トーマス・マンの小説 『ヴェネツィアに死す』 Der Tod in Venedig を読んだ。これまでマンの作品はいまひとつ読む気になれないところがあったが、たまたま2007年に出版された岸美光(よしはる)氏が執筆された『ヴェネツィアに死す』の「訳者あとがき」に興味を覚えて読んだものである。「訳者あとがき」にはつぎのようなことが書かれていた。

「トーマス・マンの年譜を作りながら、その仕事の途切れることのない持続ぶりにあらためて感嘆させられた。激変する社会情勢はもちろん、自身の病気や友人知人家族の不幸を乗り越えて仕事は続いていく。そしてその中で利用価値のあるものは容赦なく作品の中に使われる。アッシェンバッハの顔にグスタフ・マーラーの相貌が映されたのはその一例である。本文を読みながら、マーラーの第五交響曲のアダージェットを耳に聞き、ヴィスコンティの映画のあれこれの場面を思い浮かべた読者も多いかも知れない。」

アッシェンバッハは『ヴェネツィアに死す』の主人公であるドイツの高名な作家という設定で、フルネームをグスタフ・フォン・アッシェンバッハという。これはどうみてもグスタフ・マーラーを意識して書いたとしかいえない。もっともマーラーをまるまるモデルにしているわけではない。そうではあるが、マーラーの音楽に親しみを感じている身としてつい触手が動いてしまった。加えて、ルキノ・ヴィスコンティの映画 『ベニスに死す』 Morte a Venezia  を昔観てストーリーを知っているから、逆に原作を知りたいと思うようになったことも読むきっかけのひとつである。

ちなみによくあることだが、映画は原作と異なり、主人公を年老いた作家ではなく作曲家と設定していた。これはヴィスコンティが、原作者マンの意図を汲んでマーラーを意識した結果らしい。アッシェンバッハの外見について書かれた部分を写真と見比べてみるととても面白い。まさにアッシェンバッハ=マーラーである。



The International Gustav Mahler Societyより)


アッシェンバッハは、中背というより少し背が低く、髪はブルネットで、ひげは蓄えていなかった。頭はほとんど華奢と言ってもいい体つきと比べ、やや大きめだった。オールバックにした髪の毛は、頭頂部が薄く、側頭部は豊かなもののすっかり灰色になり、たくさんのしわが刻まれたいわばあばた面の高いひたいを縁取っていた。縁なしのレンズを付けた金縁眼鏡のつるは、ずんぐりとして高貴なカーブを持った鼻の付け根に食い込んでいた。口は大きかった、だらしなく緩んでいる時もあれば、突然緊張して薄くなる時もあった。頬は痩せてしわが走り、形の良い顎はかすかに割れていた。意義深い数々の運命が、苦しげに傾げられていることの多いこの頭の上を通り過ぎて行ったのだろう。


岸氏はさらに「若い世代はトーマス・マンを読むだろうか。村上春樹の 『ノルウェイの森』 を読んで 『魔の山』 を手に取ったという若い人にはときどき出会う。「理屈が多くて閉口した」というのが彼らの大方の感想である。」という。じつは私がマンになんとはなしに親しみにくい印象を持っていたのは、まさにこの「理屈が多くて閉口した」文章にも原因の一端があったように思う。この点は今もあまり変わっていない。


『ヴェネツィアに死す』は、全五章からなる中編小説である。読み始めてからストーリーが動き出すまでに「理屈が多くて閉口」する長いイントロが第二章まで続いているのである。たとえば、アッシェンバッハの主義主張や作家としての活動などを説明する場面ではつぎのように書かれている。


しかし高貴で有能な精神は、なによりも認識の鋭く苦い刺激を速やかに徹底的に受けつけなくなるようである。そして確かに、若者の、鬱々として良心の固まりとなった徹底性は、大家となった男の、認識を否定しようという決意、すなわち認識が意思や行為や感情や情熱さえもわずかでも萎えさせ、しぼませ、貶めるのにもってこいであるなら、そういう認識はご免蒙ろう、昂然と頭をもたげてその向こうに踏み出そうという決意と比べて、浅薄皮相の感を免れないのである。『惨めな男』についての有名な物語は、あの柔弱で愚劣な半悪党の姿に具現された、時代のいかがわしい心理主義に対する吐き気の発作という以外に、どのような解釈が可能だろうか。


丹念に読めばなんということもないだろうが、万事この調子でやられると確かに「理屈が多くて閉口し」てしまう。しかし、この前振りがなければ、後段の話が生きてこないのだから、やはり我慢して読み進む以外ないだろう。


『ヴェネツィアに死す』 1912年に出版された。時代は1900年代はじめ、妻に先立たれた作家アッシェンバッハが、老境を迎えるあたりから物語は始まる。アッシェンバッハは、保養に出向いたヴェネツィアのリド島で出会ったポーランド人の美少年に思いを寄せるが、運悪くコレラに感染して死んでしまう、という割とよくある筋書きである。年老いたとはいうもののせいぜい50代半ば過ぎだが、今から百年も前では寿命も短かったはずで、老作家といわれてもやむをえないだろう。


アッシェンバッハが魅せられてしまったのは、ホテルに長期滞在していた上流階級のポーランド人家族の息子タッジオ。男は海辺で美少年タッジオに出会って以来、かつて経験したことのない心の動揺に驚きながらも、叶わぬ禁断の恋を追い求めはじめる。男の頭の中は四六時中タッジオのことでいっぱいとなり、ギリシャ彫刻を思わせるような理想的な肢体や透きとおるような肌、完璧な美しさを具えた14歳の少年の虜となってしまった。アッシェンバッハはタッジオの姿を見たいがためにあらゆる手段をつくし、行動はどんどんエスカレートしてゆくが、タッジオはいつもほとんど家族や友だちと一緒で、おまけに付き添いの女性の監督付きだから、遠くから見守る以外になすすべもなく、もちろんまともに言葉すら交わせずにいた。いってみればストーカー行為みたいなもの。ヴェネツィアの狭い路地をタッジオ一家のあとを隠れながら追い回す年老いた男、名声を欲しいままにし分別(わきま)えたはずの老作家の受入れられることのない絶望的に暗く澱んだ熱情は、止めどなく高まってゆく。


あるとき、ヴェネツィアの町に原因不明の死者が出た。はじめは新聞に小さく報じられただけだったが、つぎつぎに同じような死者が出てきて、次第に町の様子がおかしくなってきた。そうこうするうちにアッシェンバッハが滞在していたホテルからも急速に客が減りはじめた。男はどうにかして真相を突き止めようと聞いて回るが、市民の誰もが申し合わせたように口を濁して語らない。


意を決したアッシェンバッハは、サン・マルコ広場の近くにあるイギリスの旅行会社を訪ねた。窓口で金を少しだけ両替し、ついでのようにして決定的な質問をぶつけてみた。実直なイギリス人は「ご心配には及びません、町を消毒しているのは、炎暑とシロッコの影響を防止するための大して意味のない措置です」と受け流した。シロッコは、初夏にアフリカから地中海を越えてイタリアに吹きつける暑い南風のことである。サハラ砂漠から発するが地中海を越えてくるため高温で湿った風となる。しかし、奥歯にものが挟まったような受け答えに納得しないアッシェンバッハの執拗な眼差しに根負けしたイギリス人は、動揺を見せながらも、お客様に申し上げますが、実はもう少し別な事情が隠れております、とついに秘密を明かした。


なんとヴェネツィアにコレラが蔓延しはじめていたのである。それで事情を知った滞在客たちが大挙して逃げ出していたというわけである。しかし、アッシェンバッハは真相を突き止めはしたものの、タッジオから離れることができず、感染の危険と背中合わせにもかかわらずヴェネツィアを去る決心がつかなかった。


ある午後のこと、アッシェンバッハは、いつものようにタッジオの後を追って、町の奥深い雑踏の中に入り込んでいた。彼はただ、熱い思いでタッジオを見失わないように、それだけに集中して歩き回った。しかし、あるアーチ状の橋を越したところでタッジオを見失ってしまった。うろたえた男はやみくもに路地から路地へと走りまわったが、ついに見つけ出すことはできなかった。神経をすり減らし、体力も尽き、とうとう諦める以外なくなった。意識が遠のきかけ、全身にねっとりした油汗がまつわりついていた。耐え難い渇きが襲ってきた。男は、とりあえず水を求めて街角をうろついたが、辺りには果物屋くらいしかなかった。その店先に熟れすぎたイチゴが並んでいた。男はそれを買い求め、すぐにそれを口に含んだ。フェノール臭が混じった熱風が狭い路地を吹き抜けていった。


数日後、アッシェンバッハは体調を崩したが、かといってどこにも逃げ道はなかった。もちろんタッジオのことを思えばヴェネツィアを去ることなど論外だった。激しい目眩(めまい)が襲ってきた。そんな最悪の状態のなかで、タッジオとその家族がついにヴェネツィアを旅立つことを知った。


人々の去った殺風景な海辺でデッキチェアに座っている男の視線の先には、最後の海遊びに興じるタッジオの姿があった。男にはすでにコレラの症状が出ていた。あの喉の渇きを癒すために口にした熟れすぎたイチゴが(たた)ったのである。男はデッキチェアにくず折れたまま、遠くの少年の動きをゆっくりと追っていた。そして、一瞬の後、男の頭はがくりと垂れた。「その顔は深いまどろみの、萎えて内部に落ち込んだ表情を示した」


とうとうあらすじのほとんどを書いてしまった。そんなつもりではなかったのだが、これも成り行きというものである。さて、ここからがコレラの話である。


 コレラは、コレラ菌 Vibrio cholerae を病原体とする感染症である。ビブリオ・コレラあるいはコレレと読む、腸炎ビブリオなどの仲間である。菌名は国際命名規約により、人の氏名と同じように2名法で成り立っていて、それもイタリックで書くのが正しい。イタリックに出来ない場合はアンダーラインを付けて区別することになっている。昔のいわゆるタイプライターの時代は、イタリックが書けなかったのでアンダーラインを引くことが多かった。


コレラ菌の潜伏期間は5日以内、一般的には23日で発症する。今では治療法もある程度確立しており、早期に対応すればさほど怖いものではないが、いわゆる「米のとぎ汁様」の猛烈な下痢による脱水症状が命取りになる。そこで、とにかく水分補給が欠かせない。ブドウ糖や電解質の入った輸液を意識があれば経口で、なければ点滴で投与する。

 アッシェンバッハが息を引き取るその間際「その顔は深いまどろみの、萎えて内部に落ち込んだ表情を示した」のは、この脱水症状によるもので、「コレラ顔貌」とも呼ばれる特有の老人様の顔つきとなる。ところが、小説には下痢も嘔吐も出てこない。もっとも、症例によっては下痢や嘔吐が出ない場合もあるようだから、アッシェンバッハはそのようなケースだったとも考えられる。それとも、哲学的な風貌の老作家が美少年を追い回した挙句、「米のとぎ汁様」の猛烈な下痢と嘔吐で死ぬのはいかにも小説に馴染まないと判断してのことだろうか。

 ずいぶん前のことになるが、コレラ菌を培養したことがある。培養自体はとくに難しくもないもので、通常のコレラ用培地で簡単に増殖させられる。その折、コレラの性状を調べるために読んでいた臨床微生物学の文献で「コレラベッド」という妙なものがあるのを知った。これは布製の担架に足を付けたようなベッドで、お尻の辺りに穴が開けてあった。その穴に合わせて患者を寝かせ、下痢をそこから排泄するものであった。『ヴェネツィアに死す』にコレラベッドはやはり似つかわしくない。

 コレラ菌は、強い感染力を持っている。とくにアジア型は死亡率も高く、ペストに匹敵する危険な感染症と見られている。コレラ菌自体は小腸上皮に居座るだけで、そこから細胞内には侵入しないが、上皮細胞を破壊するコレラ毒素を産生する。その毒素によって細胞内の水分と電解質が大量に流れ出してしまう。ただし、コレラ菌はペスト菌と異なり、ヒト以外には感染しないとされている。ふだん暴れまわらないときのコレラ菌は、果たしてどこで暮らしているかについては諸説があるらしい。海水の中やヒトの体内に不顕性感染の形で存在するなどが考えられているようだ。


数年前にも同じようにヴェネツィアの衛生事情について書いたことがある。それはペストに関するものだが、このホームページの「なんやかや」欄に 『ヴェネツィアとペスト』↓(E-28)と題して掲載してある。実際にヴェネツィアの水路を見たときに感じた素朴な不安を書いたものである。ヴェネツィアを訪れる観光客にとって、縦横に張り巡らされた運河はとても魅惑的なものである。が、一歩まちがえば環境汚染の温床となり、感染症の危険が潜んでいることは誰の目にもあきらかである。







 TS・エリオットと並んで、20世紀初めの詩壇におけるモダニズム運動の中心人物だった米国のエズラ・パウンドは、1908年、ヴェネツィアに数ヶ月間滞在したという。その後ロンドンに移るが、1920年代には再びイタリアのラパッロに居を構え、そこで音楽コンサートを運営する組織活動をしていたという。パウンドは詩人ではあるが作曲もしている。とくに聴きたい気にはならないが、果たしてどのような作風であったのだろうか。特筆すべきは、その活動が、それまで忘れ去られていたバロックの巨匠ヴィヴァルディの復活に一役買った点であろう。パウンドは、1972年、ヴェネツィアで87歳の人生を終えた。






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禁断のイチゴ
加藤良一

200951

E-74