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     やっぱり『音楽は体力です』

 


加藤良一
 


 


 
もののはずみからとうとう音楽の本を出してしまったけれど、ぼくはプロの音楽家じゃない。まったくのトーシローである。でも、ぼくの強みはこのトーシローという立場にある。これは強がりでもなんでもない。あくまで趣味だからこそ、つねに音楽だけを純粋に求めて楽しんでいられる。
 ところが、プロの音楽家ともなるとそうは思いどおりにいかない。生活がかかっているから、好きな音楽だけをカッコよく追及しているわけにもいかないからだ。自分の音楽性と相いれない場合や気に入らないシゴトがあっても、選ぶ余地がないことだってある。これはゲイジツ家としては、はなはだ辛いことにちがいない。
 世の中に音楽の本はけっこうあるが、おおむねプロが書いたものだ。音楽理論や演奏技術などの読んでタメになる本、モーツァルトやべートーヴェンなどの歴史的な音楽家の作品を紹介した本、そうかと思うと楽屋裏の出来事や失敗談を赤裸々に書いて楽しませてくれるエッセイ集などさまざまある。本屋でみるかぎり声楽より器楽に関する本のほうが多いようだ。ところが不思議なくらい素人が書いた本は見当たらない。

 さて“合唱は素人がプロと共演できる世界”であることはご存知のとおりである。年末恒例、べートーヴェンの第九、あれはほとんど素人合唱団が歌っている。言い換えれば、プロの合唱団がいったいどれだけあるかということ。そんな素人集団がときとしてオーケストラという完璧プロ集団と組むのだから、じつにスリリングな演奏が繰り広げられることにあいなる。素人歌手は、オーケストラの何十倍も練習して、やっと本番に臨むことができるのだ。合唱は音楽のなかでもっとも素人に門戸を開いている世界なのである。
 素人がシャシャリ出られるこんな面白い世界を書かないテはあるまい。というわけで、素人なりに――というより素人の立場を十二分に利用してというか逆手にとって合唱音楽の世界を書いてみたのが拙著『音楽は体力です』という本。ある声楽家が「声楽はカラダができてこないとダメ、楽器としての声の成長が進まない」と言っていた。つまり楽器が自分自身のカラダであるから、子どものうちはまだまだ楽器として未発達であり、肉体的成長にともなって少しづつ楽器として成り立っていくという話しだ。なるほど、それならぼくには条件が十分揃っている、と簡単にはいかない。へんな方向に育ったカラダは作り直すのに手間がかかるのである。あれやこれやで、音楽は体力勝負だという実感をもつに至った次第。
 もちろん辛いことばかりじゃない。苦難の道の果て――ひとによってさまざまだけれど、そこにはこのうえない喜びが待ち受けている。自分ひとりではぜったい作り出すことができないハーモニー、全員の発声がそろったときにのみ響きわたる倍音(もとの音に対して整数倍の振動数をもつ上の音で、豊かな音色を作り出す)が出せたときの感動は格別である。そしてアフター・コーラスで傾ける一杯のジョッキ。ストレス発散などというレベルでなく、生きていてよかった、これこそ至福のひとときと思わずにいられない。

 意を決して出した本だが、その反響の大きさにわれながら驚いている。お読みいただいた方々からは、たくさんの手紙やメールや電話をもらい、親友からはけっこうきびしい批評や注文もあった。ぼくの本に触発されて、自分にも合唱ができそうだと思い込んでしまった人も何人かいる。それはそれでまちがいじゃないし、そんな合唱予備軍に、あらたな世界へ飛込む動機と勇気を与えることができたとしたなら、それこそ望外の喜びである。
 実際に、何を思ったか拙著を読んで、埼玉にあるわが男声合唱団コール・グランツに入団してしまった人すらいる。もしかして、ほかにもぼくの知らないところで、その気になってどこかの合唱団に入り込んでしまった人がいるかもしれない。
 合唱をなんとなく近寄りがたいものと思い込んでいるあなた、合唱界はいずこも男 手不足、猫の手――いや声でも借りたいのが現状である。こんなに歓迎されていいんだろうかと感じるほど大切に扱われるのは確実。
 さあ、シゴトや家庭のシガラミから開放され、自己実現に向かって一歩を踏み出してみよう。



(文芸社ホームページ・バラエティコラム No.54より転載)