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ワープロと手書き
 


加藤良一
 


 


 ふだんほとんどの文章をワープロで書いている。ワープロを使うようになってから、漢字が書けなくなったという話しもときどき聞くが、本当だろうか。読者諸氏はワープロで文章を書くことをどう捉えているだろうか。ワープロで書くことと手で書くことはどうちがうか、自分の経験と照らして考察してみたい。
 ワープロと手書きの違いについて作家の木村治美さんは、「ワープロだと、手書きよりずっと早いですよ」 という。書く速さだけをいうならば、たしかに手書きより早くキーを叩ける人は現代ではかなりいる。「考えるスピードは、ワープロでも手書きでも変らないでしょう」 との意見にもある程度賛成する。しかし 「頭の中にすでに出来上っている文章を、機械的に打ちだせばよいだけですから」 といわれると、ちょっと待ってほしいと言いたくなる。もし、頭の中にあるものを書き出すだけなら、たんなる清書用の機械としての役割しかない。ふだんワープロに向かって文章を作る作業は、ほんとうにそのような活動であろうか。

 ワープロとは「ワード・プロセッサー」の略称である。いまさら説明するまでもなかろうが、ワード(語、単語、言葉、話、談話など)を作り出す機械である。ワープロとはよくいったもので、文字を作る能力は備えているけれども、文章を書く能力までは持ち合わせていない。あくまで入力された文字を「変換」してくれるだけである。その文字を連ねて文章にするのは、あくまで書き手である。だから文章が書けない人は、ワープロを使ったところで同じことであることに変りはない。
 それでも、ワープロが手助けできることがある。修正のしやすさ、切り貼りの自在さなど、書く手間が大はばに省けるのはありがたい。タイピングが速ければ、速く文章が書けるのは当たり前だが、速さが求められるのは考えながら書くときでは ない。 考えながら文章を創り出すなら、タイプの速さはさして問題にならないだろう。人間の思考の速さはそんなに速くないのではないか。
 では、ワープロで文章を書くことの効用とは何だろうか。簡単に整理してみよう。 まずメリットをリストアップすると、以下のようなことがある

@ 手書きよりも速くきれいに書ける。きれいといっても作られた同じ活字が現れるだけであり、場合によっては没個性的な退屈な文章になる危険性も孕んでいる。入力方法は「ローマ字入力」がベストである。つまりアルファベットならば26字(キ ー)ですむところを、日本語の「かな入力」にすると、約50字(キー)も使わねばならないうえに、さらにアルファベットも使うとなるとそれも追加しなければならな い。

A 修正が容易である。文章の「推敲」を何の苦もなく行える。また、知らない文字でも「変換」いっぱつで簡単に書けてしまう。

B 「てにをは」 を含めて文章の詳細を気にせず、ポイントだけを忘れないうちに書き留められる。つまり、書いているうちに、ひょっと思いついたことを次の行にでも書き残しておけば、あとでそれをつなぎ合わせることができる。せっかく湧いてきた アイデアを逃さないですむ。

C 一度書いて(入力して)しまえば、あとで好きなように加工ができる。報告書のような定型的な文書の作成にはもってこいだが、エッセイなどのようにワンパターンの文章では困る場合には利用しにくい。

D 書いた(入力した)もののファイリングが容易である。場所をとらない。

E 縦書きにも横書きにも瞬時に直せる。目的に応じて変えられる。

F 文字の大きさや字体も自由に変えられる。プリントしたものをそのまま活用する場合にはうってつけである。

 いっぽうデメリットは、メリットとされたことがそのまま逆の面をもっている場合もあるようだ。

@ 誰が書いても文字の形にちがいがない。完全に没個性の文字である。ワープロの年賀状を思い起こせばよい。手紙はなるべく 「自筆」 がよい。その場合、書く(考える)過程ではワープロを使うが清書は手書きとするとよい。そうすると、手紙の内容も残せるので便利だ。

A とくに漢字は 「手で」 書くことによって、そのときの手指の動きや出来上りの形から感性や脳の活動が触発されるかもしれない。漢字はある意味で 「絵」 に通ずるところがある。その部分を機械にまかせているワープロは、かなりのアナログさを失っている、といえないか。もっとも文字自体はやはりデジタルなものではあるが。

B ワープロはふつう横書き入力中心であるから、縦書きの原稿用紙と 「雰囲気」 がちがう。また、縦書き入力できることはできるが、なにしろ書きにくいことこのうえない。好んで使う人はほとんどいないのではないか。入力後に印刷の段階で縦にするだけである。ただし、仕上がりが横書きの場合にはまったく問題ないのは当然である。ホームページのようなワープロの世界に縦書きは、まったくといっていいほどない。

C 「推敲」 が容易なので、整理され過ぎた文章になりがちである。また、ワンパターンの文章になることもある。

D 「推敲」 の過程(あと)が残らないと問題視する人がいる。もっとも推敲の過程を残す必要があるかどうかは、考え方によるとも思うが。

E パソコン(ワープロ)が壊れたら悲劇である。以前、マッキントシュを使っていたときに一度経験したが、じつに悔しい思いをした。最悪の場合を想定して、バックアップをこまめに取る以外にない。なにしろ相手は機械だ。

F 手書きより速くワープロ入力するのは、かならずしも容易なことではない。しかし、これはワープロを使うことの前提であるから、ここでは省いておく。
 

 寺田寅彦は、エッセイ 「科学と文学」 のなかで 「文学の内容は 『言葉である』 」 と述べている。「書くことで頭が反応し、考えているだけではけして思い浮かばない潜在的な意識が呼びさまされる」。
 寺田寅彦の時代にはワープロなどなかったから、ここでいう「書く」こと、とはもちろん 「手書き」 のことである。すなわち、自らの手が紡ぎ出す文字を目で見ながら、同時にその文字が脳に何らかの作用を及ぼし、潜在的な意識を働かせる。「書く」ことと「考える」ことには、どうも相関関係があるらしい。
 では、「書く」 ことと 「考える」 ことの相関関係は、どんな言語にも同じように存在するだろうか。漢字は、形そのものに意味がある表意文字だから、文字を見ることでいろいろ連想が働くという特長を備えている。漢字が連なった単語は、それだけでかなりの情報量がある。
 逆に、英語に代表されるアルファベットを使った外国語では、ひとつひとつの文字に特別な意味はない。だから単に文字を並べても何ら意味が出てこない。意味はあくまであとからくっつけるものである。
 分かりやすくするために、漢字の 「単語」 ということばの意味を知らなかったと仮定してみよう。「単」 はひとつとか、ひとつのまとまりをもつものという意味であり、「語」 はことば、ことばづかいの意味だから、「単語」 の意味がわからなくとも、それぞれの文字の意味を知っていればおよその推定はつくことになるだろう。こ れが表意文字としての漢語の最大の特長である。いってみれば 「絵」 みたいなものだ から、その結果、膨大な数の「絵=字」が生まれてしまった。これが現代のわれわれを苦しめたり楽しませたりしている。
 いっぽう、英語で単語のことは “a word” と書くが、どの文字をとっても全体の意味を類推できる要素は何もない。あくまで全体がまとまって、はじめてある意味をもつことになる。それは、つまりアルファベットのどの文字にもとくに意味がないからである。その証拠には、単語ごとに切り離して書かなければ文にならないし、単語が文末で改行されて泣き別れになるときは、ハイフンでつなげないと意味が通らなくなってしまうことを上げればじゅうぶんであろう。
 もっともワープロは、英語圏には不要の機械であることを忘れてはいけない。こうしてみると、「書く」 ことと 「考える」 ことの関係は、日本語と英語とではずいぶんちがいがありそうである。

 作家の渡辺淳一氏は、どうしても鉛筆で書かなければ調子がでない、と 「手書き作家の本音」 という本を著した。この作家は、よほど鉛筆が好きとみえて、NHKテレビの連載番組“人間講座人間をみつめる”に出演したときも、終止鉛筆を手にしていじりまわしていた。
 文章を 「書く」 という行為は、かように複雑で一筋縄ではいかないものらしい。






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