・掲示版 書庫


亀井 さん 2006年 09月 02日 20時 57分 11秒

>神武皇子・神八井耳の流れに,多氏・阿蘇氏・金刺氏がありますが,阿蘇氏系図によると。
崇神10のとき武五百建命(別名:健磐竜命)が日向から阿蘇に入ったと伝わり,亦科野国造も賜るとある。

各所で使われていますね。さすがです



かわかつ さん 2006年 08月 30日 19時 26分 38秒

修正!
金谷山→金井山

かわかつ さん 2006年 08月 30日 19時 07分 24秒

彩流社『御柱祭 火と鉄と神』の著者である長野の百瀬高子さんという方に親しくお話を伺いました。
最初は偶然の産物としてできあがった鉄を祭祀に用いたのかということですが、なんとご自分でも褐鉄鉱粉末によるたたら製鉄実験をやっておられ、見事に成功したそうです。
極めておしとやかなご夫人でした。
なんと縄文人は溶解のための媒体に人骨を代用し、同時に故人をしのび、わずか400度程度で溶解した鉄を加工して農具に利用したのではというエキセントリックな仮説でした。
また古墳の台状高坏の大きいものを溶解の坩堝としたそうで、これも須恵器を再現して行って成功しています。しかし、これはどうか・・・あの高坏型埴輪は水をはって占うとか、夜間の古墳造営の際の明かりなどに用いたかとも思えます。特に台に多くの小穴をつけているものは、中に火種を入れて風を防ぐ灯明にしたかとも思えますね。

あと穂高町の積石塚が実に個性的で、中でも合掌式石室?石棺はちょっと見たことがないですね。
あれがやがて九州の家型石棺になったのか、あるいは逆に九州から来た安曇族が故郷をしのんで再現したのか・・・いずれにせよ広大な、母の体内のような馬蹄型の地形に何世代にもわたっていろいろな処からの参入者があって、コスモポリタンを形成していたようです。端っこの金谷山周辺は金属(黄銅鉱)が出ますので、もしかして多一族かもしれない。最初に来たのはどうやら渡来人で間違いなさそうですし、小古墳群の中には九州式の棚つきのものらしきものもありました。古墳時代の展覧会のような場所で、盛り土をしていない積石塚はちょっと見物ですね。
あと森将軍塚古墳はあきらかに朝廷からの知事クラスの管理者でしょう。
ちょうど大分の海部の大古墳・亀塚古墳のようなここにえにしのある海部氏かな?
しかし表から見ると丸く、裏は四角というのがなかなか空想させます。ひょっとしたら神祇令を守ったようにみせて実は前方後方墳という、苦肉の策?確かに周辺地域に前方後円墳と前方後方墳双方があるようで、あるいは複数文化のう和合でしょうか?
面白かったですね。参考になりました。
あと有明山の神社ですが、あれはどうみても九州の神社の匂いがします。造りがこちらの神社そっくり。ただし山門があるのは鎌倉期前後の仏教的造りで、飛騨の匠の手になるものか?と見えます。鳥居は九州的。それも筑後か有明海側かな?^^
最後に穂高神社は天照大神の順位を後の方へ追いやってまで、隼人系綿津見と大山積らしき?穂高見の神を祭っているのは、なかなか地元の反骨を感じます。しかも大事にされているのい感心。朝廷の懐から離れた山中の民族らしい気骨かな?
安曇の比羅夫なかなかの戦死ぶり。白村江でみごとに散った勇者が海人の誇りを感じます。
姓名に「松丸」など船関係ありました。匠は船の工人ですね。そして赤松が実に多く、すばらしい。あれは河勝像に使ったんじゃないですかね???

tan さん 2006年 08月 28日 22時 33分 56秒

・高師小僧
 いやあ懐かしいというか、前の世紀で話題になってましたね。 その一部は
> http://www.max.hi-ho.ne.jp/stan/l_bbs\/bbsold04.htm
鉄は生産,略奪を容易にする最高の素材ですから弥生時代と言われる高師小僧、暫く続いた餅鉄でしょうか。採り尽くすにそれ程の年数はかからなかった量と思いますが、高師小僧は列島広範囲にあったのではと思います。
金屋子信仰が金のつく地名がその痕跡で、恐らく高師小僧はそれ以前、葦・茅の時代、「みずずかる(鈴)」があると思います。
> http://www.max.hi-ho.ne.jp/stan/l_bbs/_bbs\kkzod02.htm
<餅鉄>1977年秋、釜石市立釜石西中学の生徒と新沼鉄夫など先生。校庭の裏を流れる甲子川の浅瀬から「もち鉄」を採取、校庭に小さな炉をつくり、5時間半ほどで12.5kgの還元鉄(鉱滓1k)を得、後で鍛造して蕨手刀を造った。
> http://www.max.hi-ho.ne.jp/stan/l_bbs\/kkzod03.htm
これらの伝承は、入諏訪に北東、北西、西からを伝えるものですが、南からの伝承も見られます。
諏訪湖東南の上原に「葛井神社」があり、底無し池、片目の魚が住むという「葛井の清池」があり、この池と静岡県の「さなぎ池」がつながっているという伝承があります。「葛、片目、さなぎ」とくると、これは「鉄」ですね。
> 最近では
 それとも褐鉄鉱で自然にできる鈴を縄文から使っていて、それが後の鉄鐸につながるという論旨でしょうか?


・ようこそ宮崎のhiro さん
 ご来訪、リンクありがとうございます。
こちらからもリンクさせて頂きます。お気づきの点、訂正などありましたら、ご連絡下さい。
西都原古墳群、興味ありありです、年代・形状・寸法・遺物あたりの一覧表があるといいですね、どこかにあります?


・おひさ 千葉さん
 酒・グルメ、とくると、粗食と運動が必要ですねノンストレスも大事かな、体調、健康一番、ですね。と自戒。
古事記読破!新しい発見なにかありました?


千葉ちゃん さん 2006年 08月 27日 20時 25分 49秒

S_tanさん、ご無沙汰しています。
昨年春ごろから体調不良が続き、いろいろなこと(酒、グルメ、残業など)をセーブして、生活のペースを落として、やっと落ち着いてきました。そういうことで、掲示板の書き込みは、これぞと思う本を読破したときにすることにしました。

このたび、ちくま文庫の古事記注釈全8巻を読破しました。通勤電車の中で読んだので、読み流しなのですが、今後、古事記等の本をどのような心構えで読んだらよいか、の指針になります。第8巻の半分近くが索引です。記憶力が急速に衰えるであろうこれから、索引は大切になると思うので、しばらくの間は、これまでに読んだ本の索引作成をしようと考えています。

では、またご連絡します。

ようこそ宮崎のhiro さん (0724080108211025@0503ak1025.net) 2006年 08月 21日 18時 58分 25秒
URL:http://www.0503ak1025.net

初めまして、「ようこそ宮崎」を運営していますhiroと申します。

宮崎が好きな私(宮崎生まれの宮崎育ちの宮崎在住)としては

宮崎のことをもっと知って貰おうと、「ようこそ宮崎」を企画しました。

宮崎を紹介するときに、他所様の目を引くような「これ」といったものに

乏しく、あるのは美しく優しい自然と神話くらいのものです。


焼酎や郷土料理や神楽や神話と紹介してくると、西都原古墳群は宮崎の

数少ない目玉として挙げられます。

「古墳のリンク集」に掲載させて頂いたサイトは、どれも素晴らしい内容で

圧倒される思いです。

西都原古墳群が全国の古墳の中でどの程度重要なのかはよく知りません。

ただ宮崎を紹介する一環としてなので、専門的ではありませんが

素人の域で紹介するものです。

ですので、貴サイトの充実度には到底比較されるものではありません。



貴サイトを拝見させていただきました。

是非、当サイトと相互リンクしていただきたくお願いいたします。

既に当サイトでは貴サイトのリンクを貼らせて頂きました。

紹介文は貴サイトの中から自己紹介の形で抜粋を基本としていますが、

ご意志に反する内容になっている場合はご一報下さい。

訂正をさせて頂きます。


もし相互リンクをご承諾していただく場合は、勝手を申し上げますが、

(当サイトの)TOPページのテキストリンクでお願いいたします。

かわかつ さん 2006年 08月 21日 00時 28分 19秒

その節は大変失礼をしたと反省しております。
短気は損気と承知していてもなかなか生来の性分はなおらぬものです。

さて、少々面白い話です。以前、縄文時代に製鉄があったのではないかなどという妄想がありました。今度、長野県の方でそれを著書にされておられる方とお会いできることになりました。

それで水辺の芦の周りに褐鉄鉱の結晶がつくという話を仕入れました。
「高師小僧」というそうですね。しかしそれをそう呼ぶとは知りませナンだ。
ちょっと調べてみると高師というのは愛知県の地名らしいですね。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/kui/kaika/i96.html

 「愛知県豊橋市高師ケ原付近産。かつて沼地であって芦が生えていた。そこに酸化鉄が集まり、枯れた芦の根に付着していった。植物はなくなって、中心が中空の褐色棒状の物体が出来上がる。形があいきょうがあるので、いつからか「高師小僧」の名で親しまれている。近くを高師ケ原ともいう。天然記念物指定の場所もあり、一応の説明板もできている。その付近は工業用の造成地が大規模に開発されたが、この景気ゆえ、ほとんどはまださら地であるが、付近の地表でこの酸化鉄の鉱物が拾える。似たものに菱鉄鉱のものがあるがこれは動物の住んだ穴にできた物で生成がちがうし、この土地にはない。しかし、この地方には数10cm大の巨大な高師小僧もあり、この成因はまだ完全に解明された訳でない。長さ数p10個前後袋入り \1,000」
http://www.hori.co.jp/hori/list/101.htm

低温で解けるなら良質の炭や石灰がいらないのかも知れません。
いずれにせよ、たたらには炭が大量にいりますから、そういう遺物が出ているかどうかが大事な証拠だし、かつ坩堝の底にこびりついた鉄糞がなければばらないでしょう。
tanさん、なにかご存じでしょうか?
確か、神奈備サイトあたりがこの件、掲示板で話していたような覚えもありますが。

tan さん 2006年 08月 11日 22時 02分 32秒

リサプー さん

ご指摘ありがとうございます。早速訂正させて戴きます。
松尾さんのお近く、すてきなところですね。古神道に興味をお持ちとか、お近くで平安以前のお話なにかありましたらお聞かせください。



リサプー さん 2006年 08月 11日 10時 46分 04秒

始めまして。
古神道に興味があるので、このサイトを参考に古い神社をめぐろうと思っています!
これからも拝見させて頂きます。

(管理人様、京都の松尾神社の場所が京阪松尾駅となっていますが、正しくは阪急松尾駅です。近所に住んでおります…)


 

とみた さん 2006年 08月 03日 14時 25分 48秒

忌部氏の話です

日本各地を開拓した阿波忌部の足跡ー安房国編という本が出ているそうですね。

これは神奈備さんの掲示板で知りました。

阿波で、今も忌部サミットがあり。安房の館山で安房と阿波で忌部交流会があるようです。

歌手の加藤登紀子さんは館山あたりに農耕地をもっていて娘も参加されるようですね。

本は、林博章氏が書かれたようで、特別講演もされるようですね。

阿波から安房へ渡った阿波忌部、そして関東全域の開拓へゥイ箸いζ睛討世修Δ任后C海旅岷蕕呂い帖アCC譴襪里C覆◆▲汽ぅ箸忘椶辰討い襪箸いΔ海箸浪甬遒力辰C發靴譴泙擦鵝」

でも林さんという方が忌部に詳しいということは発見です。




かわかつ さん 2006年 07月 30日 21時 24分 58秒

そうですね。ここは「こらぼれ」掲示板。collaborateの語源はコラージュですものね。
^^

tan さん 2006年 07月 28日 00時 35分 31秒

本当に残念ですね
残念なことです。
まあ、この件はこれにておしまいとしましょ。


かわかつ さん 2006年 07月 27日 23時 56分 45秒

それは残念なことです。
自分に必要な記事の部分だけを自分で把握すると言うことは、それだけでかなりの知識を頭に入れることができる。ようするに読書好きが辞書を作成する(井上ひさしのように)行為となんら私には変わらない。無用な行為ではないのです。
さらに埋もれた知識群をほりおこすことになり、とても大切な行為だと考えます。
ブログは自分のためにやるものですから、あなたのスタンスがどうだろうと、私のスタンスがどうだろうと関係ありません。
あそこへ書き込んで下さる方は、本からの記事を書き込んでもいいし、意見を書き込んでもいい。用はいかにつかってくれるかを判断してくださればいいのです。
せまいね。

tan さん 2006年 07月 27日 19時 56分 01秒

かわかつさん
「かたばみ掲示板」というのはありませんが。

色々スタンスがありますが、私がint-netで心がけているのは。
・コピペで自分の頁は作らない。
・マルチ投稿はしない。
 です。
HDDが2Mbの頃から通信をしているせいか
無駄にリソース・電話料金を使わせない、といった事が前提。
また、上記を拡大すると「何処を見ても内容が同じ」といった事になりかねません。



かわかつ さん 2006年 07月 27日 08時 51分 12秒
URL:http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/14170635.html

今回の記事の中にそういえばtanさんの6年前の投稿記事が偶然入っています。
適時、項目にもっともフィットしていて、しかも示唆的なコメントをランダムにピックアップして辞書にしておりますので、偶然当たったと言うことはここの管理人さんが博覧強記の上に、聡明だということかと思っています。
たしか、http://www.max.hi-ho.ne.jp/stan/l_bbs/kkz01.htm
のかたばみさんとの宇佐、道教談話の部分を
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/14170635.html
に引用しました。事後ですが、ご容赦を^^

かわかつ さん 2006年 07月 27日 08時 42分 49秒

勉強不足は誰でもそうです。何十年本を読んでも、わからないことはわかりませんわ。いやになります。しかし、所詮は趣味ですし、歩き回って楽しむのが一番だと思います。
かわさきさん現役?
いいなあ。

かわさき さん 2006年 07月 26日 22時 17分 59秒

かわかつさん

ブログ拝見。プリントアウトして片道1時間20分の通勤時間にじっくりと・・・。^^
しかし、かわかつさん始めtanさんなど知識が広い!
自分の勉強不足を痛感してしまいました。皆さんのネタで少しづつでも勉強して行ければと改めて思いました。
これからも宜しくでございます。

かわかつ さん 2006年 07月 26日 14時 08分 15秒

「民族学伝承ひろいあげ辞典」ブログに展開してまいりました中国南方少数民族の伝承辞典は、かなりの成果をあげましたが、一応いったん区切りをつけ、新しいジャンルとして「修験道と鉱物」という古代史上の大きな人間模様を科学したいと存じております。
つきましてはあの辞典ブログの中に新しい項目を造り書き込みしてゆく所存です。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205
こうした契機となったのは、ひとえに闇の日本史サイト竹内氏、渡来人研究会紀氏氏、および『四天王寺の鷹』谷川健一先生から触発された「日本史に関わる鉱物採取」という補助線の自己再確認をしたいからであります。

現状、これまでの民族学伝承辞書の端っこの扱いではありますが、今後の研究者各位の協力でここから分離させ、いずれは一本立ちさせたいと思う所存です。
共同書き込みされたい方がおられましたら、歓迎いたします。

日本史を科学するための、後世への遺産となればなどと大げさな事を申すつもりはありませんが、役立つものになることは確かだと確信しております。

紀氏さん、たんさん、かわさきさん始め、諸古代史NETマニアの方々のご協力お待ち申し上げます。
かわかつ輩




かわかつ さん 2006年 07月 25日 08時 26分 12秒

かわさきさん
人様にお教えするほどの知識は持ち合わせませんが、何を言えばいいでしょう。
ブログでも読んで頂こうかな・・・
http://white.ap.teacup.com/soudasui/

tan さん 2006年 07月 25日 00時 49分 48秒

安本氏は読んでないですが鎌田氏というと『先代旧事本紀の研究』でしょうか。
『大成経』の長野采女ですが群馬沼田の出で家に物部の家伝というのが伝わっていたらしいこれが巻の増えた理由でしょうか。
諏訪の二代氏族、宗像とは確認できてませんが、上田−白樺湖−前宮へのルートが古そう、天竜川伝いは何度か、これに安曇がどうからんでいるかが今一不明です。
百合若といえば「幸若舞」似た話が結構あるみたいですね「三宅記」にも似たプロットがあります。


かわさき さん 2006年 07月 24日 22時 35分 15秒
URL:http://bbs9.fc2.com/php/e.php/niko-robin/

墨坂神社の総代さんよりご返信をいただきました。
一部を↑に掲載しました!

かわさき さん 2006年 07月 24日 22時 24分 12秒

かわかつ さん

大変恐縮ですが物部と宗像に付いて詳しく教えていただけませんでしょうか?
宜しくお願いします。

かわかつ さん 2006年 07月 24日 09時 02分 45秒

先代旧事本紀についての新刊本がかなり出ています。安本美典氏のものを買い求めましたが、ちと読みにくい。しかし三種類の本紀本が存在することや、詳細な系図など役立つ資料が使われていて、資料として価値あり。
やはり鎌田氏のが基本にあるようです。
唐松神社は一度は行かねばと考えています。

この頃思うのは、諏訪の祭祀のオブラートの中身のことです。
どうも物部と宗像という二大氏族がここで祭られたのかも知れないと思うようになりました。

壱岐・対馬は面白かったです。あそこは日本が凝縮されています。
百合若大臣、ご存じですか。

tan さん 2006年 07月 23日 23時 18分 38秒

魂振り:鹿島さんも香取さんもしっかり応答される。某所とは大違いですね。
石上さんですか、やはり本家?でしょうか。近くでは真鶴の子之神社さん?。

2年ほど前に、KENJIさん取材の秋田物部・唐松神社に関連して、いつから伝わった・流行ったなど少し調べたのですが。
旧事本紀、9c前半?成立。
室町時代の神道家で神儒仏三教同根説を唱えた吉田兼倶(1435-1511)。
天和元年(1681)伊勢の訴えで幕府は『大成経』を偽作と断じ禁止。
このあたりが怪しい。つまり魂振り・十種を採り入れたのは、25物部の神代、旧事本紀以後の9c〜、卜部(吉田)兼倶の16c、吉田神道が地方に広まる江戸期、この時期のうちどれだろうと多少の文献捜しました結論でず不明。
大部分は江戸期以降の採り入れとの感じでいますが、行のなかで古くから使われてきた可能性もあり「?」状態です。
四国物部など詳しい史料などご存知の方おられましたら嬉しいのですが。


かわさき さん 2006年 07月 23日 20時 51分 18秒

魂振りですが、香取神宮から回答がありました。
内容は「当神宮で魂振を行う祭典ありませんので、おそらく鹿島神宮さんの「大寒禊ぎ」をご覧いただいたのかと思います。
魂振は禊行法の際に行います。禊行法に関しては石上神宮さんにお聞きするとよろしいかと思います。」との事。
やはり鹿島神宮で行われているようです。
では鹿島神宮からナゼにあのような回答がと悩むところです。

かわさき さん 2006年 07月 22日 16時 20分 34秒

tanさん

鹿島での魂振りの可能性があるのなら香取でもあるのかしらと思っています。
香取神宮に訊ねてみます。

とみたさん

「大生部直と印波国造」は読みました。
平城京跡から出土した木簡からそれまでの「印波国造-丈部直」の系譜から生部の勢力拡大による印波国造の奪取、埴生郡の分離独立を行った可能性を論じていたと思います。

但し、文献上の印波国造である伊都許利命に付いては数行分しかふれられておらず、丈部の氏族的な出自に付いても触れられていません。また生部に付いても皇子の資養の部民もしくは軍事的役割を担っていた部民であることは述べられていますが氏族的な出自にはやはり触れていませんでした。

印西の鳴神山遺跡や西根遺跡では「大生部直」や「丈部」などと記した大量の墨書土器が出土していて7世紀後半〜9世紀前半のものです。特に西根遺跡では大生部と丈部が仲良く出土している。この2つの部民の明確な系譜が必要なのですが、今のところ宝賀寿男氏の古代氏族系譜集成に多氏の系譜として印波の丈部・生部が掲載されているのが唯一明確に記された文献ではないかと思います。

下総から常陸に分布している生部が「擬制的同族によるネットワーク→親戚間の繋がり」で古墳の石材を筑波から香取海周辺各地へもたらしていた可能性にも触れられていますが、やはり古墳終末期の7世紀後半の岩屋古墳(龍角寺古墳群)の石材は逆に地元の貝化石岩の使用を開始して印西の古墳にも使用し始める。(何しろ下総では火成岩は産出しないので)

丈部と生部はまだ謎が多い氏族で印波(印東・印西でも)での分布は濃密ですがたしか将門記の記載を最後として(うろ覚えです)消えてしまう。

印旛地区のようなマイナーなエリアの論文は少なくて、この論文はとても参考になりました。

とみた さん 2006年 07月 22日 10時 27分 50秒

東国に詳しい歴史家が居られるようですがご存知でしょうか。

川尻秋生さんは、古代東国史の基礎的研究という本を2003年に出されておられますね。平将門あたりが多いようなので平安時代以降が主かもしれませんが、それ以前の古代も詳しいかもしれません。

古代安房国の特質ー安房大神と膳神
大生部直と印波国造
下総国は埴生郡の郡領・国造が氏族が大生部直であったこと、東国の任生部が擬制的同族によるネットワークを構成していた可能性を論じている。

この辺が詳しい歴史学者のようです。

お読みになったことがおありでしょうか。

かわかつ さん 2006年 07月 20日 07時 00分 48秒

文武天皇二年
諸国から鉱物献上の記録(「続日本紀」)

土佐・・正月・・牛黄(病の牛の結石)・・・黄
因幡・・三月・・銅鉱石・・・・・・・・・・・・・・あか
近江・・六月・・明礬・・・・・・・・・・・・・・・・白
伊予・・七月・・白錫・・・・・・・・・・・・・・・・白
        ・・錫鉱石・・・・・・・・・・・・・白
周防・・九月・・銅鉱石・・・・・・・・・・・・・・あか
近江・・九月・・金青(青い顔料)・・・・・・・青
伊勢・・九月・・朱沙・硫黄・・・・・・・・・・・・あか・黄
常陸・備前・伊予・日向・・九月・・朱沙・・あか
安芸・長門・・九月・・金青、緑青・・・・・・青・緑
豊後・・九月・・真朱(水銀の丹)・・・・・・・あか
伊勢・・十一月・・白錫(すずの表記は金に葛)・白

文武三年
下野・・三月・・雌黄(硫化ヒ素)・・・・・・・黄

元明天皇和銅六年
五月に
大倭、三河・・雲母(きらら)
伊勢・・・・・・・水銀
相模・・・・・・・石流黄・白焚石・黄焚石
近江・・・・・・・磁石
美濃・・・・・・・青焚石
飛騨、若狭・・焚石(明礬)
信濃・・・・・・・石流黄(硫黄)
上野・・・・・・・金青
陸奥・・・・・・・白石英・雲母・石流黄
出雲・・・・・・・黄焚石
讃岐・・・・・・・白焚石
これらすべて仙丹の素材である。

硫黄を採取するとき、赤みを帯びた黄色のものを「鵜の目」、深い黄色を「鷹の目」と呼ぶそうです。青いものは「ひぐち」といいます。
愛知県の八つ面山というのありますか?ここは雲母の産地。八は八種類の鉱石を示す。大分県中津市の八面山、長野の伝説の八面大王も鉱物採取に関する地名、人名。八面大黄?
吉良の地名はきららがとれるからですと。

東大寺別当良弁は金鷲行者といいまして、金勝・・すなわち鉱脈の管理者。
出身はおそらく近江の甲賀・土山か?
以上、『四天王寺の鷹』からです。

tan さん 2006年 07月 19日 23時 05分 55秒

かわさきさん

鮑まるまるって遠い昔の若狭湾てなほど昔ですわ。
鮑は伊勢神宮で最も大切にされる神饌。産地を神領に持つという条件が必要ですが鮑に限らず魚介類・海産物を神事の神饌として使う神社は多いようです。京都上賀茂の御棚会(おたなえ)神事では神饌をチェックする行事があり「魚読み」という、山より海の幸が多いということですね、鮑は打鰒(のしあわび)。
朝廷へ鮑を貢納する所には深く潜る民が居たということで、太平洋岸でみると、日向、豊後、伊豫、阿波、紀伊、志摩、相模、安房、上総といったところ、抜けている土佐、伊豆などは鰹がメイン、伊勢、尾張は塩がメインといったところでしょうか。
日本海側での鮑は肥後、肥前、壱岐、筑前、長門、石見、出雲、隠岐、若狭、佐渡、といったところ。若狭は日本海側では珍しく塩の供進があります、若狭の塩・・といった文面がどこかにありましたね。平城京の木簡の出土量から京への塩は一番多いのが若狭で次は紀伊らしい。

安房系図をみると、祖に天富・太玉を充てたのか結構妄想を楽しめますね。系図からは天日鷲・天背男を祖としても不思議はないですね。安房社が今の位置に移ったのが(717)で同じ頃、忌部直系(子首の孫)が安房郡大領で洲宮の祖となる。
天背男が天香々背男とするとアワ系譜の倭文が武に頼らず屈服させたというのも納得できる。とすると高皇産霊の天太玉は中臣藤原でアワ忌部は傘下に入れられた、のかも。

鹿島の魂振は鎮魂行というのですね、おもしろそう。今は行っていないとすると現地での探査が必要ですね。


とみたさん

>海の部族はもともと房総に以前からいたのか、忌部が四国から黒潮に乗って引き連れてきたのかどちらでしょうか。
#>・・・この安房洞窟の15体は外からと考えていいのかも知れない。阿波−伊勢−伊豆−安房には古くから海人の拠点があり、忌部が取込んでいった。




とみた さん 2006年 07月 17日 11時 26分 14秒

安房の鮑、海産物を朝廷へ差し出す。謂わば宮内庁ご用達。
これって、評郡論争で有名ですね。

木簡に安房の評の名前と鮑が出ていたんで、大化の改新時代以降早期にはまだ郡制度でなく評制度だと判明した。(確認していませんうろ覚え)

神郡に安房は含まれています。下総、上総も含まれています。

安房は安房神社は天太玉命で忌部、730年以降に中央官庁の大膳職で御食津神として祀られる。下総の香取神宮は天日鷲命で忌部・・・沢山の海の部民=労働者を取り込んだ長ですね。

安房国設置が718年ですか。701年の大宝律令制を固めようとする時代。

東北蝦夷征討の拠点、多賀城が出来たのが724年、私の郷里では尾張国人が、美濃の蓆田村に新羅人を移したのが715年です。多胡碑で有名な多胡郡を他の郡を割いて造ったのは711年。

高句麗人を常陸へ、新羅人を下毛野国へ移したのが687年とすると、国土を整備しつつあるときですね。古事記や日本書紀や風土記も整えてね。

東京の大手町の平将門の首塚のあるところは往時は、日比谷入り江、ここは江戸開拓の根拠地、ここにも安房神社の末社がある。

多気彦が祖なんですか。それが600年ごろ、推古天皇の時代ですね。

初めて知りました。忌部ガ安房に入ったのは、600年ごろこの時代感覚が参考になります。

海の部族はもともと房総に以前からいたのか、忌部が四国から黒潮に乗って引き連れてきたのかどちらでしょうか。

雄略は倭武王で南宋と交渉を持っているとしたら470年頃と思っていますが如何でしょうか。




かわさき さん 2006年 07月 17日 07時 14分 06秒

tanさん

鮑ですか・・・。もう何年も口にしておりません。どんな味だったかも忘れてしまいました。子供たちも鮑の味を知りません。黒潮に乗った忌部氏は太平洋側に色々と足跡を残しておりますね。安房神社境内の人骨は興味深い。もう少し自分なりに調べてみようと思います。
話がゴロリと変わりますが、鹿島神宮から返信がありました。魂振りに付いて問い合わせた件ですが、結論としては「行っていない」。毎年1月に禊行と言うのを行っているのですが、その中に鎮魂行と言う修練法があるのだそうです。その鎮魂行が魂振なのだそうです。しかし不可解な事に禊行は行ってもその鎮魂行は行っていないと言うことでした。

かわかつさん

九州の旅うらやましいです。私も20数年前千葉からオートバイで1ヶ月かけて九州に旅した事を思い出しました。当時の寺社のパンフなど保存してあったので思わず読み返してしまいました。

tan さん 2006年 07月 17日 00時 01分 54秒

かわさきさん

安房国の分離独立、伊豆とあわせ面白いところですね。
(718)安房国設置、(741)上総へ、(757)安房分国、安房に限らずこの時期は多いですね。
この頃の安房は忌部勝麻呂、安房忌部の祖といわれる多気毘古は6代前(120年前≒AD600)。
(698)の「同姓の郡領は1名」の規制から外された特別区(神郡)が9つありますが、宇佐、意宇、伊勢などの中に安房が入っているので安房を忌部が治めていたのは間違いないところ。
では忌部が安房に入ったのは(600)頃か。
雄略(400)頃?四国阿波の海人が深く深く潜るとの記事があるが、この海人が太平洋海の道に広がっていた?
安房神社境内の洞窟から20体ほどの人骨と土師器がでている。性別は不明だが抜歯が15体あり弥生とも古墳時代ともされる。房総での縄文時代の抜歯は半数ほど、抜歯は外の部落からの個体だろうといわれている。この安房洞窟の15体は外からと考えていいのかも知れない。
阿波−伊勢−伊豆−安房には古くから海人の拠点があり、忌部が取込んでいった。
天武夫婦は鮑が特に好みだった?のかも。
そういえば伊豆に最初に国造をおいたという神功も鮎とか醤が好みだった?。



tan さん 2006年 07月 14日 22時 53分 45秒

かわかつさん

いいですね九州山地めぐり、一度ゆっくり廻ってみたいものです、ひと月では足りないですね。
鷹と犬は修験・鉱山開発鍛治とは切れないですね、日光はじめ各地にみられるようです。
お近くの宇佐鷹居、鎮西彦山縁起の味{金且}鷹彦根亦名鷹鴨神11世孫大鴨積命とか比義の前名が金鷹行者、良弁の前名が金鷲行者というのも面白い。
行基にも繋がり阿刀物部玄{日方}にもひろがる。襲津彦の酒君とか渋川あたりの日鷹吉士、おもしろいですね。

W分削除しておきます。



かわかつ さん 2006年 07月 14日 10時 43分 09秒
URL:http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

下の記事は、重複してしまいましたので下段の方を削除してください。申しわけありません。

かわかつ さん 2006年 07月 14日 10時 40分 30秒
URL:http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

旅先から・・・

先日の大雨の中、九州山地の高千穂峡から椎葉、西米良、西都原という「耳川ライン」を一気に降りました。山地を出るあたりで車軸を流すような豪雨に出会い、生きた心地がしませんでした。日本の雨どころ、奈良の吉野や大台ヶ原でもあのような「死を感じさせる」ような土砂降りは初めての経験でした。
多くの研究家が重要と言われるこのライン上でもっとも鉱物の種類が多いのが高千穂峡であると、地元資料館の考古学研究員から教えられました。しかしあそこには石灰がないようです。
石灰はたたらの火を高温に保つなどに非常に重要なものらしいですから、西都原の古墳の主たちはどうしただろうかと非常に面白かったです。

旅先ではいろんなことが起こるもので、今回もいろいろな楽しいハプニングが起きました。明日からは九州北部を再確認する旅です。後日マイサイトにてまとめて報告いたします。

谷川健一氏の最新作『四天王寺の鷹・謎の秦氏と物部氏を追って』はかわかつもまったく同じテーマにのっとり、宇佐神宮と秦氏、物部氏の関係を、独自に探索した、学者としては初めての宇佐周辺の渡来問題に切り込んだ意欲作です。ここで谷川氏は、かわかつとは一部異なる見方も示され、かつより詳細に証拠を提示されております。よろしければ良書として推薦します。 Amazonにレビューしています。

かわさき さん 2006年 07月 10日 22時 29分 53秒

tanさん

おっしゃる通りですね。古墳終末期から律令期前までと改新前後の大中臣氏の時代とに大きく分けて行かないとゴチャゴチャになってしまう。時代によって大神もその性格を大きく変える事になってしまうようですね。
7世紀に中臣氏が隆盛して、それから忌部氏によって安房国が分離独立するのが8世紀初頭、印旛ではそれ以前の応神朝に多氏系の伊都許利命が入ってきている。
一部のサイトでは鹿島宮司家の中臣氏を多氏系中臣氏と呼んだりしてます。
しかし両神宮の神領の成立ちや祭祀の方法などでは物部との関係が濃厚にただよう・・・。
ここらへんの相関図や時系列的に判り易く整理しないとダメそうですね。

tan さん 2006年 07月 09日 23時 22分 37秒

かわさきさん

香島・香取
 神皇正統記に「剣、豊布都神、はじめ大和の石上にあったのを常陸の鹿島神宮に移した」とありますね。
風土記では、神代に天下った香島の天大神・豊香島宮、崇神の時・奉納、孝徳の時・香島郡設置、天智の時・式年改修の初め、とあるのですが、旧事本紀の敏達の時・物部小事が抜けてますね。 風土記で抜けている崇神から孝徳まで、或は神代から孝徳までが特に妄想楽しいところです。香島(鹿島神宮)は孝徳以降だろうし、藤原以降は香取は鹿島に叙位で1つ遅れるが以前は。。
香取の元宮地だろう津宮(櫂取梶取)を拡大したのが小事なら物部としての奪回なのかも。
豊浦古墳群から香取−大戸の密集地、この辺りを重ね妄想してます。

鹿島の魂振、確認されましたら、よろしく。

しかし「霰降る」が鹿島の枕詞。カシマシイが理由というのもおもしろい。
昔(神代?)は昼も夜もうるさい所だったらしい。





とみた さん 2006年 07月 09日 18時 58分 54秒
URL:出没する訳

かわかつさん 体調は如何ですか。

私にとっては皆様が師匠です。殊勝なことを言うでしょう。

房総と常陸を追っかけて忌部氏と、多氏と深いご縁の地であることを知りました。この掲示板は千葉・茨城に詳しい方が居られるようなので教えを乞うた次第です。

地元で古代史ロマンの会を始めましたので、ネタを沢山蓄積しています。

会を維持するというのは大変ですね。ネタ切れにならないように頑張っております。目標があるとシニア生活もエンジョイできるというものです。

そうそう、信州の大さんとも今日お会いできましたよ。

書道に詳しい、書からも古代史が見えるようですね。そちらで、また会話いたしましょう。

どうぞお力添えをお願いします。

かわかつ さん 2006年 07月 09日 17時 27分 23秒

とみたさんん、こちらでお目に掛かるとはちょっとビックリ?。
多氏研究すすんでるようでなによりです。
香取にも鹿島にも多氏や大生部が出てるのですか。製鉄氏族ここにありっていうところですが、ついでと言ってはなんですが、坂合部も同族ですから一度、調べてみませんか?

かわさき さん 2006年 07月 09日 11時 38分 25秒

tanさん、とみたさん

常陸風土記には武甕槌神は出てこないけれど信太郡にはフツの神が出てきます。大野七三氏は鹿島の神を饒速日命(香取もですが)と言っています。石上神宮の布都御魂他を総じて陰陽本紀の「鹿島大神即ち石上布都大神是也」をその根拠としているようです。ところで鹿島神宮で玉(魂)振り(例の一・二・三・四〜ゆらゆらと〜」が行われているらしく今度確認しようと思っています。そして鳥見でも・・・。

ここらへんは文献史学上だけの事なのでtanさんのおっしゃる様に遺跡・古墳類の考古学上からもアプローチできればかなり面白い妄想が膨らみそうです。

tan さん 2006年 07月 08日 22時 57分 06秒

とみたさん
美濃でしたか、名古屋は昭和区港区に住んだことがあります・・・、、同様流れ者です^^。流れる途中の時間が限られている方がその土地を精力的に探索するみたいです。


かわさきさん
そう、常陸国風土記に武甕槌は出ないですね、式内社考には「つくられた神」とあったようです。
そういえば『日本の神々』日立あたりの執筆者はたしか志田純一さんでしたね。彼のレベルで印幡が書かれているといいのに、と思ったですね『・神々』の印幡は新しい情報が得られなかった。
物部というか、香取から側高、大戸あたり遺跡・古墳の精査ができると時系列である程度組立てられるかも知れませんね。


とみた さん 2006年 07月 07日 09時 49分 04秒

tanさん 千葉にも同好のというかその道の先人が居てありがたいです。

私も、流れ者(笑)でもともとは尾張美濃の出なのですが柏に居ついたんです。

地元の古代史会は、諏訪とか吉備とか上毛野とか流れ者の集合です。


布施でなく布佐ですね。成田線に駅があった気がしますね。木下はこの前、貝層を見てきました。香取湾の名残ですね。

小林恵子さんの説は文春から出ているそうですね。アジア史は、環日本海の視点で見るべきということを仰ってましたね。これは私も賛成です。

扶余は江上波夫さんの騎馬民族征服説でも日本人の支配層のルーツですね。

扶余あたりのツングースである高句麗、鮮卑との関係や靺鞨などとの絡みはそれなりに注目しています。継体も九頭竜あたりと関係がありそうですね。

信州へも、馬の民が入っていたかもしれません。
小林恵子説では、神武、天武、聖武・・など武が諡号につくのは高句麗人といってますね。

白=扶余なんですか。先日小林恵子さん自ら、4人組の聴講生に本をいただきましたので読んで見ます。

シルクロードの民は大分追っかけております。



tan さん 2006年 07月 07日 01時 02分 52秒

とみたさん

言葉不足で、誤解かも、ですので、補足します。

>布佐これは利根川沿いの布佐弁天があるところですね。・・
#これは、柏市の「布施」弁才天のことでしょうか。だとしたら、、
で、なくて、10kmほど下流の我孫子市東端の「布佐」です、ナマモノ街道で有名?な松戸までの道の基点あたりです。
柏市の布施弁天傍の弁天古墳(前方後円墳)から房総だけの?流行である「石枕・立花」が鉄剣、石製模造品、陶磁器などと一緒に出土しています。姉崎あたりから柏市近辺、の出土地など興味深い場所ですね。
小林「惠子」氏:突厥、鮮卑・・は省きますが。鹿島の伝承に関連して、白=扶餘、とか埼玉稲荷などに関連して、日本海から直接関東に流れてきた、との可能性を説いています。これなどは十分検証に値するのでは、と思っています。
特に傾倒しているわけではないですが一部の方のように「とんでも」と一笑に付すのはどんなもんでしょ、と思っていますが。。


とみた さん 2006年 07月 07日 00時 00分 05秒

tanさん これはこれはありがとうございます。

私は、まだヨチヨチ歩きですが、徐にいろんなところに首をつっこんでおります。

飛鳥へ行ったり葛城へ行ったり、北九州へ行ったりさまよっております。

地元で古代史ロマンの会というアマチュアの会を立ち上げましたので、千葉県の郷土史も掘り起こせればという考えで房総の古代の謎にアプローチし始めたところです。
よろしくご指南ください。


総のフサにはいろいろな説があるようですね。

忌部氏が阿波から麻を持ってきて房総で栽培が成功したので、フサ。

川を塞いで湖沼が出来たので塞ぐのフサという説もありますね。

布佐これは利根川沿いの布佐弁天があるところですね。これもフサの名の発祥地ですか。有名な弁天ですね。

小林恵子さんの講義を千葉市の朝日カルチュア・センターで4回地元の仲間と聴きましたよ。

東北アジア史全体で日本の歴史を見るべきという仰せはそれなりに分かるのですが、聖徳太子は突厥人とか神武、崇神は高句麗や鮮卑慕容氏というのは少し理解が及びません。

志田さんの本は読んでみることにします。

蝦夷の本は先日読みました。

またいろいろ教えてください。


tan さん 2006年 07月 06日 21時 43分 56秒

こんばんわ とみたさん

房総と忌部、オオ氏。おもしろいところです。
大生神社あたりは古墳を探しながら歩き回り地形なりみるといろいろ妄想たくましくできるところです。対岸の沼尾社旧地、西の麻生神社とか西浜あたりの砂鉄とか。。
息栖は近くの日川など斐川かなど近所を周りましたがヒカワではなく「ニッカワ」で他の情報からも出雲との関連は感じられず、といったところ。10年前の話ですが。
オオ氏に関連が深い東京湾岸の飫富神社から大生神社まで銚子あたりを含めた上下海上国を合わせた大海上国が一時期あったのではないかと思います。

香取第一摂社、側高神社は昔、陸奥より馬2千頭を捕らえ協力とあり、散在する側高神社の祭神には、天日鷲命とか彦火火出見命を主とする所がありますが「祭神を秘して語らず」という所があり、これが本来だろうと考えています。鹿島の高房神社も似て、利用され切り捨てられた先住の神だろうと思います。

日鷲を祀る社の立地をみますと、前線基地の実働最先端砦といったイメージが浮かびます。物部の神の荒魂とみなす方も居ますが似たイメージだろうと思います。
蛟もう神社南西の布佐に竹内神社がありますが、この辺りの社には「総(フサ)」の名の発祥はこの地であるといった伝承をもつ所もあります。ここも奥の台地に大型古墳がありその先端に布佐があります。

利根川から茨城にかけての話は「志田諄一」(茨城キリスト教大学教授)が文献とフィールドワークから考察をしています、適当な題名の本を読まれたらいかがでしょう。
異なる切口では「小林惠子」もおもしろいです。



かわさき さん 2006年 07月 06日 19時 42分 05秒

とみたさん

鹿島の神についてひとつ。
常陸風土記に「天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせてすべて鹿島の大神と言う」とあって武甕槌神とは言ってはいないですね。大生神社の武甕槌神鹿島遷座でも元々の文献は「羽入氏書留由書」に「今の鹿島は大同元年・・・御遷座也」が根拠となっています。それでは昔の鹿島は何だったのでしょうか?
ここらへんの下りは「日本の神々11」にありますので目を通すと良いかもしれません。

とみた さん 2006年 07月 06日 15時 41分 43秒

かわさきさん 先ほどのメールの返信で、大変失礼しました。

いつもかわかつさんと、別の掲示板で会話してますので、つい手が滑りました。お許しください。今まで気が付かずにおりました。

どうぞ、これからもよろしくお願いします。

とみた さん 2006年 07月 06日 12時 51分 25秒

かわかつさん とみたです。

まさしく救いの神ですね。

俄か勉強が高じて、古代史ロマンを探訪しはじめましたが、例によって立ち往生が続きます。
地元柏の古代史サークルで香取神社へ行きましたが、経津主神を祀ってあるがもともとは天日鷲命で忌部だと仲間の一人がいう。そこで安房神社を調べても天富命これも忌部ということで・・・忌部が気になり飛鳥近くの忌部町とか、天太玉命まで遡ったところです。神社の系譜という新書を開いたら、鹿島神宮ももともとは潮来の大生神社の祭神が武甕槌神でそれを鹿島神宮へ移したと書かれていました。オホはオウで多、大、太、意宇、意富、大生などいろいろな漢字ででてきます。一番有名なのはオオタタネコですけれど・・・

この本では、出雲の意宇のオウと鹿島のオホは同根ではないかということでした。

潮来には大生古墳もあるとか、房総、常陸は忌部とオホ氏が絡んで居る。

川崎さんのメールでも印東の麻賀多神社の宮司は多氏の末裔と書かれていて、さもありなんと心強く感じました。

忌部氏は出雲の初代国司ですね。

意宇氏は国造ですね。何か関係がありましょうか。

埼玉の氷川神社もスサノヲを祀って出雲系です。

信濃の人は俺は多氏系だと言ってました。神話ではオオシは神武の長男の神八井命でして九州の出のような気がするのですが・・・

任部というのは仁生部と同じく、養育係の部でしょうか。
そうそう、側高神社は香取神宮の摂社ぐらいしか知りません。鹿島の摂社が息栖神社、深い謂れがありますか教えてください。

先日勝田台の文化セーターで弥生式土器のセミナーがありましたでしょう。
印旛の土器だそうですが、オホ氏や忌部の祖先でしょうか。

市原の神門4号墳は纏向石塚と同時代の3世紀と古いものだそうですね。
何かつながりがあるのでしょうか。

駆け出しの素人ですから何でも教えていただければありがたいです。

下記は、今朝、神奈備さんへ出したものです。



茨城の夜刀の神で有名な行方郡にも玉造り。忌部は祖を天太玉命とし玉造で祭具を製造していた氏族でもありますね?四国から発し房総へさらに常陸へも行ったのでしょうか。忌部は出雲の意宇でも玉造りをやっています。初代出雲国司でもあるし・・・

夜刀の神は、霞ヶ浦湖の入り江に先住していた民の神。この神の妨害をなだめ懐柔しては干拓した。この地を継体天皇時代に麻多智が入植、孝徳天皇時代の壬生連麻呂まで干拓した。この功績で国造になった。


鹿島神宮近くの潮来にはオホ神社があり、これが鹿島神宮の祭神の武甕槌神の元祖だとも言いますし・・・このオホは出雲の意宇のオホとつながっていると言う人もいます。



埼玉は武蔵国で氷川神社が沢山ありスサノオを祭っています。出雲の翳が房総も含めて多いと勝手に推量しています。日向一族系図〔原田常治)によれば出雲国造の祖である天穂日命の子孫の武比良鳥尊の後裔に武蔵国造と千葉県の国造が出てきます。大宮氷川神社は武蔵国の一宮で、社家の西角井家は景行天皇の時スサノオを奉じて武蔵に移住し成務天皇の時朝廷から国造に任命されたとあるそうです。


かわさき さん 2006年 07月 05日 21時 40分 16秒
URL:http://www14.plala.or.jp/nikorobin/katorikasima.html

とみたさん

はじめまして かわさきでございます。私もこの業界(?)に入ってまだ1年なのでよろしくお願いします。
武闘派(笑)の神奈備さん掲示板も拝見しましたが、ご質問の主旨は香取鹿島周辺域での忌部氏・多氏に付いての情報でよろしいのでしょうか。私も香取神宮が物部系の祭神なので一応ページの準備だけはしてあったので↑に載せておきました。

忌部氏ですが香取の隣りにある側高神社の事は既にご承知の事と思います。天日鷲命が祭神ではないかとの説がありますが、この側高神社の分布も面白くて香取を中心に南から西にかけて分布しています。(分布図も載せてあります↑)四国から安房へ渡った忌部氏がそこで移動を終わらせたとは考えられず、系図では鹿島千勝神社の神職にまで広がっているようです。私もある時期にインバ=インベではないかと言う妄想が広がりましたが何ら論証を見出せませんでした。

多氏ですが印波国造が多氏の出で、その後、この地に生部(壬部)が広がっていきました。古代氏族系譜集成ではこの生部が多氏の氏族としております。また印東にある麻賀多神社宮司家もやはり多氏の末裔を称しています。私は香取郡に付いては詳しくはないのですが、やはり生部の分布が著しいと聞いたことがありますし、常陸の仲国造も多氏の出であったと思います。

この程度の情報でお役に立ったかわかりませんが、具体的なご質問がございましたら掲示板へでもお願いします。

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