桜の花を見ると、この国は今一番美しい季節を迎えているな、と思う。 日本人のご多分に漏れず有栖も花の中では桜が一番好きだった。 薄い紅に銀艶の細枝。 「片桐さんええとこあるやん」 横の花瓶に挿してある桜の枝を眺めて、有栖は眼を細めた。 逃亡されたら堪らないと思ったのかどうかは定かではないが、今書いてる作品の参考に京都辺りまで桜を見に行きたいと電話で話した次の日。 いきなり花屋からこの桜の枝が届いたのだ。 まだ蕾のままだった銀枝は日当たりの良いこの部屋の気温の為だろうか。日を置かずその蕾を綻ばせ、淡い紅でこの殺風景な部屋に彩りを添えた。 はらはらと、一枚、また一枚、と花びらが音もなく舞う。 いつもは落ち着いて花見ができることは少ないのだが、今年は図らずも自室でお花見をする事ができた。惜しむべくは、彼にこの桜を見せることができないことだろう。 ちょうど桜の蕾が膨らみ始めた頃、学会で北海道へ出かけると電話が入ったのだ。そのまま東北を周るので一緒に来ないかと有栖も誘いを受けていた。締め切りの関係でそれに応じることはできなかったのだが。 この分では彼が帰る頃には関西圏の桜は散り果てているのではないだろうか。 はらはらと、散りゆくその花びらが惜しくて、てのひらでその片を受け止める。 盛りを過ぎた桜は名残を惜しむように、その花びらをゆっくりと落としつづける。もうそろそろ駄目だろうか。ここ一週間近く有栖の気持ちを和ませつづけたこの桜も、三割方その花びらを落とした。青芽も顔を覗かせ始めている枝が、鑑賞に堪えなくなるのは時間の問題のような気もする。しかし散りゆく姿もまた風情があり、枝を眺めては機嫌が良くなる有栖だった。 「そろそろ水換えてやろうかな」 そう独りごちるとワープロの電源を切り替え、席を立った。しかしその次の瞬間、歩き出した有栖の袖に張り出された枝の一つが引っかかった。高い位置で重心の不安定だった花瓶は、すぐにそのバランスを崩し。 「あっ…」 手を差し伸べることもできず、ただスローモーションのように花瓶が落ちてゆく様を眺めていた有栖の目の前で、鈍い音とともに床に転がる花瓶。投げ出された銀枝達。そして… 淡い紅の花びらがさして広くない部屋一帯に散らばる。 投げ出された枝を中心に水面の波紋のような形で花びらは模様を描く。 しばらくぼんやりとその光景を眺めていた有栖は、足元の冷たい感覚で我に返る。 慌てて雑巾を持ってきて濡れた床を拭き始めるが、花瓶一杯の水はすぐに雑巾を重たくした。しかたなく家中のタオルを動員すると、水を含み花びらまみれになった布はすぐに洗濯籠一杯になった。 洗濯物をそのまま洗濯機にかけると、一面に落ちている花びらを惜しみながら掃除機をかける。いっそ一晩くらいはそのままにして桜の絨毯を楽しむのも良いかもしれない、という考えが頭を過り苦笑した。丁寧にかけ終わると、一息つく間もなく洗濯終了のブザーが鳴り響いた。 「あっちゃ〜やってもうた…」 掃除機をそのままに、洗濯機の蓋を開け絡み合ったタオルを出した有栖は顔をしかめた。花びらが洗いあがったはずの布に付いたままなのだ。一度手洗いしてから洗濯機にかけるべきだったと後悔しても後の祭。仕方なくベランダにそのまま持って行き、一枚一枚、干す前に強く叩き、花びらを落とすことにした。 しばらく無心にその行為に没頭していた有栖は、不意に気配を感じて後ろを振り返った。目を見開いて凝視した有栖の視線の先には、北海道に行っている筈の火村の姿。 「学会はどうしたんや」 苦笑とも溜息ともつかぬ息を吐いた有栖は、無断侵入の友人に声をかけた。 「行ってきたぜ。東北の旅は延期だ」 昨日出て行ったかのように自然な空気で、火村はいつもこの部屋を訪れる。 息災を問うこともなく途中で切れた会話を再開させる程度の軽さで、始められる話はいつものことだ。 「桜か?」 有栖の手にしていたタオルを見やるとそう訊ねる。 「ん…そうや君にも見せてあげたかったわ、片桐さんから貰った桜な、間違えて反してしまったんやけど、その時はなびらが床一面に散って綺麗やったんで」 「片桐さんからもらったのか」 「あぁ、資料で京都まで見に行きたいってゆうたら次の日送ってきたんで。便利な世の中になったもんや」 「ふーん」 さして感情を見せずに受け流す男に、有栖はタオル干しを再開した。黙ってベランダに出て、火村も当然のそれを手伝い始める。かなりの量があったタオルも二人掛かりだとすぐに干し終わった。風はまだ冷たいが、4月とは思えない強い日差しだ。きっとすぐに乾くだろう、そう思いながらガラス戸を閉める有栖に、火村は指をさした。 「ついてるぞ」 「え、どこ…」 頭に手をやろうとすると火村の顔が近づいてきた。風が通り過ぎるような感覚だけで、すぐに離れていった彼を見るとその唇の間に薄紅が挟まれているのが分かった。 薄い口唇に淡い彩りが妙に映えていて。じっと見つめているといつもの行為の先触れで、頤に指を添えられる。 しかし反射的に眼を瞑むれど優しいその感覚はいつもの場所には訪れなかった。不審に目を薄く開くと目の前に白髪混じりの髪。何故と思う間もなく鎖骨の窪みに唇を落とされ、思いがけぬその行為に羞恥を覚え思わず身じろぎをする。 「な、んや」 「あぁ、落ちちまったな」 首筋に手をやると、はらりと花びらが空を舞った。 「当たり前やん。なに子供みたいなことしとるん君」 思いがけぬ行動に照れ隠しのように呟くと、 「まぁいいさ、後で落ちない花びらを散らせてやる」 そう火村は笑った。 |