この国の青
柔和七星
「・・・・・・crazy」
ぼそりと呟いた言葉は、息を切らして走ってきた男の耳には届かなかったようだ。
「遅くなってすまない、カミュー」
「It's OK,・・・それはなんだい?」
暮れなずむ空に向けていた視線を彼の右手の袋に投げると、ああ、と彼は頭をかいた。
「ワインだ。手土産にと思ってな」
「そんなに気を使わなくても良いのに」
「一応初対面の相手に招いていただくのだからな。手ぶらというわけにはいかん」
生真面目な顔をしてそう主張するマイクロトフに、カミューは肩を竦めてみせる。
だが内心はその折り目正しさを好ましく感じ、気付かれないよう俯きがちに微笑んだ。
久しぶりに駐在仲間のフリックから、カミューのアドレスにメールが入っていたのは昨日のことだった。
年に一度のコンドミアムのフェアウェルパーティーへの出席を請うその内容に、"yes"の返事を出したのは、最後に付け加えられていた一言のせいだ。
"お前が話していた、例のヤツを連れてこいよ"
この極東の地へ短期駐在でやってくるのは、基本上昇志向でアクの強い者が多い。そんな面々と数時間とはいえプライベートでまで顔を突き合わせるのは、正直気のすすまないものだった。
だが、それを推しても行こうという気になったのは、フリックにマイクロトフを会わせてみたい。そう考えたからだ。
勤務地も逆方向で、職種的にも接点のない彼らを引き合わせるのはなかなか難しい。
特にカミューがマイクロトフの隣の部屋に居座るようになってからというもの、彼自身フリックと会う機会もめっきり減っていた。
「しかし、本当に俺が行って良いのか? 英語など喋れないのだが」
「No problem.フリックはこっちの言葉は話せるし、誰かが通訳してくれるさ」
「そんなものなのか?」
アルファロメオの助手席で、首を傾げながら困った表情を崩さないマイクロトフに笑ってみせる。
ブルジョワジィは概してシノワズリ趣味が多い。
一見国籍を惑うほど彫が深く端正な顔だちだが、彼の表情には武士のようなその内面の実直さが滲み出ている。
間違いなく彼らは、マイクロトフを気に入るに違いない。
それが、お気に入りのおもちゃを他の者に見せびらかそうとする、子供じみた感覚とは気付かぬまま、カミューは笑みを浮かべた。
今年の冬はやけに暖かく、冬の寒さが厳しい大陸でも北部で育ったカミューには、気持ちが悪いほどだ。
いくら昼下がりとはいえ、3月のこの時期にジャケット一枚で高層のテラスに出ても寒さを感じないなど、体験したことが無い。
狂った冬だな。
晴れた冬空を見上げて、先ほども一人ごちたことを考える。
空気の薄い都会の空は、青の色もその薄さに比例するようだった。
息を吐けども白く濁らない生温い空気。
それでも人の密度で暑くすらある室内に比べれば、まだ息が吐ける。
ちらりと視線を向けると、マイクロトフはアニタとかいう女性に捕まっているようだった。
すれ違う時小耳に挟んだ彼らの話題は、どうやら彼女が嗜んでいるらしいフェンシングと剣道との相違で、なるほどこれなら女性の扱いが苦手なマイクロトフでも自然に会話できているはずだと納得できるものだった。
遠目に見る彼の表情に、さほど緊張は見られない。
予想通り、マイクロトフはこの個性的な面々の中で概ね好意的に受け入れられていた。
こと、フリックは折り目正しい彼を一目で気に入ったようで、何くれとなく話しかけるフリックに、マイクロトフの方も最初の緊張を解いたようだった。
短期駐在の外国人向けのこの高級コンドミニアムの中でも、もう古株になっているフリックは、前もってカミューから聞いていた情報の中でも、特に興味を惹きそうな部分――剣道の三段をもっていること、ドイツ人の父親を持つハーフだが、本人は生粋の下町育ちだということ――を説明し、色んな相手に引き合わせてくれ、傍について通訳までしてくれていた。
お陰で、英語も話せない闖入者のはずが、ちょっとしたゲスト扱いで彼と話したいという相手は引きも切らない。
もっとも、その大半はそのエキゾチックな外見に惹かれてのことだろうが。
背筋の良い黒髪の男に値踏む視線を向けている、女性達の眼差しを硝子越しに眺めたカミューは、ジャケットの内ポケットを探った。
薄青のパッケージから一本煙草を取り出すと、火をつける。
軽く吸い込み吐き出すと、白い薄煙がゆらいで柔らかく宙に溶けゆく。
「・・・・・・柔和七星」
不意に聞こえた言葉に、カミューは振り向いた。
「ああ、ミスター周。あなたも来てたんですね」
「野暮用でな。それは?」
長い黒髪に長身が印象的な彼は、中華系貿易商の肩書きを持っている。
数度顔を合わせ、馴染みの男が顰める眉に、肩を竦める。
「連れのですよ。あっちで女性陣に捕まっています。煙草臭いと叩かれますからね、没収したんですよ」
お前はいいのか、と睥睨する視線に気がつかぬ振りで、カミューは深々と吸ってみせた。
暗黙のうちに喫煙エリアとして認知されているこの場所に来るということは、嫌煙家ではないということなのだろう。
何も考えず、手に持っている青いパッケージを差し出そうとし、ふと我に返る。苦笑しながら代わりに自分のシガーケースを取り出し、カミューはそれを周に差し出した。
それを片手で遮った男は、己のスーツの隠しからケースを取り出すと、長煙草を咥える。
「・・・・・・面白い連れだな」
暫しの沈黙の後、隣から言葉がかかった。
「そうですか?」
視線を向けると、長身な男の視線は高層ビルの群れに向けられていた。
それきり黙り込んだ周はゆっくりと煙を燻らせるだけだ。
何の裏も意図もなく、話題を振るはずはないだろう。そう考えるのは穿ち過ぎだろうか。
黙って相手の出方を覗っていたカミューは、しかし長く続く沈黙に口を開いた。
「そういえばさっき言われてた言葉がありましたよね」
「柔和七星・・・その煙草のことだ。うちの国ではそう呼ばれている」
「そうなのですか」
どこででも見かけるありふれた商品だとは思っていたが、輸出商品とまでとは知らなかった。
取り出した薄青の箱を眺め、玩ぶカミューに、
「キャッチコピーは『この国の青』。確かに国を代表する銘柄であることは間違いがない」
そう淡々と周は告げる。
「・・・だが所詮安物、慣れる前に服用は控えることだな」
その言葉に弾かれたように顔を上げると、その長身は背を向けていた。
灰皿には彼の吸殻が薄く煙をたなびかせるだけだ。
足音を立てず去りゆくその背中を見送ったカミューは、手のひらの中の青い箱に眼を眇める。
「この国の青・・・ねぇ・・・」
周が暗に何を謂わんとしたかは、違えることなくカミューには伝わっていた。
その言葉に自分でも意外なほどの反発を覚えなかったのは、彼の言葉に微かな自嘲を感じ取ったからだった。
自分の胸の隠しにある金のシガーケースの中身、その赤のポールモールも安物加減では変らない。
だが、問題なのは中身ではない。
眼に見える、金ぴかに輝くその外側だけが評価される世界で自分達は生きている。どんなに中身が優れていても、どんなにそれが価値のあるものでも、眼に見える評価だけで全てが決まる、そんな場所に自分達はいるのだ。
だから、あの男に入れ込むな。
そう、あの賢しくも捻くれた根性の男は、柄にもなくアドバイスなど遣したのだろう。
そんなことはカミュー自身も分かっている。
だが、それでも手放したくない、そう感じるこの思いはもはや依存なのだろうか。
彼と出会い、そしてそれ以来微かに感じていた不安。
それは、こうして眼の前に突きつけられ、そう自問するだけで解決が見えるものではない。
笑顔で話をしている、煙草の主を探す。
ぼんやりとその姿を硝子戸越しに眺め、カミューはまた一本煙草を手にした。
逡巡の後、煙草に火をつけたカミューは、しかしそれを口にするでもなく、薄く儚い白煙をただじっと見つめていた。
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