E-37

 

寂しい笛の音

野上弥生子の『笛』を読んで

 

加藤良一




「おまえもこんな東京にいることはないから、子供たちと山形へでも行けよ。」
 つねはびっくりして、旋盤や、ベルトや、裁断される鉄の火花や、ハンマーの打撃音のあいだで窶(やつ)れ、寝不足になった夫の顔を見つめた。
「山形の、どこへ行くの。」
「とにかく、山形は米どころだから、乳もろくにでないような暮らしはしないですむ。」
「だって、山形のどこへ行くの。」
 もう一度同じ言葉をくり返した時、思いがけぬ涙が一つぶ鼻筋にそうてころがった。眼から流れたより、もっと深いこころの壁に、平生こそ忘れていても雨じみのように幼時から浸みついた悲しみが、ぽたりと滴ったのである。「どこへも行く家なんか、ありはしない。」


 この夫婦のやりとりは、野上弥生子の『笛』という小説に出てくる、良造が妻のつねに疎開をすすめる一場面である。
 つねは、親も兄弟も身寄りもない孤児として、東北の寒村の寺につくられた孤児院で育てられた。その後、十四のときに東京牛込のちょっとした資産家に引き取られ、それから十年勤め上げたのち、良造と結婚して住むことになった間借りの四畳半がつねには生れてはじめての我が家となった。
 そして戦争が終り、混乱した貧しく厳しい時代が続いた。もともとさほど丈夫でなかった良造は四十過ぎの若さで妻子を残して一人死んでしまった。つねにはきみと清太という双子の子供がいた。 夫が死んでからというもの、つねは女手ひとつで子供を一人前にし、十四年目に娘のきみに子供ができた。そうなると、つねには良造と新所帯をもった頃を懐かしんだりするひまなど見いだせなくなってしまった。
 きみの夫新作は明るかった良造とは正反対の性格で、無口のうえに拒否的な態度がつねを寂しがらせた。
 いっぽうで、息子の清太もそろそろ嫁をもらわないと困るとし頃になってきたが、それがまたつねにとっては大きな悩みのたねともなっていた。そんなある朝、清太のポケットから派手なハンケチが出てきた。

「なんだね、そんなものお前に似合いはしないよ。」
 つねはいっそ陽気に笑った。

しかし、きみからハンケチの贈り主である芳枝のことを聞かされたとき、つねは清太の水臭さを恨んだ。だって、ほかのこととは違うから話せなかったのよと、きみに慰められても落ち着くことはできなかった。
 なぜ母親の自分にまっさきに教えてくれなかったのか。つねの知らないところで、清太と芳枝が親密になっていたことが寂しく、そして悔しかった。夫を失い、娘もひとの妻となってしまったいまでも、最後の最後まで自分の手のうちにあると思っていたつもりのものが、目の前からすっかり消え失せてしまったのだ。

母親と息子のあいだには、父親やほかの肉親の理解を超えたなにか特別なものがあるのだろうか。わたしが両親に結婚話を持ち出したときも一悶着あった。

 

 

 


 そんなつねの心中を図りやることもなく、清太と芳江の縁談はいっこうに煮詰まるようすがなかった。清太がさばさばとした態度で相手のことを話すのを、つねは遠い世界を見るように眺めていた。
 つねが夫良造の形見のフルートを吹いてみようと思いたったのは、梅雨どきのじめじめしたある日のことだった。夫が元気なころはフルートに触ったこともなかった。夫のしぐさを思い出しながら、冷たい金属の筒に息を吹き込んでみたが、とうぜんながらぴいともぷうともいわなかった。息子の他人行儀さに感じる頼りなさ、切なさ、寂しさを鳴らないフルートに訴えかけた。

 ある夜、清太から、芳枝と結婚するけれど、二人でアパート住まいすると伝えられた。その瞬間、わが耳を疑い、茫然と息子をみつめつづけた。つねが、いまの家で三人で暮らしたいと願っていることは理解しているが、芳枝の仕事のことも考えるとここでは遠すぎる。一人暮らしがこころ細ければ、会社の親しい同僚が同居している兄の家から出たがっているから、この家へ置いてやったら母さんも気丈夫だろうがどうだろうと持ちかけられたとき、つねのむせび泣きは絶叫にかわった。
 

「御免だ、御免だ、そんなこと御免だ。」
 つねは息子のほうへ首を突き出し、睨みすえて、烈しく振った。

 両親の顔も知らずに孤児として育ったつねにとって、なににもまして大切な夢は「家」で家族そろって暮らすことだった。その願いを託した清太にそっぽを向かれてしまったのだ。なんという有様だ。清太と言い争った翌日、つねは娘のきみを訪ねた。きみから、いろいろ慰めを聞かされたが、その言葉はつねのどこにも響かなかった。
 きみに見送られて乗った近郊電車を、つねはまったく知らない駅で下車し、あてもなくさまよい歩いた。

 清太とも、きみとも、ふた児の孫とも別れて、たった独り遠いところをさして歩いている気がした。淋しくも、悲しくもなかった。そのままただ歩いてさえ行けば、良造が先に行って待っているところへ行けそうであった。(中略) そうだ、みんなで待ってくれている。良造はそこでもフリュートを吹いているらしい。ああ、フリュートの美しい音がきこえて来る。

 遮断機のない踏切で箱根行きの電車が、いとも無造作に老婆を跳ね飛ばした。
 つねは唐突に死んでしまった。すくなくも現代に生きるわれわれには、つねが選んだ死には唖然とする部分がある。それほど、この短編の時代背景は現代から遠い。

 フルートって寂しい音がするのね。あるとき、間近で生のフルートの音を聴いた人から言われたことばが思い出される。

 

2003年11月