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    ピアノのタッチとはなにか

 


田村邦光
 


(田村氏は、ピアニストであるが合唱もやられている。ピアノとタッチの関係についてどのような考えをお持ちかという質問に以下のようなお答えをいただいた。 加藤良一 )



 ご質問の件、回答します。
 タッチと音との関係およびタッチと音楽との関係を中心に、両者を織り交ぜながら説明します。これらについては定説のようなものはなく、人によって解釈の仕方が異なるかと思いますが、私は次のように捕らえています。


1.ピアノのタッチとはなにか
 
はじめに、「ピアノのタッチ」をどう定義するかですが、簡単に云うと、ピアノの鍵盤を指で(特殊な場合には、手のひらとか、拳骨とかあるいはその他の手段で)打鍵することです。
 またタッチとは、単に打鍵という行為だけではなく、打鍵の仕方(あるいは奏法)を含めた意味で使用されている場合も多いようです。また、打鍵とペダリングは演奏上切り離せません。ピアノ演奏は通常両方によって成り立ちます。


2.打鍵から音が人に伝わるまでのプロセスと音響環境の影響
 
タッチと音との関係を議論する前提として、打鍵から人の耳に音として聞えるまでのプロセスを考えてみましょう。
 まずピアノ奏者がピアノのキーを打鍵することによって、指の力が鍵盤に伝わります。この力が機構上ハンマーに伝わり慣性力を得たハンマーの頭部が弦を瞬間的に打ち、弦が発音し、これによる音波が音として人の耳に聞こえるわけです。
 これだけを考えると、打鍵から聴き手の耳に音が到達するまでのプロセスは至って単純であり、“ピアノのタッチは音に影響ないのだ”と主張する人がいるかも知れません。しかし、現実にはピアノで苦労した人はおわかりのように、タッチ(タッチの仕方を含めて)は音に微妙に、ときには大きく、影響します。
 これは、聴く人の耳に音が到達するまでに、さまざまに音(音質、音量)を左右する因子があり、それらが変化することによって聞こえる音が変わるからで、これらの支配因子の存在を排除するわけにはいきません。

 それらを列挙してみると、
 
1)部屋の大きさ(残響)、音の反射、吸収の度合い
 2)聴き手の位置(壁の近くにいるか、中央にいるか、ピアノのすぐ近くにいるか)
 3)湿度・温度(音速に影響)
 4)ピアノとの距離(直接音、反射音の混じり方に影響)
 5)弦の状態(張り)
 6)調律・調整の状態
 7)聴衆が多いか少ないか(音の吸収等)
 8)ペダルの使用の有無
 等々が挙げられます。


3.ピアノの音の支配因子
 
加えて、これら以外に重要な事柄は、ピアノの音の物理的な大きさは、打鍵の加速度によって決まるということです。これはごく短い時間を考えれば、音の大きさは打鍵速度に支配されると言って良いでしょう。鍵盤の上下の可動距離は1cm位と短いので打鍵時間(この場合鍵盤に指が触れて鍵盤の底に至るまでの時間)はごく短いと考えられますので、ピアノの音量は事実上、近似的に指による打鍵速度で決まることになります。他方、音の長さは、強音ペダル(右)を使用しない場合は、指が鍵盤を下に押して持続している時間(持続時間)によって決まります。
 上記からわかるように、ピアノのタッチだけでコントロールできるのは、単音の場合は打鍵速度と持続時間だけです。しかし重音・和音になりますと、複数の指で“同時に”打鍵しますので、普通に考えると、復数の音が同時に出るように思われがちですが、実際は人間が打鍵する限りは、時間スケールを細かくして分析的に見ますとばらばらになります(これはピアノの音が減衰音であることも一因)。これをいかに短時間に“ひとつの音のように”まとめるかがピアノの技術のひとつです。
 つまり、本来ならばばらばらになっている音を人間が識別できない位の短時間の間にいかにして同時に発音された複数の音にまとめて出すかがポイントです。(無論ピアノの音にはタッチのほか、ペダルの使い方が重要な影響を与えることは、周知のことです。しかしペダリングにまで話を広げると膨大な紙面が必要ですのでここではタッチだけに話を限定しましょう)


4.演奏におけるタッチの実際例
 
同じピアノ、同じホールを使用したにも拘わらず、ピアニストによって同じ重音・和音が微妙に違って聞える原因のひとつもこの辺りにあると思います。このさらなる原因はタッチの仕方です。重音・和音はタッチの仕方によって大きく音がかわります。
 この事例として、この他に同じ重音・和音を複数の指で同時に弾く場合でも、例えばメロディー部がその中に存在する場合は通常はそこを幾分強くなるように弾きます。これは指の打鍵速度をそこだけ変える(速める)ことになるので技術的には難しいのですが、ピアノ奏者は常時試みています。
 ピアノの音は減衰音ですので、強音の和音を出したい場合は、できるだけ同時に指をそろえて弾く必要があります。ばらばらになると原理上強い音は得難いものです。加えてこの結果音色も違ったものになります。
 これら重音・和音の弾き方だけを取り出しても、タッチと音とは無関係とは云えないことは明らかです。さらに聴き手(聴衆)に音が届くまでに、上述の1)〜8)の因子が少なくとも影響しますので、楽譜上同じ音であってもピアニストのタッチの仕方の違いが微妙な音質の違いになって表れてきます。
 さらに単音と重音・和音を弾く場合に共通の現象ですが、特にスタッカートを弾く場合はタッチによってその長さを決めなければなりません。さまざまな楽曲において、作曲者が楽譜に記入しているスタッカートにはご存知のように、1/2スタッカート(いわゆるスタッカート)、1/4スタッカート、あるいは超スタッカート等とありますが、これらは作曲者が付した一応の目安と考えています。ピアノの音は物理的には減衰音である上に、実際に弾くスタッカートの長さというものが、1)〜8)の影響を受けて聴き手に違った形で伝わりますので、それを配慮したタッチでピアノを弾くべ
きでしょう。例えばホールでは短い音も残響の影響で裾を曳きますので普通に楽譜どおり弾かずに若干短めに弾くべきでしょう。つまりタッチの仕方を調整することによって聴き手に聞える音楽そのものを作っています。
 この事例として、ベートーベンのピアノソナタ第8番“悲愴”(OP.13)の第一楽章のコーダの最後の6小節に5つの4分音符コードを例にとりましょう。これは楽譜どおりにまじめに奏するならば均等な長さの4分音符のコードですが、実際に著名なピアニスト達が奏しているのを聴きながら比較すると、実に千差万別で、予想とは裏腹にペダルを踏みっぱなしの演奏もあれば、楽譜どおりの長さを守っている演奏もあれば、極く短いスタッカートで奏している演奏もあります。当然これらは、同じ楽譜ではあるけれど、ピアニストが意識して自分の欲しい音を求め、それぞれがタッチを工夫していることにほかありません。極く短いスタッカートで奏している演奏は、ホールに一瞬の強音とそれに続く効果的な残響を生み、緊迫感のある印象を聴衆に与えるのではないでしょうか。ベートーベンも実はそのあたりを狙っていたのではないかと思われます。
 そのほかピアノにはペダルを使わないレガート奏法があり、これは例えばスケールを奏するとき、普通は力が効率的に鍵盤に伝わるように指を立てるのですが、逆に指を少し寝かせることにより、前の音と後の音をある瞬間重ねながら弾く方法があります。これによって音が濁らないスケールが得られるわけです(ペダルを乱用すると音が濁る)。
 以上から分かりますように、ピアノのタッチはただ単に物理的な音を出すためのものではなく、工夫の仕方によって音作り、音楽作りに大きな影響をあたえることは誰も否めないでしょう。
 なお、タッチの後は音のコントロールができないという意見もあるという話ですが、小生はそれには賛成できません。タッチの後の音のコントロールはその後のペダルの使用、あるいは音を出さない打鍵によって物理的に可能です(共鳴を利用)。
 また音楽を聴く上で人間はひとつのタッチによる音だけを聴いているのではなく、心理的には音のつながりとして自然に比較しながら聴いていると考えられますので、その意味では、ひとつのタッチによって生じた音は一連の音のつながりによってコントロールされると云えます。


5.演奏におけるタッチの位置付け
 
ピアノのタッチとは、ハードウェアであるピアノと人間とを鍵盤を通じて繋ぐインターフェース技術のひとつと考えられます。ピアニストがこの技術をどのように持つかあるいは、どのように使うかはピアニストによって異なると考えられます。
 打鍵するという行為は単純なようですが、打鍵の仕方によって前述のように様々な音色(おんしょく)が得られます。前にも触れましたようにこれはペダルの使いかたに極めて影響を受けます。したがいまして単純に打鍵とは言っても、ペダリングを含めたものとして考える必要があります。
 そうなると打鍵には無限の可能性があり、そのピアニストが楽曲をどう捕らえどのように演奏したいかによってその技術の使い方が異なる訳です。その辺りがピアノの面白さでもあり、同時に難しい面でもあります。

 

(2002年11月29日)