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風邪ひきも三日やっていると飽きてくる。
ぼんやりと天井の淡い陰の濃淡を眺めていたアリスは、自然口に溜まった唾を嚥下してみた。
眠りに落ちる前、夢現で感じていた喉の痛みも幾分ひいているせいか、恐れていた痛みは感じない。
そのことに内心ほっと胸をなでおろす。
月曜の朝、微かに感じていた身体の不調は、念をとって出かけた病院の診察から帰ったその昼過ぎには確信に変わった。
昼食を無理やり摂り、薬を飲んだ時点で感じていた二の腕と背筋を駆け上がるような寒気と悪寒。
数週間前に風邪をひいたばかりだったアリスにとってそれなりになじみのある感覚で、すぐにあぁ熱があるのだなと確信した。
もっとも病院の診察ではさして重い症状になるとは診断されなかったのだが。
『熱もないしインフルエンザの検査も陰性ですからたいしたことはないでしょう』という医者の言葉は、しかし、悪寒と頭の重さに負けて昼食後早々床に就き、夕方かかってきた友人からの電話にたたき起こされたときに大嘘だということが判明したのだった。
並行感覚を欠いた身体は電話までの距離を果てしないものに感じさせ、ようよう辿り着いた電話に答えたがらがらに掠れた声は電話向こうの友人を絶句させた。 確かにインフルエンザ検査では陰性だったかもしれないが、けして『たいしたことない』風邪とは言いがたかった。もっとも38℃程度の熱では風邪人など毎日見慣れている医師にとってたいしたことのない熱なのかもしれない。
だが発熱に悪寒、咳に鼻詰まり、そして粘膜を剥がされ痛覚がむきだしになった真っ赤な肌に、何者からか塩を塗りこめられたのではないかと思えるくらい酷い痛みを発する喉。
これだけそろえば結構な大風邪だと診断されてもよいのではないかとも思うのだが。
不幸中の幸いは、予定していた仕事をすべて上げて、一週間ばかり休暇を予定していた期間中だったことだろう。
これが締めきり間際の時期や、複数仕事が重なっているときなら仕事関係の人達に迷惑をかけていたに違いない。
だが、珍しく予定していた休暇の初日だったため、宿まで取って予定していた温泉旅行をあきらめただけですんだのだった。
今回ばかりは友人に酷く迷惑をかけたという自覚がある。
一緒に温泉へ行こうと言って無理にスケジュールを空けてもらった挙句、温泉旅行取りやめの始末をさせ、わざわざ京都から大阪まで風邪の看病をしにきてもらったのだから。
治ったらしっかり礼をしなければならないだろうな。
近づいてくるスリッパの音を聞きながら、アリスはぼんやり寝返りを打った。
「起きたか」
額に当てられた手の感触が気持ちが良い。
「気分はどうだ」
「昨日よりはだいぶええ」
かさりと乾いたその感触だけを感じていたくて眼を閉じると、目蓋の上をなぞるように指が動く。
「そりゃ結構。テーブルまでこれるな。朝飯できてるぞ」
だが、それだけですっと離れた手の主は、返事も待たずまた台所へと足を向けた。
先回の風邪とは異なり、消化器系はちゃんと働いている為食事はきちんと取れている。三度三度の食事を泊り込みで看病にきてくれている友人が作ってくれるために、普段よりも食生活に関しては豪華で人間らしいものを食べている気がする。
鼻の噛みすぎで耳の圧がおかしいのか、妙に浮遊感を感じる足取りでダイニングへ向かうと押し寄せるような暖気に乗って、懐かしい香りがした。
なんだろう、興味を惹かれ近づく。
テーブルの上には、ここの所続いていた米食と目先を変える為にか、食パンをフレンチトーストにしてゆるい掻き卵、それにゆでたソーセージと温野菜を添えたものが白い皿に並んでいた。
手を合わせ食べだすと、すぐに湯気を上げたスープが横に置かれる。
痛めた喉を気遣ってか、水分を重視したメニューが嬉しい。
あらかた食べ終えた所で、黙って向かいに座ってその姿を眺めていた彼が水銀体温計を差し出してきた。
締めに出されたホットレモンをすすっていると、視線でそろそろだろうと催促され、体温計を翳す。思ったとおり熱はあらかた引いていた。
「37℃ちょうど」
「下がったな」
良かったなと言うように、ぽんぽんと頭を叩かれ頬が緩む。
皿を下げられ、ぼんやりと後片付けをするその姿を眺めているうちに、ふと気にかかっていた雑誌に寄稿したの脱字を思い出した。
脱字の確認程度の少しの時間コンピューターに触るくらいなら構わないだろう。
そう思いつつもちらりと友人の姿を確認するのは、取るものもとりあえず看病をしに飛んできてくれた友人に悪いことをすると思っているなのだろうか。
その友人はシンクで皿洗いをしており、背を向けたこちらの様子は気づきそうに無い。
自分の家なのにそっと足を忍ばせ、仕事部屋にはいる。
凍りつくような冷たい部屋の空気に息を白くしながら、仕事に使っているデスクトップのボタンを押した。
「…何をしてるのかな」
その瞬間かけられた声に、文字通り飛び上がる。
「アリス…」
名前を呼ぶだけで先を続けるでもない友人の声色に含まれた叱責を感じ取った。
「…分かった」
肩を竦め、マウスを動かすと「あぁ、落とさなくていい」と手を止められる。
「…なにするんや」
今まで訪ねてきた時にコンピューターなどに興味を示したことの無い相手だっただけに、何をする気なのだろうと気にかかる。
「学会関係のお知り合いの先生から、『自分のHPに論文載せてるからぜひ読むように』との御言い付けだ」
最近は猫も杓子もインターネットだとさ。
皮肉っぽく唇を歪めて見せる友人に肩をすくめ、画面に出たダイアログにパスワードを打ち込む。
傍で待っている友人に、別段パスワードを隠す気も起こらない。
彼ならば、例え眼に入ったとしても自分が覚えていても良い権限外のものならば、すぐに記憶の深くへ沈み込めることのできる男だった。
もっとも必要とあらばすぐにその記憶の中からだけの有能さも併せ持つ。
だが打ち終えて横を振り仰ぐと、彼は窓の外を眺めていた。
「雪やな…」
薄暗い外の景色に、ただの曇りの天気だと思っていたのは間違いだったらしい。
そとを舞い狂う白い雪を見れば、この底冷えするような冷気も納得できる。
「もう桃の節句も過ぎた頃なのに、とんだ狂い雪だ」
「あぁ…でもきれいやな」
「まぁな」
くしゅんとくしゃみをすると、後からふわりと柔らかい感触が落ちてきた。
鼻先に触れたのはふかふかの毛布で、両肩に廻された腕の温かさに満たされた気になる。
だが涙さえ覚えたその気持ちを感どられたくなくて思わず、
「風邪治すのは誰かにうつすのが一番なんやて」
そう、減らず口を叩いてしまう。
「構わないさ」
低く囁かれた言葉に、静かに自重を預ける。
窓の外では雪が少しその強さを緩めていて。


ゆっくりと地面に降り立つ雪の欠片を眼の端に捉え、小さく呼吸を合わせた。



20010311/Fin/Postscript

MODELED BY HIDEO HIMURA & ALICE ARISUGAWA
LYRIC BY AYA MASHIRO
 




 *  Left Eye  *  Simplism  *