焼尻さん、早速お返事下さってありがとうございます。
ミ−(これ、英語♪)は、決して美人ではありませんが、
そういうことにしておいて、もらおっかなぁ〜笑
栃木固有のイントネ−ションは、了承済みです。
でも、方言ってないんですよね、、、
もしかしたら、多少はあるのかもしれませんが〜
塩原は、昔良く遊びに行きました。あの辺り阿久津さんって苗字が多いですね。
でも、ベットロック気が付きませんでした。カタカナ系の地名って
珍しい気がします。
でね、もっとお伺いしてもよろしいですか?
その固有のイントネ−ションとタジクのイントネ−ションが、
もしかしたら同じなのでしょうか?
それから、何時頃栃木人になったのでしょう?弥生の頃?もっと前か、以降〜?
で、どんなル−トでやってきたのでしょうか?
北回りで東北辺りからやってきそうな気もしますが・・・
>辞書読めばいいんですよ
発音記号も、わからない(と思う)し・・・
それにしても、寒くなりました。
皆様、風邪など引かないようお体に気をつけてくださいね。
しゃくやくさん、(半分)はじめまして。
おれ(これ、アラビヤ語だそうで……)、美人には弱いンですがなァ〜〜
その美人さんよ、森山加代子唄うところの √♪ お屋根のテッペンで♂ ♪ と
唱えてみてください。そしてその口調で「このバスがそうですネ♂」「3時10分発
ですネ」と、唱えてみてください。
ここで得られるイントネーションが栃木固有のイントネーションです。
こんなイントネーションはほかでは聴けません。
更に、塩原温泉近くには「ベットロック」という渓流地名があります。
taz〜tot∫(王冠)……発音も内意も大幅に変化しますよ!
そういうガタガタを乗り越えてゆけば、「特殊民族」という実体が浮上してきます。
ほかの趣味とくらべれば、辞書の支出は安いもんです。
読めばいいんです。辞書はゼッタイにウソこきませんから。
いろんな解説書やHPが溢れていますが、それらはミ〜〜ンなウソこいていると
あっし(これ、リトアニア語だそうで……)には思えます。
辞書読めばいいんですよ、辞書を。
焼尻紋次郎さん、はじめまして♪
旧掲示板を読ませて頂いたので、焼尻さんの事は、存じています。
辞書を読まれていらっしゃるんですよね。
そういう歴史への扉の開き方もあるとは、びっくりでした。。。
もちろん私には、タミル語、タジク語からの変換等さっぱりわかりません。
そういう言葉に分解できる、あるいはイコ−ルな日本語がたくさんあるということは、
それらの国からの相当の影響があったということになりますね。
それで一つだけ教えて頂きたい事があるのですが、「栃木県人とタジク語の関係」
イントネ−ションの話が出ていましたが、どう関係しているのか気になって・・・
もしお暇がありましたら、ご教授お願いいたします。。。
熱海の國次さん、はじめまして♪
ちょっと昔、テレビで熱海の海底遺跡を映していたのを、見たことがあります。
その番組では髪の長いダイバ−の方が、もぐって説明していらっしゃいました。
今後の調査楽しみにしています、だって、すごい事ですものね。。。
はじめまして。
突然にすみません。
伊勢神宮の伊奘諾の神様と火具土の神様のお写真をお持ちの方
あるいは紹介されているところのURLをご存知の方
いらっしゃいませんでしょうか。
是非ご紹介頂きたいのです。
唐突にすみません。よろしくお願い致します。
席亭さんは忙しいらしいですね。みんなで収拾つかないぐらいにワァーワァーやりましょう。
> 週間プレイボーイの取材者から阿田/あたはアイヌ語ではオタに変わると聞いていしたので、この事で確信が持てます。
★ アイヌ語で o-t-a と続くのは グアムのチャモロ語(フィリピン.タガログ語系)に連結する ota(砂)だけなんですがねぇ〜〜。
なにかのマチガイじゃありませんか?
伊豆の山奥に「エサシ」があるのは、ご存じでした?
焼尻紋次郎さん 始めまして
>この場合の日本語の「あた」は、タジク語にみられる ota∫(火)
>タジク語にはO偏執があり、ほかの凡ア−リア系言語では ata-
貴重な情報有難う御座います。
実は、週間プレイボーイの取材者から阿田/あたはアイヌ語ではオタに変わると聞いていま
したので、この事で確信が持てます。
隼人の国は火の国ですが、ここ伊豆山の走湯山ではやはり火の神を祀っていましたので何か
納得です。
stanさん こんにちは
来年の1月に地質学専攻の木村教授(琉球大)に来て頂けそうです。
与那国の海底遺跡で一躍有名になりましたが、何せ古い時代のものですから苦労しています。
熱海では火山検証と加工石の調査をして欲しいのですが、どうなりますやら・・・(^_^;)
プレイボーイの取材者も一緒に来ますので、いずれ雑誌に載るものと?
さるご仁から、舟に関しての案内これあり。依て質問の儀は打ち切らせていただきます.。
熱海の國次さん、はじめまして。
この場合の日本語の「あた」は、タジク語にみられる ota∫(火)から、だと思いますが、
なにかご参考に供することができれば幸いです。
タジク語にはO偏執があり、ほかの凡ア−リア系言語では ata- になっていることかと思います。
が、現実にはドンピシャの語形は消えたのか、ありません。
こんごは、樺太まで行っているオタシュツ・アイヌに焦点が集まることになるでしょう。
これを当てはめるとアタゴやアタミ、熱田あたりが氷解しそうですが……。
アタゴ様は火の神様ですよね。
タルシン船やダウ船の繪をもう一回見たくて、辛抱づよく、ここを見てるんですけど……。
小生が探してもワカランのです。
カイラ−ス山の写真ももういちど見たい。
stanさん こんにちは
ご無沙汰しています。
ここの所、熱海の由来名で有る阿田/阿多/吾田/吾多/阿陀/阿太/////等の地名を調べてい
ました。阿田の鵜飼や阿田の笠沙で隼人族が出てきますので、隼人とその周辺の部族が関係
している事が分かったのですが、その分布も北海道から沖縄、中国、南太平洋、東南アジア
へと繋がった様な感が有ります。国内では海岸線と大河の上流域に有ったりと通交と船材の
関係かなと思われる節が出て来ましたし、他には阿田の多々良山→安達太良山へも変化して
いる様で、金属・鉱山関係も浮上していますので、石積の石加工に鋭利な刃物を使った事も
納得が出来る繋がりと思う次第です。
熱海の海の中の遺物・構造物の疑問が少しずつですが解けそうです。
残念な事に走湯山の記録が出てきませんね〜(^_^;) 学者の意見を待ちたい所です。
そうそう、琉球大学の木村教授(与那国海底遺跡)が歴史考証での検証に手を貸して下さると
週間プレイボーイ誌、世界の遺跡編集者の言葉として入って来ました。
11/25日発売のプレイボーイ誌に熱海の海底遺跡が掲載されます。 見て下さいね。
こんにちは!
ゴンドラ型船・・・、うわぁ〜全然知らない。
船の絵が流行していたのかしら? \(・o・)/
弥生の海には、たくさんの船が航海していたのかなぁ・・・
フツヌシの神様って物部氏の神様だったのですね、ずっと藤原氏だと思っていました。
千葉の多古町を、銚子からの帰り道に通りました。香取神宮第一の摂社「側高神社」があるようですが、祭神は ?
531年 貫前神社 創建
711年 多胡碑建 多胡郡(矢田町)新設 羊が支配権与えられる
1673年 羊神社創建 多胡羊大夫藤原宗勝公を祀る
羊大夫の羊は新羅系の帰化人で秦氏系。
奈良大和郡山市矢田の矢田の地名は、矢田氏(→物部一族)から来ている
また矢田は、秦氏とも関連が深い・・・
行きずまりました、、、(^_^;)
羊、う〜ん羌人かしら?
群馬に関しては、物部氏の領地を滅亡後、秦氏系多胡羊大夫へ授与
それを藤原氏が最後にカバ−
なんてなってしまうんだけど。
繋がりそうで、繋がらない・・・物部氏、秦氏、多胡、矢田、羊
しゃくやくさん
いえいえ、レベルが違うのでなくて、たまたま知っている事を尋ねて戴いているだけです、お気遣い無く^^。
唐古出土の土器片にゴンドラ型船と櫂が4本?漕ぐ人の線刻が見つかり、これ以降各地で発見相次ぐキッカケともなってます。「壱岐カラカミ遺跡・弥生式土器にゴンドラ・4本櫂・全長8m?」「津古遺跡・福岡、竿櫂、船上に3本の縦線、マスト?」「大石遺跡・福井、銅鐸に線刻画、櫂が両舷で18−20本・全長15m、中央部にマスト?」「井向いむかい遺跡・福井、坂井郡春江町、片舷9人で櫂・後方に櫨(梶)全長14m?」など。
後涼の呂氏、、は五胡十六国から400年頃滅亡のいくつか抜きだしただけです、5胡◆と16国は、
◆匈奴、前趙(304〜329)、北涼(397〜439)、夏(407〜431)。
◆羯 、後趙(319〜351)。
◆鮮卑、前燕(337〜370)、後燕(384〜409)、西秦(385〜431)、南涼(397〜414)、南燕(398〜410)。
◆(氏)テイ、成漢(304〜347)、前秦(384〜417)、後涼(386〜403)。
◆羌 、後秦(384〜417)。
●漢人 、前涼(301〜376)、西涼(400〜421)、北燕(409〜436)。
◆は、匈奴族とか鮮卑族とか西方出身という5胡。
胡というと多胡の碑で有名な羊大夫、武蔵物部氏の本場といえば本場ですね。物部伝承地には多胡・多古の地名があり秦氏とも関連深そうです。
《 刀・古代金属精錬をお教えください 》
金屋子さん、はじめまして。しゃくやくさん(他)にもご挨拶申しあげます。
小生はさいたま市太田窪 4ー4ー3、一級身障害者 69歳 本名;生田淳一郎
電話(ファクス)048(882)4901 です。
30年前からアイヌ語を、12年前からはありとあらゆる言語の辞書を読むこと
を趣味にしています。
金屋子さんは、古代金属精錬にかんしては第一級の人物とみました。
多くの疑問を抱いていますが、シカとした答えに恵まれないまま今を迎えまし
た。
《 第一問 》
反りのある刀はペルシャなどの半月刀(……といいましたかどうか?)と関係あ
るとお考えでしょうか?
《 第二問 》
岩手で反りのある日本刀が出現したそうですが(?)、そのとき使った金属のも
とは“鉄餅”だけだったのでしょうか?
ガサツな質問ですみませんが、宜しくお願い申しあげます。
御礼に‥‥、金屋子、唐子コの「ko」についてですが、ご興味おありのようでし
たら小生が目下「建築ちゅう」の『印欧祖語と日本語・アイヌ語』のところをごら
んください。
「金砂郷」の語源は掴んだつもりでいます。
こうごばんたん、宜しう、おひきずり廻しください。
《 いうなれば『言語銀座』 》
(S)tan さん、おひさしぶりです。チョウお忙しそうですね。でも、夜は十時になったら眠ないと、おれみたいになりますよ。その代わり、ネギくわえて待っているカモ捕り
に、朝の4時から起きねばならないのがここ数万年間の人類のならわしでした。
かたばみさんと(S)tan さんとは同一人物なんですか? いちど訊いたような気がしま
すが忘れました。
たしか、かたばみさんが作ってくれたと記憶してるのですが、いろんな古代船の記録を
見たいのですが、キカイ・オンチのオレには、その写真などがどこにあるのか……、今は
もう見られないのかどうかもわかりません。
できたらカイラ−ス山の裏のタテ割れ目も、もういちど拝みたいです。
……………………
こういうことなんです。
マンガのイヌが喜んでくわえる骨がありますよネ。あれによく似た腕力鍛えの道具は
バーベルといいましたか。
この二つの「ふくらみ部分」を結んだのがダウ船であることは、まちがいないところで
す。
ふたつの「ふくらみ部分」を結ぶ海と川のルートが『言語銀座』ともいえるユーラシア
文化の中心地だといっても過言ではない……いまのオレはそう思いこんでいるんです。
このバーベルを東北から西南へとななめにして考えます。
アラビア半島はおおきな斧ににてますよね。その刃の部分が東北〜西南コースの大半を
占めます。「西南のふくらみ部分」が皇統3000年を誇ったエチオピアです。東北のふ
くらみ部分とはパンジャブ地方で、ここにはズラリと都市が並んでいます。
西南から“斧の刃”にそって東北へ進めば、すぐにインドの陸地に突き当たりますが、
ここ一帯はインダス河の氾濫原で、たいした都市はなく、一帯にはいまでもトラが棲んで
います。
注目すべきは、インダスの氾濫原はパキスタン領ですが、ここにはウルドゥ語が喋られ
ていることです。
そのウルドゥ語はどの語彙ひとつをとってみても、一切がヒンディー語、ペルシャ語、
アラビヤ語などの他の言語にその起源をもっていて、ウルドゥ語固有の語彙はまったくみ
られない……、すなわち、ウルドゥ語とは完全な混血語なのです。
これは何を意味していましょうか。
皆さんのお智恵を拝借しながら、この『言語銀座』の薄皮をひっぺがしたい紋です。
さらに、ある種の本によれば、クメールのうごきにはフェニキアのタルシン船が濃密に
からんでいるとのことです。タルシン船とかクメール人は出雲に来ていたともいいます。
古代エジプトでは、ナイル河を数千キロも遡って、峠をこえ陸路をへて「言語銀座」の
ルートへ出て、物資を交換していたとのことです。
S.tanさん、お忙しそうですね。わざわざ出張先からお返事ありがとうございました。
(ゆっくりで良いです。とてつもなくレベルが違うのにお返事いただけるだけでうれしいです)
>唐古鍵というと環濠とゴンドラの絵を連想しますが
ゴンドラの絵って、池上曽根遺跡のドラゴンの絵のことですか?それとも唐古に
楼閣風の高層建築の絵のことでしょうか?それ以外・・・?
(知識が浅くて・・・)
吉野ヶ里も含めて、弥生の巨大環濠遺跡ですが。。。
BC3C頃からの遺跡とありましたので、呉越系の脱出者と考えましたが、
なぜか唐古、池上、吉野ヶ里の順に出来ているようで、九州が最初じゃないのです ね。ル−ト等気になります。
>後涼の呂氏とか南涼の禿髪とか前秦の符氏?それとも半島の広開土王に押された新羅の尼師今とか?、
えぇ〜、そんな詳しい名前まで\(・o・)/。。。すごいですね。
調べてみます。
あれこれ興味は尽きないのですが、とりあえず基礎知識がないとどうしようもないと思い、旧ログ等読ませていただきとても勉強になりました。確かにどこかに絞って調べてみる手がよさそうですね。いろいろありがとうございます。
ご面倒かと思われますが(^_^;)、これからもヨロシクお願いしま〜す。
>金屋子さん
たしかに。他からの情報は自分でウラを取ることは必須ですね。
汗水とか大枚ださずに得るものは軽んじる傾向がヒトにはありますが、安易に得られるネット上の情報も光るものがあって重宝&感謝してます。
広い対象から互いに補完できるのがネットの可能性で、補完の為には応答の積み重ねが必須で、掲示板はよい場所と思います。
ネット上の鉄では日立金属さんの「たたらの話」が記憶に残ってます。
和鋼と和鉄の区別など、お時間ございましたらぜひご教授ください。
>参拝者さん
感謝!
>しゃくやくさん
お久しぶりです、って、遅くなりました。出先からです。
掲示版旧ログは同時併行進行とかプロバイダ変更廃止などありますから、この辺りはTopから「お知らせ」に載せてます。
キルギスの魚好きと肉好きというのは、簡便ですが奥深いですね。
唐古鍵というと環濠とゴンドラの絵を連想しますが、弥生時代以降衰退してるというかメインが纏向辺りに移り、400年頃というとさらに後でしょうか。この頃の脱出者というと、後涼の呂氏とか南涼の禿髪とか前秦の符氏?それとも半島の広開土王に押された新羅の尼師今とか?、符氏、尼師今のあたり結構濃いような気がしてますが。出雲系というと「今の出雲あたり」を通り入国した人達の事でしょうか「アリ」ですね、長年にわたって。
遺跡から歴史の流れを知るのもいいですね、全国は大変ですから例えば奈良だけの遺跡の消長をそれぞれMapし一覧にするとか、で新たに疑問が出たら調べて付加するとか、女性の化粧道具だけを追ってみるとかも面白いかもしれません。
>紋次郎さん
そうですか、風に吹かれましたか。
相変わらず、言語は甲類乙類の線引はドコ?明確?なの?といったレベルです^^。
フェニキアはかなり古いおぼろげ記憶ですが、紀元前のエジプトの王の舟(クルーはフェニキア人など)が東に向け出帆し2年程後に西から帰ってきた、という記述がヘロドトスのにあったような、気がします。
私がまだ若いころ、日本刀は和鋼を唯一の素材として作られている
と教えられた。最近は、ネット上見られる言説では、「日本刀は和鉄
で出来ている。」という言い方を多数見かけます。
このような過ちは一々直しても限が無いが、ネット上だけの知識に
は無い昔の書籍等も調べることが少し足りないのではないかと思わ
れます。
画像のところにある奈良県の笛吹神社は當麻町ではなく新庄町ですよ。
第ニ声……「どうしてそうなったの?」周辺。
少しまえの記述をもってきましたのでアマカネ。
さて、E、O という二つの母音がないのがウチナーぐちの特徴とよく云われ
ていますが、その少し前の沖縄の古い挨拶語(例;mEnsO:rE)や童謡のなか
にはふんだんにE. Oがみられます。
いっぽう、八重山〜西部長崎(五島など)〜薩摩〜津軽には共通したイント
ネーションがみられます。それは特に語りだしの部分で‥‥
√♪ ハ・ア・ル・ノ オ・ガ・ワ・ワ(さらさら行くよ)
から、「ハルガ」の部分を差し引いて「アルノオワワ」と歌うと大略のこと
をご理解いただけるかと存じます。
上(↑)でご理解いただけないときには「ホ−ホケキョ」と啼いてみてくださ
い。そして同じ調子で「いいってぇことよ」といってみてください。「ことよ」
の部分は早口ではなく、ゆっくり発声してください。
こうして得られる口調〜音調が八重山〜薩摩〜西長崎〜津軽だけにみられる固
有のイントネーションなんです。
この「アルノオワワ地帯」には女陰をマンジューといい、ほかの地帯ではマ
ンジューなどとは云わないという特異な現象があります。
そのマンジューとはアラビヤ語の「マンゴ(マンゴーとも)」のことです。
そしてそのアラビヤ語はA、I、Uの三つ母音で一切の語彙ができていま
す(‥‥E. Oはありません)。
これは第二子音濁化のクセで、マンコがマンゴと音転する法則(的なこと)
と何らかの関係があるのではないでしょうか?
マンジューだけではありません。沖縄、薩摩、津軽ではおかねのことをダラと
いっているんです。ダラ……アメリカのドルのことです。
以上のことを踏まえて日本歴史をみるとき、当初なかった家紋は源平のころ
から鎌倉時代に入って顕著にみられることとか、ナガスネの兄・アビヒコが津
軽を指して落ちて行ったことなど、いろんな事実を想起させるようです。
※ 「アキサミオー」はギリシャ・コイネー方言のεκθαμβεω(エクサ
ムベオー‥‥びっくりした)以外には考えられません。
※ 「グシケン」とはヒッタイト語で「金」のことです(→ 金城さん)。
※ 古い沖縄の挨拶語にはベトナムなどの南方と共通する語彙がみられます。
※ 20年ほど前、沖縄で古代文字が出土し、これがアラビヤ語であることが、
当時のペルシャ語研究家の手によって解読されたというが情報あります。
キルギス人に関して、こんな文章見つけました。「2000年前にエニセイ川上流で発生したキルギス族のうち、魚を求めて大陸から海を渡ったのが日本人、中央アジアに留まり狩をした肉好きがキルギス人。だからわれらのルーツは1つだ」
ちょっとあやしいような気もするけど、確かに良く似ているとありました。。。
旧ログ読み終わって復習の為、奈良の遺跡から検討してみようと思いましたが、
唐古鍵遺跡で、早くも途方に暮れました、、、(^_^;)
天穂日さんが、いらっしゃる前からすでに集落はあった模様。
とすると400年前後の脱出者系が先導したものの遺跡で、その後に
出雲系が加わる?のかなとオオザッパに想定してみましたが
どうなのでしょう???
風に吹かれてふらりとまたやってきました。
かたばみさん、Stanさんお元気ですか?
なんだか屋敷の造作も新しく変わってるようですね。ヨゴレが、書いてもいいんでしょう
か?
いや、まったく奇妙な風に吹かれたんです。まあ、聞いてください。
結論からいうと、八重山・薩摩・西長崎・津軽がアラビヤ勢力の植民地だった‥‥。しかも
そんな端ッコばかりではなく、中央中枢のど真ん中、日本建国の大立て役者のタマトタケルそ
の人びとこそアラビヤ系の人だった‥‥となるんです。
どうしてそんなことになるのかは、この次に喋ることにして、まずは冷や酒一杯……じゃな
かった……タルシン船とダウ船のことについて、どこに書いてあるのかをこのキカイ・オンチ
にお教えいただけませんか。
とくに、タルシン船はクメールのうごきと関係濃厚だというではないですか。
ダウ船はオレ(あ、これアラビヤ語ですって)が唱える『言語銀座』での運び屋さんです。
いろいろと質問するかと思いますが、まためんどうみていただけないでしょうか。
ひさしぶりの第一声、まずは、このへんで。
こんにちは、ご無沙汰しています♪
しばらくの間、掲示板旧ログの旅に出ていました。。。
ずっと、小学生が大学の教科書を読んでいるような理解不能の世界でしたが
それでも何かの拍子に「そういえば、、、、」と思い出せたらなと言う思いで
ひたすら爆走し、ほぼ読み終わりました。
最後の14の終わりが少し繋がらなかったのですが、どうにせよ理解不可能だし〜(^_^;
まだ雑談のほうは、読んでいないので・・・
月見に団子、月は一番身近な星座ですよね。かぐや姫の故郷!(は、関係ない?)
でも月の信仰ってあまり聞かないような、、、
キルギス人と月読命、う〜ん、、、考えてきます。
牛嶋神社、お天気の良い日に行ってきます。
地元ですから〜(といっても、よそ者ですが。)
それから渡辺ですが、名前一文字の言い伝えはないようです。
(孫が出来たら、そうしちゃおうかなぁ〜^〜 笑)
千葉も楽しそうですね!
千葉さん
老尾神社有難うございました。龍尾寺も含めてあの辺り再訪してみます、近世の飯高壇林も古くからの記憶が由縁ありかも知れません。 長野の妻科ですか、実に良く周っておられますね、五感を使っての現地探索は机上では得られないものです。
注連縄といえば秋祭りの準備で氏子の方々が境内などで縄を編むのに出会ったりします、時計の無い時代の時の流れを感じさせてくれます。
蘇我氏は姉崎辺りの房総古墳最盛期には(諸)王に次ぐ位置とか美女産出家系というか、で蘇我最盛期を過ぎても女系は好まれ、後の千葉氏にもこの辺で接点アリと思ってます。
脳みそはフォアグラあっさりですか、しかし脳みそ形ズバリというのがミソですね。鹿肉は新鮮なモノはあっさりしてました、場所によるのかも知れませんが禁猟区での調整用でした。
三島から国道南下コースですね、かなりの強行軍でした?。河津の杉鉾別は標高3-5mで窪地、南には弥生祭祀遺跡(姫宮)があり標高6m、河津川は今は天井川ですが弥生の少なくとも前半は姫宮は河岸段丘で船材?伐採で氾濫続き姫宮は何度も移転したのでしょう、杉鉾別は入江に続く絶好の碇泊(と造船)の基地で神社は船溜りに直面していただろうと思います。
蟹と神社、いい風景ですね。私も以前フィルムと両方持参でしたがスキャナーに時間がかかるのとデジカメ性能upで今殆どデジカメのみになってます。
s_tanさん
老尾神社は,おそらく10年前と同じだと思います。当初はあまりになにもなくてがっかりしたのですが,先週,境内が月極駐車場になっている長野市の妻科神社を見て,小さくても何もない方がよいと考えを改めました。蘇我ヒメ神社も注連縄が合成繊維なのでがっかりしたものの,めずらしいことではないようで,こちらも考えを改めました。蘇我ヒメと千葉氏の関係は心に留めておきます。
さて,脳みそについて。わたしは,5年くらい前にパリの一つ星レストランで,子牛の脳のスライスしたものを食べたことがあります。ランチのメインで3品のうち一つを選ぶにあたり,フランス語のメニューで解読できたのが,子牛・ウサギ・カエルのみで,部位までは判りませんでした。とうぜん子牛を選んだところ,でてきたのは一目で脳とわかるものでした。一つ星を信じて食したところ,フォアグラをあっさりさせたような味と食感でした。貴重な体験でした。鹿肉もフランス料理では,ジビエの季節にお目見えします。肉は牛肉より柔らかいと思いますが,土臭いということでソースが濃い味になるようです。狩猟民族にとっては,どちらもごちそうなのかと思います。
さて,昨日は,三嶋大社・広瀬神社・白浜神社と河津町田中の杉鉾別命神社,河津町逆川の三島河津町田中の神社にいきました。下田を目指す都合上,沼津にはよれませんでしたが,次回は「千本一」によってみます。河津町の三島神社では,拝殿から本殿までの階段にて「沢ガニ」に二回出くわしました。私はフィルムカメラを使用しており,カニの画像が送れないのが残念です。山の斜面にありじめじめしていたので,カニにとっては沢も同然なのでしょう。本殿はかなり階段を上ったところにあり,建物全体を保護する建物の中にありました。人家もあまりない山の中の神社にも関わらず,手の込んだ彫刻がほどこされていました。
しゃくやくさん
世界史まで!混乱しますよね。全体を見ることはないですが年表は手近に置いてます、高校の教科書ですが安くてまとまってます。
ダビデ紋がどの宗教に使われているか調べた事が無くて。。紋はデザインですから離れた所で独自に出来たというのもありますね。ダビデ紋は日本では六芒星とか篭目紋(かごめ:竹等で編んだカゴにできる形)とか言います。ので使っている人から聞くのが一番でしょうか、しかし篭目紋を使うのは意外とあるですね、丹後篭神社真名井社とか伊雑宮も使っていたとか。。
太陽信仰は各所普遍的でしょうね、大仏・盧遮那仏はのち密教胎蔵界大日如来になってます。西アジアからの伝播の可能性はどうでしょう奈良大仏の開眼供養にインド僧が出席してますしインドといえばアーリア人ですし。。
月見に団子の慣習は意外に少ないようで、そのキルギスの1部族は顔形以外に気質等もよく似ているらしいので特に記憶に残ってます。○国の全くオリジナルというのは無いでしょう、ヒトの歴史は50万年?何人のヒトが生きてきたでしょう。この点では今時々見かける歴史の新観点!も既にオリジナルは無いと思ってます。
高麗神社、残念でしたね、楽しみが”ひとつ”残っているのですね。牛嶋神社も楽しいと思いますよ、地元?ですと手近に資料も多いですし。
豆撒きといえば九鬼家も「鬼はそと、」では無いようです。渡辺さんといいますと男の方の名は漢字1字でしょうか、綱の系統という方は代々1字で通しているという方がおられます。現在のは未確認ですが、江戸時代の本に東京の社で「八幡宮、芝。神体は渡辺綱の守本尊と云々。正保年中(1644ー48)に勧請。」というのがあります。あと伊豆西海岸で水軍の将とか伊豆半島の西の付根に渡辺姓の神官が見えます。ということで姓を追うのも面白そうです。
千葉さん
老尾神社お疲れ様でした。簡素で、少しの空地というと10年前から変っていないいないようですね、本殿は新しくなったようですが。
その後は千葉氏なのでしょうね、神官=千葉氏というのは実に広範囲で東京、神奈川、伊豆と幾つかの神社にその名が出ます。木更津から蘇我あたりで羽衣伝説があるようですが、蘇我姫と千葉氏の由縁などご存知ありませんか。
鹿といえばサシミでしょうか脳味噌は食したことがないので「?」ですがカニ味噌を考えると「美味」なのかも、猿の脳味噌は薬かなんかに使ったとか。脳は柔かくて活動してますから美味なのかも。鹿といえば製鉄のフイゴを連想しますが、鹿のお供えの前にカエルにまつわる神事もあるとかで発生はかなり古いのでしょう。カエルは守屋氏以前で鹿(の途中)からが守屋氏なのかも知れません。
次は三嶋大社ですか、箱根を通られるなら箱根神社、三嶋近くには式内社が多くありますが分りにくい所が多いです。沼津港市場をめざすと、楊原神社と大朝神社が近くにあります。港に行きましたら「沼津港・千本一」が良心的で美味いです^^。
世界史にまで発展、、、(^_^;)
ちょっと勉強してみましたが、(ほとんど、混乱状態)
ゾロアスタ−教、ユダヤ教、キリスト教にイスラム教とすごい!
ダビデの紋章って、これらの宗教みんなの紋章ですか?それともイスラエルだけで?
おまけに、ゾロアスタ−の光明神アフラ=マズダが日本で奈良の大仏になってるとか?
(ホントか?)
>食物を供えお月見をするという習慣も残ってます。
これも、日本のオリジナルな習慣じゃなかってこと?
がんばりますので、これからもいろいろ教えて下さいね。
高麗若光さんの高句麗神社の前を、今年の夏車で通り過ぎました。。。
(家族の者は、関心がないので・・・)
牛嶋神社って、調べてみると楽しそう。。。
私は渡辺と申しますが、「鬼退治したので二月三日に、豆まきしない」なんて言い伝えになってるとのこと。返ってやったほうがいいんじゃないかと思うのですが、、、
牛嶋さんに行くと恨まれそうだなぁ〜
Stanさん,老尾神社にいきました。境内はとても簡素で男女の判定ができません。入口に神社名の石柱があるので古い神社とわかるようなものの,建物自体は古くはないです。敷地内にある建造物は,石柱・鳥居・拝殿・本殿のみで,狛犬はいません。境内は細長く,林と少しの空き地で「孤高」という印象でした。
老尾神社の情報が乏しかったなかで,市の保健センター「市史こぼれ話89」に,「835年に,物部匝瑳氏は活動の場所をそれまでの匝瑳郡から平安京左京二条に移したとされています。」とでていました。そうすると,今の匝瑳氏は物部氏の流れではなく,千葉氏の一族が地名の匝瑳を名のって今に続いているのかと想像しています。
ところで,先週末,諏訪大社と近隣の神社に行って来ました。何と建御名方命と戦った先住者の守矢氏はユダヤ人という説もあり,驚くばかりです。守矢氏の史料館では,明治以前の祭祀のお供え物として,鹿の頭や脳みそのあえものがあったりで,けっこうグルメです。鹿の頭をお供えしたのは,本当は鹿肉が美味だからではないかと想像しています。
諏訪の研究もそこそこに,次は三嶋大社へ行って来ます。
しゃくやくさん
有難うございます。久々に掲示版旧LOG見ましたらリンク切れを発見、修正できました^^。
伊勢神宮の神橋すぐの参道灯篭にはいわゆるダビデ紋ありました、某信者さんが献納されたものと言う事でした。ダビデといえばソロモンですが、ソロモン死後イスラエル王国は衰退、200年後に王国(ヘブライ)滅亡。暫くしてアッシリアがオリエント統一、イランには10部族の代表?アカイメネス家誕生。BC550にはペルシャ開祖キュロスがメディア王国を継承。
と、アジアの遠くも人が集団で移動する条件は大昔からあったのですが、10部族=10支族≒(キルギス)の伝説=東(日本)へ旅立った、という伝承。
キュロスは王国を継承するのですが、この時「小水洪水伝説」というのがあって、前メディア王の娘が「自分の小水がアジアを満たし洪水になった」という夢を見た、王は気味悪く僻地の小国へ嫁がせるが又同様の夢を見る。これを娶ったのが王となるキュロス。
この小水洪水伝説は朝鮮半島にもあり、『三国史記』では新羅の30代文武(AD660過ぎ)の皇后は、日本書紀でも有名?な金ユ信の妹で「小水洪水の夢を見た姉から夢を買ったという妹が文明皇后になっている」。またユ信が文武(ぶんぶ)と仲良くなるキッカケは「蹴鞠」。
日本でも姉妹で夢のやりとりの話はありますし、キルギスに住む日本人に酷似した一部族には10部族の伝説のほかに、食物を供えお月見をするという習慣も残ってます。
牛島は面白いですね、鎌倉時代には武蔵江戸牛島4ヶ村(=墨田区)だったようです。神社は江戸時代は牛御前社ですから牛頭天王とかの名もあったでしょうね。牛嶋と白髭の関係は未調査です^^。関東に多い白髭は、当hpの大磯高来神社とか埼玉高麗神社あたりに書いてますが武蔵守高麗王への信仰のようです、加賀白山とのからみも結構見えて、白山といえば泰澄ですが彼は秦氏(系)でしょうし、観音信仰と密接なのも見逃せません。
古墳といえば、武蔵の丘陵から東京湾にかけては国内でも多い地域ですね、江戸時代の利根川の付け替え以前の地形を合わせ考えると面白さが増します。
KENJIさん
ちと寄道、ダビデと遊んでました^^。東北戸来村(旧)の魔除のダビデ紋、(陰陽の五行、セーマン・ドーマンというか)たしか血液検査で日本では少数であるとか、昔の風習とか、色々ありそうですね。
文献の多い時代は時間のとれる(かけた)専門家に脱帽ですが、その点「古代」は素人も面白くあそべますね、しがらみが無いだけ広い観点というか複眼視できそうです。
KENJIさん、ありがとうございま〜す。
秦氏は大富豪・・・そうなんですかぁ?(呉服問屋系? 笑 )
それより、「大酒神社」のダビデ!=「ダビデ神社」ってこと?スゴ〜イ♪
松尾神社などには、そういう影はないのかしら。。。
伊勢神宮の灯篭にはあるとかなんとか?
(伊勢神宮はなんで伊勢なの?って疑問もありますが、
まぁ私、古代の世界では5歳程の年齢で何を聞いても「どうして?どうして?」の
年頃なので、切りがなくって・・・(^_^;))
ただの偶然とは、考えがたいですよね。イスラエルかぁ・・・
物部氏は、キリスト関係者っぽいかも?(蛙蛙)
>聖徳太子の時代は「?」です。
s.tsnさん、ありがとうございました。舎人親王時代ですね♪
お寺って、祭神ないし・・・難しいですが、居住地にはなっていないんだろうな、、、
秦氏って怪しいぃ。。。(そこが、魅力かも)いろいろ活躍しているようなのに
大臣とかになってない。表舞台の方ではないのかしら???
「掲示板」中身が濃くってなかなか読みきれない・・・
牛嶋神社見つけました。近所に白髭神社はありませんか?って書いてあったけど
ありますよぉ〜、墨田区は白髭神社たくさんあります。どちらかと言うと川の近くに多いような感じ・・・この二つ、関係あるんですか?
それから待乳山聖天、書き忘れましたがたぶん古墳の上にあるんじゃないかと
思われます。。。
世界に目を向けながら(すごいぞ)地元も、地道に探求して行きたいと思っています。
しゃくやくさん、聖徳太子と秦氏は関係が有ります。
秦氏の首長の、秦川勝(はたのかわかつ)が、聖徳太子に仕えています。
そして、太子の資金源だったようです。当時の日本では、秦氏は大富豪だったそうです。
太子の為に立てたお寺が、京都、太秦の広隆寺です。
この広隆寺に、寺の守護神と言う形で、「大酒神社」と言う古社が有るそうです。(私は未だ見に行っていませんが・・・。)
古くは、「大避(おおさけ)」と書かれ、さらに古い時代は、「大闢(だいびゃく)」と書かれていたそうです。
「大闢」とは・・・・、興奮しないで下さい、漢訳聖書では、「ダビデ」の事です。
以上の事の他にも、「秦氏=イスラエル人」と思える推測が、幾つか有るそうです。
この話は、司馬遼太郎氏の「歴史を紀行する」(文春文庫)の、「京都編」に書かれています。モットも、司馬遼太郎氏の説ではなく、同行者の説として載せられています。
s−tanさん、東北にもキリストの墓が有るように、他の地にも、古い時代のキリスト教やイスラム関係の場所は有るようですね。(^m^)
真偽は兎も角、想像するだけでも楽しい物です。古代史は遊べます。
「古代であそぼ」は良いネーミングですネ。
しゃくやくさん
お寺は殆ど調べた事がなくて。。社寺は昔はほぼ同じなんですが、斑鳩の松尾寺は未見です、たしか近くに霊泉がありましたので京都松尾と似てますね。創建は舎人親王の発願らしいのでこの時期には秦氏の関連地だったのでしょうか、聖徳太子の時代は「?」です。
KENJIさん
東北は昔1週間ほど掛けましたが半分も回れずゆっくりも出来ずの状態でした。いつかゆっくりご一緒しましょう。
秋田唐松関係で今だ遊んでます、古代はともかく中世過ぎは手元に資料がなくて、時間がかかります。大野東人から、清原氏、藤原三代と頼義以降の見直しです。おもしろいです、実に^^。
今晩は。(^o^)丿
s−tanさん、何時か一緒に東北の古代史関連の場所を尋ねたいです。
でも、東北に行くには、時間が中々思うように成らないのが現実です。(ーー;)
でも、希望を捨てずに、何時かは実現したいですね。
しゃくやくさん、旅行記をお読み頂き有難う御座います。
何時も、突然出掛け、行き当たりバッタリの、アテの無い旅をしています。
過去の掲示板の中には、大変参考に成る意見が数多く有ります。
古代史にはロマンが有り、少ない資料からの想像、推理は楽しいです。
今後とも、宜しくお願い致します。
s-tanさん、こんにちは〜
「過去の掲示板」ちょっと読んでみたらなかなか面白そうなので
ゆっくり探してみます。。。教えていただきありがとうございます♪
で、ついでに、、、(^_^;)
奈良の斑鳩に松尾山って見つけたんですけど、(松尾寺なんていうのもありますが)
これって、秦氏と関係あるんでしょうか???
聖徳太子と秦氏の関係からすると何かあるのかしら?と思ったのですが・・・
もしもご存知でしたら、教えて下さい。
KENJIさん とんでもない、遅くなりました。
、やはり実際に雰囲気を味わうのは別の次元ですね。唐松さんは一円に特に女性の信仰が絶大なようですね。地図など見てますとこの辺りに史跡がありそう、とか現地探索の要所はとりあえずリストアップしました。さていつ行けるか、です。
しゃくやくさん
太平洋横断は間違いないでしょう、その量と影響度の部分ですね問題は。
待乳山聖天の縁起ありがとです。(601)と(628)の間になにがあったか、面白そうですね以前掲示板で話題になったような気がします、牛嶋神社あたりで、
こんにちは!
そういえば、太平洋横断説ってホントかもしれませんね。
黒潮に乗って、どこかに到達できるかも?
古代の人って、想像する以上にすばらしい能力があったと思います。
シュメ−ル人は、民族系統不明とか?
彼らが、弥生人の祖である。なんていうのも読んだような気がしますが
そしたら、ビ−ル作ってくれないと・・・笑
浅草は、そう、神谷バ−というかなりレトロなレストランがあります。
電気ブランという有名?なお酒もあったり。
浅草寺は、お寺、、、そうでした。(^_^;)
最近「天」って付くのは、ヒンズ−教起源の神って知ったばかりで
いろいろこんがらがっています・・・
神社やお寺境内に、〜天の神様も居たりして、現実にもこんがらがっていませんか?
待乳山聖天は、「金龍山浅草寺の支院でその創建は縁起によれば、推古天9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいる時十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し人々を救ったため「聖天様」として祀った。」
となっていましたが、浅草寺の創建は、628年なのになってちょっと疑問。。。
それより、「唐松神社」いいですね、KENJIさんの紀行記読みました。
自分では、なかなか行かれないので
これからも、いろいろ楽しみにしています。。。
今晩は。(^o^)丿
唐松神社のUP、有難う御座いました。
今回の東北地方のドライブの中では、印象の深い所でした。
何時も無理矢理(?)神社に行かされている家内も、今まで行った神社との違いを、肌で感じた様でした。奈良や京都の神社にも数多く行っていますが、唐松神社の雰囲気は其れらの由緒の有る神社に引けを取らないどころか、それ以上の風格を感じられる神社でした。若し、近くに行きましたら、ワザワザ足を伸ばしても行く価値は有る所です。
解説の中に有りました、秋田県と神功皇后の話。
30数年前、秋田県の象潟に有る、蟹満寺(だったかな?)。芭蕉が奥の細道で訪ねた場所のお寺ですが、其処に、神功皇后の袖掛け松なるものが有りました。
其の時は、何でこんな場所に?程度で済んでしまいましたが、stanさんの解説を読み、思い出しました。
松は、数代目の松で、小さな細い松でした。(爆)
「象潟や 雨に西施が ねむの花」(芭蕉)
其の頃は高校生で、今ほど古代史には興味が無い時代でした。(;^_^A
^^。 シュメールって突然変異的な文化みたいな感じをうけますね。
浅草ですか、といえば神谷に岡本太郎のOOビルでしょうか。仏様とはあまり縁がないです。観音像は牛嶋神社と関連があるとか、
待乳山聖天様ってなにかいい名前ですね、どんな由縁などあるのでしょう。
宝筐印塔(ほうきょういんとう)でしょうか、これは山寺とか道端にもあったりしますのでなんとなく見る事が多いです、道祖神のグループと一緒に在ったり。
えっ、だまされました?
シュメ−ル人が、宇宙人かも?って聞いても信じちゃうぐらいなんだから・・・笑
昨日浅草に遊びに行ったら、「浅草寺寺宝展」なんていうのをやっていました。
秘蔵の観音像とか絵馬、新羅3国時代の仏像(高さ30cmぐらいかな)などもあり、絵馬には、関羽(だったかな?年寄りですぐ忘れる)が描かれている物もあってびっくり(とっても大きい)、また家光の奉納した観音様は、高さ10cm程のかわいいものでした・・・
本当は、待乳山聖天様を見学にいったんだけども。
仏塔じゃなくて、○○印塔っていうのがありました。
また、浴油祈祷という儀式があるのを初めて知りました。
いえいえ、漢字の間違いは当り前です、なにしろfepに学習能力が、、使わないものがtopに出たりですから。。見直したら印旛←→因幡だったり↓^^;。
龍老は使われていたのかも知れませんし。
はじめ匝瑳は読めませんでした。サフサとの訓みもあるようです。
志賀貢の『式内社の研究』では、−老尾神社、おいを、称匝瑳神社、阿佐比古命、8月中酉日、郷社、生尾村字老岡(匝瑳郡匝瑳村大字生尾)−とあり。字も訓みも変化はあったようですね。
匝瑳は・下海上(国?)に海上郡・香取郡・匝瑳郡があり、物部小事が古い征東の手柄で給わる、と後世の承和2年の記事「後紀」にでてます。この小事が貰った時期は大化以前は間違いないところですが、その天皇は仁賢24、武烈25、敏達30、など論があります。
そういえば、香取神宮境内に匝瑳殿(小事を祀る)がありますね。
Stanさん,漢字の変換を間違えました。龍尾寺です。それでも尾は共通ですね。
昭和37年発行の神社名鑑には,「初め匝瑳之大神と称せしを延喜式には里名を以て老尾神社と記載せらる。」と出ています。宮司さんの名字は,匝瑳さんです。ところで,この「そうさ」という地名は,はじめて見た漢字が二つも入っており,衝撃的でした。
千葉さん、ありがとうございます。龍老寺の場所を確認できました。
龍老に老尾、字も共通部分有ですか。11月、高速降りて古墳群を通り九十九里でしょうか、天気に恵まれるといいですね。
椿海、干潟町、この辺りは大昔は潟で砂洲に囲まれた内海の時代が長かったようです。最近の干拓もあり湿地が続いていたのですね、縄文の丸木舟が出土してます。
−−−以下引用
・千葉県から縄文時代とみられる丸木船が70例に近い遺跡から出土している。そのうち八日市場市周辺は約40%を占める。
遺跡名、時代 ,舟長m 、 舟幅m、材質
加茂 、前期BC1700,4。80、0。70、ムク、千葉県安房郡加茂神社。
残し沼、前期BC1500,4。96、0。33、カヤ、八日市場市米倉字大境
下沼 、後期 BC900,4。35、0。43、カヤ、八日市場市下出羽
島 、後期、BC900、4。50、0。4m、 、香取郡多古町
中野b、後期 BC900,(3。99)、0。43、 、〃
中野c、後期 BC900,5。00、0。45, 、〃
宮田下、後期 BC900、5。00、0。45、 、八日市場市
宮田下泥炭、 、3。99、43cm、クリ、〃
矢摺 、後期 BC900,4.50,0.60, 、〃
栗山川、後期 BC900,4。90、0。78, 、〃
高谷川、後期 BC900、5。87、0。48、 、〃
中城下、後期 BC900、(5。50)、0。50、 、香取郡多古町東部字城ノ下30。
−−−『古代日本の軍事航海史・上巻』松枝正根。より抽出。
とまあこれからすると、内海はかなり入り組んだカタチだったようです。また標高10m前後の丘陵からでる河川の昔の河口部は今でも標高2-4mというのが多いです。
>>インはインカに通じるのかも
>そうなんですか?
#冗談です^^。 殷は後世の呼び名?ですし。。とはいえ100%否定ではないですが、最近ではアリューシャン北廻り以外の太平洋横切りの可能性は否定できないとのことですから。また北海道に見られる「インカルシペ」と言われる地はアイヌ語で「物を見る(高い)所」という、ってのもあります。
普通インカ帝国というと(AD1470-1532)ですが、全く突然の文化は無くて、その形成期の中頃の「チャビン文化(BC1000-BC700頃)」辺りの黄金装飾が完成度が高いらしいです。
>「大洪水から逃れてやってきた」
#これはナスカの祭祀遺跡「カワチ」一帯が大洪水と地震(AD300-350頃)でこの人々がまわりと同化し後のインカ帝国になったと云われているようです。禹の活躍に関係するBC2000の記憶も全く無とは云えないですが。
沖縄はグスク&祭祀跡かそれにつながるのでしょうね、BC1万〜5千は鹿児島南西辺りは特に地殻変動活発だった様ですし。どうも列島はBC500前後、AD800,1800あたりは動きが大きいみたいです。
中国・・、のんびりやりましょ^^。楽しみにお待ちしてます。
八日市場市マップを入手し,龍老寺の場所を確認しました。大寺という地名で,バス停の名前も大寺なので,大きいお寺と予想されます。こちらは隣町(山田町,干潟町)との境のほうにあります。近くに椿海(ちんかい)という地名があり,このあたりは江戸時代に椿海(つばきうみ)という湖を干拓してできた土地だそうです。
老尾神社は,11月の連休の課題です。
>インはインカに通じるのかも
そうなんですか?
インカ帝国!南米ですよね(遠い)、マチュピチュ遺跡とか、時々テレビで見ます。
何時頃の国なのか、、、
ちょっと調べたら、「大洪水から逃れてやってきた」などの伝説があるようですね。
BC2000年の大洪水?それとももっと昔なのかしら?
沖縄の海底遺跡とも関係ありそうですね、でもBC10000・・・
う〜ん、スケールが大きいですねぇ〜〜〜
中国・・・地方、山脈、
長い目で、待ってくださいね。
千葉さん こんばんわ
すごい風と雨でしたね、私も早々と帰りました。
船形の裏もですが、因幡の西北台地はすごい変りようですね、沿線に近い神社のいくつかは住宅地が迫ってきてました。
老尾神社、次回ゆっくりといらっしゃい、という啓示でしょうか^^。
老尾からみかも、の話ですが、印旛沼の龍のはなし、
印旛沼の北東に麻賀多神社、西に宗像神社、さらに西の手賀沼にかけては鳥見神社と天平以前からの棲み分けがまだ続いている様なのです。奈良でも宗像社の勧請は鳥見社へが一番古そうで両者密接なのですが、奈良鳥見から移住してきたという因幡の物部氏に関連と思われる竜の伝説ですが、 天平の時(AD731とも)、印旛沼に旱魃が続き、みかねた沼に棲む竜が竜王に従わず雨を降らし人々は潤った、が怒った竜王に3つに斬られた。その頭は因幡沼北東の竜角寺に落ち、腹は沼西の竜腹(原)寺、で尾は因幡沼南辺りではなく九十九里海岸の竜尾寺に落ちたというのです。
この竜尾寺?を探したのですが不明で、老尾神社近くではないかと思っているのですが。。
次回もしお時間ありましたらよろくしく。
因幡沼南の八千代市辺りは珍しく時平神社がかたまり在ります、地元ではジヘイと呼んでますが藤原時平より200年前既に因幡の南、式社のある海近くは藤原の息がかかっていた、これが尾が遠く九十九里に落ちた理由かも知れないですね。
こんばんわ しゃくやくさん
>生首埋めて魔よけとか、とても残酷。。。
#殷の壇ですか、古代の生贄?は凄まじいですね、インはインカに通じるのかも、です。日本でも明治の頃までは人柱があった様子ですね、尤も今でも似たような状況はありますが。
邑もお調べでしたか、口+巴、口は囲いで、巴は虫、虫は中国では「生きもの」が始めの意味のようです。
日本では壁でなく、壕・濠、みたいですね、日干レンガとか固まり易い黄土でなく、又巨大な戦闘兵器を運べない地形だったからかもですね。中世、戦国の戦の記録に城内に農民を入れるとか匿うというのがありますから、この程度で大陸のように民をごっそり自国へ連れ帰るというのは列島ではあまりなかった様子です。
山陰山陽「中国」地方、いつからこの言葉が使われたのか面白そうですね、分ったら教えて下さい。
昨日,成田の麻賀多神社(台方と船形)に出かけて,次は老尾神社に行こうとしていたら豪雨になり,老尾神社は次の機会となりました。
船形の麻賀多神社のあるところは印波国造の墓といわれる古墳だそうですが,幼稚園があり驚きました。手水の使い方の絵があり,モデルはサリーちゃんのようで,ほほえましかったです。小山のすぐ裏は成田ニュータウンの住宅地で,古代と現代が背中合わせでした。
こんにちは〜♪
って、特に話題はないのだけど・・・笑
中国の歴史って、戦いの歴史なのですね。
生首埋めて魔よけとか、とても残酷。。。
「邑」自体は、村のような組織でこれが基本になって統合して「殷」が築かれたり
としている事がわかりました。
日本には、そういった壁は、作られなかったのでしょうか・・・?
誰が運んだのかは別として、基本的には中国色が日本ってかなり強いのですね。
そういえば、山陰山陽は、中国地方ってなってますよね。(関係ない?)
「古代であそぼ」の12章続き、楽しみにしているのですが・・・
ご連絡、ありがとうございます。
今回は、ありがたく戴きました。
キリ番仕切直しの仕切直しです。(^^;)
お越しをお待ちしております。(^-^)/~