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能 と 歌 舞 伎






加 藤 良 一



 昨年、歌舞伎座11月公演の千穐楽を観た。千穐楽とは見慣れない文字だ。「せんしゅうらく」と読むが、ふつうは千秋楽と書く。これは公演の最終日のことで、雅楽の最終曲『千秋楽』に由来する。また、この日は楽日(らくび)ともいう。
 なぜこのようにむずかしい「穐」を使うのかといえば、「秋」には「火」の字が入っているからで、火の気を嫌う劇場では使いたくないのである。いかにも縁起をかつぐ古典芸能の世界らしい話だ、と思ってはみたものの、そういえば、埼玉会館大ホールの緞帳の裏側にも「火の用心」と大書してあったから、火の気を嫌うのはどうやら古典芸能の世界だけでなく劇場一般にみられる風潮のようだ。

 歌舞伎の入場料は、オペラの引越し公演ほど高くはないがそれでも結構いい値段をしている。もっともあれだけ大掛かりな舞台を作り上げるのだから、それ相当の経費がかかろうとは思うが、クラシック系のコンサートと比べてもやや高いという印象である。そうたびたび足を運べるものでもない。ところで、私はとくに歌舞伎ファンというわけではない。日本の伝統的な舞台芸能のひとつとして後学のために鑑賞しているに過ぎない。以前から舞台にかかわるものに興味をもっていたところへ、作曲家の多田武彦先生の薫陶を得たことで一段と古典芸能に関心が高まったこともきっかけとなっている。

 歌舞伎の演目名は、概して読みにくいものが多い。11月公演で観たもののうち「連獅子」と「大経師昔暦」はなんとか読めそうなものの、「日向嶋景清」と「鞍馬山誉鷹」は仮名を振ってもらわないと迷ってしまう。それぞれ「れんじし」、「だいきょうじ むかしごよみ」、「ひにむかうしまの かげきよ」、「くらまやまほまれの わかたか」と読む。「」を「わかたか」と読ませるのはちょっと強引すぎるが、このあたりが歌舞伎らしいところであろうか。
 それにしても歌舞伎では若い観客にはあまりお目にかからないものだ。なぜだろうか。その理由はたぶんこうではないだろうか。ようは時代劇であるがゆえに、時代背景がわからない、言葉が古くて何を喋っているかわかりにくい、音楽も同じく何を謡っているかわからない、そのうえ身振りが大仰、使われる楽器も三味線などの弾(はじ)く弦楽器中心で現代の楽器にくらべて単調に聴こえるものが多い、出てくる役者がすべて男だけでそれもかなり歳をとっている、からである。よくもここまで並べ立てたものだが、若者にかぎらず一般の人にはなかなか受け入れられにくい面がある。
 では、歌舞伎のファンは、いったいどこに魅力を感じているのだろう。円熟した役者の芸には感動する、男が演じる女形は女以上に女らしい、宙乗りが見たい、ぐるぐると変わる舞台が見事、華やかな踊りやお囃子が楽しみ、有名人を見てみたい、というあたりか。そうはいいながらも能にくらべて、「傾(かぶ)く」という語源からしても大衆受けする要素に満ちている。歌舞伎界では異端児的に扱われている「スーパー歌舞伎」などは、外連(けれん)みたっぷりで受け狙いを大いに研究しているから、もっと人気が出てもよさそうに思うが、なかなかそうもいかないようだ。
 いろいろ問題点をあげつらったが、このような視点を持ちつつ歌舞伎を鑑賞するのは意味のないことではないだろう。さて、歌舞伎を楽しむにはまずは劇のあらすじや見どころを知らないことにははじまらない。オペラと同じで、あらかじめストーリーの確認や見どころ聞きどころのチェックはしておいたほうがよい。
 歌舞伎座では解説用の無線イヤホンを使って、その場その場の状況やセリフの内容を説明したり、見どころを教えてくれるという実況サービスがある。もちろん通はそんなイヤホンなど必要としないはずであるが、素人にとっては何かと便利なもの。イヤホン解説は、オペラで電光掲示板に日本語の歌詞を映し出すのと似たようなものである。と、思っていたところ、歌舞伎のイヤホンもオペラの電光掲示板も同じ会社が扱っていて、その名も株式会社イヤホンガイドという。妙なつながりに感心してしまった。しかし、こんなことに感心していてはいけない。前にも述べたように、状況説明を聞かなければストーリーが追えないところが、歌舞伎のとっつきにくいところなのである。

 「日向嶋景清」は、能の場合と設定がちがっていて面白い演目だった。この芝居は松貫四こと中村吉右衛門が最近あらたに書き下ろしたものである。
 
源氏との戦いに敗れ、ひとり生き残った平家の大将悪七兵衛景清(あくしちびょうえ かげきよ)は、源氏の支配する世を儚(はかな)んで自ら目を潰して盲目となり、俗世を離れて日向国(ひゅうがのくに)の寒村に隠棲していた。そこへ、二歳の時に生き別れとなった娘の糸滝(いとたき)が、肝煎佐治太夫(きもいりさじだゆう)に伴われてはるばる父を訪ねてくる。おのれの落ちぶれた姿を娘に見られたくない父景清。糸滝は糸滝で、父のためとはいえ、廓に身を売って蓄えてきた金を持参したことはさすがに話すのも憚(はばから)れた。このあたりのやりとりは、なかなかの見応えがある。けっきょく景清は、冷たく糸滝を追い返してしまった。やむなく糸滝は書置きとともに 大切な金を里人に託し、泣く泣く去って行った。
 景清が事の次第を里人からの話で知ったとき、すでに糸滝の乗った船は出帆してしまった。景清は悔やみ、悲しみにくれる。そして、糸滝の父を想うゆえの献身的な振る舞いに、さしもの誇り高き武将も遂に折れ、思わず海に向かって「その子は売るまじ」と絶叫する。景清を演ずる中村吉右衛門の迫力は、さすがに胸を打つものがあった。
 結末としては、先ほどの里人(実は頼朝の密使なのであった)が源頼朝への降参を進言するのを受け、すべての怨念を捨てて鎌倉に味方すべく出発した、となる。ここで舞台狭しと現れたのが、景清の乗る巨大な船の大道具である。船を正面から見た形で据えられ、その上に立つ景清が晴れ晴れとした顔で鎌倉へと向かうハッピーエンドの場面である。やんややんやの喝采を浴び、そして、そのまま幕が下りた。大きな船はただフィナーレに使われるためだけに作られていたのである。この場面は、映画『タイタニック』の有名な船の舳先でのシーンを彷彿とさせるものがあった。

 これが能の演目となるとかなり様相が変わってくる。曲目も単に「景清」という。何かにつけ写実的な歌舞伎にくらべてとことんまで抽象化しエッセンスだけを追求する能では、娘は身売りなどしないし、お供の者も立派な人物に設定されていて、娘が逃げないように廓から使わせられた肝煎佐治太夫のような輩ではない。親子の情愛をシンプルに描いている。もちろん大掛かりな船などもない。
 能と歌舞伎の大きなちがいは、この大道具にもある。能では大道具とはいわず「作り物」と呼ぶが、たとえば船を作るとしても極めて抽象化した簡素なもので、寸法もすこぶる小さいものでしかない。竹や木を曲げて簡単な枠を作り、白いさらしを巻いたていどのものを船に「見立てる」のである。その枠の中に入って手で持って歩くのだから、子どもがやる電車ごっことさしてちがわないが、むしろ具体的な船の形など再現せず、極限まで切り詰め、無駄をいっさい省いてしまう。抽象化のきわみである。あとは観客が自由に(勝手に)想像を逞しくするのである。能の世界では「見えるものを見ずに、見えないものを見る」というやや天邪鬼的な側面がある。どう見ても船には見えない木の輪っかを船とみなし、ストーリーでは消えたはずの役者がそこに座ったまま退場しなくても存在しないものとみなす、つまり無視する。歌舞伎は「演じる」ものだが、能は「舞う」もので本来舞台には何もないのが原則である。

 こうしてみると、歌舞伎と能は共通点があるものの、むしろ正反対の部分のほうが多い。この根本的な差異はどこからくるのか。能は観阿弥によって六百年も前に始められた。その後、紆余曲折を経て江戸時代に武家社会でもてはやされるようになるにつれ、武家の式楽として形式美が一層追求されていった。いっぽうの歌舞伎は庶民の中に根を張って発展していったこともあり、観衆の層はかなり異なるようだ。

 能のことを知るのに好都合なのが、戦前の作家、夢野久作の「能ぎらい/能好き/能という名前」という随筆である。

音曲とか舞楽というものは随分沢山ある。上は宮中の雅楽から下は俗謡に到るまで数十百種に上るであろう。ところでその中でも芸術的価値の薄いものほどわかり易くて面白いので、又、そんなものほど余計に大衆的のファンを持っているのは余儀ない次第である。つまりその中に「解り易い」とか「面白い」とか「うまい」とか「奇抜だ」とか「眼新しい」とか言う分子が余計に含まれているからで、演者や、観衆、もしくは聴衆が余り芸術的に高潮せずとも、ストーリーの興味や、リズムの甘さ、舞台面の迫真性、もしくは装飾美等に十分に酔って行く事が出来るからである。

 「芸術的価値の薄いものほど…余計に大衆的のファンを持っている」芸能とはいったい何を指しているのか。歌舞伎や浄瑠璃のことだろうか。

然るに能はなかなかそうは行かない。第一流の名人が演じても、容易に共鳴出来ないので、坐り直して、深呼吸をして、臍下丹田(せいかたんでん)に力を籠めて正視しても何処がいいのかわからない場合が多い。

こうなると観能はまるで修行に行くようなもので、単なる娯楽ではなくなってしまう。能ぎらいの言い分はこうだ。

 「世の中に能ぐらい面白くないシン気臭い芸術はない。日増しのお経みたようなものを大勢で唸っている横で、鼻の詰まったようなイキンだ掛け声をしながら、間の抜けた拍子で鼓や太鼓をタタク。それに連れて煤けたお面を冠った、奇妙な着物を着た人間が、ノロマが蜘蛛の巣を取るような恰好でソロリソロリとホツキ歩くのだから、トテモ退屈で見ていられない。第一外題や筋がパッとしないし、文句の意味がチンプンカンプンでエタイがわからない。それを演ずるにも、泣くとか、笑うとか、怒るとかいう表情を顔に出さないでノホホンの仮面式に押し通すのだから、これ位たよりない芸術はない。二足か三足ソーッと歩いたばかりで何百里歩いた事になったり、相手もないのに切り結んだり、何万人もいるべき舞台面にタッタ二、三人しかいなかったりする。まるで芸術表現の詐欺取財だ。あんなものが高尚な芸術なら、水を飲んで酔っ払って、空気を喰って満腹するのは最高尚な生活であろう。お能というのは、おおかた、ほかの芸術の一番面白くない処や辛気臭い処、又は無器用な処や乙に気取った内容の空虚な処ばかりを取り集めて高尚がった芸術で、それを又ほかの芸術に向かない奴が、寄ってたかって珍重するのだろう……」

 ところが、能ぎらいが一転して能好きになると

 今まで見た実例によると、能ぎらいの度が強ければ強いほど、能好きになってからの熱度も高いようで、その変化の烈しさは実例を見なければトテモ信ぜられない。実に澄ましたものである。
 しかし、そんな能好きの人々に何故そんなに「能」が有難いのか、「謡曲」が愉快なのかと訊いてみても、満足な返事の出来る人はあまりないようである。
 「上品だからいい」「稽古に費用がかからないからいい」「不器用な者でも不器用なままやれるからいい」なぞといろいろな理屈がつけられている。又、実際そうには相違ないのである。しかし、それはホンの外面的の理由で「能のどこがいい」とか「謡いの芸術的生命と、自分の表現欲との間にコンナ霊的の共鳴がある」とか言うような根本的の説明には触れていない。要するに、
 「能というものは、何だか解らないが、幻妙不可思議な芸術である。そのヨサをしみじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持になるのか説明出来ない芸術である」

 歌舞伎と能のちがいは如何ほどのものかと思うが、両者は本来比較すべきものではないのかも知れない。




2006年1月22日



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