E-5      

 

  史上最大の安値 New Yorkまとめて100$

 


加 藤 良 一
 


 

 Atlanta には、米国時間の夕方4時30分に到着した。成田からの飛行時間は約12時間だった。いささか疲れた。そこから New York への乗継ぎ便は6時、まだ1時間半もある。

 アメリカ本土には西から東に四つに分けた時差帯がある。西海岸の San Francisco から Las Vegas あたりまでの Pacific Time、Salt Lake City から Denver までのMountain Time、そこから Chicago までの Central Time、Atlanta から五大湖を含んで東の Boston までの East Time の四つである。
 東海岸と西海岸では最大3時間の時差となっている。これに Alaska と Hawaii を加えると合計6つの時差帯になる。同じ国の中で時差が6つもあるのだ。米国がいかに大きな国か分かろうというものだ。

 成田から乗った国際線のジャンボ機とはちがって、Atlanta で乗継いだ国内線の飛行機はずっと小さかった。客席も横に5列しかない。そんな小さな飛行機に大きなアメリカ人が窮屈そうに座っていた。もちろん乗員乗客含めて日本人はぼく以外一人もいなかった。隣りの座席の若い女性は、いかにもアメリカンという大柄でボリューム満点の人だ。でも人は悪くなさそうだった。ここまで来て、まったくのアメリカ国内に入ってしまったことを実感した。
 目指す空港は、Newark International Airport である。New York の周辺には4つの空港があり、市内に最も近いのが La Guardia Airport、ほかに John F. Kennedy International Airport、Teterboro Airport、そして Newark である。そのほかにも小さな空港がいくつかある。Teterboro と Newark は、New York 市ではなくハドソン川を挟んだ西隣りの New Jersey 市にある。

 Atlanta から Newark まで2時間30分の飛行だった。何はともあれ無事 Newark に到着し、荷物も他の飛行機に乗ってとんでもないところへ行くこともなく無事に一緒にたどり着いた。空港から市内の Manhattan まで距離にしてさほどのことはない。タクシーでもよいが、雲助が多いと聞いているのと、シャトルバスのほうが安くて便利で安全そうだ。ここはひとまず乗り合いのシャトルバスを選ぶことにしよう。

 「タクシーを探しているのかい?」
 いよいよきた。ヒスパニック系とおぼしき男が、さっきからずっとぼくにつきまとっている。あいつはたしかぼくがエスカレータを降りたときから近づいて来ていた。どうやらタクシー運転手だ。そんなにワルじゃなさそうだが、表面だけで判断しては危なかろう、内心では困ったなと思いながらも、こちらはシャトルバスに決めていたので「けっこうだよ、ありがとう」と軽く断って無視し、シャトルバスの受付を探した。
 シャトルバスのキップ売り場はほどなく見つかった。案内の黒人女性がすぐにシャトルが発車するというので急いで飛び乗った。空港を出るまでに、あちこち回りながら何人か拾い、シャトルは順調に市内に向かって走り出した。これでひとまず安心である。ずいぶん遠くへ来たもんだと、眠い目をこすりながら夕闇に沈むニューヨークの街並みを眺めていた。

 シャトルはハドソン河のトンネルや橋を抜け、やっと New York 市内に入ったが、そこからがたいへんだった。乗り合いバスだから、つぎつぎとホテルを巡って市内を走り回るのだが、いっこうに Hilton Hotel には着かない。いつになったら着くんだろう。すこしづつ時計が気になりはじめた。
 けっきょく Manhattan の Hilton Hotel に着いたときには、すでに夜の11時を回っていた。よくよく考えると、そこそこ高級な Hilton Hotel にシャトルバスで乗りつけるというのもじつに妙なもので、ほとんどの乗客はもっと安価なホテルで降りる人たちばかりだった。こんなことならタクシーにすればよかったとの悔いがちらりと頭をかすめないでもなかったが、それでも、とにかく無事ホテルへ到着したことでよしとするしかなかった。

 Hilton Hotel は、Central Park 南側にあるいいホテルだ。そこは Manhattan のど真ん中に位置している。Central Park までは歩いて数分の至近距離だし、有名なスポットにはこと欠かない。ロケーションとしては最高の場所である。Manhattan 南端には、2001年9月に旅客機が突っ込むテロ攻撃で消えてしまった世界貿易センタービルがあった。Hilton Hotel からは南へ数キロの距離である。

 New York の Manhattan 島は、オランダの西インド会社が、1626年に先住民であるIndian から「史上最大のバーゲン」と呼ばれる安値で買い取ってしまったものである。Indian にしてみれば、自分たちの土地を売るという行為が、どういうことかよくわかっていなかったようだ。つまり白人が騙した取ったようなものである。西インド会社が Indian に支払った金額は、アルコール類や日用品など60ギルダー分だけだった。60ギルダーは、現在の価値にしても、たったの100ドル、つまり1万2千円くらいにしかならない。
 今にして思えば信じがたいほどの安さであるが、それでも西インド会社の中にはこの売買にさえも渋る者がいたというから、当時の Manhattan 島に対する評価がいかに低かったかが知れようというものである。

 Manhattan 南端の地は、オランダの Amsterdam にちなんで New Amsterdam と命名され、隣りの New Jersey も巻き込んで順調に発展を続けていった。さらに、Indian やヨーロッパとの交易が盛んになるにつれ、全体を総称して New Netherlands と呼ぶようになった。
 そんな活気に満ちた New Netherlands に、1664年、町をひっくり返すようなたいへんな出来事が起きてしまった。
 当時オランダとイギリスの関係はあまりうまくいっていなかった。イギリス国王チャールズ二世は、オランダの植民地である New Amsterdam を含む、広大な土地を弟の York 公に与えようと New Amsterdam に戦争をしかけた。
 艦隊指揮官イギリス人 Richard Nichols は、York 公の命を受け、New Amsterdam に攻め入った。ところがこの攻撃を受けた、ときのオランダ総督は、周囲の説得に従ってあえなく降伏してしまった。オランダ総督は、じつは不人気な総督で、人心を掌握できなかったことから、誰もが勝ち目がないと思い込んだのが敗因ともいわれている。

 こうして、それまで New Amsterdam を支配していたオランダは、Nichols の元に降伏し、38年間の歴史に終りを告げた。Nichols はこの地を York 公の名を讚えて、New York と改名すると宣言した。これが New York の始まりである。
 New York は、1825年にエリー運河が完成して、ハドソン川と中西部の五大湖地域が水路で結ばれ、アメリカの内陸部とイギリスまでがいっきに船で行き来できるようになり、港町として大いに栄え、現在に至る基礎を築いた。

 Indian は、New York の価値を見出すことができないまま、白人に二束三文で土地をあけわたしてしまったのである。これが、その後の Indian 苦難の道のスタートとなった出来事である。