2009年3月14日
英語詩は、詩のリズムの型、韻律が重要であることはよく知られている。各音節の強弱、すなわちどこにアクセントが置かれているかがポイントとなる。英語圏では、詩は目で読むものではなく口に出して朗読するものだ。これはとりもなおさず英語という言語の問題なのである。英語ネイティブでない日本人が英語詩を声に出して楽しみにくいのは、まさにここに理由があるだろう。とくに私などにとっては。
いっぽう、日本語の詩でリズムといえば、音の数すなわち音節数であり、すぐに頭に浮かぶのは七五調であろう。規則的に七と五が繰り返されていれば、それは単なる文ではなく詩歌の類だなと感じられるはずだ。
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最後になにかおいしいカクテルでも一杯もらって帰りましょうか。上質のウイスキーをすっかり堪能した私は、カウンターに並んだOさんに声を掛けた。Oさんは先ほどからうまそうにシガーを吹かしながら、顔馴染みのバーテンダーに詩の手ほどきをしている。Oさんは理系に似合わず、まるで文士と見紛うばかりの風貌で、その知識の幅広さにはいつもながら驚嘆してしまう。私も詩は好きだし、多少は議論に参加できるような気がしていたが、その晩の話題はアメリカ詩だったのでまったくお手上げ状態だった。
バーテンダーがカウンター越しに差し出したジントニックに口をつける。トニックの香りがひろがった。すっきりして口当たりがいい。じつはジントニックにはすこしばかり思い入れがある。私の学生時代、昭和40年代に流行ったコンパという今は廃れてしまった酒場でよく飲んだものだからだ。作り方は至って簡単。氷を入れたタンブラーにビーフィーターBeefeater Ginとトニックウォーターを注ぎ、軽くステアしてライムを飾るだけ。なのに、どうしても自分ではこの味が出せない。さすがにプロの技だと感心するものの、いや、それとも贅沢でどっしりと落ち着いた分厚いカウンター、趣味のよい調度品が設えられた店内、洗練されたバーテンダーなど、隅々まで気の利いたバーで飲むからおいしいのだろうか、などとやや緩みかけた脳であれこれ反芻している私の横でOさんは、アメリカの詩人、ロバート・フロストの詩の一部を
森は美しく、暗く深い、
だが わたしには守るべき約束がある、そして
眠る前に あと数マイル行かねばならない、
Oさんは、「意味がわかりますか」とバーテンダーとも私へともなく語りかけた。
「森は美しく、暗く深い」 これは雪の夜、大きな森を前にしてそこへわけ入りたい、つまりまだバーで飲んでいたいというようなことでもいいのだが、しかし「わたしには守るべき約束がある」どうしても果たさねばならないことがある。そのために「眠る前に あと数マイル行かねばならない」さらば友よ、というわけである。紳士たるものバーをあとにするにあたって、このような詩のひとつもつぶやき余韻を残して去るのがいいのだ。なるほど、そんなものか、よく知らない詩だが心にとどめておこうと思った。
* * * *
それから数日後、銀座のバーでのあの出来事はすっかり忘れかけていたが、ふと手帳を開いて記憶が蘇った。余白にやや乱れた文字で<ロバート・フロスト ジョン・ダン>と走り書きがあったからだ。たしか、ジョン・ダンについては私が何か喋ったような気がするが、ロバート・フロストについては耳新しかったので調べないといけないと思い、いつもの習慣でメモに書き残したのだろう。
早速図書館へ行ったついでにロバート・フロストの詩集をいくつか借りてきた。
フロスト(1874〜1963)は、アメリカの有名な詩人で自らを「
フロストは、暗殺されたアメリカの大統領ジョン・F・ケネディと同じく 1963 年に没している。人生の前半は不遇だったらしいが、晩年には「国民詩人」あるいは「桂冠詩人」として、多くの国民に親しまれた。フロストの絶頂期は、ケネディの大統領就任式で、自作の詩“The Gift Outright”(無条件の贈り物)を朗読した時期といわれている。
また、「森は美しく、暗く深い…」は学校の教科書にも載るほど人口に膾炙されており、誰でも知っている詩だという。人びとは、フロストを、教養のある紳士や学者のような詩人ではなく、題材やことばもニューイングランド地方の大地に根ざした農民のような詩人とみている。日本でいえば差し詰め宮澤賢治のような詩人なのだろうか。ちなみに、ニューイングランドは、米国北東部のコネチカット、ニューハンプシャー、バーモント、マサチューセッツ、メイン、ロードアイランドの六つの州を合わせた地方の総称で、中心都市はボストンである。
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“synecdoche”を手元のWebster’s Third New International
Dictionaryに頼ってみると、つぎのように書かれている
。
a figure of speech by which a part is put for the whole ( as fifty sail for fifty ships ), the whole for a part ( as the smiling year for spring ), the species for the genus ( as cutthroat for assassin ), the genus for the species ( as a creature for a man ), or the name of the material for the thing made ( as willow for bat )
すなわち、提喩にはsailでshipを表わすような<一部で全体を>の形や、creature(生き物)でmanを表すように、大きな属レベルでその下の小さな種を暗示する<全体で一部を>の形があるとしている。あるいは、willow(ヤナギ)という木でbat (クリケットのバット?)という加工品を喩えることもある。
話が脱線して恐縮だが、この辞書についてちょっと触れておきたい。Webster’s Third New International Dictionaryは、3,000のイラストを含む476,000以上のエントリー(語彙)、ページ数2,662という巨大な辞書である。ついでにいえば、重さは6kg、A4より一回り大きいページサイズで厚さは10cmもある。とてもじゃないが片手に持ちながら引くことなどできない。机の上に広げると巾60 cmにもなってどうにもならない。
このゴツイ辞書、じつは英語の専門家である魚水憲氏から譲り受けた記念の品である。憲さんとは直接の知り合いではなく、奥様の魚水愛子さんを通じてのご縁である。憲さんは、以前英語研究所を運営し、TOEICの問題集なども出版されているが、2006年1月、脳内出血で倒れ、一命は取り留めたものの右片麻痺と失語症という重い後遺症が残り、以来リハビリと格闘する日々を送っておられる。しかし、脳出血はそう
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詩の世界ではなぜ修辞法として比喩を多様するのであろうか。詩以外の文学、たとえば小説などではあまりお目にかからないが、それはどうしてなのだろう。もちろん小説でも何らかの比喩表現を含んでいることはあろうが、詩に見られるほどには出てこない気がする。詩は小説に較べて、はるかに文字の分量が少ない。その切り詰められたフレームの中に何を盛り込むか。このあたりに一つの答えがあるのだろうか。
さきほど、フロストは提喩詩人であるといったが、詩の比喩形式には他にもある。たとえば、言葉の上では、たとえの形式をとらない比喩、すなわち「…の如し」「…のようだ」などの語を用いない比喩を隠喩という。また、あるものの名を使って関連する別のものを表す方法を換喩と呼ぶ。典型的な例としては「どの合唱団もタダタケを歌っている」などがわかりやすいだろう。タダタケとは、多田武彦という作曲家の愛称であって、特定の合唱曲をあらわすものではない。
隠喩の例としてジョン・ダンの詩「亡霊」を引用しよう。
When by thy scorn, O murd’ress, I am dead.
And that thou think’st thee free
From all solicitation from me,
Then shall my ghost come to thy bed,
And thee, feign’d vestal, in worse arms shall see …
おお人殺しめ、おまえに蔑まれてぼくが死に、
これでぼくのあらゆる口説から
開放されたときおまえが思うのなら、
亡霊となっておまえの寝室にあらわれてやる、
いかさま貞女め、くだらぬ男に抱かれるのを見てやるのだ…
ここで‘worse arms’は「悪い腕」ではなく、もちろん「ひどい男の腕」を意味しているのだが、このくらいは誰にでもわかろうというものだ。おどろくほどのことはない。
さて、詩の比喩表現についてはこのくらいにして、冒頭で紹介した「森は美しく、暗く深い…」に戻ろう。この詩は、フロストの第四詩集“New Hampshire”に収められた“STOPPING BY WOODS ON A SNOWY EVENING”の最後の連の部分である。冬、雪、夜、森などを題材にした詩で、どこか底冷えのするような感触があるといわれている。
全文を下に示した。いくつかの日本語訳があるけれど、安藤千代子の訳を選んでみた。タイトルひとつとっても「雪の夕暮れに森のほとりに佇んで」(安藤千代子)、「雪の夕べ森のそばに橇を止めて」(山田武雄)、「雪の夜、森のそばに足をとめて」(川本皓嗣)と、わずかずつだがニュアンスは異なっている。当然のことである。いずれも原詩になるべく忠実に翻訳することに主眼を置いているようで、大きな意訳はしていない。フロストのsynecdocheをうまく生かせるような詩の翻訳は不可能であるばかりか、口語の律動、響きと余韻を活用しながら巧妙に伝統的な詩形を生かした韻律も日本語に移し変えることは到底不可能なので、フロストの詩の訳はあくまで参考として添え、意味内容を正確に分かりやすく伝えることを心がけている(*2)と翻訳者は異口同音に言っている。英語詩を日本語に訳すことの困難さ、彼我の文化のちがいなどを考慮すると、単に辞書的に訳す以外ないのかも知れない。
フロストは、彼が住んだニューイングランドの土地の人々の話し言葉にみられる音の調子によって伝わる意味こそが活力ある詩になると考え、それを“sentence sound”(文の響きが表す意味)と名付けた。だから、フロストの詩の良さを感じ取るためには、まずは英語で読むことが必須なのだ。日本語に限らず英語以外のことばに訳してしまうと“sentence sound”が消え、元の韻律が消え去り、意味だけが残ってしまうからだ。
詩の内容に深入りするのは少々荷が重いから、そこはあまり触れないけれど、折角の機会なので、英語詩の醍醐味や英語翻訳の妙ということについて考えてみたい。
STOPPING BY WOODS ON A SNOWY EVENING
Robert Frost
Whose woods
these are I think I know.
His house is in
the village though;
He will not see
me stopping here
To watch his
woods fill up with snow.
My little horse
must think it queer
To stop without
a farmhouse near
Between the
woods and frozen lake
The darkest
evening of the year.
He gives his
harness bells a shake
To ask if there
is some mistake.
The only other
sound’s the sweep
Of easy wind
and downy flake.
The woods are
lovely, dark and deep,
But I have
promises to keep,
And miles to go
before I sleep,
And miles to go
before I sleep.
雪の夕暮れに森のほとりに佇んで
安藤千代子 訳
だれの森か わたしにはわかっている。
持主の住居は 村にあるのだが。
雪の一面に積もる森を見ようと
足を止めるわたしを 彼は知らないだろう。
一年中で一番暗いこの夕暮れに
わたしの愛馬は 近くに農家も見えない
森と氷った湖のあいだに
足を止めるわたしを 妙に思っているだろう。
愛馬は引き具の鈴をひと振りしている
思いちがいではないかと たずねるように。
ゆるやかに流れる風の音、柔らかく舞う雪の音
そのほか 何も聞こえない。
森は美しく、暗く深い、
だが わたしには守るべき約束がある、そして
眠る前に あと数マイル行かねばならない、
眠る前に あと数マイル行かねばならない。
通常であれば、ここで、この詩の一般的な要約をしたほうがよいのかも知れない。しかし、多少悩むところではあるものの、あえてこの詩にまつわるエピソードを紹介しよう。それで、この詩の味わい方や解釈にある方向性を与えてしまうかも知れないことを恐れるが、それは所詮読み手の問題でもあろう。
そのエピソードとは、フロストの長女レスリーが“STOPPING BY WOODS ON A SNOWY EVENING”が作られた動機についてフロストから長いあいだ口止めされていたということである。
それは、一年中で一番暗い夕暮れ“The darkest evening of the year”、クリスマスも近い冬至の12月22日ごろの出来事であった。フロストは農場で採れた収穫物を荷馬車に積み込んで町まで売りに出かけた。しかし、何ひとつ売れず、悲しいことに子どもたちへのささやかなプレゼントも買うことができなかった。しかたなく意気消沈したまま家路に着いたのである。フロストは農場経営で生計を立ててはいたが、詩人が晴耕雨読で農業をやっても限界があろうことは可哀想だが容易に想像がつく。フロストは経済的に相当厳しい状態に追い込まれていた。
荷馬車が我が家に近づくにつれ、ますます打ちひしがれたフロストの心は沈みこんでいった。フロストは、周りに家一軒とない森と氷った湖のあいだで手綱を止めてしまった。しかし、愛馬はもちろんいつもの家路を知っていた。フロストの気持ちを察知したかのように、静かに歩みを止め、引き具の鈴をひと振りして、フロストの気持ちが落ち着くのを待っていた。フロストはあまりのつらさ、みじめさに男泣きをしたという。
こうして詩が作られた背景を知ることはよいことかどうか私にはわからない。ただ、この詩はフロストの悲しくつらい出来事として読んではならないであろうと思うばかりである。
* * * *
この詩は、次のように規則正しく脚韻を踏む形式に従っている。
Whose woods
these are I think I know. (a)
His house is in
the village though; (a)
He will not see
me stopping here (b)
To watch his
woods fill up with snow. (a)
here(b)を受けて、さらに韻を踏む
My little horse
must think it queer (b)
To stop without
a farmhouse near (b)
Between the woods and frozen lake (c)
The darkest
evening of the year. (b)
lake(c)を受けて、さらに展開する
He gives his
harness bells a shake (c)
To ask if there
is some mistake. (c)
The only other sound’s
the sweep (d)
Of easy wind
and downy flake. (c)
sweep(d)を受けて、最後の連に続く
The woods are
lovely, dark and deep, (d)
But I have
promises to keep, (d)
And miles to go
before I sleep, (d)
And miles to go
before I sleep. (d)
第一連はknow、though、here、“now、即ち【 a a b a 】と脚韻し、以下第二連は【 b b c
b 】、第三連は【 c c d
c 】、第四連は【 d d d
d 】と押韻している。この構成だけでもかなり驚異的なことではなかろうか。
これはterza
rima(三韻句法)と呼ばれるrhythm
schemeの変形だが、かなり高度な技巧が凝らされている。rhythm
schemeはダンテが『神曲』で用いたものというが、これを英語で書くのはかなりの困難があるという。その理由は、英語はイタリア語やフランス語ほど同韻語が豊富でないことによるらしい。
それにしてもこのような韻を踏む形式に縛られてなんと窮屈なものかと思わないだろうか。しかし、それに対してフロストは、“I’d as soon play tennis with the net down as to write free verse.”「(韻律に従わない)自由詩を書く位ならネットを下ろしてテニスをするほうがまだましだ」(*2)と大反論している。正式のルール、コートでテニスがまともにできないようなプレイヤーが、ネットなしで果たしてどこまで楽しめるのか。いかにも含蓄のある比喩である。
このような考え方をしていたフロストが見たら仰天しそうな詩を紹介しよう。フロストより少し世代があとになるが、詩人にして音楽家であり批評家でもあった同じアメリカのエズラ・パウンドがたった二行の詩を書いているのだ。
In a Station of the Metro
Ezra Pound
The apparition of these faces in the
crowd;
Petals on a wet, black bough.
地下鉄の駅で
エズラ・パウンド
人ごみのなかに、つと立ち現われたこれらの顔──
黒く濡れた枝に張りついた花びら。
(パリの地下鉄の駅、その人ごみのなかで、いくつかの顔がまぼろしのように浮かび上がった──黒く濡れた太い枝に、花びらが張りついている)
エズラ・パウンドはT・S・エリオットと並んで20世紀初頭の詩におけるモダニズム運動の中心的人物の一人だった。このたった二行という短い詩は、気付かれた方も多いと思うが、日本の俳句、和歌あるいは漢詩などの影響をうけているといわれている。
* * * *
つぎに、「雪の夕暮れに森のほとりに佇んで」をリズムの点からみてみよう。下に掲げたように、赤字で強調してある箇所が強拍で、アンダーラインを施した箇所が弱拍と表現してみた。この詩は、一行が「弱○」⇒「強●」を4 回繰り返して進むので「弱強四歩格」と呼ばれる形式である。
Whose woods│these are│I
think│I
know.
●●│○●│○●│○●
His house│is
in│the
vil│lage,
though;
○●│○●│○●│○●
He will│not
see│me
stop│ping
here
○●│○●│○●│○●
To watch│his
woods│fill up│with
snow.
○●│○●│●●│○●
もっとも第一行の“Whose woods”は「弱強」ではなく「強強」となっていて、第四行“fill up”も同じく「強強」だが、全体としてはほぼ「弱強」格となっている。イギリス詩のソネットという十四行詩は、よく知られていると思うが、これは一般的に「弱強五歩格」、10音節がふつうでそれが14行集まって一つの形になっているところが、ちがっている。
「雪の夕暮れに森のほとりに佇んで」は、フロストの表現力がいかんなく発揮され、“synecdoche”つまり提喩を効果的にしているというが、それは確かによく理解できる。しかし、ここで注意しなければならないのは、“natural
symbol”という概念だと山田武雄氏(*2)はいう。
たとえば第四連の“promises”や最後に2回繰り返される行、“And miles to go
before I sleep”の“miles to go”や“sleep”はあまりに一般的過ぎて、読み手が即座に言葉を象徴化してしまうきらいがある。すなわち、“promises”は社会的約束や個人的約束と直結した象徴となってしまい、“miles to go”は人生の道程の象徴となり、“sleep”は死の象徴というように短絡してしまうことを恐れる。
“natural
symbol”とは、このように一般的普遍的に受け取られる言葉・表現を指しているが、そうなっては、「フロストの得意とする日常生活のrhythmの身近さにも導かれて、作品中の一人称の話し手を作者自身と限定してしまうと、この詩の重層的な意味内容を鑑賞する楽しさが半減してしまう」ことになる。
山田武雄氏が重ねて強調するのは、読み手が観念の世界を理解したかのように錯覚してしまうと、叙情性を深く味わうことができない結果に陥ってしまうことである。フロストの“synecdoche”は、「人間の心の世界を広く、深く、長く、重層的に見つめる機会を読者に与えるのが大きな特徴」なのである。
そして、フロストの最大の特質を挙げるならば、それは「ドラマティズム」であると駒村利夫氏(*3)はいう。フロストのことばに“Drama is the capstone of poetry.”がある。capstoneを駒村氏は「笠石」と訳し、この言葉には“the crowning achievement, point, element, or event”(最高の業績、ポイント、要素、またはイベント)の意があることを銘記すべきとしている。
<参考資料>
1.ロバート・フロスト詩集─愛と問い─ 安藤千代子(近代文藝社
1992年)
2.提喩詩人 ロバート・フロスト 山田武雄(関西学院大学出版会 2000年)
3.詩人ロバート・フロスト論 駒村利夫(国文社
1999年)
4.アメリカの詩を読む 川本皓嗣(岩波書店
1998年)
5.英詩鑑賞 言語学からの洞察 ジェフリー・N・リーチ(リーベル出版
1994年)
6.イギリス詩を学ぶ人のために 東中稜代/小泉博一編(世界思想社 2000年)
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