四旬節を身近な言葉として使っている人は少ないと思う。これは、キリスト教用語
で復活祭を迎えるまでの40日間を称している。カトリック、プロテスタント併せても
176万人と、対人口比1%強の「業界用語」ともなれば、馴染みのない単語であっ
ても仕方がない。
さらに四旬節の終わりで、復活祭直前の一週間を聖週間と呼ぶ。聖月曜日から聖土
曜日まで6日間、中でも重きを置いているのが聖金曜日で、その日こそが「受難の
日」となる。2002年の教会暦では、3月29日の金曜日がそれにあたっている。
クラシックファンであれば、ここまでくれば「ははぁ、マタイ受難曲で何か言いた
いのだろうな」と推理してくれそうだ。この時期には意識的にマタイ受難曲を聞くの
だが、「オーボエという楽器は、テノールを理想として作られたのではないだろう
か」との想像を持つようになってきた。そう思ったのは、有名なアリア「われはわが
イエスのもとに目覚めおらん」(第26曲)を聞いて、素晴らしい曲だと感じ入って
からである。
楽器が人の声や鳥の鳴き声を理想として発達してきたとは漠然と思っていたが、そ
の具体的な姿を感じたのが、マタイのアリアを耳にしたときであった。通奏低音をバ
ックにテノールとオーボエがメロディを絡み合わせる。各々、時として主になり従に
まわりといった具合が、2声の独立した楽器に聞こえてきた。やがて、人声と楽器の
区別がつかなくなる錯覚に陥った。そうして浮かんだのが前述の想像なのである。
僕にとっての音楽を聞く楽しみは、そんな錯覚に陥ることである。爾来、第26曲
目のアリアが上手い演奏は、全曲名演であると思い込むようにしている。そこで、
「オススメの演奏は」と言ってしまうほどの恥ずかしさを持ち合わせていない。まし
てや、実際に演奏した機会のある人々の前で表明するとは愚の骨頂。それぞれに堅持
しているマタイ観の、空きスペースにシミの一点にでもなればと思っているにすぎな
い。
冒頭で対人口比1%強との数字を示したが、これは奇しくもクラシックファンの数
とも言われている。むろんクラシックファン=クリスチャンの短絡ではない。どうも
「絶滅危惧種」である人種なのだが、その危機感がクラシックファンには少ないとの
指摘もある。しかしながら、単にファン人口を増やすために、「親しみやすいコンサ
ート」ばかりを開催すればいいのだろうか? 「絶滅危惧種」側の人間としてそんな
短絡の方を危惧してしまう。それよりも、真剣に演奏する姿や、音楽に真摯に立ち向
かう姿勢を示すことが、クラシックの「宣教」につながるのではないだろうか。と愚
にもつかぬことを受難の日にマタイを聞きながら考えていた。