K-10




 

詩をつくれば詩人か


加 藤 良 一



 

 

詩を書く人は               田村隆一

 

詩を書く人は
いつも宙に浮いている
どこにいったいそんな浮力があるのか
だれにも分からない

詩を書く人は
ピアノを弾く人にすこし似ている
かれの頭脳がキイを選択するまえに
もう手が動いているのだ
手がかれを先導する
手は音につかまれて遁れられないのだ
それで手はあんなにもがいているのさ

音が手をみちびき
手は音から遁れようとしながら
かれを引きずって行く どこへ

いったいどこへだろう 詩を書く人の姿が見たかったら
きみは全世界のいちばん高い所からとびおりるのだ
逆さまに

落下するその逆さまの眼に
闇のなかで宙に浮いている詩を書く人の姿が
もしかしたら見えるかもしれない

 

 この詩は、もう何年も前に亡くなった田村隆一の詩である。田村隆一は、いつだったか死の直前のことだったが、新聞一面を使った 「おじいちゃんにもセックスを」 なる広告に杖を突いた姿で登場し、世の善良なる人びとをぎょっとさせた人だ。
 この詩は、どこから着想したものか詩人をピアニストになぞらえているところが面白い。たしかに 「頭脳がキイを選択するまえに/もう手が動いて」 いなければ、プレストなどの速いパッセージなど弾けるはずがない。ピアニストは、たゆまない鍛錬によって 「手がかれを先導する」 ように自然勝手に音を紡ぎだせるようになるのだろうし、そうなると 「手は音につかまれて遁れられない」 状態へと進化 (?) してしまうことを示唆しているのだ。詩人は 「いつも宙に浮いて」 いながら、ピアニストが音を繰り出すように詩を書いているのかしらん。それにしても人はなぜ詩を書くのか、詩人はほんとうはどんなやり方で詩を作るのか。

 詩人の谷川俊太郎が、三人の若い人 たちと詩のことについて対談したことがある。
 谷川俊太郎は、詩人から一方的に詩はこう作るんだといった話しはしたくないので、泊りがけの夜なべ討論会を提案したという。若い人がこれから詩を書いてゆこうとすれば、かならずたくさんの疑問にぶつかる。谷川俊太郎は、そんな素朴な質問に対して、たぶん正解などないと思うんだけれど、君はどう思うかと問いかけ 、そして答える。( 「現代詩相談室」 角川書店)
 夜なべ討論会のなかで、若い人から 「詩人」 の定義について話題が出された。学校の教師に教員免許があるようには、詩を書くのに詩人免許などはない。 では、詩人とは一体誰か、自分のことを 「詩人」 と思っている人が詩人か。

 谷川俊太郎は、詩人は自分自身のことを 「詩人」 とはいえないという。つまり自己紹介するときに、私は 「詩人」 の谷川ですとはなかなかいえない。職業欄には 「著述業」 とか 「文筆業」 と書き込んでいるそうだし、パスポートは 「ライター」 になっているという。つまりは 「作家」 というわけだが、日本で 「作家」 といえばふつうは 「小説家」 のことである。外国では 「ライター」 といえば、 「何を書いているのですか」 と聞いてくるから 「私は詩を書いている」 といえばそれでいい。
 なかには、詩を書いていながら 「私は詩人じゃない」 などという人もいる。もちろん画家や音楽家が詩を書くこともあろうし、小説家だって詩を書く。 ではそのようにして書かれた詩は、一体誰が責任を持つというのか。 「私は詩人じゃない」 という詩人は、責任回避する気など毛頭なかろうが、それをもし草野心平が聞きつけたら 、きっと顔を真っ赤にして相手をぶっ飛ばすのではないかと想像してしまう。

 岩成達也は、こんなことを言っている。
 詩作品めいたものを書く人はいまでも数多いが、 「詩人」 に巡り会うのはいまやかなり希有のことになりつつある。詩作品を書く人と詩人との差──それは最近私が気づいた言い方で言うなら、前者が世界内でただ言葉を転がしているのに対して、後者は世界の外に身をさらして 「他者」 という烈風に八つ裂きにされている。

 詩とは何か、詩人とは何か。このテーマは、今でも古くて新しい。たえず繰り返して議論されている。それくらい詩の根本にかかわる大きな課題なのである。
 すくなくも詩を書いたから詩人というものでないことだけはたしかである。

 

(2004年5月5日)



 

 


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