K-11


スポーツは詩にならないか





加 藤 良 一          (2004年9月2日)     

 

 


 スポーツのことを書いた 「詩」 がすくないのはなぜだろうか。ためしに身の回りにある詩集を開いてみてほしい。
 山や川などの自然に感動したことや、自分の生きざまや家族のこと、恋人を慕う歌、あるいは世の中の不条理に対する批判など、テーマは多種多様であることが、すぐにわかるだろう。

 詩の起源は古い。堅苦しくいえば、詩とは、韻律などの形式にしたがい、あるいは形式にしたがわないという形式にしたがって、感動や叙情を文字、場合によっては記号として表現したものである。
 詩は、形式、内容、言葉、時代などによってさまざまに分類されるが、ひとつの詩が、どれかひとつの分類のみに分類されるわけではなく、自由詩であるとともに叙情詩や口語詩でもある、ということになる。形式のうえからは、定型詩(和歌、短歌、俳句など)、 四行詩(漢詩)、自由詩、散文詩などに分類され、内容では、叙情詩、叙景詩、叙事詩などの分類がある。また、言葉のちがいによるものとして、口語詩と文語詩、時代のちがいから近代詩や現代詩と分けられている。

 さて、数ある詩のなかに、スポーツを直接扱った作品はほとんど見あたらないと感じないだろうか。直接でなく間接的にもスポーツを題材にした詩はすくないと思う。まして、ラグビーならラグビーを、テニスならテニスそのものを題材にしている詩となると、筆者が触れた詩はさほど多いものではないけれども、めったに出合ったことがない。果たして詩人はスポーツに興味がないのだろうか。いや、そんなことでもなさそうだ。
 ところが、ついこのあいだ、尾崎喜八の詩集のなかにそのものずばり 「テニスの試合」 と題する詩があるのを知った。この詩集は、喜八の第一詩集 「空と樹木」 に収められている。この詩集が作られたのは大正時代である。定価は当時2円だった。「大正十年十月十二日東京帝国大学コートでの慶大対高師のオープントーナメント處見」 と注釈がついている。慶応大学と高等師範学校との対抗戦を観たときの感動を詩にしたものである。





テニスの試合             
尾崎喜八


大学の運動場で
テニスの試合をやつてゐる。

コートのまわりは見物でいつぱい。
その長方形に密集した人垣のなかで
球が縦横にポンポン飛ぶ。
四人の選手が綾にみだれて、
堅く平やかなコートの上を、
飛んで来る球にしたがつて前進し、後退し、
右に駆け、左に走り、
白いラインの内側の世界に
はげしい熱気の火花を飛ばす。

夕暮に近い空気の爽やかさ。
太陽はうしろの森の頂きにみへる尖塔の上に
めずらしく麗らかな一日の、
親しみある、荘厳な顔をして、
そのあたりの空間に金を播きちらしてゐる。
むこうの、東の空の薄桃いろの雲、
またその下のはるかなはだ色、
見わたすかぎり天も地も、
ひろびろとした秋の静けさ美しさに
水のやうに満たされてゐる。

試合は刻々と熱して来る、
両軍の選手の表情には
次第に決然としたものが加わつて来る。
見物の注意は
飛びちがう球の方向と
それに応ずる選手の稲妻のやうな動作の上に
熱を帯びて集中する。
サーヴの手堅い撃ちこみ、
両脚を開いてあらゆる難球をうけとめやうと身がまへる
前衛の決意と確信とのまなざし。
打てば直ちに突進し、
又すばやく後退する飛鳥のやうなその運動、
球の性質を咄嗟に見てとるその俊敏な頭脳と眼と、
腰をひねつて横に払い、
飛びあがつて叩きこみ、
或は片足を引き、両脚を山形にふんばつて、
飛来する球を掬い打ちするその颯爽たる姿勢。
実にそのあらゆる瞬間が白熱であり
あらゆる動作が男性のものである。
尖鋭した注意が
修練の妙味と相まつて、
見る者を感嘆せしめる技倆を現す。
しかも当の選手には
眼中ただ一個の輝く球があるのみだ。
むしろ球の速度、それに与へられた廻転の方向、
そのバウンドの方向の意識があるのみだ。
彼等自身球となり、ラケットとなり、
又ラインとなつて一寸の間隙もない。
その緊張し切つた体躯と神経との共同動作の美しさ、
彼等四人の打ちこみ打ちかへす気魄の烈しさ。
そして軽快な球、獰猛な球、
笑つてゐるやうな球、怒つたやうに見える球
又、ばらばらに砕けて飛び散るかと思われるラケットの激烈な打撃、
又、ヴァイオリンのスタッカートのやうな微妙な一当て。
一切の技術と頭脳と運動とが其処に現出するものは
ことごとく一つの白熱した力である。
この気魄を讃美する、
この白熱を讃美する。
これは単に遊戯でありながら、
此処に捲きおこされたものはもはや遊戯ではない、
真剣そのものである。
あゝ、真剣を賛美する、
人間の真剣を讃美する。
勝負のいかんではない。
問題は真剣であることだ。
この世のあらゆる生活において、
芸術のあらゆる制作において、
この真剣さの現れる時、
それは人を動かす力の美となり一つの勇となつて、
肉迫せずには済まないと思ふ。



 この詩が書かれた大正時代と平成の現代とでは、まるでテニスの内容がちがってしまっている。道具の進化だけでなく、技術、戦術、体力、いずれをとっても相当の隔たりがあるはずだ。しかし、そんなことは問題にならない。
 スポーツが感動を与えられるのは、技術の高さや力の強さだけでなく、いかに気力が充実し、集中しきっているかによる。気力についてだけは時代背景とは無関係に個々のプレイヤー次第にちがいないから、この詩に書かれているように、気魄、白熱、真剣さが観客に感動を呼び起こしたのだ。その時代時代における最高のプレーに人びとは賞賛を惜しまない。

 尾崎喜八の 「テニスの試合」 は、数すくないスポーツ詩のなかでも印象深い詩である。



「ことば」Topへ    Home Pageへ