・掲示版 書庫
stan さん 2003年 10月 04日 15時 08分 55秒

「湯沐」
BC196の出来事ですか、知りませんでした。
湯沐邑の文字は中国二十五史では周代が初見のようで、都や王が祀りする近くに湯沐邑をつくった様です。
その邑の規模ですが日本での皇太子の湯沐邑の規模は”2千戸”らしく、皇太子(東宮)の持分は全体で1万5千戸程(大化改新後に中大兄が天皇に返したという仕丁534口から)。
多臣品治ですね美農の湯沐令。

>と歴史をたどっていくと地球一周してしまいそう〜
#ですねぇ〜。。東海の島も単独では歴史は動いていないですね。

>殷から朝鮮半島へ亡命した王族と・・
#いわゆる古代氏族がおく祖は中国と半島のソレですね。縄文から日本に居たという伝承を持つ氏族は見当らない(菟狭氏の伝承にありますが)。天皇側近・高級官僚とも皆渡来者なんですね。。
殷は縄文との類似点を色々指摘する論もありますし、衛満以前の箕の行方もよく分っていない。充分ありますよ可能性、殷もインドも。

しゃくやく さん  2003年 10月 03日 18時 42分 42秒

>「とうもくのゆう」この前後はありますか?

「BC196年」、の出来事という年表に載っていました。

「湯沐令」さんも、探した時に出ていました。多臣品治のことだそうで、その子が
大安万呂ってなっていました。。。古事記の方ですよね。

さすが中国の歴史にも詳しいんですね。赤い旗は、源氏に繋がるのかしら?
中国、朝鮮半島、さらにはインド・・・
と歴史をたどっていくと地球一周してしまいそう〜
到底無理かな・・・私には。

ちょっとだけ、スサノウはインド辺りからやってきたのでは?って思っています。
(感です。)根拠はこれから、見つけないとなのですが、、、笑
歴史を細かく知らないので、途方に暮れてしまうことばかり・・・
最終的には、殷から朝鮮半島へ亡命した王族と・・・にたどり着いたり。ハイ。

stanさんは、今何か研究中ですか?


stan さん 2003年 10月 01日 22時 39分 47秒

こんばんわ
>湯沐邑。。。なんて読むのだろうと調べていたら「沛は、劉邦の湯沐のく邑くとなる」なんて出ていました。(意味わからないけど)
#「とうもくのゆう」この前後はありますか?或は辞書ですか。
※漢辞海という辞書には、
・湯沐邑とうもくのゆう:周代に諸侯が天子にお目通りするとき宿泊して身を清めるための領地(礼,王制)。皇后や皇女が天子から与えられた領地(この地の租税を沐浴や化粧の費用にした)
・沐:洗う。(沐=髪を洗う。浴=身体を。。洗=足を。。)などでてます。

日本では、太子・皇后などの養育の為とか化粧の費用とかの為の直轄地、といった感じですね。湯沐=産湯といった意味の使い方も見られます。天武40の記事にでる「湯沐令ゆのうながし」はその地の管理人といわれますが「湯人ゆひと」との表記が多いようです。
古事記では、子の本牟智和気ほむちわけ)の為に大湯坐・若湯坐を定め、とありますから古くから養育費用捻出の地はあった訳ですね、なんと呼ばれていたかは確定していないようですが「コホリ」ではないかとの論があるようです。

劉邦の故郷は「沛」で若いとき当時の沛公に使われ、その後、本人も沛公になり、”故郷に錦”で宴会やら帝になってからは儀式を大々的にやったのでしょうね。劉邦自身、楚人であるといってますし、この沛の地は道教の本場。
天武も各種儀式や真人の姓などやってますし、劉邦と同じく赤い旗と軍服(記序文)を使ったようで、さらに秦の後継を自負した劉邦に重ねていたのでしょう。

すごいですよね昔の技術、今の高層ビルにも生かされているとか。
高句麗、新羅、百済、皆さん同時期あるいはずらして大挙してやってきてますね古代の日本は開かれたクニだったのですね。


stan さん 2003年 10月 01日 22時 39分 08秒

 moonさん
 仕切り直しの連絡ありがとうございます。
早速伺いましたら、なんと某師匠が既に! ^^。 50番あとを狙います。

しゃくやく さん 2003年 10月 01日 10時 41分 26秒

おはようございます。
天武天さん、結構なぞが多いのですね。
湯沐邑。。。なんて読むのだろうと調べていたら「沛は、劉邦の湯沐のく邑くとなる」なんて出ていました。(意味わからないけど)
漢(中国)の言葉?なのかしら?
断定できないのが、「現在の正解」なのではと回答を得ました。

今「奈良の寺」と言う本を読んでいます。
法隆寺の五重の塔の免震技術は、今更ながらすばらしいですよね。地震大国の人間にしか考え付かない工法なのかなと。
高句麗の技術者がちょっと関係していそうな雰囲気が載っていましたが、
(高句麗あたりでは、そんなに地震がないように思われるのですが・・・)
法隆寺建設にあたって、高句麗の方が携わっていた事は、確かなようですね。
どうも敵のイメ−ジが強いのだけれど。
では、また♪






moon さん 2003年 10月 01日 01時 17分 31秒

カウプレキリ番で欠番が出ていましたので、仕切直しの
設定をしました。師匠のところほど魅力的ではないですが、
お時間ができましたら覗いてみてください。(^^;)

stan さん 2003年 09月 29日 23時 50分 59秒

KENJIさん 
連絡ありがとう、助かります。多分明日あたり着くでしょう。楽しみです。

stan さん 2003年 09月 29日 23時 50分 26秒

 こんばんわ しゃくやくさん この時間だとおやすみ、でしょうか
「系」は太陽系、自民系、縄文顔系などいろいろでして。。系の意味は「血筋」と「繋がり、関係有」ってことでしょう。
天武の血筋に関してはまだ未熟で断定できません。色々論がありますが、天智の生没が記載されているが天武は不明とか、天武の時にしか見られない語が結構あるとか例えば湯沐邑とか、国内初めてと思われる行事が多いとか、皇親の強力推進がみえるとか、直接の子供が死にそれで血筋が絶えるほど痕跡が短いとか、同母とあるが同父とはないとか。。面白いといえば面白いところです。
兄弟で百済系と新羅系というのはそれ事体は、兄弟で自民と民主とか応援してくれる相手が違う、といった感じだとムリがないですね。
また作者の中には、百済、新羅系を血筋のソレとして論じる人もあるでしょう。

いやいや
>天皇の血筋、これ自体むずかしいですが。。。
#これですと未熟者さんは既に卒業済ですね^^。わけわからんのは私も一緒です^^。

KENJI さん (ha4da@zeus.eonet.ne.jp) 2003年 09月 28日 16時 14分 08秒
URL:http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/

今日、版画を発送しました。明後日辺りには届くと思います。
封筒ギリギリの大きさなので、開封の時には気を付けて下さい。

しゃくやく さん 2003年 09月 24日 18時 08分 27秒

こんばんは〜♪
ここに来られる方も、みなさんすばらしい方達ばかりですね。
それぞれ、研究目標があって、、、

>百済に比して新羅と言う表現でしょうか
  
そうです。その本では中大兄皇子が百済系で、それに対してというものでしたが、でも兄弟ですよね。。。
でもこれって、作者の主観で作者によって「系」の意味が違ったりもするのかしら?

未熟者にお付き合い頂き、ありがとうございます。
感謝の限りです。






stan さん 2003年 09月 24日 00時 06分 14秒

こんばんわ 千葉さん。 ご報告ありがとうございます。
精力的ですね。スサノオ10社もすごいですが、さらに出雲の式内ローラーとは!感服!
再建はウン千万〜ちょっとした神社だと億単位とか、某社で聞いた話ですがケヤキのムク1本で○百万とか。。境内に竣工予算を掲示する社も結構あるようです。6年前の出雲美保神社の境内には総工費12億、浄財目標7億とありました。

万九千社も住宅に囲まれるのですか、日本の人口は増えないはずなのに。。田舎には廃屋が増えるのでしょうね。

関東の社は利根川に沿って香取、西に氷川、その間を久伊豆神社と南北に長く分布密度が高いですね。そういえば出雲の古社には畑(田)の中の小さな林そのものが社というのがいくつかありました、昔から大きな建物は無いとか言われてたですが。モリでしょうか

10月には千葉の式内も完全制覇ですね。式内麻賀多には2社の候補があり、麻賀多と名のつく社は結構あります。
老尾は境内・社が女性的あるいは男性的印象、どちらか感じられたら教えて下さい、物部氏関連は間違いないところですが、追帆とする論も有ります。

 <↓ダブリ分片方削除しました。>

stan さん 2003年 09月 23日 22時 39分 44秒

ありがとう。これで作品シリーズが欠けないですみます。
毎度お手数おかけしますが、ごゆっくり仕上げ下さい。

さらにお手数おかけします。>結果的に2枚分getしてしまいました。^^;

千葉ちゃん さん 2003年 09月 23日 22時 31分 53秒

stanさん,今晩は。
金曜と月曜に休暇を取って,また出雲方面に行って来ました。今回はスサノオをテーマに回る予定で訪問する神社を10に絞っていたのですが,せっかく来たからと式内社ローラー作戦になってしまい,由緒がわからないままとりあえず訪問したものもあります。しかし,出雲といえども昔のままとは行かないようで,無理をして回ってきて良かったです。しかし,数がおおすぎます。

報告1 式内社弥久賀神社の本殿消失
平田市の物部神社にいく途中,国道9号線沿いにあるので寄りました。鳥居の奥に本殿が見あたらないので「ここは本殿がないタイプなのか」と近づいてみると,今年の三月に火災で消失したとの立て札がでていました。「氏子一同,本殿再建につくす」とも記載されていましたが,再建をするのにどのくらいの費用がかかるのかと,心配になりました。

報告2 万九千神社前,住宅用区画整理完了
出雲に集まっていた諸国の神様が旅だっていく万九千神社周辺は,最近までは田んぼだったそうですが,今は区画整理が終わって家を新築中でした。今年はまだ空地が多いでしょうが,近いうちに一の鳥居から二の鳥居まで,人家の間を歩いていくことになるのでしょう。

報告3 斐伊神社は小さい
私は埼玉県南部出身なので,氷川神社はどこにでもあるものと思っていました。しかしこれは大間違いで,氷川神社はほぼ武蔵の国にのみに分布するということ,大宮の氷川神社は斐伊神社からの分祠ということを知りました。それではもともとの神社を見ようと思い,やっと探し当てましたがかなり寂しい状態でした。ヤマタノオロチ館跡といわれている八本杉も,偶然見つけましたが,こちらも小さな公園という感じで,昔をしのぶのはかなり難しかったです。

10月の連休には,千葉の老尾神社と麻賀多神社を訪問し,千葉県の式内社巡りは完了です。

KENJI さん (ha4da@zeus.eonet.ne.jp) 2003年 09月 23日 17時 58分 29秒
URL:http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/

夜中のバトル、壮絶でした。\(◎o◎)/!
ですが、見事GET、オメデトウ御座います。執念ですね。(爆)
作品は只今製作中ですので、もう少しお待ち下さい。

それにしても、本当に凄かったです。(爆)

stan さん 2003年 09月 22日 23時 23分 54秒

 こんばんわ
疲れましたか? 様々な価値観で参加してますからね皆。多用な価値観は歓迎ですが、個の押付けとか盗人たけだけしなどあるとやはり疲れますね^^。
京都に限らず著名観光地のトナリあたりが好みで、社も神さんが暇そうとか寂しそうな時に行くのが多いですね。そういえば京田辺に薪能の発祥という薪神社、大きな寺の先の小さな社ですがなかなかの雰囲気でした。程近い山の上に神奈備神社がありひと山公園になってますが昔の坊址などもありなかなか、展望台も有りこれから紅葉の時期は賑やかなのかも知れません。

ケイ さん 2003年 09月 21日 13時 05分 50秒

 こんにちは
 昨日は、訪問ありがとうございます。
 京都、、stanさんの方が、詳しいです。
 東海自然道、、ですか。
 これから、気をつけてみようかな、、
 京都の町は、狭いので、車だと苦労しますね、、
 私は中部なので、かなり環境が違うのですが。
 自分の興味あることを掘り下げていく、、
 そういうことが、いいなあと思いました。
 ちょっとネットの世界にいることに、疲れていたのかもしれません、、
 何度も言いますが、、愚痴ですね、、ごめんなさい♪
 それでは、またおじゃましますね♪
 

stan さん 2003年 09月 20日 23時 18分 11秒

ケイさん はじめまして^^。

京都は意外にいろんな顔をもってますね、鞍馬から北山辺りの山里はびっくるするほどやまざとですし、でも一番ほっとする場所でしょうか身近に浅い流れの清流というのいいですね。京都ぐるっと東海自然道があるようですが歩かれた事はありますか。
hp本来の形って、いろんなカタチがあってこそと思います。個人が好きなようにカタチつくることなど思ってます、もちろん多所の丸々コピーを除いて。
そういえば、京都の社は少ないです渋滞につかまって右へ折れたり左へ行ったりがなんどかありまして^^。

ケイ さん 2003年 09月 20日 11時 36分 21秒
URL:http://www.h4.dion.ne.jp/~kk55nh/index.html

 stanさん、、こちらでは初めまして、、
 KENJIさんのHPでお会いしたケイです。
 こちらのページは、いろいろな文献が
 載っていますね。
 それと、神社の画像や紹介、、
 私も住んでいる京都の神社を拝見しました。
 また、ゆっくり伺います。
 じっくり、見せていただきます。
 HPって、こうして興味、関心を追求していくのが、
 本来の形なんですよね。きっと。
 夢を持ちながら、、
 そんな風に思いました。
 それでは、、またとりとめなくお話して下さい。
 
 

stan さん 2003年 09月 19日 23時 30分 38秒

こんばんわ 原田さん 

イコマ、クラガリのお話有難うございます。
生駒・信貴はかなり昔の記憶と5年ほど前に梶無神社近くに暫く居たものですから、懐かしい感が強いですが。ごぞんじ生駒西北麓は早くから馬の副葬などが出た所ですし、七夕の野の上流台地では珍しい中空3足土器がでたり、古代氏族の本貫地の多いとろで、河内を追えば古代の殆どが解けるといった場所かもなど思っています。
今思い出しましたが、住吉からの春分、夏至の風景、以前作ったのが有るはずですので見つかり次第upします。旧河内湖推測とか。。

stan さん 2003年 09月 19日 23時 29分 50秒

KENJIさん
お知らせサクンス。さてこの連休に出るでしょうか、なんとかPCにへばり付く様にします^^。

かなり昔の続きですが船の話。
気分転換にエジプト関連よんでましたら「はしけ」の大きさが出てました、オベリスクを運んだとかの船です。碑文とかに残る記録では全長31.5m・幅15.75m(BC2388-2356)、全長63m・幅21m(BC1504-1492)などがあり、壁画として残る積荷からの算出では全長84m・幅28m、最近のオベリスクの研究では全長95m・幅32m・総排水量7300屯の可能性が高くなている(BC1473-1492)。
エジプトの竜骨の無い木造船で63mは確実な記録で、3千年後の明なら100m超えは充分アリですね。
エジプトといえば葦舟(パピルス)ですが遠い南米チチカカの形を含めた類似は互いに素材があったというだけなのか、面白い所です。

stan さん 2003年 09月 19日 23時 28分 56秒

いやいや しゃくやくさん 
金星は何に仮託されていたかなぁと思い出せなくて。。輝星はキラキラ星の歌になったのかな。
輝に近い耀はなにかで見たような気が・・

出身、血筋。天武40は新羅系なのですか?百済に比して新羅と言う表現でしょうか。やはり文章の前後をあわせて読まないと。ですね。白村江の出張は当初高句麗を助けに行く為、といった読み方もあるみたいです。この時代の紀は三国史記よりはるかに詳細に書かれているのが面白い所ですね。

原田修 さん 2003年 09月 19日 22時 39分 57秒
URL:http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan

stanさま
ホームページをご覧いただきましてどうもありがとうございました。
ほんとに生駒山は見る方向によって全く違った山のように見えますね。
生駒山麓=河内は、私の郷土ですので、地元では時々高齢者?ばかりで、いろいろガヤガヤと勉強会をしております。
生駒山は、馬が寝そべっているように柔和で、・・・そうそう、生駒山って、その名の起こりをご存じでしょうか。コマ=高麗?=駒の山つまり、5世紀以降に山麓にはたくさんの渡来人がいて、大切な馬の飼育・放牧を行っていた土地柄から、イ=接頭語、駒の山つまり生駒山になったと考えています。これは自信のある持論です。
それからついでなのですが、大阪と奈良を結んでいた、暗越(くらがりごえ)奈良街道の鞍部である暗峠(くらがりとうげ)もいろいろな説がありますが、私の持論は、駒の上にあるものは?、それは「鞍」ですよね。峠は鞍部ともいいます。つまり駒の背にある鞍へ上がる道=「くらあがり」の道が「くらがり」になったと考えています。すみません。余計なことを。
これからどんどん生駒山に関わる歴史を勉強・探索して行こうと思っていますので、何かお気付きのことがございましたら、ぜひご教示くださいませ。ありがとうございました。はらだ

KENJI さん (ha4da@zeus.eonet.ne.jp) 2003年 09月 19日 21時 23分 31秒
URL:http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/

今晩は。(^o^)丿
私のHPも、25000番を迎えそうです。
で、毎度の切番版画プレゼントを計画しました。
stanさんなら、確実??にGETでしょうか。(^m^)

しゃくやく さん 2003年 09月 19日 17時 46分 18秒

こんばんは〜
とにかく謝らないとと、思って・・・

>香々背男-輝星王-金星王、
これって、私の創作です。。。ちょっと遊んでみました。
がはは! と笑い飛ばしていただければ、でした。
出肋檗◆◆◆ ォ(ノ>_<)ノ 萌

お地蔵さん、祟られそうなんて大人は思ってしまいますよね・・・
そうじゃないんですね。

全然話が違いますが、良く天武天皇は新羅系などと書いてありますが、
これってそこの国の出身あるいは血筋ってことですか?
それとも単に味方であるということなのでしょうか?
天皇の血筋、これ自体むずかしいですが。。。










stan さん 2003年 09月 18日 23時 58分 17秒

こんばんわ しゃくやくさん
>香々背男-輝星王-金星王、
#この2王のお話・いわれなどあります? 金星は聞いたような覚えはあるのですが。

>やはり、「日」が主の国なのでしょうか。
#やはり、ヒノモト、日本なのでしょう^^。 住吉大社では天御中主とか星神に擬する伝もあるようですが。

香取神宮は、和漢三才図会では祭神は「斎主で別名経津主とあり」常陸風土記には「天降った普都大神が・・」とあり、敏達30の時には物部小事が香取(楫取)を創建し経津主として祀っているようですが。風土記は藤原編纂といわれ小事のそれは資料が少ない。
「フツ」はその音から武の神としてかなり古そうですね。斎イツキ・イワイはさらに古いと思ったりしてます。
鹿島はたぶん出来た時から、春日は御蓋麓に移った時から、香取は後の時代、に藤原氏が主になったのではないでしょうか。鹿島の前身と云われる沼尾社は始めフツ大神を祀っていたとの論もあります。
そいえば「斎主神とは祈祷を以て妖星を降伏させる時の斎主を言う・・」という論もあります。
まあ藤原中臣氏に限らず広く他を管理支配するには広く取り込み自らを上位に置くといった処理は不可欠だったでしょう。

神社ではないですが、昔話に、子供達がお地蔵さんを転がしたり泥だらけにして遊んでいると大人が止めさせお地蔵さんをキレイにし隔離した、するとお地蔵さんがなぜ楽しみを邪魔する!と夢で伝えた。とこのあたりを神々と重ねていたりします。

stan さん 2003年 09月 18日 23時 57分 23秒

原田さん こんばんわ
生駒東大阪ですか、いい所ですね、麓の池にはカワセミが居たりしますね。
遮る物のない湾岸の高速から見る生駒は実に近く見えますね、山稜の形も場所により結構変ったり。大阪と奈良を展望できる生駒、それに比して調査が少ないような気がします。

生駒は徒歩で周った事がないものですから巨石の多さは分るのですがじっくり観察した事がありません。今後とも期待し拝見させていただきます。

しゃくやく さん 2003年 09月 18日 16時 43分 34秒

星神・・・そういえば、月読さんもあまり居ませんね。
やはり、「日」が主の国なのでしょうか。
香々背男-輝星王-金星王、宇宙人だったのか?(行き過ぎました(^_^;))

経津主ってそう、神社によっては(京都方面の)「斎王神」「伊波比主神」などの名前になっています、すると関東に来たのは不比等後なのでしょうか?
確か、香取や鹿島・春日神社って、藤原氏の氏神になるんですよね。
でも物部氏の伝承と重なるって事は・・・?
石上神宮の布都御魂との関係、、、?
ちょっと、頭が混乱〜

>気軽に遊びに行ってください。

は〜い、わかりました。ありがとうございます。
安心しました。





原田 修 さん (h1714@d4.dion.ne.jp) 2003年 09月 17日 20時 29分 12秒
URL:http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan

はじめまして。東大阪の原田と申します。ときどき「古代であそぼ」を訪問し、古代ロマンの世界を楽しませていただいております。
このたび大阪と奈良県との境にある生駒山主峰の南、鳴川峠の南方にある「謎の巨石群」について、ホームページを作成いたしました。結論的には古代における住吉大社の神領つまり神南備山であった証し「諍石」と考えております。ぜひ一度お訪ねいただければ幸いです。
http://www.h7.dion.ne.jp/~iko-kan

stan さん 2003年 09月 17日 00時 10分 19秒

しゃくやくさん こんばんわ
結界も面白いですよ、地図を見ながらこの神社マークはとか逆にこの辺りになにかありそうとか。城の東北に神社があったというのが多く関東でもよく目に付きます城外城内の立地を含めて小祠が多いですが。しかしバイパス等の新設で無くなったとか移動したというのも目に付きます。ある中心の鬼門といわれる東北東とその反対の裏鬼門南南西に位置する社は割と大きいのが目に付きます。京都でいえば叡山と八幡でしょうか。

星神にまつわる話は民話にも少ないですね。天の川の男女神は桓武50以降急に広まったようですが、公家(朝廷)が管理し傘下におけた星神は織姫くらい、という見方もできますね。
香々背男は訓みから、カカシ=少彦名ではないかとか、嗅ぐのカガシから縄文からの狩猟の神と重ねる、といったのもあります。

経津主といえば香取神宮ですね、さすがに関東には多いです、物部氏の伝承の有る所には特に。経津主の名はわりと新しいという見方もあり不比等以前は普通名詞に近い「大人うし」とか「斎主いわいぬし」だったかも。

神社の域は、先祖の墓が多いと思いますがやはり八百万の神々が強い場所と思います。杜は参詣者を映す場所ではないかとも思います、本人次第といいましょうか。私は悪霊は嫌いですのでまだお目にかかってませんが”出る相手を間違っている(祟るべきは今は霞ヶ関^^;)”といった気持でいます。
お参りの際の注意は普通というかあまり構えません。社の殆どは社の方地元の方が保持されてますのでお邪魔しますといった感じでしょうか。参詣者の少ない小さな社ではゴミ払いなどしたりはします。
まあ社は神々が微笑んで子孫を見守る場所と思い気軽に遊びに行ってください。

しゃくやく さん 2003年 09月 15日 12時 43分 29秒

stanさん、とっても詳しく教えて頂きありがとうございます♪
結界って、あの三角形で囲むとか言う術のことですよね。
忍岡の稲荷は、知りませんでした。今度探しに行ってみます。。。

香々背男って、ちょっと変わった名前ですよね。(呼びにくい)
星神がとっても強い武神をイメ−ジするものだとしたら、この方もものすごく強い方
だったのですね。関東の帝王だったのかしら?
一度、お会いしてみたいなぁ。

経津主の神社、香取神社が千葉東京にはたくさんあるようですが。
(他は、知らないので・・・)
バリヤ−でも、張ってたのかなぁ、なんて。

神社も神霊という部分で、恐いこともあるような話も聞いた事があるのですが、
本当でしょうか?
お参りするにあったって、注意する事なんてありますか?




stan さん 2003年 09月 13日 18時 58分 48秒

 タケトラさん、先ほど気づき旧掲示版よりこちらへ移動しました。楽某一家さんよりは離脱^^;故でお手数おかけします。 こちらhi-hoも変るかもですが、Topからのリンクは切れないようします。

『古代水辺の民』
壮大なロマンですね、文明と水の条件は密接ですね、エジプトも舟・船と非常に密接ですし。しかし古代文明の発祥はどうも突然といってよい出現ですね、エジプト、アッシリア・・

>遊牧民の発生や漢民族の出現(その後の民族移動)、
#このあたり、どんな表現をしてますでしょうか。漢民族は黒海ー北回廊といった具合でしょうか。
古い時期の天文航海術は興味深いですね、既知の場所でなく遠い未知の海上で天文を充分に利するには経度緯度と精確な時間が必要ですが、この辺りはどう処理したのかとか。

総代ご拝命、おめでとうございます。
恐らく全国で一番お若い総代さんでしょう、特に式社では、今後とも大変とは思いますがお元気でご活躍ください。私でお手伝いできそうなことがありましたらご用命ください。


stan さん 2003年 09月 13日 17時 05分 09秒

しゃくやくさん こんにちわ^^。
神社の殆どは狭くなってますね、広くなったのは橿原とか近江の神宮などでしょうか、東京では確か水天宮?とかが武家の邸内社から大きくなったとか。
上野は正三角に波ですか、ミツウロコは鎌倉の銭洗弁天さんも使っていて境内には波着の三つ鱗を使う社もあります。三角は竜・大蛇(オロチ)の表現とするのが一般的の様ですが、古墳の石室内に描かれた流れで「生」の象徴とする見方もあるようです。弁天信仰は三浦半島・江ノ島を中心として強いようで河川に沿っても女性を祀る社が目に付きます。江ノ島の展望に良い立地の小動神社は弁天ではないですが妙なる女性と遭遇した佐々木氏の創立で神紋は沙沙貴菱を使っています。

天海は江戸を四神相応の地にすべく日光までを含めた大結界を創りあげたとかですね。
天海と上野を抜きだしますと
−−−
 東叡山寛永寺、天台宗、1万石。円頓院と号す。台徳院殿(2代秀忠)建立、開山慈眼大師
この寺は法親王大准后の御門跡で、比叡山、日光山をも兼ねて統括する。坊舎31ヶ寺がある。
・慈眼大師「いみな」天海、「号は」南光房法印、「姓は」三浦氏。奥州高田郷の人、11才で本邑(高田郷)(竜興寺の)弁誉(舜幸)師のもとに入って剃髪し、顕・密の2教を学び、3年して宇都宮にいって(粉河寺の)皇舜僧正に謁した。
「天文年中(1532-55)実全(比叡山、神蔵寺)に従い天台教を学び、また、倶舎・法相を円城寺「滋賀三井寺」の尊実に学んだ。甲斐の信玄は天台の諸師を招いて論議させたが、天海は講主となり衆はみな感激した。のち、常陸の河内ヘ招かれ不動院に住。「文録2(1593)」夏、日照りを雨ごいし。
「慶長4(1599)」仙波(川越)の喜多院に住し、宗光寺に移って法華を講じた。東照君は命じて天台・南光坊の住持とし、駿府に招かれ家康に天台の要旨を説いた。
「寛永2(1625)」秀忠公は東叡山(寛永寺)を開き天海を開山とす。同年家光公が病するが天海は癒す。(1639)長楽寺を建て日光山の木塔を石に改めた。
寛永20年(1643)10/2死去。影堂が日光、東叡山、天台山(比叡山)の3所に建てられた。
−−− 以上和漢三才図会より抽出。
叡山に内部紛争があり家康に調停を依頼し、家康は天海を派遣する。これが天台をとり込んだきっかけらしい。
 不忍池は江戸時代に比し地形の変化は少ない様です。池の東北にある忍岡に稲荷がありますが、これは信夫(しのぶ・久慈郡)の狐だろうと思います、利根川北の信夫の狐と三浦の弁天、それぞれの地区のメインの信仰をとり込んだのではないでしょうか、また日光を含む大結界のミニチュア版を上野の森の中にも創ったのではないかと思います。


 香々背男、たしか古事記には見られない神ですよね、書紀1書に「・・天に悪神あり名を天津甕星と曰ふ亦の名は天香背男・・」とありますから天系ですね。しかし系譜不明ですね。
縄文からの神を擬した人達は居たと思いますが、縄文の古い時期は日の出、日の入りの東西の意識が強いようでメジャーではなかったと思います。
紀では星神を誅伐したのは大人(うし・経津主か?)とか倭文神と建葉槌。ところが「古語拾遺」では、天羽槌雄神は倭文遠祖とあるのですね。倭文の麻(布)の強さを強調したり伝承に多い植物を伝い天に登るとかありますが、どうも突然星がでてくる感じです。
星は古墳に限らず史書にも多くの記述があり結構身近にあったと思いますが、中国を含め不吉の予言の象徴という使われ方が多いです。
道教・陰陽道・占に使う為に神先祖としイメージを固定するの記述を避けたのが星神の少ない理由かななど思ってます。後に唐の時代には北斗七星=帝王のイメージが固まり、さらに後に、星=強い=武神として最適となったのが平安も終り頃、かななど思います。

しゃくやく さん 2003年 09月 12日 14時 14分 27秒

とっても、お待ちしていました。。。\(・o・)/
この間、江戸時代の東京の地図を購入したのですが、今と昔、随分狭くなってしまった神社があったり、名前が変わっていたりしている事がわかりました。
三つ鱗、いろいろありがとうございます。上野にあったのは、しっかり正三角形でその下や回りに波が描かれていました。(写真撮ってきたので)でもあれって、天海さんが建てたんですよね。。。
なんだか、その辺がすっきりしなくって。。。
あと、一つ、香香背男=天津甕星ってことは、この神様は、天孫系になるんでしょうか?悪神などとされていますので、縄文古来の神様なのかと思っていたのですが、ちょっと疑問に感じたので・・・

stan さん 2003年 09月 12日 00時 06分 34秒

しゃくやく さん はじめまして
これだけレスが遅れると、見て戴けるかな、、です^^;

神社は昔を知る手段としては有力な手段です、と思います。身近な社でも200年とか500年前の石碑などが無造作にあったり、千年以上前だと屋根とかで保護されてあったり。これらに直に触れられるというのはなかなか他ではないです。

上野忍不池の弁天堂は三つ鱗でしたか、何度か前を通っているのですが酔った時だけだった(のかな)。
ミツウロコの紋は、鎌倉の始め北条時政が江ノ島に参詣し美女が現れ大蛇となり海中に消えた、そのあとに鱗が3つ落ちていてこれを紋とした。という伝承があります。北条早雲以後の後北条氏も三つ鱗を家紋としてます。
後北条氏のソレは鎌倉北条に気兼ねして少し扁平だとか言われますが、鎌倉北条は正三角が多い、後北条は扁平が多いといった程度の様です。
静岡から神奈川辺りのお寺さんに結構この紋が見られます。


stan さん 2003年 09月 12日 00時 05分 40秒

KENJIさん、ありがとうございます。
さすがお盆は管理人不在と読んでらっしゃる。今後ともよろしくお願い致します、感謝!。↓こんな訳で、今年は更に長期になりました^^; 

信州一人旅、ニアミスでしたか! 穂高神社へ再訪と思ったのですが野暮用発生で取止めでした。

10人10説、これですね! ある一人が或所で”オレは源氏の末裔”別な所で”平家の末裔”これは共に事実は有、ですね。最も万世一系は日本国民皆親戚に近い薄さでしょうけど。

stan さん 2003年 09月 12日 00時 04分 37秒

こんばんわ、jyasyさん、遅くなりました。

当hp資料のご利用有難うございます。

神武即位のAD61は目安として載せてます、根拠は、「古代で<遊>ぼ」の6章に川上さんの試論として掲載してます。ザックリの説明ですと後代の天皇在位・年齢などを推定在位年数とし継体26以前の記紀の年代を比例させたものです。記紀の干支は事実かどうかの問題もありますが辛亥とか特別なモノは合せた可能性が高いのではと思います。
”神武とはオレのことかと神武言い”という川柳がありますが江戸の方々は実にするどいと思います。神武がどこの誰かは別にして代の人数を溯っての年代としてはAD61辺りは一つの答として妥当と思ってます。

私自身は幾つかの波・東征(移動)を抽出したものだと考えてます。その考えられた事蹟のメインは意外に記紀編纂に近いのかも知れません。
前方後円墳が東北まで広がった3ー4世紀代。それ以前の方形周溝墓という墓制としては国内で恐らく一番広がりを持つ形態。前方後円墳の時代の記憶伝承は記紀に採り入れられていると思いますが、周溝墓の時代はどうでしょうか。
今のところ大坂四天王寺から旧大和川に沿う一帯を荒陵の表現は周溝墓の時代からあるのかも知れない(など)。といったところです。


stan さん 2003年 09月 12日 00時 02分 11秒

moonさん、お久しぶりです^^;

出先で、my-NotePCが壊れなんとint-netとご無沙汰でした。
そんな訳でカウプレキリ番、先ほど訪問したしたら12362,残念!
ひと月以上の無沙汰はやっぱり浦島ですね。


タケトラ さん 2003年 09月 04日 22時 08分 05秒
古代水辺の民   先月出版された『古代水辺民の物語 太陽の生まれる楽土を求めて』(倉富春成/著 彩流社)を読みました。『縄文人 はるかなる旅の謎』と通底する主題を大胆な推論で論考した面白い書でした。数年前に『一万年の旅路 ネイティヴ・アメリカンの口承史』(ポーラ・アンダーウッド/著 星川淳/訳 翔泳社)を読んでから、原日本人形成の旅路に想像をふくらませていますが、ひとつの仮説を提供してくれます。

 ある水辺の焼き畑民が製鉄技術を(焼き畑作業に関連する偶然の発見と創意から)既に体得していたという仮説と、高度な磨製石器の加工技術との関連、さらに双胴船による地文航海技術への結びつきという推理は、大いに興味をそそられます。

 遊牧民の発生や漢民族の出現(その後の民族移動)、ならびに南洋の焼き畑芋作民の発生(そして、天文航海技術の発展、その結果としての中南米の巨石文明)は、テーマが大きすぎるので本書での紙幅では雑ぱくに過ぎますが、示唆に富むものだと思いました。

 ところで、この度、式内名神大社「楊原神社」ならびに「大朝神社」の氏子総代に選任されました。他のお歴々はほぼ全員還暦を過ぎた大先輩ばかりなので、いやはや、僭越で恐懼する次第ですが、日ノ本の教え復興のために微力を尽くす所存です。


< # 旧掲示板より、日付位置を合せ移動しました。9/13 管理者stan >

しゃくやく さん 2003年 08月 18日 15時 43分 22秒

はじめまして♪
昨年神社に祭神なるものが存在する事を初めて知り
古事記に関心を持ち始め、
あちこちのホムペをむさぼる事しばし、そして
日本人って、誰?などという巨大な壁にぶつかってしまい
さらには、あらゆる「説」があることを知り
知識もなくうろたえていましたが、
「古代であそぼ」を読んで、なんだか指針を見つけたような気がしました。
これからは、神社とその歴史に触れ合って古代のパズルを
楽しんでいきたいと思っています。
s-tanさん、皆さん、よろしくお願いします〜。

古代ではありませんが、
上野の忍不池に弁天堂があります、お賽銭箱にある神文は、ミツウロコです。
これは、北条氏のものですよね。
江戸時代よりも前からあるって事でしょうか?
また、古墳もあったり結構楽しいです。


jasy さん (jyasy15@hotmail.com) 2003年 08月 13日 11時 30分 31秒

to Kenji san
神武天皇の即位時期について、早速、コメントありがとうございます。
日本書紀によれば(神話の世界ですが)神武の即位は、BC711となってます。
これまで、それがAD61年というデータを見たことがなかったので、大変興味を持った次第です。そこで、何らかのデータなり根拠があれば是非知りたいと思ったわけです。
もし、何かの機会にこの問題に関する資料を見かけましたらご一報いただければ幸いです。
以上

KENJI さん (ha4da@zeus.eonet.ne.jp) 2003年 08月 13日 10時 54分 17秒
URL:http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/

信州に、一人旅に行ってきました。主に峠越えのドライブばかりでしたが、温泉に浸かったりして、ノンビリしてきました。
着いた朝、早過ぎて何処も開いていなかったので、穂高神社に行きました。
放し飼いの鶏が彼方此方で鳴いているのが珍しかったです。
今夜から、今度は、山に登りに行きます。穂高岳です。(^_^)v

jyasyさん、初めまして。m(__)m
管理人ではないですが、この時期、s−tanさんも直ぐにはお返事できないかもしれませんので、僭越ながら、補足(?)させて頂きます。

神武天皇の即位が、西暦61年は間違いでは無いかとのご指摘ですが、私の考えで(管理人さんの考えでは有りません。)は、神武天皇自体、存在が否定される説が有るほどです。
又、万世一系と言われる天皇系譜も、??物で、王朝交代が何度か有った様です。
其の中での、「正しい」即位年号など、どの様にして判るのでしょうか?
只、イロンナ説が有るのも知っていますので、管理人さんも其の中の一つを、多分(推測ですが。)一つの説として取られたのかと思います。

時期が時期ですので、直ぐに、ご返事を書ける状態では無いかもしれませんので、僭越ながら、書かして頂きます。

10人寄れば、10の説が有っても良いのが、古代史ではないでしょうか。
あまりに酷い説は、勿論、論外に成りますが。

jyasy さん (jyasy15@hotmail.com) 2003年 08月 12日 11時 14分 46秒
URL:http://www.ttmy.ne.jp/~oyasugar/kaiketu/

先日、弥生時代について調べるため、資料検索していてこのページにたどり着きました。大変、興味ある資料が有り、参考になります。その中の”天皇一覧”という資料に、神武天皇の即位が、西暦61年とありましたが間違えではないのですか?
もし、間違え出なければ、どのような資料に基づいてこの即位年がわかったのでしょうか。
教えていただければ幸いです。

以上

moon さん 2003年 08月 06日 00時 46分 28秒

いつもありがとうございます。
暑い夏を乗り切って頂こう!ということでは
ないのですが、キリ番カウプレを設定しました。
お時間がありましたら、のぞいてみてやって
ください。m(_ _)m
(コピペで失礼します)

tan さん (tan@d3.dion.ne.jp) 2003年 08月 02日 06時 09分 38秒
URL:http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/index.html

千葉さん、ありがとうございます。
看板は続日本紀、由緒書は宇佐記からなのですね。辛嶋氏までは載ってませんでしたか。古い文献のいくつかが同様の記録を残しているといった社はさすが薩摩・九州、地元の方の神社などへの気持も伝わってきます。
日本の神々はまだ読んだ事がありません、というか読まないようにしてます^^。豊国と大隈では、『八幡信仰と修験道』中野幡能はたよし、吉川弘文館,h10.2/1刊と『秦氏の研究』大和岩雄、1993/8/31刊、が記憶に残ってます。まだお読みでなければ図書館にはあると思います、おすすめです。

国分市の山と香春岳の風景が似ているのですか。各所にありそうですね地名とかの類似と景色のそれが、長野上田の生島足島神社近くに「アソ」の地名が残りますが、やはり九州阿蘇に似た山の景色があるからと説明されてました。
おすすめの高千穂行きましたらぜひ登山に挑戦してみます。


千葉ちゃん さん 2003年 08月 01日 23時 11分 08秒

S_tanさん,韓国宇豆峯神社の看板ですね。由来の部分を抜粋します。
祭神 五十猛命
「続日本紀」によると,和銅七年(714)すなわち大隅国設置の翌年に,豊前国から二百戸(約五千人)の民を隼人を教導するために移住させています。そのときに,韓国神も移動して建立したものと伝えられています。
「宇佐記」によりますと,欽明天皇三二年(571)癸卯二月,豊前国宇佐郡菱形地の上小椋山に祭られたのを当地宇豆峯の山頂に遷座され,さらに国司の進言により永正元年(1504)甲子十二月,現在の地に奉遷した」との記録があります。また,神社由緒書きにも豊前国から遷されたと明記されており,豊前の国とゆかりのあることが推定させられます。
以上です。
「日本の神々・九州」で八幡神と韓神が豊前国からともに遷されたのではないか,と指摘がされていたので福岡県の香春神社のページも読んでいました。ここに香春岳の写真が有るのですが,小高い山が重なっている感じが国分市の山の感じとにていると思いました。

さて,雨の多い霧島方面は,しっとりを通り越して「苔むした」状態です。石段はすべらないように注意しないと転びます。

ところで,S_tanさんは「鹿児島はまだ行っていない」とのことですが,霧島神宮にいくことがあれば,ぜひ高千穂の峰登山に挑戦してみてください。頂上までいかなくても,30分ものぼれば十分です。天気によっては,雲海がみられます。今回は,二時間程の晴れ間に途中まで登って,神々しい雲海が見られました。「神様がおりてきたと思うの無理もない」という雰囲気です。ただし,足場はかなり悪いので登山靴と軍手は必須です。

s_tan さん 2003年 07月 31日 01時 19分 46秒

千葉さん こんばんわ。
梅雨明け前の鹿児島、神社はしっとりした風情でまた趣きがあってよかったでしょう。
韓国宇豆峯さんの教育委員会の設置した看板には、辛嶋氏などは記載がありましたでしょうか。どの神社も開けてあるというのはいいですね、巫女さんの居る社は別にして大体は拝殿扉は閉ってますね。祭とその前後あたりは開いてるるくらいでしょうか。

君津、嶋穴神社はまだですが、飽富神社は蛟{虫罔}(みずち、こうもう)と似た雰囲気で平野の周りの丘も興味深く、また行こうとしながら3年ほど経ちました。姉崎、飽富を神社探訪にupしときました。(hp引越しで容量増です^^。)

千葉ちゃん さん 2003年 07月 30日 22時 13分 16秒

S_tanさん,こんにちは。
鹿児島へ行って来ました。当初の目的は韓国岳などの登山でしたが,梅雨明け前で山はほとんど雨で,神社めぐりになりました。霧島神宮と霧島東神社は,特に神社に興味を抱く前に行っていたので,今回は霧島峯神社,東霧島神社,鹿児島神宮,大穴持神社,韓国宇豆峯神社を見てきました。韓国宇豆峯神社には,国分市教育委員会の設置した看板があり,豊前の国から遷された旨が書かれていました。感心したのは,どの神社も開けてあったことです。地元の方が,毎日お世話しているのでしょう。

この週末は,君津方面でゴルフをするついでに,嶋穴神社,姉埼神社,飽富神社に寄りました。嶋穴神社と飽富神社は道が細くてわかりにくく,たどり着くのに苦労しました。どちらも車一台が進むのがやっと,という道を入っていきます。それに対して姉崎神社は大きくて,埋め立て地に進出した会社の寄附もたくさんあるようで,対照的でした。

tan さん 2003年 07月 28日 01時 37分 59秒
URL:d3.dion.ne.jp/~stan/

 ようこそ。  お気軽に”ひとこと”などお書きください。

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