貴方への便り

海老原あや子


 

 この手記を書かれた海老原あや子さんのご主人、故・海老原和雄さんは、私の大学時代の研究室の先輩である。海老原和雄さんは、大手製薬会社に勤務されていたが、あろうことか海外出張中のホテルで客死された。あや子さんは、突然のご主人の死に直面し、長い苦しみのなかから、同じ悩みを抱える者同士が助け合う 「過労死遺族の心のケアを考える会」 を2004年に発足させた。
 あや子さんは、最近ではブログ<http://plaza.rakuten.co.jp/saisei/>を開設し、遺族としての発言というより、同じ体験者としてむしろ他の方たちの再生をお手伝いしたい、社会に対してはきちんと訴えたい、という思いを強くしている。

加藤良一 (2005年2月2日)

 

貴方への便り 1

 「過労死遺族の心のケアを考える会」 という長い名称の会が始まって2ヶ月が経過した。これからの活動方針や学習の内容などまだ試行錯誤の状態ではあるが、この会の活動などを報告しながら、私なりに考えたこと、感じたことなどをこの誌面を借りてお伝えしたいと思う。

 家族の死というのは誰にとっても大きな悲しみであるが、過労死・過労自殺の場合はそれが突然に起こり、しかもその原因が天災や事故ではなく故人の働きすぎという社会的な問題を含んでいるがゆえに、遺族の心の整理を一層困難にする。さらに問題なのは、一見突然起こったかに見える被災でも、そこには発症の前の潜伏期間に相当する一定の期間が必ず存在し、被災者の健康状態を心配する家族とそれに耳を貸さない被災者との葛藤、あるいは心を閉ざしてしまった被災者に対する無力感を遺族は必ず体験している。それ故に、遺族はそれ以後 「あの時、何でこうしてあげなかったのだろう」  「私がもっとしっかりしていれば」 という自責の念に襲われるのである。1月に行われた第1回の例会で、上畑先生が 「遺族の心の変化」 という題名でお話されたが、そこでも過労死・過労自殺の遺族に共通する感情として第一にこの自責の念を挙げられていた。
 思えば私も、海外で倒れた夫の遺体を引き取りに行き、薄暗い病院の地下の霊安室で遺体と対面したときに最初に出た言葉が 「ごめんね」 であった。何を考えていたわけでもなく、本当に心の底から出てきた言葉であったのだ。この自責の念が、愛する者を失った喪失感とあいまって、心の奥にとてつもない大きな穴を開けてしまうのだ。そしてこのような誰にもわかってもらえない気持ちを抱えながら、多くの遺族は時の流れに身を任せてじっと耐えているのである。
 では遺族にとって何が立ち直りのきっかけとなるのか、それを考えるのがこの会の趣旨であり、目標でもある。まずは第1歩を踏み出した私たちではあるが、末永くお付き合い願いたい。

 

 

貴方への便り 2 **泣けない遺族**

突然襲った最愛の家族の死を知ったとき、それは思い出すのも辛い瞬間ではあるが、胸の奥に突き刺さる痛み、胸をえぐられる痛みが走る。そしてその後に大きな喪失感がやってくる。だが、そこで悲しみに浸るまもなく、葬儀の準備、親戚、知人などへの通知…といった諸事が待ち受けている。
 過労死、過労自殺の遺族は、一様に会社との対応に神経を使う。働きすぎの結果として亡くなったという事実は毎日暮らしていた遺族が一番知っているし、皆心の中で 「これは過労死だ」 と思っているが、それを言葉に出すことに不安を感じている。そのような気持ちを抱えて会社と連絡を続けながら、葬儀が終わるまで緊張の糸は切れず、追われるように毎日が過ぎていく。こんな状況では思い切り泣くこともできない。
 遺族のほとんどは年老いた親を気遣いながら、子供達には不安な気持ちにさせまいと無意識に涙をこらえている。家では泣けず、涙を流す場所を求めて教会の礼拝所まで出向いた遺族もいた。親や兄弟にすがって泣きたい気持ちをこらえて我慢する遺族にとって悲しみはどんどん心の奥に沁みこんでいく。

 1月に発足した第1回の例会では、このような被災直後の遺族の心境が語られた。葬儀のあわただしい日程に追い立てられる思いで辛かったと嘆く遺族もいた。事実、さっきまで生活していた家族がいきなりいなくなったのだ。どうして、なぜ、という気持ちがあまりにも大きいのだ。そしてこの問いを真摯に受け止めて納得させてくれる人たちは、被災直後には少なくとも誰もいないのだ。このときの例会の参加者達は、一様に思ったはずだ。
 「被災直後のこの気持ちを共有できるのはやはり体験者だ。だからこそ自分達のこの気持ちを皆にわかってもらわなければ」 と。今新聞では決算期を迎えて日本の企業の収益力が回復し、経済に回復の兆し有と報道している。しかし、その裏には過酷な労働環境がある。実際に私のまわりにも現在の認定基準である100時間の超過勤務時間をクリアしている人たちは多い。これらの過労死予備軍の家族に私たちは訴えていきたい。私たちのような体験を絶対に貴方達にはさせてはいけない、そのために私たちは頑張るのです、と。

 

 

貴方への便り 3

 ケアの会も早いものでもう10回目を迎えた。過労死・過労自殺の遺族が集まって、自らの心の癒しを求めて勉強や話し合いを重ねてきたが、過労死・過労自殺を考えるとき、それを社会問題として捉えよう、ということが共通の認識となった。
 仕事が原因で不幸にも被災した人やその家族にとって、それは一人の個人の死あるいは罹患ではなく、社会問題に遭遇したと考えよう、という認識である。働きすぎで被災した人たちの家族には、必ずといっていいほど、側にいながら何もできなかった、という自責の念を持っている。この自責の念が大きい余りに、自分を許せなくなりいつまでも心の整理がつかない場合が多い。また世間には、過労死・過労自殺の被災者に対して、身体的あるいは精神的に弱かったからだ、と考える風潮がいまだにある。これら家族の過重な心の負担や、過労死・過労自殺の発症と業務の関連性に対する認識不足を解決するために、過労死や過労自殺を社会問題あるいは社会現象として捉えることが必要となる。

 それでは何故過労死・過労自殺は社会問題なのか。それは、その原因が業務 (労働) から起因したこと、すなわち労働社会が生み出した現象だからである。本来、働くということは、生きるための手段であり、個人の人生の価値を形成する大きな要因である。単に生活のためだけでなく、自己の理想や夢の実現のために働くことは、人生そのものにも大きな意味を与える。このように、本来は人間にとって必要不可欠であり生きがいにもなるはずの労働が、悲劇をもたらしてしまう。つまり、過労死・過労自殺は労働社会の影の部分であり、そこに過労死問題が社会に提起する意味が存在する。

 

 

貴方への便り 4

 11月も終わりの頃の日曜日、私は四ツ谷にある主人の墓に立っていた。穏やかな秋の日の午後、やわらかい日差しと時折吹く風を受けながら、娘に関する嬉しい知らせや、労災に関する報告をしながら、急にあふれ出た涙がとまらなくなってしまった。周りに誰もいなかったせいかもあるが、このあまりの静寂さの故に、墓前に語りかける言葉がそのまま自分の耳に絡み付いて行き場のない気分になってしまったのかもしれない。 泣くなんて随分弱気になっているな、と思いながらお寺を後にし、再び都会の喧騒に戻ったとき、もうそろそろ生きた社会に戻らなきゃ、と感じている自分がいた。

 生きた社会とというのは表現するにはとても難しいのだが、前向きとか建設的とかという活動的な部分だけが強調される社会ではなく、少なくとも閉鎖的でない社会という意味で、あくまでも未来に向かって広がる世界のことだろうと思う。主人の被災を通じた過労死との遭遇という体験は、重要な意味を持つし、その体験が人生にとってどんな意味を持つのか、そしてそれを生かすにはどうしたらいいかを、私は模索してきた。ケアの会もそんな模索の過程から出発した。そして過労死をなくそう、と真剣に取り組むたくさんの支援者や専門家にも会う機会を得た。しかし、なお、過労死を取り巻く環境は改善している様子はなく、むしろ悪化する傾向にある。これを訴えつづけるのが私たち遺族の役割ではあるが、その訴えの手段がまだまだ限定的であるような気がしている。限定的というのは、物理的な手段も含めて、訴える側の遺族などの意識も、である。

 過労死遺族、イコール企業犯罪の被害者という図式の下でだけ自分の立場を認識していると、被害者意識がどんどん深まってしまい、結果、いわゆる 「普通の人たち」 の感覚と乖離していく部分があるような気がする。そうなると、過労死をなくそう、とか、私たちはこんなに大変な思いをしているという訴えが独善的になる傾向に陥る。ケアの会では、自分達の過労死の体験を単なる個人の不幸に終わらせないようにしようという前提で活動をしてきたが、一方的に訴えるだけでなく、訴えを受け止める 「普通の人たち」 を意識したやり方をそろそろ考えなければ、私たちの訴えは一方通行のままである。生きた社会にしっかりと根付きながら、遺族とか過労死という言葉にとらわれずに、しかし、遺族という立場でいかに効果的に訴えることができるか、私は個人的にはこの点も意識した活動を行っていきながら、ケアの会を続けたいと願っている。