「あぁもうっ!面倒くさい」 3月14日は何の日か。 そう訊ねられた世間一般の人々はホワイトデーと答えるだろうが、ここにいる二人に訊いてもそんな色気のある返答は帰ってこないことは確実だ。 「こんな面倒くさい思いまでして税金払わなあかんなんてやっとられへんわ」 そう、3月14日は確定申告の前日。 作家業で生計を立てている有栖川有栖と、私大助教授火村英生に共通の、一年でもっとも忙しいであろう夜なのである。 少なくとも今年に限ってはであるが。 「このしち面倒くさい書類、なんでこんなものつくらなあかんねん…」 半ばやる気をなくしかけ、書類を見るともなしに眺めながら有栖はそうぼやく。 「そりゃお前が税理士に頼まないからだろう。切羽詰って泣き言を言うのは分かりきってるんなら、初めから大人しく頼んどけよ」 「税理士なんかに頼むほどたいした金稼いどらへんの知っとって言うか、そんな台詞を」 「たいした量ないってんならさっさと済ましちまえ」 電卓を打ちながら毎年恒例のやり取りを繰り返す火村といえば、最終段階の算出に入っているようだった。 大学からの給与の他、雑収入がさしてないのでこちらは有栖よりも計算が簡単なのである。 一通り学会費用や、フィールドワークで要した経費を弾き出してしまえばあとは単純計算のみ。 固定資産も扶養家族もないので気楽なものだ。 一方の有栖はといえば火村とはあまり変わらない環境ではあるが、特殊な職種であるが為になにかと細かい収入があって面倒くさいことこの上ない。 それに使用経費がはっきりしている助教授とは違い、どこまでが経費かの線引きも曖昧である。 目の前の書類に眼を当てながら、考え込む有栖に、 「おい、ぼんやりしてないでさっさとしろよ」 火村は檄を飛ばした。 「うるさい、俺は資料用の本がどこまで必要経費に入れられるか真剣に考えてるんや」 「全部入れとけばいいんじゃねぇのか」 「そうできたら問題ないんやけどな、仕事に関係なく趣味で買ってる本を入れるのは問題やろ」 「いいんじゃないのか、趣味を仕事にしてるようなもんだろう作家なんてのは」 その言葉にばたっと机に倒れ臥してしまう有栖である。 「……ああそうや、どうせ俺は趣味で人殺して訳の解からんトリックこねくり回して薀蓄たれる探偵しか書けんヘボ小説家や!」 「いい子だ、自分で気がつけて」 開き直ってそうきっぱりはっきり身も蓋もないことを言い切る有栖に、やる気のない生返事を返す助教授。 「そんなことにしか能のない奴にこんなしち面倒くさい書類書かせるほうが悪いんや!!」 しかしそんな言葉は耳に入っていないかのように、喚いた有栖の耳に今一番聞きたくなかった単語が響いた。 「終了」 綺麗さっぱり全部終わった、とばかりに書類の束をバインダーに挟む火村を、有栖はどんよりとした眼で睨みつけた。 「……自分だけ楽になりやがって」 「お前もさっさと済ましちまえ、後どれだけあるんだ」 「…一応雑収入の目録と確定申告の書類を書くのが残っとる。もう駄目や、どだい5桁以上の四則計算もまちがえてまうようなヘボ作家にはこんな複雑な作業できひんのや!ええわ、もう今からでも税理士に頼む、頼んだるわっ!!」 イエローページは何処だと、こんな夜更けに今すぐにでも電話せんばかりの勢いに、火村は毎度のことながら溜息をついた。 「そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ、締め切りはいつまでだ」 「…明日までや」 世の終わりを告げられた人もかくやと思わせる暗い表情で答えるが、そんなものは毎度の締め切り騒ぎで慣れ切っているのである。 「いい子だから作っちまえ、夜食作ってやるから。何がいい」 遅筆の作家は餌で釣るに限る、といつもの質問をする火村に返ってきたのは思いがけない返事だった。 「鮭グラタン」 鮭グラタン。 「……コンビニには売ってないよな」 台所に立ち、遠い目で呟く助教授が一人。 目の前にはカチカチに凍った鮭の塊が鎮座している。 「おい、有栖!こんなでかい鮭で何人分のグラタン作れってんだ!」 材料は冷凍庫に入っとるからという言葉に久方ぶりに扉をあけた火村は、確かにそこに冷凍されている鮭を見つけた。 尾頭付でまるまる一尾。 どこをどうやったら納まっていたのか見事な大きさで、およそ鮭グラタンにするには向いてない代物だ。 「一人分に決まってるやん、あぁ君も食いたいんやったら自分の分作りや」 「大体どうしたんだ、この鮭」 熨斗こそついていなかったが見るからに贈答品という風情の鮭の尾頭付きが、この台所に転がっているのは実にそぐわない。 「んー朝井さんがくれたんや」 そして返ってきた答えもそれに輪をかけてそぐわないものだった。 「どうして朝井さんがお前にお歳暮を送ってくるんだよ」 立場が逆だろが後輩作家、そう突っ込まれて有栖ははたとペンを止めた。この鮭の尾頭付き、すっかり忘れていたが火村に見つからないようにわざわざ隠しておいたものなのだ。確かに朝井から貰ったのは貰ったものなのだが、理由が言い辛い。 「さぁな、鮭の尾頭付きなんて一番貰って困るお歳暮らしいねんから、押し付けられたんとちゃうかなぁ」 まさか酒に酔った挙句、キスをかけて行ったブリッジ勝負の戦利品とは口が裂けても言えない。いや、それだけなら良いのだが、それ以降の記憶がない有栖にはその他の戦利品の由来が分からないのである。ここで追求されても上手い返事を返せる自信はさらさらない。頼むから他のもんは見つけないでくれと内心祈り倒していた有栖の耳に、しかし無情な声が届いた。 「なるほど、鮭の尾頭付きの由来はまぁいいだろう。でもこのビンテージワインに、ついでにこれはなんだ?」 「た、ただのチーズやん」 情けなくも裏返りそうになる声を押さえて、平静を装う。が、敵はさる者然る者。 「んな、ことは分かってんだ。お前がこんな一箱云万円もするようなチーズの盛り合わせを買う高尚な趣味を持ってないこともな」 暗に誰からのものか問い詰められ、有栖は開き直って見せる。 「えぇやんそんなこと、いちいち煩いで君。税務署の職員やあるまいしほっといてくれ」 「確かに俺は税務署の回し者じゃねぇけどな、一応お前の恋人ではある訳だ。言え、今度はどんな悪さをした。…………そういや年末に忘年会があるとか言って上京したことがあったな、誰と飲んだんだ」 そう問い詰める火村の目はしっかり据わりきったものとなっていた。 一度酒に酔った有栖が同業者及び編集者たちとの飲み会でアイドルとなって以来、有栖の信用は地に落ちまくっているのだ。この焦りようはどうやらあれだけきつく言い渡していた泥酔厳禁をやぶりやがった事に間違いない。こんなに貢物の山を貰うとは今度はどんなことをやらかしたのやら…。 「悪さなんて人聞きの悪い…」 引きつった顔が火村の憶測をしっかりと肯定していて。 「鳴かぬなら鳴かせてみよう、不如帰なんて言葉があったな…」 「お前は豊臣秀吉かっ!」 「いや、俺はしがないヘボ助教授なんでね。自分の知っているやり方でしか鳴かせられないさ」 そう口元を上げじりじりと近寄っていくと、それに呼応するように後退りで座り込んだまま有栖も距離を保とうとした。 が、しかしもう後のない壁際まで追い詰められて、有栖はこれから起きようとする事態を予測して悲鳴を上げた。 「待てっ、落ち着け!まだ書類がのこっとるんや!」 「待てはしないが落ち着いてるぞ。書類?んなもん明日の五時までに耳そろえりゃいいんだから心配することはないさ」 そう言って肩に担ぎ上げられた有栖にそれ以上の抵抗もできる筈もなく。 税務署より厳しい追及にもちろん答えることのできなかった有栖が、しっかり寝不足になったのは言うまでもないことだった。 |