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    音 の 跳 躍 の 狙 い

 


加 藤 良 一
 

 

金管楽器は、息を吹き込む唄口と、音を拡大するための朝顔、そして音程を変えるためのスライドやわずかなバルブでできている、きわめてシンプルな楽器だ。シンプルなだけに、指だけですべての音をだすことはできない。唇の状態や息の圧力で基音や倍音を切り替え、音の高さを変化させている。
 
                (倍音:周波数が2以上の整数倍の音 、基音:周波数が1倍の音つまり元の音)
 
オクターブは同じ指使いで唇や息の圧力でコントロールしなければならないから、音が上へ下へと跳躍すると、唇を中心に顔中が大忙しとなる。金管奏者にいわせると、できればド─ソのような5度くらいの音程が、スタミナや安全性を考えると理想的なのだそうだ。しかし、それでは いくらなんでも音楽的にさみしい。最低でも1オクターブくらいの跳躍は欲しいところである。
 跳躍の難しさは、音楽の速度によってもずいぶん変るようだ。たとえ1オクターブ以内の跳躍であっても16分音符のように速い場合や、5度以上を何回も反復させられるフレーズなど はきつい。もっともやっかいなのが、バッハの鍵盤曲によく出てくるような分散和音で、あのような跳躍の反復をさせられると金管奏者はたちまちダウンするらしい。

それにひきかえ、フルートのような木管楽器は、跳躍が比較的楽である。管の長さが短いからでもあるが、キーの数がたくさんあって速いアクションが可能だからである。フルートの名曲には、この音の跳躍がさまざまな形で巧みに織り込まれていることが多い。 当たり前のことだろうが、ピアノや弦楽器のように同時に複数の音が出せる楽器で跳躍することにさして魅力はない。やはり、いちどきに 複数の音が出せない楽器だからこその面白さだろう。
 認知脳科学という学問によれば、人間が跳躍する音をどう把握するかは、耳=脳の仕組みと密接な関係があるという。
 人間の耳というものは、二つの音の周波数が近ければ、音の出方のタイミングがわずかにずれてもすぐに気づくが、周波数が遠く離れているとタイミングのずれには気づきにくいそうである。
 たとえば、隣りあった二度の音程「ドレド」を一定のタイミングで鳴らしたとき、ほんの少しのずれでも人間の耳には感知できる。人間の耳は、この「ドレド」という音の流れを「ひとまとまりとして知覚」しているからである。身近な例として、筆者がピアノで<ドレド・ドレド・ドレド・>(・は休符)と必死にくり返し弾くのを聴いていただければ、いうにいわれぬ微妙なずれをすぐさま体感できるはずである。
 二度の「ドレド」に対して、「レ」が「ド」のすぐ隣りではなくオクターブ上の「」だった場合、つまり周波数がそれなりに離れている場合は、「ド」と「」はそれぞれ別のまとまりとして知覚されるので、ほんの少しのずれならば人間の耳はごまかされてしまうのである。

つまり<ドレド・ドレド・ドレド・>が、周波数ごとに<ドド・ドド・ドド・>と<・>の二つの別個のまとまりとして分離してしまうのである。

では、実際にはどうなっているか、フルート曲の実例をあげよう。
 まず、シューベルトの「《しぼめる花》の主題による変奏曲」の中の第5変奏曲をみてみよう。曲の終わりの少し前に図のような部分が出てくる。 上の五線がフルートパートである。

 

右側の小節の音形のうち、スタカート記号(・)が付いている音がメロディで、それ以外のスラーでつなげられている音が伴奏にあたるが、オクターブの跳躍を繰り返しながら スタカートの音にアクセントを付け、メロディと伴奏を同時に鳴らしている。

つぎの例は、山田耕筰の「《この道》を主題とする変奏曲」である。この曲は、歌曲ファンにはよく知られた日本を代表する名曲である。下に示した楽譜は、最初の変奏曲の冒頭である。ここでも同じようにメロディに スタカートでアクセントを付け、伴奏部分と対比させているのがわかる。

 

 

いずれの場合も、メロディと伴奏がそれぞれくっきり聴こえてくるが、仮に人間の耳の精度がもっと高かったなら、これらが全部つながって聴こえてしまう はずだ。そうなると音を跳躍させている意味がなくなり、作曲家の狙いは完全に的外れなものとなってしまう。

人間の耳は、優れているようでいて、そこにはまた正確さと不正確さが同居している。
 「関係のあるひとまとまりの系列の中ではタイミングの判断は正確だが、無関係な系列間では非常に難しい」のである。大昔の作曲家は、認知脳科学などない時代にすでにこの人間のカラクリを見抜いていた。

 

(2004年3月28日)