確認していただけませんか?
その前にまんず、栃木でのイントネーション習得ですね。
辞書よみにはそっち(あっち)の微妙な発音や言い回しなどを会得する必要はありません。
それらの語彙の発音が日本列島に入ってきたとするなら、「倭人」はどう受け取っていたか
を考えたらいいのれす。
このへんに、ミョウな先入観を入れてしまったのも、言語学者どもの無智によるものでしょう。