蛇と沈黙
serpent & silent
不意にビョォォと風が鳴り、窓硝子が軋むような悲鳴を上げた。
石造りの城は、深夜も更けたこの時刻ともなると足元から冷気が立ち昇り冷え込む。
常に複数の暖炉に火を熾している中央棟ならばともかく、西翼の端、士官用の私室があるこの階などとりわけ人気がなく寒さはいや増す。赤騎士団管轄のロックアックス城は西翼、その最奥に位置するこの私室棟は赤騎士団でも幹部候補の若手士官に割り当てられている。
その殆どがこのロックアックスに居を構えている貴族・富裕層の子息であり、祝日が続くこの休暇時に、城の奥地のこの粗末な部屋へと足を踏み入れる者など居ない。宿居役や待機番ならば務め前後の控えに使うこともあるが、今は勤務の時間内で訪れる者も居ない筈だった。
それを見越して、カミューはあえて己の館へは戻らず、城内の私室へと向かっていた。
長く広い廊下を照らす燭台もまばらで、手元の油灯の微かな火でもなければ闇に飲まれそうだ。
しかしその薄闇こそが、今の彼には望ましいものだった。
歩むのが精一杯という、精魂尽き果てそうな疲労。朦朧としかける意識を辛うじて繋ぎ止めているものは、身動く度に背中に走る痛みだ。
一歩足を踏み出す度に鈍く時に激しく身を苛む痛みに顔を歪めても、ここならば見咎める者はいない。
痛みとその間隔の合間に外套越しに伝わる凍てつく冷気、その二つに押されるように足を動かす。
早く、安全な己の私室に辿りつき、今だけは何も考えずに済む眠りに逃げ込みたかった。
だが、私室の前まで来たカミューは、油灯に照らされた黒い影にぎくりと足を止めた。
まるで殺しているかのように気配を感じさせず、しかし泰然と扉の前で腕を組み待ち構えていたのは、親友のマイクロトフであった。
「……マイクロトフ」
どうして、と思わず漏れた言葉に、マイクロトフが返したのは、
「こんばんは、カミュー」
といつものように礼儀正しい挨拶の言葉だ。深夜という憚りでか、もとより低い声は更に低められている。
反射的に挨拶を鸚鵡返したカミューは、狼狽に早走りそうになる口調を押さえ、友に訊ねた。
「いつから、ここに? 寒かっただろう?」
「さほどでもない。今来たばかりだしな」
青騎士団所属の彼が、如何にして自分の帰城を知り得たのか。厩舎の下男にでも申し付けておけば、確かに報は伝わるだろう。
しかしそこまでして何故彼はここに居るのか。
小さな疑問が怖ろしい言葉を運んできそうで、問い質したい気持ちを抑え、カミューは「そうか」とだけ返した。
扉の前から退き、マイクロトフは無言で入室を促す。のろのろと鍵を開けながら、カミューは全身で彼の視線を意識していた。
自分の身なりに不自然な所はないか。
酷使した喉は、いつもの声で言葉を紡ぎ得ているだろうか。
扉手を引くそんな些少の挙措にも、袖から手首に残る痣が垣間見えまいかと、冷たい汗が背を伝う。
か細い油灯の火が、今ばかりは明るすぎるようにすら思えた。
暗い部屋の闇に足を踏み入れると安堵を覚える。油灯を机に置き、蔽布を引く口実で窓辺の闇に身を委ねる。簡素を旨とする部屋には壁の燭台しか灯はない。
勝手知ったると火を入れ始め、灯りに照らされる友の顔を垣間見れば、いつもと変わらぬ色だ。しかし直情で素直に感情を面に出す彼は、必要とあらば全てを肚に納め望む言葉を引き出す手管を備えていることを、長の付き合いから知っているだけに気を抜くわけにはいかない。
いつもならば限りない安寧と慕わしさだけを覚える友こそが、今だけは最も会いたくない相手であった。
「カミュー、顔色が悪い」
「少々酒を過ごしすぎたようでね。珍しく酔ってしまった」
眉を寄せ、心配げにも不機嫌にも看うる表情を浮かべる友に、笑ってみせる。それにますます顔を顰め、近づこうとする彼を制止した。
「ああ、寄らないでくれ。臭いが移ると悪い。酒を、……頭から被ってしまってね。一応処置はしたのだが、夜遅くにうちの屋敷まで戻って、湯を用意させるのも家の者に申し訳ないから、ここへ帰ってきたというわけだ」
「そうか」
浴室へと続く扉へ向かおうとするマイクロトフは、浴槽に湯を落としてくれようとでもいうのだろう。カミューの風呂好きは彼も知るところだ。隣の浴室でカミューは湯船に浸かり、横では呆れたような表情の友と酒を飲み交わすことすら何度もあった。しかし今日ばかりはそのようなわけにはいかない。この軍装の下の肌を、彼に晒せない理由がカミューにはある。
「いいよ、マイクロトフ。自分でやるさ」
口早に断ると、思いがけず彼は素直に身を翻した。
いつもならば甲斐甲斐しいまでに世話を焼きたがる彼が、大人しく従う訳はどこにあるのか。何かを彼は感づいているのではないか。ひんやりした予感を消したくて言葉を重ねる。
「それよりも何か用事があったのだろう?」
だが、場を繋ぐためだけに発した言葉を口に出した瞬間、カミューは強烈な後悔に襲われた。来訪の理由を尋ねるような真似は、これまでついぞしたことがない。これでは暗に彼の存在が邪魔だと謂わんばかりだ。
「いや、特に何という用があったわけではない。ただ、ここのところ付き合いが悪いからな。今日くらいは付き合ってもらえるかと思っただけだ」
じっと見透かすような視線に気圧され、カミューは言い訳がましい弁解をした。
「私だって正直お前と過ごしている方が楽しいさ。でも仕方あるまい、これも務めだ」
その言葉にマイクロトフは黙り込む。不自然な沈黙の後の親友の言葉に、カミューの血の気が引いた。
「カミュー、何か俺にできることがあれば、何でもいい。……必ず言ってくれ」
「なぜ、……そんなことを?」
彼は何を知っているのだ。どこまで知っているというのだ。
脳に血が脈打つ音を感じながら、縺れる舌でぎくしゃくと測る言葉は掠れる。
「務めとはいえ、体調を悪くするほど……接待をというのは行き過ぎだろう。聞けば休みの日など体調が優れないと寝込んでいるそうではないか。お前が第五部隊に所属されてから、確かに非番が合わないということもあったが、それにしてもここ数ヶ月一度たりとも共に過ごせないとはいかがなものかと思うぞ」
厳しい顔でそう言い募る親友らしい言葉に、こっそり小さく安堵の息を吐いた。
「心配をありがとう。だが私だけではない、周りだって似たようなものだ。それにこの外の寒さの中雪と格闘している他の団員からすれば、暖かい所で宴席に興じている我々の務めなど、務めの内にも入らないだろうさ。ついでに言えばこれでも領地と爵位を賜り、仮座とはいえ当主としての務めもある身だ。義兄が戻るまで、身を粉にして家を守らなければならない義務がある。疲れているといって家同士の付き合いを疎かにするわけにはいかないんだ」
「しかし」と言いかけた男を無視して、カミューは語を繋いだ。
「それに同団の者ならともかく、青騎士団のお前に庇ってもらうわけにもいかないし、そもからして無理というものだよ。私の心配はありがたいが……」
「確かに俺は青騎士団の人間だ。だが、俺はお前を守ると誓っただろう。何からも…誰からもだ。お前が望むなら、どんなことでも為して必ずお前を助ける」
初めて出会った少年の時から何度も繰り返されてきた、強く真摯な瞳で語られる言葉。
清らかで優しい友誼から発せられるそれに、真綿で首を絞められるように息が詰った。
「……マイクロトフ、マイクロトフ。お前はもう騎士の紋章まで宿した立派な騎士だ。いつまでも私などにかまけていないで、お前の目はもっと大きなものに向けられるべきだよ」
「そういう訳にはいかない。守護請誓こそ我が誓い……俺を誓いを破らせる恥辱を与えないでくれ、カミュー」
それは理不尽な差別や中傷の言葉を我がことのように憤り、少年の潔癖さで差し出してきた誓いだった。
その誓いがどんな重みで彼を、そして自分をも縛るものとなるのかを考えず受け取った、あの時の己をカミューは本気で恨みたくなった。
――カミューは俺の友だろう。今度あんなことを言われたら俺に言ってくれ。俺がカミューを守るから。
――騎士の誓いは守られるものだ。守護の誓いは絶対だ。
紅潮した頬に幼い曲線を残し、黒々と美しい瞳に強い意志を秘めてそう言い張った幼い日の親友の姿はカミューの記憶の中でも最も貴重な宝物とも言えるものだった。
その彼は幾年経ても、同じように手をさしのべてくる。
どこまでも綺麗な友愛を意識すれば、翻る己の汚らわしさを痛感させられ、こうして同じ部屋にいることすら苦しいほどだ。
同じ空気を吸わせることすら申し訳なくなるほどの自己卑下。
肌の下に隠す秘密を暴かれるのではないかという恐怖。
自分の負を意識させる彼の清廉さに対する理不尽な恨み。
団が別れ、過ごす時間が減る自然さで、自分から離れていってくれればいいのに、と思いつつも、だがそれと同時にこんな自分のことを心配してくれる親友の心に、歓喜をも覚える。
嵐のように渦巻く様々な感情に塗れ、息苦しくなる。
「何を……そんなに必死に言うことでもあるまい。心配せずとも、誓いは守られている。心配してもらうことなど何もないよ。……大丈夫だ」
「そうであるならば良いのだが」小さく呟かれたその言葉を、カミューは黙殺した。彼に守らなければならない誓いがあるのと同様に、この身にも守らねばならない秘密があった。それを口にすれば身の破滅、そしてこの大事な親友の誓いが守られていないことの証左ともなる。
何も告げなければ、何も彼が知らなければ、幼い誓いは誓いのまま守られる。
そのことをカミューは知っていた。
「今日はもう失礼することにしよう。だが、近いうちに必ず付き合ってくれ」
「そうだな。今日はすまなかった」
諦めたように部屋を出ようとするマイクロトフは、ふと思い出したように懐に手をやった。
「ああ、そうだ。これを使うといい」
差し出された小瓶を、カミューは笑顔で受け取った。受け取れたはずだった。
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