K-15

 十 八 歳 未 満 お 断 り

 

加 藤 良 一
 

2005年4月6日



 ふだんの何気ない会話のなかでは、けっこうあいまいな表現をしているものである。たとえば、数量的な限界や範囲をさすときに、「以下」 と 「未満」 がどうちがうかなどいちいち考えないで、おおよそ上か下かですませてしまうことが多い。だから、ここははっきりさせたいというときは、わざわざその数が含まれるかどうか確認しているのではないだろうか。

 『言語』 2004年11月号の特集で、名古屋外語大学長の水谷修氏の論文に面白いものがあった。ある座談会で、地下鉄工事の建設反対の話しが出たなかで、「地上権は地下50m以上には及ばない」 という意見に対して 「そうだ、地上権は地下50m以下には及ばないんだった」 と応じたひとがいたが、はたしてどちらが正しいか、という問い掛けである。
 水谷氏は、話し手の関心がどこにあるかで表現がちがってくるのではないかと述べている。ある事柄を説明するばあい、「事実」 と 「意見」 を峻別しなければならないが、「50m以下には及ばない」 は、物理的な状態を重視し、客観性を意識した表現であって、「50m以上には及ばない」 は、「事実」 を捉えるのに 「地上権」 に視点を置いた叙述である。つまり、「以上」 と 「以下」の使い方は、心の態度にもかかわるもので、ある表現がつねに固定した意味だけで使われているのではないことを意識すべきだ、という。

 心の態度ということでは、人間関係への配慮からあいまい表現がよく出てくる。たとえば、レストランでビールを注文するとき、店員の 「何本になさいますか」 の質問に 「二本ぐらいもらおうか」 などというやりとりがよく見られる。こんなアバウトなやりとりは英語を使う国のひとには考えられないことである。英語では、これでは注文にならない。しかし、日本ではこのばあいの 「ぐらい」 は、すでに数量とは無関係になっているから、とうぜん店員は 「はい、二本でございますね」 と 「ぐらい」 は省いて受けとるのが当たり前。「二本ぐらいといわれても困りますので、はっきりしてください」 などとは誰もいわない。水谷氏は、「ぐらい」 は、「事実」 か 「意見」 の領域も越え、相手に押しつけや命令の感じを持たせないための心の態度、人間関係保全の機能だという。

 さて、ふだんの会話ならいざしらず、ことが契約や法律となると 「ぐらい」 ですますわけにもいかないし、「以上」 と 「以下」 もきっちりせざるをえない。三年以下の懲役には三年が含まれるか、100万円以下の罰金はいくらまでか、十八歳未満お断りの催しに十八歳は入ってよいか。このあたりの線引きをはっきりさせてもらわなければ困る。
 頭を整理するために理屈を調べてみたところ、契約書の書き方の教科書につぎのように説明されていた。


   「以上」 とは、基準点となる数を含んで、それより多い数
   「超える」 とは、基準点となる数を含まないで、それより多い数
   「以下」 とは、基準点となる数を含んで、それより少ない数
   「未満」 とは、基準点となる数を含まないで、それより少ない数


 これらは不等号で表現するとわかりやすいので、表にしてみるとつぎのようになる。

 

a

a以上

 

a≦

 

aを超える

 

 

a<

a以下

 

a≧

 

a未満

a>

 

 


 「未満」 とは、未だ満たずということであり、ある一定の数に達しないことを指している。そこで、十八歳未満お断りに十八歳は堂々と入ってよいことになる。また、「」 の語源には 「等しい」 という意味があるそうだから、そこで 、「以上」 は等しいものを含んでそれより多い数となり、「以下」 はその反対となる理屈である。
 同じような理屈で成り立っているものに 「以前」、「以後」、「以降」、「〜前」、「〜後」 がある。表にしてみるとつぎのようになるが、これらもさきほどの要領で「以」の意味から推し量ることができる。

3月30日

3月31日

4月1日

4月2日

3月31日以前

4月1日以後/以降

4月1日前

3月31日後

「事実」 と 「意見」 にまたがって使われることばは、「以上」 と 「以下」のほかにも例があるだろうが、「事実」 と 「意見」 をあえて混同して使うのは、ひとをだますときでしかない。

 






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