K-3

 


 悪 
 好  悪


 



加 藤 良 一

2002年3月23日

 

 

 
 あなたは、たとえば子供に「なぜ悪いことをしてはいけないのか」と聞かれて、即座に答えられるだろうか。 もし、答えられないとしたら、それはどうしてだろうか。
 「なぜ悪いことをしてはいけないのか」と対になる概念は、「なぜ善いことをすべきなのか」である。「悪」とは、よくないこと、天災とか病気などの自然的な悪、あるいは人倫に反する行動のような道徳的な悪、正義・道徳・法律に反することであり、かたや「善」とは、正しいこと、道徳にかなったこと、よいこと、と広辞苑に書かれている。
 「悪いことはよくないこと」だと言ったところで、いくら子ども相手でも説明にはならないだろうし、天災・病気はこのさい関係ないから除外しておく。残る、人倫に反する行動のような道徳的悪と正義・道徳・法律に反すること、とは何のことであろうか。
 人倫とは、人と人との秩序関係のことを指す言葉で、君臣・父子・夫婦などの上下関係や長幼などの秩序から転じて、人として守るべき道、人としての道という意味である。つぎに、道徳とは、ある社会の成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として一般に承認されている規範の総体のことである。即ち、道徳は時代によってさまざまに「変り」、あるいは「変えられる」ものであることはすでに経験が示している。正義とは、社会全体の幸福を保証する秩序を実現し、維持することであり、その幸福とは、心が満ち足りていること、また、そのさまを表す言葉である。

 道徳とは何かを考えてみると、このようにかなり抽象的でありながら、極めて個人的な問題でもあって捉えどころがない。
 たとえば、一夫一婦制の社会においては、「妻は夫を一人しか持てない」ことになっている。その逆もとうぜん成り立つ。妻は、夫でなくとも複数の男性を同時に相手にすることは、即座に悪につながる。いっぽうで、世界には一夫多妻制の社会というものがある。これにはその逆の一妻多夫制がないところがミソであるが、一夫多妻制の社会では、複数の妻を持つことが、即ち善であり、道徳的にもかなっている。このように道徳には、普遍性というものがない。

 永井均氏は、『なぜ悪いことをしてはいけないのか』(「本」講談社)という小論文で、多くの子供たちは、道徳に普遍性がないということに問題を感じ、善いことと悪いことがはっきりしないと感じている、だとすると、何が善いことで何が悪いことかはっきりすれば、善いことをしなくてはいけないと考えるのか、と疑問を投げかける。
 また、健康であることは、「好い」ことではあっても、べつに「道徳的に善い」ことではない。病気であることは、もちろん嫌なことではあるが、けして道徳的に悪いわけではない。病気をなおしてやることで好い状態を作りだしてやることなら、道徳的に善いことだろうし、その逆ならば悪いことだろう。つまり道徳的な善悪は、道徳外的な「好悪」すなわち、好いことと嫌なことに依存しているわけである。

 死は、われわれの存在の絶対的かつ永久的な終焉である、と考えられている。だが、もしそうだとすると、死ぬことははたして悪いことなのかどうか、という問いが起こるであろう。死ぬこと自体に道徳的善悪の問題はない。ところが日本人の多くは、「死ぬことが悪いことかどうかを問題にできるのは、自殺の場合だけではないか?」と感じるように、「悪い」という言葉を道徳的善悪の意味に捉えていると氏は指摘する。
 いじめの問題にしても、いじめている側にとっては嫌なことではなく好いことである。だからこそいじめるのである。悪いことは(少なくともそれをする当人にとっては)ふつうに好いことであり、善いことは(少なくともそれをする当人にとっては)たいてい嫌なことである。
 それではいったい人はどうして善いことをするのであろうか。理由は明白である。道徳という制度が成立している世界では、それに従うことが自分にとって有利になりがちだからである。つまり道徳的に行動するか、非道徳的に行動するかは、道徳という制度が確立している世界での戦術の違いみたいなものである、と氏はいう。

 ではいったい、われわれはどのように生きたらよいのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなるテーマである。本心からでなく見せ掛けで善行をすることを偽善というが、自分にとって都合がよいからするのが善であるとするならば、偽善という言葉はもはや意味を失ってしまうのではないか。

 





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