蛇と沈黙
serpent & silent



 表情を取り繕えたのは、扉が閉まり去っていく足音を確かめたその時までだった。
 ぞっとする思いで、手の中の硝子壜に恐怖の眼差しを向ける。壜の中身は、親友の祖母手製の傷薬だ。冬の皸が辛いカミューの手に、毎年のように何度も親友が塗りこんでくれていた薬だった。
 張り詰めた緊張を解き、震える指を許せば、疲労が一気に押し寄せる。同時に恐ろしい推量で冴えきった意識に、今まで意識する余裕もなかった酒の匂いがむっと鼻につく。
 反射的に嘔吐きそうになった胸を押さえ、踞みこむ。寝台に倒れこみたいというその誘惑を押しとどめたのは、背中の皮膚に走る痛みと酒精が運んだ数刻前の狂態の記憶だ。
 親友に告げた言葉は嘘ではなかった。しとどに酒を、それも高価な群島諸国渡りの果実酒を一本そっくり身に被ったのは事実だ。だがそれを拭ったのは、今宵褥を共にした男の口であることまでは告げてはいない。
 骨太なマチルダの男達とは違い、二十を過ぎようとする今でも少年の域を脱しきれないほっそりと未成熟なカミューの躯に、少年愛好の趣味でもあるのか、今宵の男はたいした執心をみせていた。
 ことに滑らかな肌が気に入ったようで、額の髪の生え際から足の爪の先に至るまで全身に、恍惚とした眼差しで何度も繰り返し血の色をした酒を塗しては執拗に舌を這わせた。
 更に加虐の嗜好がある男は、興に乗った末に仕置き用の鞭まで持ちだして背を打ち据え、ぬめるような白い肌に浮かぶ朱い筋にいよ興奮を増したのだろう。絶対的な強さで以て男が強要するがままに口にした、思い出すもおぞましい言葉の数々。傍若な男の苛みに拘束具が手首に食い込み、皮膚からそして粘膜からも吸収される酒精に浮かされ、悲鳴も掠れるほど長時間挑まれ続けた狂淫の時間。それらが残像として脳裏を過ぎり、眩暈を覚えた。
 だが、とカミューはぐったりと息を吐く。
 充分それだけのことをした価値のある時間ではあった。
 情事の後、人が違ったように穏やかに優しくなった男は、上機嫌にカミューが望むがままの情報を差し出してくれたのだった。
 尤も相手はただの世間話程度にしか思っていないだろうが、小麦の買い付け価格の変動、ギルドの内部でのささやかな会話、交易所に出入りする領外の人間の種類、そんな細切れの情報も、寄木細工のように集めて組み合わせれば大きな模様を描く。
 この情報を彼ならば、あの怜悧な頭脳で読み解くだろう。
 自分の上司にして後見人、そして幼馴染みともいえる男を思い浮かべたカミューは、無意識のうちに安堵とも嘆息ともつかぬ溜息を漏らした。
 親友が認識している通り、現在のカミューの所属は赤騎士団第五部隊だ。団に関わる契約と調達を請け負う部隊は、領内外の有力者との接待折衝及び友誼の為の宴席の場を設けることとなる。曲がりなりにもマチルダでも屈指の名家の当主の座に就いているカミューが、交渉を有利に進めるために駆り出される機会が多いのは必然だった。
 だがカミューが男達から情報を得るのは、交渉を有利にする為ではない。それは彼が属しているもう一つの組織のためだ。
 『蛇と沈黙』―けして表に出ることはない、赤騎士団の歴史の裏で引き継がれている諜報組織。
 表向きの諜報部隊として第四部隊が存在しているものの、マチルダ騎士団の為に存在している彼の部隊とは違い、この組織は赤騎士団のためだけに存在している組織だ。
 騎士団はけして一枚岩ではない。
 三団は同位であると謳ってはいるものの、白騎士団長を首座に置く騎士団の構成上、どうしても力の不均衡が生じる。『蛇と沈黙』という組織は、そんな騎士団内の歪から生まれた組織だった。
 文書としての記録など残らず、属する者もその全容を知らない。伝えられるのは組織の大義と掟、そして成員としての唯一の証となる意匠を象った留飾一つ。
 カミューが知る構成員は、組織に入る際の宣誓に立ち会った前赤騎士団長と彼の幼馴染み、そして自部隊の隊長と第四部隊の隊長附副官だけだ。その中でのカミューの役目は、効果的に多くの情報を上司に届けること。その手段として選んだのが、標的として告げられた男達との情交だった。己に対する執着が薄いカミューにとって、この躯で情報を得る事に対する拒絶感はないに等しかった。
 この地方では珍しい乳白の肌やハルモニアの貴人と間違えられる薄い金の髪、しなやかな躯はよほどある種の男達の征服欲と嗜虐心をそそるのか、嵐のように身を襲う淫虐に辛さはあれど、満足させられるだけの情報は上げているとの自負はある。
 それに、辛いとはいえ被虐に法悦を覚える自分が確かに存在するのも否定できない事実だ。こうして記憶を辿るだけで心とは裏腹に肌に熱を帯びる己の浅ましい躯をいっそ憎みながら、カミューの頭は冷静に己を分析する。
 唯一、慮外だったのは、親友であるマイクロトフの存在だった。
 彼に己の所行を知られる。その危険性を感じただけで、こんなにも恐ろしく感じる自分がいることを、カミュー自身こうして彼と顔を合わせるまで知らずにいた。彼からの指摘があるまで気がつかなかったことだが、ここ数ヶ月、彼との接触を避けていたのは、無意識のうちに彼の存在を意識外に閉め出そうとする自己防衛の為故の事だったのかもしれなかった。
 彼はどこまで何を知っているのだろうか。
 本当に何も知らないのだろうか。
 カミューが関係する男達は、皆社会的身分や地位、それどころか妻も子も居る良人としての顔を持つ者ばかりだ。彼らにとって、カミューとの情事を外に漏らすことは、破滅を意味する。だからそれらの相手から自分との情事が漏れることはないはずだった
 接待と銘する情事の場となるのは、彼の幼馴染みにして上司である男の用意する場。その関係者から漏れることはない。
 唯一の可能性は、その上司だろう。
 第四部隊隊長にして、『蛇と沈黙』におけるカミューの上司、そしてカミューの義兄の無二の親友であり、義姉の婚約者でもあり、本来ならば彼自身も義兄になったはずの男。
 カミューに深い恨みを抱いているあの男ならば、マイクロトフに漏らすだけの動機はあった。
 この手に宿る烈火の紋章の暴走のせいで義姉は死に、その死を信じなかった義兄は妹を探す為に放浪の旅に出た。マチルダでも有数の貴族の嫡男という身分も人一倍優れた容姿も頭脳も凡そマチルダの人間が望むべく全てを兼ね備えているにもかかわらず、最愛の婚約者と無二の親友しか必要としているものはないとまで言い切っていた男は、その時一度にして二人を喪ったのだ。
 養子として迎えられることとなった時も、真っ向から反対し、「グラスランドの土の民風情を」と蔑視を顕にするほどカミューを疎んでおり、その上彼の手から二人を奪う元凶となったのだ。
 幾度殺しても飽き足りないほどの深い恨みをカミューに対して抱いていることは違いなかった。
 その男が、自分の後見人として今あるのは、義兄の遺言がためだ。
 
 ―― カミューを次期当主として、俺の分まで守ってやってくれ
 
 誰にも何も言わず、紋章嵐の渦の中から姿を消した妹を探しに出た唯一無二の親友の願い。その願いを叶えんがためだけに、我を押殺している男が、しかし今更それを破るとは思えない。
 彼との友情は我が誇りであり全てだ。それを喪えば、自分を自分たらしめる核を失う。
 そのことを恐らくあの男は己以上に知悉している筈であり、ならばこそ義兄の望みを叶えようとする限り、彼は沈黙を守るに違いない。
 否、そうでなければならなかった。
 
 それに蛇と沈黙の掟。
 組織に関する沈黙の掟がある。
 彼が上司として組織に属している限り、いやたとえ組織を外れても、それを破ることはないはずだ。
 あの冷徹な眼をした幼馴染の男が、何をしようとしているのか。赤騎士団を、ひいてはマチルダを、そしてこの身をどこへ導こうとしているのか、分からない。
 誰にも肚を明かさない幼馴染は上司であるとともに、この身を守る保護者でもあった。彼が事細かに会話から褥での所作に渡るまでの全てを報告するように求めるのは、危険を排除するためだ。実際彼によって行き過ぎた執着を見せた男が排除され、身の安全が守られたことは何度もある。少なくとも上司としての彼は信頼すべき存在だ。
 上司としての責務、そして義兄から自分を預けられた責任感。彼を縛るのはその二重の枷だ。
 
 
 大丈夫だ。彼は何も知らない――
 
 
 そう自分に言い聞かせる。
 よしんば彼が時としてみせる恐ろしいまでの洞察で以て、何かを感づいていたとしてもそれを証立てるものは、この身にしかない。
 そしてもう二度と彼の前で、自分はこの汚れた躯を無防備に身を晒すことはしない。
 震える指を解き、そっと小壜を床に置くと、カミューは立ち上がった。
 いよいよ鼻につく甘ったるい酒精の香が厭わしかった。
 何よりその場で掻き出すことを許されなかった最奥に何度も注がれた男の精趨の処理をしないことには眠ることもできない。
 よろめく躯をおして、湯船に湯を張り、のろのろと衣を解く。
 冷えた空気に白い蒸気を立てる湯が、朱く腫れた背に滲みた。
 震える手を伸ばし、秘蕾に指を這わせる。長時間、野太い男根を受け入れ続け、麻痺したような感覚しか残らない場所でも、しかしそこに触れるだけで反射的に乳首が凝り、浅ましい熱を片方の手のひらで慰めた。
 ゆっくり突き入れた二本の指を慣れた形で開けば、隘路を伝い滴る白濁の悍ましい感触に身を震わせる。
 悍ましくも、しかしそれは被虐的な快感でもあった。
 快楽の悲鳴をカミューは喉で飲んだ。
 耐え入る仕草で宙を仰ぎ、切なく声を殺すその口が、声なき声で親友の名前を形取ったことも。
 それと同時に最後の一滴まで今宵の男の口で執拗に精を絞りとられ、吐き出すものなどなくなったはずの彼のペニスの先が潤んだことも、誰も、彼自身すら知るべくもなかった。
 
 
 






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