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       超スローボール と ピアニッシモ

 


加 藤 良 一

 


 ひと昔まえ、プロ野球に金田正一という長身のピッチャーがいた。金田投手はたまに超スローボールを投げて相手バッターの意表を突くことがあった。あるテレビの対談で、その超スローボールに話がおよんだとき、あれはただ力を抜いてフワリと投げているわけではない、直球を投げる以上に全身を使って「思い切り」投げているんだというような意味のことを答えていた。そのときは、ただそんなものかというくらいの印象しかなかったが、最近になってようやく「思い切り超スローボールを投げる」ということの意味がわかった気がした。

合唱をあまり聴く機会がない人びとのなかには、男声合唱といえばバンカラよろしく高歌放吟する雄叫びのごときものと思い込んでいる人がいるのではないかと気になる。たしかにそれに近い合唱団もときどき見かけるから無理からぬところでもあるが。
 さて、一般にポピュラー音楽にくらべてクラシック系の音楽は、ダイナミックレンジの幅がじつに広い。つまり極めて小さな音から大音響まで音の大小の幅が大きいのである。たとえば電車のなかでMDやCDを聴くとして、クラシック曲では騒音にかき消されて聴こえない部分がよくあるはずだが、それはピアニッシモ pp (ごく弱く)がよく出てくる証拠である。ポピュラーではそれほど苦にならないということからもそのことがよくわかる。
 歌唱で中間的な音量の音をきれいに発声するのにさほど困難はないが、大きい音と小さな音はそれぞれにむずかしいものである。いたずらに大きくしようとすると音が割れたり引きつったりして聴くに耐えないものとなる。いたずらに大きくしたのが高歌放吟である。かたや、小さい音をただ力を抜いて小さな声で歌うだけでは、芯のない情けない音になってしまう。このことは楽器についてもだいたい同じようなものであろう。

 ピアニッシモとフォルテッシモ(ごく強く)のどちらがむずかしいかといえば、やはりピアニッシモであろう。それもクレッシェンド(だんだん強く)やディミニュエンド(だんだん弱く)することなく、同じ音量でずっと出しつづけるロングトーンのピアニッシモがもっともむずかしい。
 ピアニッシモは、音量を小さくするためにどうしても息のスピードが遅くなりやすく、そうなるとピッチが下がって精彩のない音となってしまう。逆にフォルテッシモは、自然と声も「支え」やすいので、その分だけ歌いやすい。ピアニッシモでは、意識してフォルテッシモと同じ「支え」を作り、息のスピードを落とさないようにしなければならない。とりわけ高音域では、しっかり声を「当てる」ようにしないと会場の奥まで飛ばない。

発声はひとつの技術であるにもかかわらず、「支え」だの「当てる」だのとやたらに抽象的な表現が出てくるところが声楽理論の弱点であり、教える人によってさまざまな表現がなされている。そんなことはひとまずおくとして、つまり何がいいたいかといえば「思い切り超スローボールを投げる」ことは「ピアニッシモは渾身の力を込めて歌う」ということと合い通ずるのではないかということである。
 チャイコフスキーのように p が四つも五つも付くような極超ピアニッシモは別として、pp をいかにきれいに出せるかでその合唱団の力が評価される。ピアニッシモのむずかしさは、最近YARO会ジョイントコンサートで演奏した多田武彦作曲・男声合唱組曲「富士山」でつくづく実感したところである。

 

(2003年12月28日)