埼玉中央フィルハーモニーオーケストラを久しぶりに聴いた。これまで何度か聴いているが、確実にレベルアップしていることが見て取れた。埼玉中央フィルは、1996年に創設されたアマチュアオーケストラで、70名を越す団員を擁している。
 
常任指揮者の宮寺勇さんから招待状を頂いたが、その手紙に「久喜の第九も歌ってください」とあった。今回と同じホール、同じオケで今年12月にベートーヴェンの第九をやることになっている。宮寺勇さんは、女声合唱団「悠」(はるか)の正指揮者でもあり、埼玉県合唱連盟理事長でもある。わが男声合唱団コール・グランツ創立当初からのおつきあいだから、かれこれ20年になる。また、私が以前所属していた埼玉第九合唱団の常任指揮者も長い間務めておられた。宮寺勇さんは、第九を新日本フィルハーモニー交響楽団、新星日本交響楽団とは幾度も共演しており、ソウル・ナショナル・シンフォニー・オーケストラなどでも指揮をしている。


 
12回定演のメインは、チャイコフスキーの《交響曲第4番》というアマチュアにとっては難曲といわれるものであった。
 
チャイコフスキーは、コレラで突然亡くなるまでのわずか27年間で、ほぼすべてのジャンルにわたる作品を残している。唯一手がけなかったジャンルはオルガン音楽である。その理由は、ロシア正教会は聖堂内で楽器の演奏を認めていないからである。そこで必然的に教会音楽は無伴奏の合唱ということになるわけで、合唱王国ロシアの歴史はここに始まっている。しかし、その分だけオルガン音楽はじめ、交響曲や室内楽などはなかなか発展しなかったという歴史がある。

 
チャイコフスキーは、1877年、37歳のときに9歳年下の女性と結婚した。花婿の立会人は弟と一人の友人のみ、花嫁も義理の妹のほかは二人だけという極めて簡素な結婚式だった。すでにロシアのみならずヨーロッパでも《アンダンテ・カンタービレ》や《ピアノ協奏曲第一番》などが認められていた作曲家の結婚式としては、すくなからず寂しいものだった。教会で式を終えた一行はエルミタージュ・ホテルへ向かい、祝儀の宴に臨んだわけだが、楽しかるべき食事の席はまるで葬儀のあとのような雰囲気だったという。何ということだろうか。後日、チャイコフスキーが妹に送った手紙の中で「僕の求めるものがなくとも、彼女の罪ではない」と漏らしていたという。結婚生活はわずか80日で終わった。

 
チャイコフスキーは、結婚式の直後、よき理解者であった富豪の未亡人フォン・メック夫人に借金の申し入れをしている。音楽家の生活の困窮振りがうかがえる逸話ではあるが、この時代は音楽にかぎらず芸術家を大切にし、経済的支援を惜しまなかった社会的背景があった。《交響曲第4番》は、結婚の年の初めごろに書き始められ、その後、結婚が破綻しロシアを去ってから仕上げられた。曲全体を覆う暗い世界は、チャイコフスキーの苦悩の日々、絶望と希望の交錯する中から生まれたものといえようか。そして、フォン・メック夫人の多大な資金援助がなければ、日の目を見ることはなかった。驚くことに、この二人は生涯一度も会うことがないまま、手紙のやりとりだけしかしなかったという。これこそ芸術家のパトロンとしての典型的であろう。当然のことながら、《交響曲第4番》はメック夫人に捧げられている。


 
さて、埼玉中央フィル定演の幕開けは、グリンカの歌劇《ルスランとリュドミラ》序曲、続いてボロディンの《中央アジアの草原にて》、ムソルグスキー《はげ山の一夜》で15分の休憩に入った。ここまでの前半で大きな破綻があったわけではないが、細部で、そしてやや目立つところでわずかではあるがほころびがなかったわけではない。それはとくに管楽器の出番のところで目についた。しかし、管楽器群の名誉のためにあえて言えば、管は弦とちがってソロで出てくる場面が比較的多いことによるもので、弦楽器群に比べて遜色があるということではないだろう。

 
続く、第二部が《交響曲第4番》のステージ。楽曲構成としては古典的な4楽章形式だが、第1楽章が全体からするとかなり長い。曲頭のホルンとファゴットのファンファーレは運命の警告を意味し、〈運命。われわれの幸福への追求を実現させないあの不吉な力〉とチャイコフスキーは説明している。

2楽章は「寂しさと夢」を表し、中間部は民謡風の舞曲となっている緩徐楽章。オーボエによって主題が奏される。第3楽章は「酒に酔った農民達の踊りの気分」を描き、主要な部分は弦楽器のピチカートのみで構成されている。中間部で木管のおどけた主題、金管の弱音が配されるなど、楽器の可能性に挑戦したともいわれている。

 
4楽章は「運命に対する勝利」を描く自由なロンド形式。ロンド形式とは、ある同じ旋律が、異なる旋律を挟みながら何度も繰り返される楽曲のこと。輪舞曲ともいわれる。ここでは、第1楽章冒頭のファンファーレが再現され、静かに主題のモチーフが戻ってきて、最後はフィナーレに向けて一気に高揚してゆく。


 
チャイコフスキーほど文章によって音楽を表現・解説した作曲家もすくないといわれるほど、機会あるごとに筆を執っている。もちろん手紙も膨大な数が残されている。
 
ところで、チャイコフスキーは人によって好き嫌いが分かれることが多いように見受けられるが、いかがであろうか。私の友人の一人は、チャイコフスキーを称して、大向こうを意識したような(まるで歌舞伎のような)大衆に迎合した調子が気に食わぬと言っていた。確かに大衆受けする曲が多いことはまちがいない。それがよいとかわるいとかではなく、好みということだろうか。
 
これを裏付けることになるかどうかわからないが、図書館で音楽の棚を眺めてみると、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、ブラームスなどどう見てもドイツ系ばかりが目に付く。圧倒的にヨーロッパが中心である。これはチャイコフスキーに対する評価が低いということなのだろうか。また、稀代の音楽評論家としてつとに有名な吉田秀和氏の著書にもチャイコフスキーはほとんど出てこない。興味が沸かないということだろうか。

 
私が、初めて自分のお金で買ったクラシック音楽のチケットは、チャイコフスキーの《交響曲第6番》「悲愴」であった。かれこれ30年ほど前のことになるが、たしかロジェストベンスキーが振ったモスクワ放送交響楽団だった。どこのホールだったか憶えてはいないが、あのときは、巨大なオーケストラに圧倒され、副題の「悲愴」そのままの暗さにもびっくりし、弦の分厚い音の波に飲み込まれてしまった記憶がいまだに蘇ってくる。

 
チャイコフスキーは、一説によると26歳から52歳までの間に12回のうつ病を経験したという。《交響曲第4番》や「悲愴」を作曲したときに過去の病気を思い起こしていたのだろうか、それとも実際にうつ病を患っていたのか、そんなうつ的な精神状態が反映していると思わせるふしもある。

 
埼玉中央フィルを聴いて、大作曲家チャイコフスキーの生涯とその作品に思いを馳せるとともに、若い頃下手の横好きでやっていたフルートはもう吹けないだろうな、などと思わぬ感慨に耽っている。





チャイコフスキー《交響曲第4番》
〜埼玉中央フィルの定演を聴く

M-77

平成20525()  久喜市総合文化会館大ホール(埼玉)

加藤良一 (2008年6月1日)