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世を惑わす ISO9001
 


加藤良一
 




 “システム”という言葉にあなたは、何を連想するだろうか。
 システムという名がつくものを身の周りで探せばいくらでもある。卑近な例をあげ れば、システムキッチン、システムコンポ、CDのレンタルシステム、列車の運行シ ステム、企業の会計システムや販売システムなどいくらでもある。
 2002年は、サッカーのワールドカップ大会が韓国と日本の共催で開かれる。このサ ッカーにもシステムがある。いわゆるフォーメーションとも呼ばれる布陣に基づいた 戦略戦術全体のことである。

 1998年に行われたフランス大会は、そろそろふつうの人の記憶では消えはじめる頃かもしれないが、あのチケット騒動のなか、リヨンまで出かけて観戦した“日本 vs ジャマイカ戦”における日本のシステムは、3―5―2だった。3―5―2とは、攻 める方向を前とすれば、手前つまり後ろからディフェンス(守備)3人、ミッドフィル ダー(中盤)5人、フォワード(攻撃)2人と並んでいることを意味している。ゴールキ ーパーは基本的に動かしようがないので、ふつうはフォーメーションから除外して いる。
 オランダ人で元全日本監督を務めたハンス・オフトによれば、数字で表したシステ ムは単なる数字の羅列であって、どのようなサッカーをするのかをそこから読み取る ことは出きないという。(『ハンス・オフトのサッカー学』)
 つまり3―5―2といったときに、それが果たして攻撃的な戦術を意味するのか、 あるいは守備的なそれなのかを示すものではない。3―5―2はあくまで一つの形で あって、それ以上のものではない。キーパーを含めた11人がどのような役割を演じる のか、相手の攻撃に応じてどのようにフォローしあうか、その辺りは選手個々人の技 量によっても大きく変わってくる。いついかなるときにも3―5―2を崩さないとい う硬直した考えだとしたら、あの広いピッチ(サッカー用語で競技場を指す)全体を カバーすることなど不可能である。
 では、3―5―2に限らないが、サッカーにおけるフォーメーションの意味とは、 何であろうか。
 サッカーはオフサイドを別にすれば、ピッチのどこへ行ってもかまわないし、キー パーが自陣ゴールを留守にして攻撃に参加するのも自由である。自軍が3―5―2だ からといって、相手がそれに合わせるわけなどなく、むしろその弱点をついて混乱を 狙ってくる。予測を覆した個人プレーで突破してくることもある。そのような、相手 の不測の攻撃に対して、もし全員が基本的な3―5―2を忘れずに戦い抜くことがで きれば、完璧とはいえないまでも、少なくとも右往左往して組織がばらばらになるよ うな最悪の事態は避けられるだろう。
 どのようなフォーメーションにもたくさんのバリエーションがある。いかに多くの バリエーションを機能させうるか。それは鍛え抜かれた選手個々人の、肉体と技術に よって支えられている。戦略と大まかな戦術は監督の役割、選手は個々の戦術を実現 し、最終目標であるゴールゲットに向かう。このように、一つのまとまった思想の中 で統一されてさえいれば、効率のよい負けない試合ができるのではないだろうか。そ れが、サッカーにおけるシステムの意味である。

 さて、じつはここまでは前置きだったのである。サッカーのシステムの話しを出し たのは、これから言いたいことの伏線だったのである。
 最近、ビジネスの世界を中心に“国際品質保証規格ISO9001”がひろまっている。ISO9001とは、企業=組織の“品質保証システム”が、一定のレベルに達しているこ とを第三者が認証する仕組みである。ヨーロッパを中心にたいへんな勢いで拡大し、 現在では日本でも無視できない状況になっている。ISO9001は、アイエスオー・キュウセンイチとかイソ・キュウセンイチと呼ばれる。この規格と兄弟に当たるISO14001という環境保護に関する規格も最近話題になっているので、ご存知の方も多いだろ う。
 ヨーロッパには、ドイツ、フランス、イギリスなどかつての列強がひしめいている が、第二次大戦後の世界経済の中では明らかに遅れをとってきた。一つひとつの国は それなりのものであっても、アメリカや日本などの経済大国相手に勝てる要素はなか った。そこで、自然な流れとして、小国が大同団結すればなんとか世界の経済に食い込む ことができると考えた。
 以前のヨーロッパでは、陸続きであるにもかかわらず、物を流通させようとする と、いちいち関税がかかり、貨幣がちがうから為替の問題も発生する。そんな経済的 負担を取り除き、全体がひとつの共同体となってしまえば、何も問題が起きないと考 えるのは自然の成り行きである。
 そこで考え出されたのが、ヨーロッパの統一規格を設定し、ヨーロッパ以外の国と 対等に戦えるようにしようとの戦略であった。その大きな柱が ISO9001 であり、そ こから必然的に導入されるであろうユーロへの貨幣統一である。このようにして、そ の昔、小国がばらばらに林立していたヨーロッパ全体をEU(Europe Union ヨーロ ッパ連合体)として一つの仮想国家のように統合し、アメリカや日本に負けない一大 市場を形成しようという目論みだったわけではなかろうか。

 さて、ここからが本論である。
 “品質保証システム”とは、工業製品のJIS規格のように寸法、形状、材質、機 能など“製品そのものの品質”を保証するのではなく、あくまで製品を作り出すため に必要な組織としての“品質システム”のことである。だから極論してしまえば、安 いけれども品質の悪い(あくまで比較の問題だが)製品を作っている会社であって も、取る気になれば ISO9001 の認証は取れるのである。なぜかといえば、まずは品 質“システム”が作られていればよいからである。 
 ISO9001 は、あくまで製品そのものではなく、製品を作り出すシステムの規格だか らである。すなわち、低い品質(製品自体の)レベルであっても、“それ以下には落ちない”というシステムを作ることが目的だからである。つまりは品質を維持することを求め ているのである。たとえ低い品質ではあっても、約束した品質は維持せよという要求 なのである。
 いくらなんでもそれだけでは困るだろう、価値がなさすぎないかと、2000年版とし て規格内容が改訂され、“継続的に改善”することが義務付けられたけれども、そ れでも依然としてシステ ムの規格であることにちがいはない。ある製品をより良く 改善できるかどうかは、あくまでもそ の企業の技術力や開発力そして資金力などの 総合的な“実力”によるものなのである。
 このへんが一般によく誤解されるところである。この誤解を逆手にとってうまくP Rに利用する人もいれば、誤解されて苦労する人もたくさんいるから困ったものであ る。ついでに誤解の問題をもう一つ上げてみよう。代表的な例が、最近新聞紙上を賑 わせている、企業などの不正の問題である。食品の表示疑惑、自動車会社のクレーム 隠しなどで、ISO9001 を取っているのに、なぜそのようなことがチェックできないの か、何の役にも立たない規格ではないのか、という疑問である。
 これなど、ISO9001 が任意の規格、つまり強制力のない規格であることを知らな い、単なる無知からくる誤解である。任意の規格であるからには、運営する側(企業 や組織)がごまかすことなどまったく考慮していないのである。つまり、いやならや らなくても一向にかまわないのである。
 たとえば、税金の取立てと比べてみるがよい。税務署は相手が納税を逃れようと資 産や収入を隠しているのではないかと、つねに疑ってかかる。税制は、残念ながら任 意のものでなく、強制法規なのである。任意と強制をごっちゃにしては、はじめから 話しにならないのが当たり前のことなのである。
 私は、1995年頃から企業における ISO9001 の認証取得に携わり、その後ずっと全 体の管理運営に係わってきたが、はじめはなかなか上手くゆかずに悩んだものであ る。一般論として、日本には“システム”という概念土壌が非常に希薄なところへも ってきて、ISO9001 が外国ものの思想であることから、いま一つピンと来なかったの であろう。

 よく聞く話しだが、あるシステムを構築し、さて決めた通りの手順で仕事をしよう と提案すると、そんな手順通りに仕事などできるわけがないと反論されることがあ る。反論されるならまだいいほうで、無視されることがある。つまりそのような人々 は、システムを、硬直したまったく柔軟性のない邪魔なものと捉えているのだ。
 マニュアルとか基準書、手順書として“書かれた”システムとは、なにもそのまま をなぞって仕事することではない。実際の仕事のなかでは“書かれていない”事態が 突発的に次々と起きてくるはずだ。そんなときにも、もし書かれた通りやる人がいた ら、それはもう何をかいわんやである。そんな人に限って、形だけの基準書や手順書 を書いてしまうものである。“やるべきこと”と“できること”の区別を明確にしな ければいけない。“べき論”だけで手順書を書くのは、はじめからそれを使うつもり がないとしか思えない。
 なにか不都合なこと、たとえば仕事上でトラブルがあったとしよう。
 トラブルが発生した場合の対策が決まっていなければ、人々は右往左往するだけ で、いっこうに適切な手が打たれないだろう。大まかであってもトラブルシューティ ングがシステム化され、少なくも大枠での責任権限が明確化されていれば、速やかに対応できることは、誰の目にも明らかである。さらに進んで“トラブルを防止する”ためのシステムが作られていればいうことなしである。